深い森の中で滑らかな絹がたなびくような風が吹き、それはイルカの身体を包むように撫でて木々を揺らし枝をしならせ、さわさわと音を立てて森を駆け抜けて行く。
どこかから気紛れに訪れどこかに去って行った一陣の風によって、イルカの視界の端に群生していたハクガユリがゆらゆらとその白い花を揺らした。
「凄い包囲網だね」
まず、声変わりもしていない子供の声が聞こえた。
次に森の奥から小さな黒い影がやって来る。
「久しぶりだな」
イルカはのっそりと腰を上げて一歩だけ前に進む。
月光に照らされたハクガユリの群生を踏みしめ、暗い闇の中から黒髪の少年が姿を現す。
真っ直ぐで癖のない艶やかな黒髪と細くて上品な鼻梁、白い肌に真っ黒で大きな瞳。確かにその容姿は当時と何も変わらなかったが、あの頃の穢れを知らぬ無垢な瞳は酷くぼんやりとした虚空のようなものに支配されていた。
「はたけカカシはやっかいな存在だとは思っていたけど、やっぱり僕の存在に辿り着いたんだ。いつかは誰かに気付かれると思っていたけど、最短予想より一年早かったかな」
「気付いて欲しかったんだろ? 筆跡とテンノシ、わざとだろ?」
「うーん、どうかな」
アオイは薄らと笑みを浮かばせながらイルカに歩み寄る。しかしイルカに触れることが出来る距離まであと数歩といった所で空気が硬直しイルカとの間に結界が二重に発動された。それと同時に暗部数名によりアオイは金縛りの術で拘束される。
それはイアオイと対峙すると言って聞かないイルカにカカシが提示した最低条件だった。
「あー、結界を二重も張ってる。その上金縛りの術に暗部の包囲。この分だとはたけ上忍は奈良上忍も駆り出して影縛りも準備させてるかな? 今夜は月が出てるしね。凄い凄い」
愉快そうに笑うアオイの表情には挑発的なものはなく、余裕でも諦観でもない不思議で虚ろな乾きがあるだけだ。
「アオイ。俺はお前を知っている。どれだけ優しい子だったかよく覚えている。お前は誰かが怪我をすれば自分のことのように痛みを感じ、誰かが心に傷を負えば自分のことのように悲しむ子だった」
イルカの言葉にアオイは目を細める。もう手も届かないくらい遠くの記憶を懐かしむように。
イルカは続ける。
「黒羽が授業で足を怪我した時のこと、覚えてるか? ミキを庇って黒羽が足に酷い火傷を負ったあの時、お前、自分がどうしたか覚えてるか? 俺は覚えている。お前は痛みに顔を顰める黒羽にずっと寄り添って泣いていた。自分の足を爪で掻き毟って、僕が痛いの貰うから、僕が痛いの全部貰うから黒羽は痛くないよってお前…お前そう言ってずっと泣いてたんだ。俺が辛い想いをしてた時だってお前はすぐにそれを察して、いつもいつも俺に甘えてきて俺にしがみついてきて、そうやって俺を慰めてた。イルカ先生イルカ先生って甘えてるふりして、俺に頬を寄せ抱き締めて、お前本当はそうやって俺を励ましてくれてたんだ。俺は知ってる。お前はそういう子だ。お前は誰よりも優しい子だ。そんなお前が自分の両親や葉ノ紀先生を……」
「――殺したよ」
イルカが問い掛けるまでもなく、アオイはあっさりとそれを肯定した。
いやむしろ、あっさりとと言うよりもきっぱりと断言した口調だった。
「嘘だ」
「本当だよ。僕が殺した。まずお母さんを殺し、次にお父さんを殺した。去年は葉ノ紀先生で今年はイルカ先生。来年は黒羽を殺す予定だった」
イルカは息を飲み身体を硬直させる。
払拭できない疑惑を抱えながらもまだ信じていた。アオイを信じていた。あの子がそんなことをするわけがない、何かの間違いだ、全てはカカシの妄想だと、願望に近い形であったにせよイルカはアオイを信じていた。
「なんで……」
「よく分からない。でも多分、僕があの日何を失ってしまったのかを知るため」
「何を? お前は何を失ったんだ?」
「それもまだよく分からない。でも以前僕が心から大切にしていたものを殺せば失くしたものを取り戻せるかもしれないし、もしくは何を失ったのか思い出すかもしれないと思った。結局無駄に終わったけどね。でもさ、イルカ先生」
アオイはそこで言葉を切り、実にさわやかに笑った。晴れ晴れとした六月の早朝に、朝露を煌めかせる森林の中を散歩している子供のように。
「でも、別にどうだって良いことじゃないのかな、そんなこと。過去の僕が大切にしていたものと言っても今の僕にとっては大切なわけじゃなかったし、失ったものが何なのかは知りたいけど無ければ無いままでも良い。三人は僕に殺され、僕はこうしてはたけ上忍に尻尾を掴まれて里に殺される。ただそれだけのことなんだ。良かったね、イルカ先生は寿命が延びて」
「どうだって良いわけないだろ? それだけのことなわけないだろ? お前は自分のご両親を、葉ノ紀先生の命を!」
「殺したよ? でももう良いじゃない。終わった話だし」
「終わった話って……お前、何も感じないのか? お前はあの日、心を失くしたのか?」
「僕も最初はそう思った。心を失ったのかなって。でも案外今の僕にも喜怒哀楽はあるんだ。葉ノ紀先生を殺した時なんかは流石にちょっと感傷的な気分になったし」
「感傷的って、感傷的ってお前。お前、それだけなのか! 葉ノ紀先生を殺して、それだけか!」
「あのね、イルカ先生。僕達は現実の中で生きている。人間は死ねばただの肉塊になる。生前の功績など関係なく、死ねば単なる肉の塊だ。ねぇ、イルカ先生だって毎日食べている豚や牛の生前の功績など考えたことなんてないでしょ? 豚や牛、鳥なんかが食卓に出て来たって、それらの生物の生前に想いを馳せることなんて一度もなかったでしょ? 何故ならそれはただの肉だからでしょ? でもそれって間違ってないよね? だって死んだ生物の肉についてイチイチ多くのことを考えたり語っていたら、一日はそれだけで終わっちゃうもの。三人は肉に戻った。僕は少し感傷的になった。それで何か問題あるの? それについて今更グダグダ言う必要なんてもうないと思うんだけど」
アオイは困ったような口調で語りながら肩を竦めようとしたが、暗部の金縛りの術でその小さな肩は微動したのみだった。若干不愉快そうな表情を浮かべ、目線だけを動かしてアオイは物陰から自分を取り囲んでいる暗部に視線を送る。
だがアオイを拘束する術は緩まらない。
「僕らは非常に単純な世界に住んでいる。ここは生きているか死んでいるか、それだけの世界だ。そう思わない? イルカ先生だって若い頃は戦場にいたでしょ? そこで多くの死体を見て分かったでしょ? 死ねば人間はただの肉になり、生きている者はそんな肉に構ってる暇もなかったでしょ? それと同じじゃないか。三人は僕に『多少感傷的に』殺された。そのままにしておくと不衛生だし虫も湧く。それによって変な病気も蔓延するかもしれないから燃やされ処理された。それだけじゃないか」
「命の重みが分からないのか」
「命の重みって?」
「命がいかに大切なものかってことだ」
「命がいかに大切なのか。そんなの先生達は教えてくれたっけ。先生達が僕達に一生懸命教え込もうとしてたのは、里の仲間の命の大切さって言う、【何だか妙に限定された命】のことだったと思うな」
辛辣なアオイの言葉にイルカは口を噤む。
人間の命の重みを教えるのには躊躇してしまうことがあるのは確かだった。
何故なら、忍は敵を殺すから。殺さねばならないから。
何も暗部だけが汚れ仕事を請け負うわけではないのだ。極稀にだが、多くの者が納得できるような【正当な理由】があれば普通の忍であっても暗殺任務は回って来た。
アカデミー教師の中にも、仲間を救うために戦う里のために戦うと言った大義名分だけでは済まされない任務がある限り、命について安易に語ることは避けるべきという意見は多い。
それは本当に忍になり多くの任務を遂行していけば、おのずと分かるものなのだからと。
「アオイ、お前は根に所属していたんだろう? そこで仲間が死んで辛い想いや悲しい想いはしなかったのか? 殺したくない者を殺さなくてはならなくて、苦しい想いをしなかったのか?」
「だからぁ。人間は死んだら肉になるだけでしょ。いちいち感傷的になんかなってられないよ。だいたいさ、イルカ先生」
はぁと大きく溜息を吐き、アオイは少し呆れたように苦笑する。
「命ってなにさ。家畜にだって虫ケラにだって命くらいあるでしょ? 人間の命もそれらと同じじゃないか。なんでそんなに大層なものみたいな言い方するの? イルカ先生は蟻を踏み潰す度に悲しくなるの? 毎日下ばっかり見て虫を殺さないようにして生きてるの? 蟻を避けても目に見えない生物だっているんだよ? そういうものの命はどうなるのさ」
「殺したくて殺したわけじゃないだろう。生物が生きていくためには意識的にせよ無意識的にせよ他の生物を犠牲にせざるを得ない。自然はそういうシステムの上に成り立っている」
「そういう理屈を捏ねればセーフなの? 命って凄まじく軽いね」
何でこんなところで話がもたついてるんだろうと小さく呟き、アオイは小さく舌打ちする。
「分かった。僕は真面目に知りたいから、まず命について教えてもらう。その前にそもそも命の定義が分からないから、イルカ先生が教えてね? 人間、犬、猫、豚、牛。これらは良いよ。命あるね。死ねば肉になるものは分かりやすい。植物は命あるのかな?」
「ある」
「そう。じゃあ植物も大切な命を持っている。じゃあ、微生物は?」
「アオイ、あのな」
「答えて。微生物は?」
「……」
「生物って付くから生物なのかな。じゃあミトコンドリアは? ウィルスは? 自分の肉体を捨てて傀儡に魂を入れた人間がいたとすればそれに命はある? 人形に魂が宿ったとしたら、それには命がある? 魂は抜けたけど忍術によって肉体だけ生き返ったものに命はあるの? どこまでが重い命で、どこからがその自然のシステムとしてセーフと判定される命なの? 敵忍みたいに切り捨てても良い命は、どこから?」
沈黙するイルカに、アオイは嗤って問い詰める。
「イルカ先生、もしかして自分が感情移入できるものの命だけ重いなんて言わないよね?」