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 空には満月に近い大きな月が煌々と輝いており、深い森の中を清らかに照らしていた。
 生い茂る草木の合間に作られたささやかな道に沿い、蛇のようにうねった樹木の根や栄養分をたらふく吸い込んだ豊かな大地を踏み締めて進んでいく。
 森という場所は夜になると別の顔を見せる。日の光を浴びている時には澄んだ空気と瑞々しく広がった緑があらゆる生物を開放的な気分にさせるのに、日が落ちると同時に森は途端に閉塞し昼間のことなど遥か彼方へと押しやってその痕跡を消す。先日生徒達とここに訪れた時にはあれほど両手を広げて受け入れてくれたその森は、今は無慈悲に沈黙を守るばかりだ。そんな記憶など存在しないと言わんばかりに。
 静寂に包まれながら森の最深部に入っていくと不意に樹木が途切れて開けた場所に出た。
 広場とも呼べるそこをのんびりと歩き、丁度良い大きさと形をした岩の上に腰掛ける。力を抜いて夜露に濡れた足を伸ばし、両手を後ろに突いて月を見上げる。
 ほぼ満月に近い月があまりに大きくあまりに強く輝くので、多くの星はその光量に負けて見せ場みたいなものを完全に失ってしまっていた。ぽつぽつと見える僅かな星達も至極控えめで、慎ましさすら感じるほどだ。風もなければ雲ひとつ浮かんでいない夜空は見事に月の存在に制圧されている。
 暫くぼんやりと夜空を見上げてから斜め後ろに傾けていた身体を真っ直ぐに伸ばし、両手を組んで膝の上に乗せる。
 ひっそりとした夜の森に視線を遣ると、そこは時を失っているかのように思えた。まるで永遠にそこに佇む空間に迷い込んだ錯覚に陥る。
 夜の森は様々な恐怖を内包している。
 それでも森は美しい。月に照らされた森は一段と美しい。
 静寂を具現化した絵画のような森。
 この森の中に息を潜めて待機している幾人かの暗部、それから最愛の恋人のことも忘れて、イルカはその切り離された空間の中で一人の優しい生徒を待った。


 昨夜カカシから聞かされた話はイルカに衝撃をもたらした。
 幼き日のアオイを知るイルカには到底信じられる話ではなかったし、信じたくもなかった。
 アオイは怖いくらい優しく穏やかで、葉ノ紀とイルカに本当によく懐いていた。はにかみ屋で純粋で、イルカに抱き上げられることを何よりも好み、誰よりも感じやすい心の持ち主だった。忍として生きていけるのかどうか怪しいと思えるほどアオイは他人を傷付けることに抵抗を覚えており、他人の痛みに悲しいくらい共感してしまう子だった。当時カカシとの関係に苦しんでいたイルカを支えていたのは、生徒達の笑顔、常にイルカにくっ付いていた黒羽隊、その中でも他人を気遣うことに長けた黒羽シズクと天乃使アオイだったのだ。
 イルカはカカシの言葉を信じなかった。
 アオイの周りの人間がたまたまその日に死んだだけではないか、全てはカカシさんの憶測とも呼べぬ妄想ではないか、どこに証拠があるのだ、どこに根拠があるのだと言い寄った。
 アオイが根に入ったことはイルカには知らされていなかった。単に家庭の事情としてアカデミーを中退した形になっていたからだ。しかしそれで、あの昏睡事件以降アオイが自分や葉ノ紀の元に一切顔を見せなかった理由が分かった。あれほど仲の良かった、まるで兄弟のようにいつも一緒にいた黒羽との関係を一方的に断ち切ったのも。
 根と呼ばれる匿名性の高い特殊な組織に入り、それまでの過去を捨てざるを得なかったのだろう。恐らく親しく関係した者達への接触も禁じられていたに違いない。
 しかしそれだけだ。アオイが根に入り過去を捨てざるを得なかった事情が判明しただけで、それは事件とは何の関係もなく、アオイがイルカを狙う理由には結び付かない。
 イルカはアオイの嫌疑を払うべく猛然とカカシに喰ってかかった。
 だが、ブルが呼ばれアオイとツクシの接触が証言され、更にカカシもアオイを見かけたとなると雲行きが怪しくなった。偶然だ、根に所属していると言っても里内にいるのだから見かけてもおかしくはないでしょうと言い募ってはみたものの、イルカの胸に発生した疑惑は急速に発達していった。
 そしてアオイの両親と葉ノ紀の死亡日時が年をずらして一致した点に話が及ぶと、イルカの中で膨らんだ疑惑はついに払拭できないものになってしまった。
 イルカは鞄の中に仕舞いっぱなしにされていた一通の手紙を取り出す。
 五月二十六日、イルカの元に届いた「うみのイルカ先生へ」と書かれた一通の手紙。差し出し人の署名がない封筒と空白の便箋。最初に見た時から何か引っ掛かるものはあった。華奢な文字、その筆圧の弱さ、払いの仕方、文字間隔、女性的と言うよりも中性的な印象。
 五月二十六日。
 それはイルカの誕生日であり、イシノ薬草園で児童集団昏睡事件が起きた日でもある。
 イルカはアオイに会うことを決意した。自分の筆跡を僅かに残した手紙を送り、あえてテンノシを使ったアオイに会わないわけにはいかなかった。あの日現場にいることができず赤ん坊にように泣いたとされている生徒達を抱き締めることもできなかったイルカは、あの日あの事件のトリガーを引いた張本人らしいアオイに、どうしても会わねばならなかった。
 しかし当然カカシの猛烈な反発を喰らい、二人は徹夜で話し合いを行った。カカシは酷く激昂し縄を付けてもイルカをアパートから出さないと息を巻いたが、イルカも負けなかった。
「俺が初めてカカシさんを殴った日のことを覚えてますか?」
 夜が明け昼近くになってからも辛抱強く説得を続けていたイルカが、ふとカカシにそう訊ねた。
「覚えてる。確かナルトが……」
「ええ、そうです。俺の生徒であるナルトが他の生徒達から苛められているのを偶然見かけた日です。俺はあの時、貴方に叛いた。常に貴方を安心させようと、貴方の気が済むように貴方に従ってばかりだった俺が、貴方に逆らうことのなかったあの頃の俺が、あの日貴方に叛き貴方を殴った」
 イルカはそこで口を閉ざし、カカシに考える時間を与えてから続ける。
「うみのイルカははたけカカシの最愛の恋人であり、はたけカカシはうみのイルカの最愛の恋人です。俺達は一生涯愛し合う恋人です。ですが、うみのイルカは教師でもあるのです」
「その子は過去の生徒だ。もうイルカの生徒じゃない。今現在、イルカはその子の先生じゃない」
「教師です。アオイは生徒のままです。カカシさんもブルも、この写真の姿のアオイを見かけたとおっしゃってましたね? アオイは変化までして当時のままの姿でいる。アオイの時はあの日で止まっている。俺の生徒だったアオイのままで止まっているのです」
 鋼鉄の信念と強靭な意思を漲らせたイルカの眼差しに、結局カカシは折れた。
 



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