第十五章 六月七日

「この事件の調査が短期間で打ち切られた理由は?」
 一冊目の資料を読み切ると、カカシは付帯資料である二冊目のファイルを開いてそう訊ねた。
 二冊目はまずD-423-115地区の地図とその上にあの日その場にいた生徒と教師達の分布が書き込まれた地図が添付され、その次に時系列データ、他国で起こったものを含める類似性の高い過去の事件の羅列、それから事件関係者の個別データがファイリングされている。
「最大の理由はこの直後に里内で大きな事件が立て続けに乱発したことですね。正直に言ってこの事件に構っていられなくなった。死傷者も出ていないこの事件よりも、我々は直後に起こった連続殺人事件の方にかかりきりにならざるをえなかったわけです。本当に何故か直後に事件が乱発しましたからね。トチ狂った上忍による連続殺人事件、中忍による母子殺害事件、それから多くの傷害事件が」
「でもこの事件、極秘扱いの重大事件だと火影様は判断したわけでしょ? 放っておいて良かったわけ?」
「最終的には火影様が打ち切りを命じられたのですよ。恐らく医療班及び山中いのいち上忍と同じ答えに火影様も辿り着かれたのでしょう。もしくは初めからそう思われていたのかもしれない」
「これは忍術ではなく、トリガーを引いた者の特定も不可能。あの場で何が起こったのかを知る術はなく、全ては無意識の海の中に沈んだ。って?」
「そうです」
「これは確信です。私達に分かることなど、何もありません。あれはそういった種類のものなのです」
 一冊目のファイルに書かれていたアカデミー担当主任の言葉をカカシがそのまま口にすると、イハヤは苦く笑いながら目を伏せた。
 カカシはファイルを捲りながら今は亡き三代目について考える。
 里長は調査が無駄に終わると分かっていたはずだ。その場にも本人直々足を運んでいるし、それが忍術によって引き起こされたものではないとすぐに看破したはず。しかしそれなのに怪我人もなく大した被害も出ていないこの多少不可解なだけの事件を極秘扱いし、情報部最高責任者であるイハヤに直々調査をさせている。それは何故か。
 カカシはファイルを捲り続ける。
 この事件はカカシの目から見ても説明のつかない、言わば天災のようなものに思えた。何らかの偶然が幾つか重なり、運命のようにそれが起こってしまっただけだ。ひょんな切っ掛けでたまたま起こった集団催眠だとしても、それは人知を超えた力によって発生し妙な痕跡を残して速やかに終結した。ただそれだけのことだ。天災に理由を求めても仕方ないように、この事件をあれこれ探っても仕方がない。
 仮に山中いのいちの説が正しいとしても、子供達は混沌の海に飲み込まれはしたものの、そこに留まるには成長しすぎていたために眠りから覚める時のように海から浜辺へと戻された。あるいは生命の危機を感じ本能的に彼等は岸辺へと泳いで帰って来た。
 多くの疑問を残しつつもこの事件はその時点で終わった。子供達が海から出て目を覚ました時に。
 後は「不思議な出来事」として関係者の記憶の中に刻まれ、どこかそれなりの書類に適当に記載されて終了してもおかしくない事件だったのだ。
 それなのに三代目は、調査が無駄に終わると知りつつもイハヤを動かし、更には山中いのいちに関係者の記憶まで探らせている。
「その、乱発した事件群とこの件の関連性は?」
「ありません。ないとされております。例えそれらが昏睡事件の余波だとしても、我々にはそれを知る術はありませんので」
 ファイルを捲り続けていたカカシの手が止まった。
 その頁に張り付けられた写真を凝視し、カカシはゆっくりとその生徒の名前を指で辿る。
「この子……」
 カカシの小さな呟きにイハヤは小首を傾げ、腰を屈めてカカシが手にしているファイルを覗き込んだ。
「ああ、その子は事件後唯一アカデミーに復学せず、そのまま暗部へと入隊した生徒ですね。スカウトだったようです。年齢的に根の方に入ったんじゃないでしょうか」
 カカシは立ち上がり、ファイルを二冊ともイハヤに返した。
「はたけ上忍、何か分かりましたか?」
「近いうちにまたアンタの顔を見ることになると思う。今は時間ないから、その時に詳しく話すよ。有難う。夜分にすまなかったね」
 カカシはイハヤの肩に手を置くと、踵を返して部屋を出た。
 階段を上り長い廊下を歩き、火影邸から出ると高く跳躍して家屋の屋根に飛び乗り高速で移動を始める。
 あの時点では確かにあれ以上の調査は無意味だっただろう。しかし三代目はこの事件が何らかの形を取って尾を引くことを危惧していた。
 こうなる可能性が高いことに、三代目だけが気付いていた。
「三代目。アンタ流石だよ。イハヤは里有数の凄腕だ。あそこに保管しとけばいくら暗部でも手出しできない。そしてあのファイルがある限り、三代目、アンタが死んでもいずれ誰かがそれに気付く」
 忍の神と謳われたかつての里長に感嘆し、カカシは夜の里を駆ける。


「借りを返して貰いに来た」
 暗部棟の最深部に難なく入り込んだカカシは、皮張りのソファーにどっしりと腰を下ろして暗部隊長と対峙した。
 するすると結界を解きながら暗部棟に侵入するカカシに見張りの暗部は呆然としていた。あまりにカカシが堂々としているので、またカカシが暗部の手伝いでもしに来たのだろうと気にしない者もいたほどだ。しかし最深部まで来ると流石に不審に思ったのか見張りが駆け付けたのだが、それに対し犬を追い払うような仕草でカカシは人払いを要求した。暗部隊長は渋々それに頷き、今はこうして部屋に二人きりだ。
「カカシ、ここの結界をどうやって破った? もうお前が暗部に所属していた頃と違う解除印なのだが」
 敬服でもなく疑念でもなく、ただの不愉快さを匂わす暗部面の男の声にカカシは鼻で笑う。
「あまーい。アンタ、俺を使いすぎなんだよ。あれだけアンタに付いて暗部の尻拭いを何度もさせられたら、嫌でもアンタの思考パターンや結界の癖を覚える」
 ここぞとばかりに厭味を連発してやりたかったが、時間の無駄だと考えカカシはすぐに本題に入った。
「ちょっと時間が惜しいから早くして貰いたいんだけど、現役暗部の個人データ、見せてくれない?」
「あのな、カカシ」
「アンタは俺に相当貸しあるよね。それ、返して貰うよ」
 有無を言わさぬカカシの口調に暗部隊長は口を閉じて沈黙したが、しかし長嘆して首を振った。
 現役暗部でもカカシを慕う者は多いし、カカシも幾人かの素性は知っている。しかしカカシはもう暗部を抜けたのだ。腕を買われて手伝いをすることはあっても、また未だ里長より直々に暗部の任務を請け負うことがあっても、暗殺戦術特殊部隊に所属しているわけではない。部外者に暗部の個人データを見せることはできない。
 カカシは僅かな殺気を出して威圧したが、暗部隊長は頑なに沈黙を守った。僅かであっても鋭利なカカシの殺気を感じ取り、部屋の外で待機している暗部が一瞬動揺する。
 意外と頑固だなとカカシは思った。いつも何かある度に自分に頼るので暗部としての誇りも持たない男かと思っていたが、ことを早く終わらせる方法を常に優先する単なる合理主義者なのかもしれない。
 カカシはソファーから身を乗り出し、テーブルの上に置かれていたメモ用紙に目的の人物の名前を書いて差し出した。
「コイツだけ。コイツのデータが欲しいだけなんだ。他はいらない」
 差し出されたメモを手にし、暗部隊長は渋々そこに視線を落とした。だがすぐに眉を顰め、首を傾げながらカカシに視線を向ける。
「こんな人間は暗部にはいない。嘘ではないぞ」
「じゃあ過去に在籍していたのかも。調べて。根にいたかもしれないから、できたら根の方も調べて」
「根は……」
 暗部隊長はそう言いながら立ち上がり、背後にある書棚の結界を外し幾つかの手順を踏んで隠し扉を開けた。
「根の方は無理だ。あそこは暗部養成部門と言っても我々とは全く管轄が違う」
「どうにかしてよ」
「根は無理だ。カカシ、お前もダンゾウ様のことは知っているだろうに」
 隠し扉の中に仕舞われたファイルを取り出し、暗部隊長は立ったままペラペラと頁を捲り中身を確認していく。
 しかしどこにも該当者が記載されていなかったのか、暫くすると一冊目を戻し二冊目に手をかけた。今度はすぐに手が止まる。
「あった」
 ファイリングされた中から一枚だけを取り出し、暗部隊長はカカシにそれを渡した。
 カカシはそれに素早く目を通す。
 暗部在籍期間は一ヶ月。毒物を得意としており、僅か一ヶ月で単独暗殺任務を二度遂行している。在籍期間が短すぎるのでこれと言った情報は記載されていないが、顔写真はあった。しかしそれは――。
「この子と同年代で根から来た子誰か呼んで」
 カカシの緊迫した声に暗部隊長は自ら部屋を出て、外で待機している者達にそれを告げた。すぐに一人の、まだ初々しさが残る青年が駆り出される。
 暗部隊長は警備半分野次馬根性半分の待機組を散らせ、青年を部屋の中に入れる。 
「この子のこと、何でも良いから教えて」
 挨拶しようと口を開きかけた青年に、カカシは手にした資料を突き付けて強い口調でそう言った。
「早く」
 急かされて青年は少し怯える。里の中で別格の存在として知られている写輪眼のカカシを目にできたのは嬉しいが、突然の質問とその存在感に平静ではいられない。
 しかし暗部隊長に後ろから軽く肩を叩かると我に返り、青年は一呼吸置いて素早く頭を回転させた。
「ソイツは根の中でも特にダンゾウ様から可愛がられていた奴でした。根に入った頃はぱっとしなかったど、すぐにメキメキと頭角を現した奴です。ちょっと不気味なところがあったけど腕は凄く良くて、毒物を得意としてましたね。友達はいなくて、いつも一人でした。冷たい奴で仲間を平気で見捨てるようなところがあったから、嫌われていたんです。正直言って俺も嫌いでした。根での成績が凄くて俺ともう一人とソイツの三人で、最年少として正式に暗部に入ったんですけど、一ヶ月でダンゾウ様の元に帰ったみたいです。ダンゾウ様の元と言っても根に戻ったわけじゃなくて、ただの上忍としてダンゾウ様の右腕になったんじゃないかな。よく分からないんだけど、多分」
「この写真、変化してるよね? なにこれ」
 カカシがトントンと資料の写真の部分を指で叩くと、青年は肩をすくめて暗部面の下で苦笑した。
「ずっとそうでした。理由は知らないんですけど、ソイツは根にいた頃からずっとその姿なんです。何か拘りでもあるのかもしれないけど、とにかく本当の姿は俺も知りません。ダンゾウ様以外誰も見たことないんじゃないかな」
「ちょっと待った。変化した姿で暗部の個人データに載ってるのか? 前任者はそういったことを許してたのか?」
「うるさい。アンタちょっと黙ってて」
 口を挟んだ暗部隊長をピシャリとはねつけ、カカシは青年に話を促す。
「君はこの子と同年代? アカデミーには行ってた?」
「いえ、同年代ですけど、俺はエリート……自分で言うものアレですけど、俺はソイツよりずっと小さい頃から忍としての才能を見いだされていたので、根でエリート教育を受けました。だからアカデミーへは一度も通ったことがありません」
 青年の話に耳を傾けながらカカシは机の上を指先で叩く。
 カカシは根にツテを持っていなかった。暗部が火影派とダンゾウ派に別れていることは知っているが、四代目を師と仰ぎ三代目にも目をかけてもらったカカシは完全に火影派である。地下に隠れ普段滅多に表に出てこないダンゾウの姿も今までに二、三度見かけただけで、口を利いたこともない。そして完全な火影派であるカカシの周りも基本的には火影派揃いで、残りは中立派だ。目の前の青年は示された人物を個人的に嫌っていたようなのでペラペラと喋っているが、根のデータを持ち出させるといった具体的な行動を取らせることはできないだろう。
「他になんかない? この子に纏わる興味深いエピソードみたいなもの」
 カカシが問うと青年は大きく頷いた。
「ありますよ、とっておきが。ソイツの父親が一昨年死んでるんですけど、どうも不審死だったみたいなんです。で、火影様が暗部の一部にソイツのこと探らせたんですよ。火影様に疑われてたんです、ソイツ。俺、そのメンバーに入ってたからよく覚えてますけど、父親は不審死する少し前から狙われてる気がするって周囲に話してたみたいだし、火影様直々の内部調査要請だったしで俺達結構真剣に探ったんですよ。でもいくら調べても何だか完璧と言っても良いくらい暗殺の証拠は出なかったんです。死因はありきたりな突然死と断定されてましたけどね、俺達はちょっと怪しんでました。何故かって言いますと」
 青年はそこで言葉を区切り、カカシの前で人差し指を立てた。
「父親が死んだ一年前、丁度同じ日にソイツの母親も突然死してるんですよ。ついでに母親も死ぬ少し前から、誰かに狙われてる気がするって周囲に零していたようです。勿論その時も物的証拠はどこにもなく、鑑識は突然死と断定してました。でもおかしいでしょ? そんな偶然って怪しいじゃないですか。何かの呪いじゃなかったら、暗殺って思うじゃないですか。でも証拠は出ない。そんなこんなしているうちにソイツはダンゾウ様の元に帰ったし、手が出しにくくなったなぁって思ってたら今度は木ノ葉崩しも起こっちゃって、結局捜査は打ち切りになっちゃったんです」
「年を跨いで同じ日に両親が死んだ」
「ええ、俺捜査メンバーに入ってたし、ソイツのこと嫌いだからかなり本気で調べました。だからハッキリと覚えてます。六月七日。あ、日付変わったから一昨年の今日ですね」
 カカシは指先で机の上を叩き続けながら情報を整理する。
 両者とも突然死。だが死ぬ前に誰かに狙われている気がすると周囲に漏らしていた。
 三年前の六月七日に、母親が不審死。
 二年前の六月七日に父親が不審死。
「……これ借りるよ」
 カカシは手にした資料を暗部隊長に見せ、返事も聞かず瞬身でその場から消えた。
 



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