「待機って暇だよねぇ」
 うんざりしたカカシの声に、隣に座っていたゲンマはしみじみと頷き大きく背伸びをした。
「カカシさんは待機今日まででしょ? 明日からは普通に任務あるじゃないですか。俺なんて明後日まで待機ですよ」
 一ヶ月間任務で里から離れていたゲンマには、三日間の休暇と四日間の待機が命じられている。待機中は里内にいるのであれば何をしていても構わないのだが、大抵の忍は何をするでもなく待機所で時間を潰すことが多かった。
 それでも里が忙しい時はその待機期間中もみっちり働かされる。上忍だろうが特別上忍だろうが飛び込みでやって来る低ランクの依頼を振り当てられる。だが今は閑散期なのかその飛び込みの依頼もないらしい。
「暇なら団子買って来て」
 同じく暇そうに欠伸をしていたアンコがそう言ったが、カカシとゲンマは聞こえないふりをした。
「家に帰って寝ようかなぁ。女でも抱きに行こうかなぁ」
 身体を弛緩させだらしなくソファーに座っているゲンマが、ポケットからメモ帳を取り出してペラペラと捲り出す。そこに書かれた女の名前と顔を思い浮かべつつ、誰の家に行くのか決めている様子だった。
「真っ昼間から元気だねぇ」
「ヤれる時にヤっとかないと。明日急な任務が入って死ぬかもしれないし。そん時に、あ、昨日あの娘とヤっときゃ良かったな、なんて思いたくないですし」
「んで、誰にするか決めた?」
「まだです。この子かこの子だな。いやでもこの子は結構嫉妬深いから……」
 ゲンマがブツブツと独り言を呟きだした時アンコがまた「暇なら団子買って来て」と脈絡もなく言ったが、やはりカカシもゲンマも聞こえないふりをした。
「この子かなぁ」
「明日急な任務が入って瀕死の重傷を負ったとする。するとゲンマくんは、あ、やっぱ昨日はあっちの娘とヤれば良かった、と思う。なーんてね」
「何ですかそれ。カカシさん嫌なこと言いますね。そんなこと言われたら……ちょっと待ったもう一回考えてみます」 「団子買って来て」
「やっぱこの娘かなぁ。ああ、俺もカカシさんみたいにこの人だって思える恋人がいれば」
 メモ帳を捲ってはしきりに何だかんだと呟いているゲンマをからかうのを止め、カカシは身体を捻って外を眺めた。
 窓から入る日差しは日に日に強くなっている。もう春などとっくに終わったのだと一方的に告げてくる。つい最近まで霞んでいたはずの空がどんどん青くなってきている。そこにはやがて真っ白な入道雲が現れるのだろう。
 開け放たれた窓辺に肘を掛けぼんやりと空を眺めていたカカシの耳に、ガヤガヤと元気の良い子供達の声が届いた。見降ろすとアカデミーの生徒達が列を成して森の方へ歩いて行くのが見え、その中に生徒を引率するイルカの姿を発見したのでカカシは腰を上げた。
「団子は七本。最中があれば最中三個追加で」
「団子屋には行かないよ」
 と言うか今日は戻らないから、と付け加えてカカシは窓から飛び降りた。それから屋外の予想以上に強い日差しに一瞬目を細め、眼下の生徒達の歩調に合わせてのんびりと屋根を伝い歩いて行く。
 人家が途切れると木の枝を渡って行った。
 体術の授業か忍具の授業だろうと思っていたが、予想していた演習場を集団は通り過ぎ木ノ葉の森の奥深くへと入って行った。猛獣が住まう区域からは外れているが、子供達だけでは立ち入ることを禁止されている方面だ。危険はほとんどないのだが、あまりに人里から離れ過ぎているため何かあった時に子供だけでは対処しきれないからだろう。
 教師に率いられ生徒達は楽しげに歩いて行く。小鳥の囀りと子供達がはしゃぐ声、それから子供達の相手をする教師達の声が森の中に響いていた。
 イルカの周りには常に人だかりがあった。背中によじ登ろうとする子、腕を引っ張る子、懸命に話し掛ける子、それから黙ってイルカの後を付いて行く子。様々な子供がイルカを囲んでいるが、どの子の目にも健全な光が宿っている。
 ふと木々が途切れ、開けた場所に出た。
 どうやらそこが目的地だったらしく、集団の先頭を歩いていた教師が立ち止まった。最後尾にいた子供達が到着するのを待ち、全員が揃うと注意事項を細かく告げる。何かあった時はすぐに先生を呼ぶこと、見知らぬ生き物や植物を見つけても手だししないこと、それから必ず班の子と共に行動し、決して遠くへ行かないことを口を酸っぱくして言い聞かせていた。
 注意事項が終わると子供達が散って行く。木の枝の上から様子を眺めていると、どうも薬草を取りに来たようだった。カカシはこの辺りがアカデミー教師達の間で特殊な呼称をされるほど薬草が多い地区だったことを思い出す。
 枝の上に腰を下ろし、カカシはイルカだけに視線を向けた。
 動く度に高い部分で括られた髪が揺れ、子供が何か話しかける度に暖かい笑顔が花開く。しかし周囲には常に気を配り、子供達が森の奥深くに入らないように注意もしている。時折とんでもない悪戯を仕掛けられ、怒って見せたりもする。生徒が薬草を摘んで嬉しそうにそれを差し出すと、繰り返し誉めてその薬草の説明をしたりする。
 カカシはイルカを見ていると飽きない。クルクルと変わる表情も、仕草も、全てが愛しい。
 暫くすると昼食になった。カカシも空腹を覚え、弁当を広げているイルカの元に降りて握り飯のひとつでも貰いに行こうかと思ったが、考えた末それは止めておいた。カカシは他の教師達からあまり快く思われていない。カカシの過去の悪行を思えば当然のことだったし、カカシ自身は他人にどう思われようが構わなかったが、イルカが肩身の狭い思いをするのは避けてやりたい。
 イルカの握り飯を諦める代わりに、もう少し近付こうとカカシは立ち上がった。イルカの笑顔が見られれば空腹など吹き飛ぶと。
 そして足に力を入れて次の木の枝に飛び移った時、その視線に気付いた。
 枝から枝へと移動する僅かな瞬間に、間違いなく自分を捉えた視線を。
 生徒達に同行している教師達のものではなかった。すぐに確認したが、一人は死角になっていたしもう一人は生徒から茶を注がれて意識は手元に行っていた。イルカでもない。勿論生徒達でもない。
 カカシは表情を変えず移動先の枝に座り込んで足を組み、イルカを見下ろす。感じた視線は一瞬のもので、方向性は分からない。気配を探ろうにも下では大勢の子供達がはしゃいでおり、それも出来ない。
 敵であればやっかいなことになる。だが、敵ならばとっくに生徒の一人や二人を拉致し何か行動を起こしているはずだった。木ノ葉の忍と呼べる者はカカシを含めて四人。向こうが単独であっても生徒を盾に取られればこちらは手も足も出ない。
 ならば味方か。暗部かもしれない。里を巡回している暗部かもしれない。暗部であれば不用意に姿を晒すこともない。
 それでもカカシは念のために手持ちの忍具を頭の中で確認し、地形と子供達が巻き込まれた時のシミュレーションをする。引率の教師達と同じくカカシもずっと子供達の頭数を無意識に数えていた。それをもっと徹底させる。
 昼食が終わると、また子供達は散って行った。薬草の種類を覚え、ノートを開いて何か書き込み、ガヤガヤと楽しそうに授業を楽しんでいた。
 結局最後まで何事もなかった。途中で集中力のない子供達が数人授業を抜け出そうとしたが、すぐに教師に見つかり叱責を受けただけだった。


 アカデミーが終わる時間になると、カカシは校門までイルカを迎えに行く。
 今日はイルカの受付業務がない日だったし、明日からはカカシの通常任務が始まるので二人でゆっくりしようと思っていた。二人で買い物に行き、夕飯の材料を買って帰る。夕飯を作って食べて、少し話をしてから風呂に入り、それからベッドで思う存分楽しもう。
「お待たせしました」
 今晩のイルカの痴態を想像していると、イルカが走り寄ってそう言う。
「ん。お疲れ様」
「なんかカカシさん、やらしい顔してましたね」
 怪訝な表情を浮かべ顔を覗き込むイルカが可笑しくてカカシは笑う。今日はアンタをどう可愛がってやろうかと考えてました、とは流石に言えない。
「してないよ。て言うか口布してるから見えないでしょ」
「見えます。俺には見えるんです。アンタ何考えてたんですかこんなところで!」
「ナーイショ」
 そう言ってカカシが歩き出すと、大体のことは想像できたのかイルカがほんのりと頬を染めてブツブツと小言を口にした。しかし恥ずかしいのか顔は背けている。
 その様子が可愛くて堪らない。写輪眼のカカシを骨抜きにするうみのイルカが、この里で最もやっかいな人間なのだろうと心の中で思う。
「それより今日、野外実習だったでしょ」
「何で知ってるんですか?」
 赤くなって照れていたかと思えば、今度は驚いてカカシににじり寄る。何で知ってるんですかと繰り返し訊ねては、カカシの腕を引っ張って子供のように答えを強請る。
「ナーイショ」
「何でこれも内緒なんですか! ちょっと気になるじゃないですか教えて下さいよ!」
「やーだねー。でもキス一回で教えてあげる」
 からかってやるとまた顔を赤くさせて、イルカはモゴモゴと口籠る。本当にイルカはからかい甲斐がある。もっと構いたくなる。子供が好きな子にちょっかいを出す気持ちが分かるなとカカシは思った。
 商店街に入ると、夕食の材料を買い求める人間で少し混み合っていた。
 威勢の良い八百屋の親仁の呼び込みの声や、子供を呼ぶ母親の声、店先に置かれたラジオから流れる流行歌などは煩いほどだ。しかし活気があって良い。里が元気な証拠なのだ。
 親子連れとぶつかりそうになり、道を譲って少し遅れたイルカの腕を引き寄せる。しかしまたすぐにイルカはカカシの元から離れてしまう。今度は転んだ幼児に駆け寄り、立たせてやっていた。幼児の膝と手を払い、頭に手を乗せて笑みを浮かべて何かを語りかけている。母親に礼を言われ照れて顔の傷に触れているイルカを眺めつつ、カカシはイルカが戻って来るのを待った。
 イルカの優しいところは好きだ。それに、常に自分だけ見ていろ、常に自分のことだけを考えろと傲慢な愛を押しつける時期は過ぎている。
 幼児に手を振り、イルカが戻って来た。
「今日は何を食べる?」
 訊ねながら歩みを再開させると、イルカは首を傾げて考える。それから店先の野菜や果物、魚や揚げ物などをじっくり見渡した。
「……ラーメンとか?」
 漸く出てきたその答えにカカシは笑った。何か良い案はないものかと周りを見渡して考えてはみたが、結局何も決められなかったです、と言うことなのだ。多分、いや間違いなく考えるのが面倒臭くなったのだろう。
「ダーメ。昨日ラーメン食べたでしょうに。イルカはもっと野菜――
 そこまで口にしてカカシは無意識の内に振り返った。
 敵忍が放ったクナイを避ける時のように、考える間もなく瞬間的に。
「どうしました?」
 不思議そうにそう訊ねるイルカの声が届く。
 店先で呼び込みをする者、親子、独り者、犬、鳥、金銭の遣り取り。大人と子供、動物、一般人と忍。  カカシはそこにいる全てに注意を払ったが、何も見つけることはできなかった。
 カカシが感じ取った何かは、雑踏の中に音もなく消えていく。


 イルカが眠りに落ちるのを見届けると、カカシはその瞼に口付けた。
 昨日は手を出さなかったが、一昨日は散々イルカの身体を可愛がったのだ。あまりヤり過ぎるとイルカの負担が増えるので、今日は執拗に貪ることはしなかった。
 もう随分抱いてきた。カカシがイルカと出会い、攻撃的とも呼べるほどの恋に落ちてからもう随分その身体を抱いてきた。喰らい尽くすように抱いたこともあったし、ひたすらに優しく抱いたこともある。抱き潰してもなお自分は狂ったのかもしれないと思うほど求め続けたこともあるし、イルカに請い求められるまま下僕のようにただ献身的に抱いたこともある。互いの性感帯などとうに知りつくしている。
 だが、まだ飽きない。恐らく一生飽きることはない。
 イルカを抱く度にカカシはイルカに恋をする。
 シーツの上で緩やかに曲線を描く髪やのけぞった顎のライン、汗ばんだ背中、しっとりと濡れる黒い瞳、熱い吐息。
 イルカの全てに恋をする。
 絶対的で圧倒的な、力強い恋をする。
 カカシはイルカを腕に抱き、そっとその頬を撫でた。幾ら口付けてもどれだけその身体に触れても足りない。いつまでもこうしてイルカを愛でていたいとそう感じる。
 その唇を指でなぞろうとすると、カーテンの隙間から入る月光から逃れるようにイルカが眉を寄せてカカシの胸にすり寄った。カカシはイルカの頭を撫でてやり、手を伸ばしてカーテンを閉め直そうする。
 だが、伸ばされた手は布に触れる寸前に止まった。そして何かから守るように両腕でしっかりとイルカを抱き込み、イルカが深い眠りに落ちたのを確認するとカカシは静かに身体を起こした。
 気配を薄め、カーテンの隙間から密かに外を窺う。
 しかしそこには、アカデミー生くらいの、黒髪の子供の後姿が見えただけだった。
 黒髪の子供は月光に照らされ音もなく夜に消えていく。
 まるで月が作った幻のように。

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