郵便受けを覗くと、白い封筒が入っていた。
 手に取り見てみると華奢な字で「うみのイルカ先生へ」と書かれてあったが、差し出し人の名前はない。
 受け持ちの生徒達の文字ではなかった。子供の字ではない。イルカはアカデミーでも受付でも毎日多くの忍の文字を見ているので、筆跡だけで大抵書いた人間が誰か分かるのだが、封筒の文字には全く心当たりがなかった。これはイルカが今までその筆跡を一度も見たことのない誰かが書いたのものか、あるいは意図的に筆跡を変えられたものだ。
 その場で封を切った。何かしらのトラップが仕掛けられているかもしれぬと念のために用心したが、術が発動する気配もなく中から一枚の便箋が出てきただけだった。
 ただし、白紙の。
 チャクラが練られていないか、もしくは何か隠された暗号でもあるのではないかと慎重に探ったが、それは正真正銘、何も書かれていないただの便箋だった。印を結んでも光に透かして見ても何も起こらない、ただの便箋。
 書きかけでもない、何か書こうとした気配もない、あたかもその空白を送ることが目的だったかのような白い便箋。
 イルカは首を傾げつつそれを鞄の中に仕舞い、丹念に記憶を探りながらアパートの階段を上り始めた。
 見覚えのない筆跡ではあったが、何か引っ掛かるものはあった。その筆圧の弱さ、払いの仕方、文字間隔、女性的と言うよりも中性的な印象。筆跡鑑定を趣味としているわけではなく、単に毎日の業務で他人の文字を覚えてしまっただけに過ぎないイルカは、そこから明確なものや手掛かりのようなものを引っ張り出すことは出来ない。ただ差し出し人が全く見ず知らずの人間ではなく、過去にイルカに何かで文字を見せたことがある者が筆跡を変えているのではないかと思った。
 理由は分からない。
 白紙の便箋からは善意も悪意も読み取ることが出来ない。
 当然イルカに伝えたいことが何なのかも。
 階段を上りきると共同廊下を渡り、部屋の前まで行く。ドアノブを回して「ただいま帰りました」と声を掛けると、中から「おかえり」と恋人の返事があった。
「カカシさん、夕飯は?」
「まーだ。出前取るから気にしないで」
 サンダルを脱いで部屋に上がると、カカシは居間でテレビを見ていた。
 ベストを脱ぎハンガーにかけて脚絆を外そうと腰を下ろすと、寛いでいたカカシが手招きする。イルカは手を突いて呼ばれるままカカシの隣までにじり寄り、そこでもう一度腰を下ろした。すかさずカカシの手が伸び、イルカの右足の脚絆を手早く外していく。
「楽しかった?」
 その質問には特に棘はない。二人の関係が落ち着いた後ですらイルカが同僚と飲みに行った日などには多少言葉が尖る場合も多かったカカシだが、ここ最近はこの程度の小さなことではその強い独占欲を剥き出しにすることもなくなった。それでもイルカの帰宅が遅くなれば迎えに来るが。
「楽しかったです。教え子が戦場から帰還しましてね。会うのは久し振りだったし、昔話に花を咲かせてました」
「どこに行ってたの?」
「一楽です」
「いや、戦場」
 クスリとカカシが笑い、イルカも自分の勘違いに笑う。
 右足の脚絆が外されたので、促されるままイルカは左足を差し出した。
「南の国境ですよ。コルト河戦場」
 イルカの言葉にカカシは「ああ、あそこ」と小さく返事をする。受付と火影の雑務をしているイルカは他の中忍よりも情報が入りやすいが、上忍の中でも別格とされるカカシには更に様々な情報が入る。当然そこがどれほど過酷な戦場であったか知っている様子だった。
 カカシは脚絆を外し終えると身体を横たえ、イルカの膝に頭を乗せた。
 イルカはその銀色の髪を撫でる。
 この瞬間が好きだった。二人で飯を食うことも風呂に入ることも同じベッドに入って眠ることも、勿論抱き合うことも好きだったが、こうしてカカシに膝枕をしてその髪を撫で一日の報告をする時間をイルカはとても愛していた。穏やかで心安らぐ時間だ。
 イルカは美しい銀色の髪を撫でながら、元教え子の話をする。まだ教師になりたての頃に自分に非常によく懐いてくれた三人の話を。カカシも三人を見たことがあるはずだが、当時のカカシの目にはイルカしか映っていなかったことはよく分かっている。あの頃のカカシにとってイルカ以外の人間は総じて「その他大勢」という括りだった。性別も年齢も関係なく、ただ「その他大勢」なのだ。唯一例外的に三代目、それから任務に携わる人間の顔を必要に応じて認識していたくらいのものだろう。だからイルカは、いちから丁寧に説明する。どんな子供で、どんな様子だったのか。そして今日、彼等はどのように成長しており自分とどんな会話をしたのかを。
 カカシは小さな相槌を打ちながらイルカの話に耳を傾け、時折イルカの腰に手を回してそこに力を入れる。膝を撫でたり頬擦りしたりもする。だが、適当に話を聞いているわけではない。他人の話をするとすぐに「それより」と話の腰を折りイルカの身体を貪ろうとした頃のカカシとは、まるで別人のようだ。
 三人の話から本日のアカデミーの授業の話に変わったところで、カカシが卓袱台の上を指す。イルカはそこに乗せられていた出前のお品書きを渡し、話を続ける。未だチャクラが上手く練れないでいた子が今日少しだけコツを飲み込めたこと、授業中に具合が悪くなった子がいたこと、帰りがけに悪ガキ三人組がいつものように絡んできたことなど。
「カカシさんの方では、今日は何か面白いことありました?」
 話の区切れが良かったところで、イルカは顔を隠すようにお品書きを持っているカカシの手をトントンと叩いて訊ねる。
「今日はイルカの誕生日だったのに、イルカは他人とご飯食べに行った」
「昨日零時きっかりにあれだけ祝ってくれたのに、まだ何かしたかったんですか? と言うか、実は拗ねてます?」
 イルカはクスクスと笑いながらお品書きで顔を隠しているカカシの手を持ち上げ、そこに口付けをする。
 誕生日プレゼントなら昨晩貰っていた。祝福の言葉もイルカを幸福にする言葉もとても沢山紡いで貰ったし、その後はたっぷりと愛して貰っている。
「もしかして、どこか予約していました?」
「してないよ。ただイルカと一緒にケーキを食べようと思って」
「買って来ました?」
「ん」
 優しい人だとイルカは思う。以前のカカシならどうなっていたか分からないが、余裕が出てきた今のカカシには優しさが溢れている。本当は今日もイルカと一緒にどこかに食べに行く予定だったかもしれない。カカシのことだ、本当は料亭の予約でも取っていたのかもしれない。しかしカカシは、数年ぶりに戦場から戻って来たばかりの元教え子と語り合いたいというイルカの気持ちを優先してくれた。
「後で一緒に食べましょう。それで機嫌なおしてくれます?」
「んー。それとキス三回、かな」
 何気ない口調でキスを強請るカカシに、イルカは笑いながら身を屈めその鼻先と額、最後に唇に口付けをする。
「で、カカシさんの方では、今日は何か面白いことありましたか?」
「待機所でアスマが紅と喧嘩してたよ」
「またですか。今度はどんな理由で」
「さぁ。酒がどーのって紅が怒鳴ってたよ。賭けがどーのとも言ってた」
「待機所、大丈夫でした?」
「巻き込まれたくない連中はさっさと移動してたよ。痴話喧嘩観戦したい奴は残ってた」
「カカシさんは?」
「移動するの面倒臭いから残ってイチャパラ読んでた」
 その様子が目に浮かびイルカは微笑む。
 アスマと紅がどれだけその仲を否定しようが、二人の関係は里にいる者の多くが知っている。よく酒を賭けていざこざを巻き起こしているが、待機所にいる時も並んで座っているのが常の二人だ。それどころか里にいる間はしょっちゅう二人でブラブラしているのを見かける。私達はそんな仲じゃないわよ、と言う紅の言葉を真に受ける者などいやしない。
「結局仲が良いんですよね。あのお二人は」
 銀色の髪を撫でながらイルカがそう言うと、「俺達ほどではないけどね」とカカシが呟いた。
 その後、お品書きをヒラヒラさせて「カツ丼とざる一枚」と訴えるカカシの頭を膝から下ろし、近所の定食屋に出前を注文して風呂の準備をした。出前が来るとビールを用意してカカシが食べ終えるのを待ち、食器を洗って玄関先に出して二人で風呂に入る。風呂から出るとまたカカシの頭を膝に乗せて持ち帰りの仕事を済ませ、イルカの小腹が減ったところでカカシが買って来たケーキを二人で仲良く分けて食べた。
 それから明日の授業の準備をして、歯を磨いてベッドに潜り込む。カカシの手が緩くイルカの身体に巻き付き、不穏な動きを見せたのでイルカはその手を掴んで止めさせる。昨日散々することをしたからだろう。カカシは無理にイルカを求めることはしなかった。
「イルカ、誕生日おめでとう。愛してるよ」
 耳元で柔らかい声がした。何年経ってもカカシはこうして愛を囁き続ける。変わらない愛をイルカに伝えてくる。それは永遠に変わらないだろうとイルカに思わせる強い想いを乗せて。
 閉じられた瞼と額に優しい口付けが降って来る。頬にそっと触れられ、髪を撫でられる。
 カカシの腕に頭を乗せ、イルカはカカシに包まれる。奥底に激しい情熱を抱いたカカシの愛に包まれる。
 そして今日も、イルカはカカシの愛に満たされ眠りに落ちる。

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