第十三章 六月六日

 久し振りの連休初日は好天に恵まれ、イルカは朝から家事に勤しんだ。
 食器を洗い部屋に掃除機をかけ、洗濯機を回す。玄関から靴やサンダルをどけて三和土を箒で掃き、トイレと風呂場の掃除をする。冷蔵庫の中を覗いたが一昨日の豆腐騒動の時にカカシが中身を全てチェックしたらしく、危険そうなものは見当たらなかったので簡単に拭くだけで済んだ。
 それが終わると忙しい時に纏めて箱に放り込んでいたものを取り出して分別し、正しく整頓していく。がさごそとその中身を取り出していると、巻物や書類、請求書と領収書などの他に、アカデミーの生徒から貰った似顔絵も出てきた。イルカの特徴である顔の傷や高い場所で括った髪、それに毎日生真面目に巻いている額当てなどもちゃんと描かれ、にっこりと笑っている。似顔絵の上には「イルカ先生、お誕生日おめでとう」という文字が楽しそうに踊っており、イルカはその筆跡でそれがツクシのものだと分かった。
 誕生日にはカカシからのプレゼントの他に、生徒や同僚からも様々なものを貰った。それらは既に大切に保管されているのだが、これだけはどういうわけかこの箱の中に紛れ込んでしまっていたらしい。
 イルカは口元に微笑みを浮かばせてその似顔絵と文字を眺めると、立ち上がって抽斗の中から画鋲を取り出しそれを居間の壁のカレンダーの隣に貼り付けた。それから整理箪笥の上に置かれてあった、同じく誕生日に生徒から貰った飴玉をひとつ手にし、袋から出して口に入れる。
 洗濯機が止まった音がしたので、洗濯モノを干す作業に移る。コリコリと飴を舐めながらハンガーにシャツを掛け、洗濯挟みで下着を吊るす。それも終えるとベッドのシーツをはがし、それを洗濯機の中に入れると新しいシーツを出してベッドを綺麗に整えた。
 思わず頬が緩む。
 突然舞い込むカカシの任務はいつもイルカを不安にさせたが、今日はあまり心配しなかった。あのカカシの様子なら必ず無事に帰って来るだろう。意地でも帰って来るはずだ。唯一気掛かりなのは早く帰って来たいが故にカカシが無茶をすることだが、二つ名まで持っている高名な恋人をイルカは信じることにした。
 整えたベッドに腰を下ろし、カカシの枕を手の平で撫でるとまた頬が緩んでくる。
 今晩もしくは明日の夜、カカシの帰還が遅くなろうとも必ず行われるだろう勝負を賭けた性行為に期待してしまう自分も大概だなと思いつつも、カカシから与えられるとびきりの快楽を待ち望んでしまう。もう何度も何度もそれを行ってきたのに、抱き合う度にカカシは並外れた新たな快感を与えてイルカを陥落させる。そしてイルカはその陥落を熱く望んでいるのだ。
 とは言ってもイルカは勝負に負けるつもりはなかった。カカシから贈られる快楽も楽しみだが、先日のように自分のペースでセックスをして翻弄してやりたい。カカシがイルカの身体の隅々まで知っているように、イルカもカカシの身体の隅々まで知っているのだ。どこをどうすれば悦んでくれるのかも全部分かっている。長年カカシを相手に培った性技を駆使すれば先日のようなことも可能だろうと踏んでいる。
 そんなことばかり考えていると、身体が熱を帯びてきた。イルカは苦く笑いながら腰を上げ、熱を散らすために掃除に没頭しようと心がけた。


「イルカせんせー!」
 弾んだ声に振り向くと、幾人かの生徒が手を振り回しながら駆け寄って来た。
 商店街に向かう途中にあるブランコとシーソーしかない小さな公園の柵を飛び越え、彼等は両手を広げて抱き付いて来る。
「イルカせんせーお腹減ったー」
 最初に飛び付いて来た子がそう言うと、後続の子達も「俺もー」「腹減ったー」と口々に同意する。
「俺はお前等のかーちゃんじゃないぞー」
 イルカは笑いながら生徒達の頭を撫で、それから彼等と他愛もない立ち話をした。
 この前の授業がどうだったとか新発売のお菓子がどうのとか、今度の中忍試験の観戦チケットを最も確実に得る方法なんかを生徒達は気儘に語る。どの子も一日外で目一杯遊んだのか顔や腕は薄らと日に焼け、健康的な汗の匂いを漂わせていた。今日という日がいかに満足いくものだったのか、そのきらきらと輝く目を見れば分かる。それだけ遊べばそりゃ腹も減るわけだと、イルカは微笑ましく思った。
 子供のうちは全力で遊べば良い。いつしか大人になった時それは眩いばかりの思い出となり、その思い出は本当に辛くなった時に彼等を良い方向へと導くことになるだろう。そして如何に苦境に立たされようが生への執着を捨てさせないことにも繋がる。かつてイルカ自身がそうであったように。
 イルカは温かな眼差しを向けながら生徒達の相手をしてやり、途中で一人の子が空腹に耐えかねているのを察してみなを帰宅させた。
 それからのんびりとした足取りで木ノ葉商店街へ向かう。カカシは疲れて帰って来るだろうから、何か良いものを食べさせてやりたかった。
 スタミナのつくもの。精のつくもの。カカシは肉より魚を好む。イルカよりもずっと野菜を食べる。脂っこいものは苦手で、味覚と嗅覚が麻痺するのを嫌がり味が強すぎるものも食べない。何が良いかと思案していると、ふと餅のことを思い出してイルカは噴き出しそうになった。普段カカシを畏怖している者達が「写輪眼のカカシがセックスを楽しみたいがためにいそいそと餅を買ってきた」と知ったら何と思うだろうか。
 そんなくだらないことを想像しながら歩いていると、また背後から「イルカ先生」と声を掛けられた。
「おー、ツクシ」
 ハァハァと息を切らして駆け寄るツクシを見てイルカも声を掛ける。
「イルカ先生、どこ行くの?」
「夕飯の買い物しに。商店街行くぞ」
 額に浮かんだ汗を拭い、ツクシはイルカの隣に並ぶ。それから機嫌良さげに大きく手を振ってイルカを先導するように歩きだした。
 イルカはツクシに促されるまま歩きつつ、ツクシに貰った似顔絵を家の壁に貼ったことを告げた。改めて礼を言うとツクシは照れて鼻の下を擦る。それから、自分は絵が得意なんだと言って今度は少し顔を赤らめた。
 二人で何でもない会話を交わしながら歩き、煙草屋の角を曲がって商店街に入る。ツクシは暇だからとイルカに付いて回り、一緒に野菜や果物の品定めをした。普段から家の手伝いをよくする子のようで八百屋のおばさんにも話し掛けられていたし、どこの店の何が安いかどの店員が最も愛想が良いのか妙に知っている。イルカがそれを誉めると、「忍なら観察力があって当然だよ」と大人ぶった物言いをしてみせた。
 イルカが買い物を終えても、ツクシはまだ付いて来た。日が長くなって来たとは言えもうそろそろ帰る時間だろうとそれとなく仄めかすと、ツクシはモジモジと落ち着きを失くし何か言いたげに自分の手に視線を落とす。
 その指の横がところどころ赤くなっているのを見て、イルカはピンときた。
「じゃ、ちょっとだけ修行の成果を見せてもらうか」
 イルカの言葉にツクシはぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに頷いた。
 商店街の近くに堤防があるので二人はまずそこに移動した。それから河原に転がっている大きめの倒木を見付け、イルカが土遁を使いそれを少し埋めて的にした。人に当たってはいけないので周囲によく注意を配り、ツクシにもそれを言って聞かせる。
「よし、良いぞ」
 的からある程度距離を置き、イルカはツクシの背後に立ってそう声を掛ける。ツクシはホルスターから手裏剣を取り出し、一度大きく深呼吸して狙いを定めた。
 ヒュンと空を切り、手裏剣が的に当たる。
「お! 凄いじゃないか!」
 イルカが手を叩いて誉めると、ツクシは顔を赤くして続けざまに手裏剣を投げた。多少ブレはあるものの全て的に当たる。
「凄い! 凄い急成長だ!」
 どれだけ練習してもどうしても無駄な力が入り的に当てることができなかったツクシが、次々と手裏剣を木に突き刺していく。フォームも綺麗だし余計な力も入っていない。そしてとうとうツクシは手持ちの手裏剣の全てを的に当てることに成功した。
 イルカは手放しでツクシを誉め、的に突き刺さった手裏剣を抜いてツクシに返す。
「お前、本当に凄いぞ。よっぽど友達の教え方が上手いのかな。先生にその友達紹介してくれよ」
 ツクシは前回の忍具の授業で、新しい友達に忍具の使い方を教わっていると言っていた。二人でこっそり特訓していると。イルカが手取り足取り教えてもなかなか上達しなかったツクシが数日でここまで成長したのは、その友達とやらの教え方が上手いからだろう。何かコツがあるのならば是非知りたいとイルカは思った。
「今度紹介するよ。アカデミー生じゃないみたいだけど、すっげーヤツなんだ。どこで覚えたのか忍具の扱いも凄いけど忍術も使える。イイ奴だからきっとイルカせん……」
 イルカの前で上手く成果を出すことに興奮していたのか普段より若干早口で捲し立てていたツクシの言葉が、そこでフツリと途切れた。
「ツクシ?」
 何だろうと覗き込もうとすると、ツクシは勢い良くイルカを見上げて「イルカせんせい」と呟いた。
「おい、どうした? ツクシ?」
「イルカせんせい」
 イルカを見据えるツクシの目はどこか虚ろで、その上やけに弛緩した顔でヘラリと笑っている。その様子にイルカが眉を顰めた瞬間ツクシが手にしていた手裏剣を、まるでボールを投げるかのような気軽さで投げ付けてきた。
「手を出すなッ!」
 その腕の動きを見て反射的に手裏剣を躱したイルカが咄嗟に叫んだ。
 ツクシから距離を置いた場所に着地すると、どこからともなく現れたカカシの忍犬達がその言葉に戸惑いつつもツクシへの攻撃を寸前で止め、イルカを守るために前に立ち塞がる。
「噛んじゃ駄目だぞ。あの子は俺の生徒だから」
 臨戦状態を取る忍犬達に柔らかく声を掛け、イルカは跳躍する。そしてツクシがクナイを取り出すのと同時にツクシの背後に降り立ち首の頸動脈に手刀を当てて気絶させた。
 くたりと倒れ込んだツクシの隣でしゃがみ込み、イルカはそのクナイを取り上げる。
「毒、付いてるか?」
 訊ねるとパックンが傍に寄り、鼻をヒクヒクを動かしながら匂いを嗅いだ。
「付いておる。イルカでも耐えられる程度の軽い毒じゃが」
「その程度の毒で何がしたいんだろう。俺、見くびられてる?」
「さぁな」
 イルカはクルリとクナイを持ち直して自分の目でそれを確認する。クナイは普通の忍が持っているものより一回り小さくて軽い。研ぎも甘いし、木ノ葉のマークも刻印されていることからそれはアカデミー生の訓練用のものであり、ほぼ間違いなくツクシのものだと思われた。
 鼻を近付けるとイルカも僅かに甘い香りを嗅ぎとることができた。それはこの時期の木ノ葉ではイシノ薬草園でのみ採れるテンノシという植物の実の匂いで、弱い毒があることは確かなのだがそれ故に実用性に乏しいものだった。毒物の勉強をした者が一応知識として知っている程度で、どう間違っても暗殺には使われない。見くびる以前の問題だなとイルカは首を傾げた。
「ごめんな、ツクシ」
 巻き込んでしまったことを詫びてイルカはその小さな身体を反転させて仰向けにする。そして忍犬とともに身体の隅々までチェックして毒が含まれた忍具がないかを確かめ、ツクシの身体に触れてチャクラの流れも見た。どこにも異常はない。
 イルカがその髪を撫で「ごめんな」ともう一度呟くとツクシの眉間に皺が寄り、僅かに呻いてからツクシは目を覚ました。
「イルカせんせい?」
「うん。大丈夫か?」
 ツクシは横たわっている自分の状態にキョトンとして何度か目を瞬かせ、ゆっくりと身体を起して辺りを見渡した。その様子からツクシがイルカを襲った時の記憶がないのは明白だった。そしてイルカがツクシに、お前はちょっとはしゃいで足を滑らせ頭をぶつけたんだよと説明すると、ツクシは何の疑いもなくイルカの言葉を信じて照れ臭そうに鼻の下を擦ってみせた。
 日が沈もうとしている中、イルカはツクシと手を繋いで歩いた。ツクシは終始上機嫌で普段より口数が多く、イルカに様々なことを語って聞かせた。去年アカデミー卒業試験を落ちてしまってから多少自信を失ってしまっていたが、手裏剣の扱いに慣れ今日イルカの前でそれを全て的に命中させたことによって、ツクシは再び自分の能力を信じることができたようだった。
 堤防を越えて商店街を渡り、煙草屋の角まで来る。ツクシとは家が別方向なのでそこで立ち止まった。
「なぁツクシ。お前に忍具の扱いを教えてる子の名前、教えてくれないか?」
 別れの挨拶をする前に、イルカは何でもない口調でそう問いかけた。
「知らないんだ。教えてくれない。アカデミー生くらいの年齢の、黒い髪の男の子なんだけど」
 ツクシはそう答え、イルカに手を振って帰って行った。
 



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