No.15432zzgLD-324-1228 ****年06月06日
総合責任者:イハヤ キリト
文書製作者:キクザト リョウ
付帯資料 別途添付 D-786-A-4562〜D-786-A-4593
05・26 D-423-115地区児童集団昏睡事件
アカデミー教諭 ムイハシ 葉ノ紀 参照資料D-786-A-4570
それが起こるまで、私は幸福の真っ只中におりました。
一週間ほど前に婚約者と結納を済ませておりましたし、何よりもあの日の前日、私は自分のお腹の中に新しい生命を宿していることを知りました。母親になるという自覚は私をいたく感動させ、私はあらゆる生命への愛しさで溢れかえらんばかりでした。小さな生き物から大きな生き物、醜い生き物美しい生き物、植物、朝露の煌めきまでもが愛しくてしかたなく、世界はどこもかしこも輝いていたのです。
大好きな生徒達と並んで歩き、手を繋いで歌を歌いました。やんちゃの子も大人しい子もみな同様に慈しみ、薬草を摘むのを手伝いながら、私は自分の中に全ての幸福が集約されているかのような錯覚に陥るほどでした。それほど素晴らしい日だったのです。
最愛の人と家族になることが決定し、お腹の赤ん坊の息吹を感じながら愛しい生徒達と楽しく会話を弾ませ、五月の青空の下で和やかに薬草を摘む。
それは私の人生の中で、最も完璧と呼べる日だったのです。
浮かれていたのは確かですが、私とて教師ですから個人的な感慨に耽っていたばかりではありません。生徒達の様子には絶えず気を配っておりましたし、深い森の中に入っておりましたので周囲にも目を光らせておりました。万が一のことがあれば即座に対応できるように前日から準備を怠りませんでしたし、主任のシダレ先生やケイ先生、それからイルカ先生とも充分連携を取っておりました。
それが起こるまで本当に問題はなかったのです。みながみな粛々と薬草摘みの授業を受けていたわけではありませんが、子供らしく実にのびやかに時間を過ごしていたのです。森も変わった様子はありませんでした。イシノ薬草園は極めて清浄な空間として私達を迎え入れてくれました。
ああ、お弁当を食べ終えた後にイルカ先生の姿が見えなくなりましたが、私はあまり気にしませんでした。イルカ先生はとても芯の強い方ですし、責任感もあります。そんなイルカ先生が黙って私達の前から消えるとなれば理由はひとつしかございません。はたけ上忍です。
はたけ上忍は大変問題のある上忍ですが、イルカ先生を想う気持ちは真に深く強いものだと私は思っております。ただあの方は、愛し方を知らないのです。そして情の深いイルカ先生は、大きな子供のようなはたけ上忍の手を離したくないだけなのです。生徒達に接するイルカ先生を見れば分かります。どれだけ手のかかる生徒を相手にしてもイルカ先生は非常に粘り強く接してその子を正しい道へと導き続け、決してその手を離しません。どれほど辛くとも絶対に呆れたり見放したりせずにその手を握りしめ続け、引っ張り上げようとする強さを持っておられるのです。
イルカ先生は今ははたけ上忍との関係で大変な思いをしていらっしゃるようですが、いずれは誰からも敬愛されるとても素晴らしい教師になると私は思っておりますよ。
ですから私は、シダレ先生からイルカ先生の行方を訊ねられた時もただ「またはたけ上忍が来たのだな」くらいにしか思いませんでした。それにイシノ薬草園で行う授業は例年教師三名で行っておりましたから、引率の教師が一人欠けても慌てることではないと思ったのです。イルカ先生がはたけ上忍に連れ去られても、私、シダレ先生、ケイ先生がおりますから。
私は、余裕を持っておりました。それは油断と言えたかもしれません。
美しい森の中、晴れ渡る空の下、何の問題もない生徒達。
あんなことが起こるなんて、思いもしませんでした。
――それではそれが起こった時のことを、できるだけ詳細にお聞かせ下さい。
まず、午後の薬草摘みが始まって少ししてから幾人かの女生徒がやって来て「葉ノ紀先生が結婚するって本当?」と訊ねてきました。
私は驚きましたね。私の婚約者は外回りの忍ですからあまり会うこともままならないですし、彼は比較的出不精のところがありますから外でデートしたこともほとんどありません。ですから生徒達は結婚話はおろか私に恋人がいたことすら知らなかったはずですし、中には「葉ノ紀先生とイルカ先生は恋人同士なんだ」なんて言う子もいたくらいだったのです。
しかし私も彼も互いの仲をひた隠しにしていたわけではありませんし、生徒がどんな経緯で私の結婚の話を知ったか分かりませんが……恐らく大人達の会話を聞いていたのでしょうが、ともかく一度そんな話が出たならばどっちにしろあとは広まる一方ですから、私はそれを肯定しました。そうよ、もうすぐ結婚するのよ、と。
女の子はその手の話が大好きです。すぐさま大勢の生徒達が集まり、私は根掘り葉掘り色々と訊ねられました。薬草摘みと言っても大事な授業ですから、本来ならばだらだらと個人的な話を聞かせてばかりはおられません。しかし女の子達は私と彼の話に夢中になっており、とてもじゃないけれどそのままでは収拾が付かない様子でしたので、私は簡潔に、それでも偽りなく彼女達の質問に答えていきました。
途中で、「先生、赤ちゃんは?」と訊かれました。
これは少し悩んだのですが、隠してもどうせすぐにバレることです。それに私は自分のお腹にいる子を隠すようなことはしたくありませんでした。まだ結納を済ませたばかりなのに身篭っているなど中には眉を顰める方もいらっしゃるかと思いますが、それでもこの子は私の誇りです。私の大切な赤ちゃんです。私と彼の愛の結晶です。そして私は普段から生徒には嘘を吐かないようにしております。だから、私は「いるよ」と答えました。
赤ちゃん、お腹の中にいるよ、と。
一斉に歓声が上がりました。女の子はみんな私のお腹に触りたがり、傍にいた幾人かの男の子は驚嘆とほんの僅かな怯えを宿した瞳で私のお腹を見ておりましたね。男の子は子を宿した女性のお腹というものに触れるのが怖いのでしょう。
しかしどの子も祝福の言葉をくれました。みんな本当に優しい良い子ばかりなんですよ。
葉ノ紀先生のお腹の中に赤ちゃんがいるって!と、言い回る生徒もおりましたね。それで、噂を聞き付けた子がやって来ては私のお腹に触れたり眺めたりして。おめでとうって言ってくれたりもして。女の子の中には、花を編んで首飾りを作ってくれる子もいたんですよ。
私はとてつもなく幸せでした。大好きな子供達が私と彼の子を祝福してくれるのです。これ以上望んだら罰が当たると思うくらい、私は幸福の真っ只中におりました。
しかし授業中ですから、私はそんなふうにはしゃぐ生徒達を上手く誘導して薬草摘みの作業に戻らせました。私の周りには絶えず生徒が、主に女生徒がおり、赤ちゃんの話をしたり薬草の話をしたり好きな男の子の話をしながら和気藹々と薬草を摘んでいたのです。楽しかったですよ。とても。とても。
そんなふうに時間を過ごしていた時です。私は突然「落とした」と叫ぶ男の子の声を聞きました。もしかしたら「おっことした」だったかもしれません。とにかく男の子の声を聞いたのです。
勿論受け持ちの生徒の声なら誰か特定できるし、ケイ先生のクラスの子でも大抵は分かります。同じ学年ですから、触れあう機会が多いので。しかしそれは何故か誰の声なのか分かりませんでした。男の子だったのは確かなんですけど、特定できるものがなかったのです。今思い返してもやはり分かりません。それは声帯を震わせて発声したものでも鼓膜を震わせて聞いたわけでもなかったのかもしれません。
あえて言うならば、私のお腹の中にいた赤ん坊が聞いた。そんな感じです。
その時私は薬草を摘むために下を向いておりましたが、その声を聞いてふと顔を上げました。子供の声で反射的に顔を上げたのです。誰だろうと周囲を見渡したのですが、よく分かりません。生徒達は真面目に薬草を摘んでいるようだったしその声に方向性がありませんでしたから、空耳だったのかなと思い私はまた地面に視線を落としました。
しかし、その時異変は始まっていたのです。
まず、音でした。わいわいと楽しげにお喋りしていた生徒達の声や軽やかに歌っていた小鳥達の声が、完全に消失していたのです。ピタリとそれは途絶えてしまったのです。一瞬自分の聴覚が異常をきたしたのかと思うほど、それは失われていたのです。
私は再度顔を上げて辺りを見渡しました。不穏な空気に鳥肌が立ち、立ち上がって拳を握りました。
聞こえるのは生徒達がガサガサと藪を突いたり地面を穿る音だけです。しかしそれは明らかに異常でした。身体が硬直するほどの異常さがそこにはありました。
上手く説明できませんが、とにかく生徒達が真剣すぎるのです。
――話しの腰を折って申し訳ない。落としたという声を聞いてから貴方が異変に気付き立ち上がるまで、どれくらいの時間が経過しておりましたか?
十秒も経っておりません。そもそも「落とした」という声を聞いた時、既に生徒や小鳥の「声」は失われていたような気がします。一度目、つまり「落とした」と聞いて顔を上げた時も物音しかしていなかったような気がするのです。
もしかしたら、「落とした」という声とともにそれは始まったのかもしれません。