廊下を歩いていると生徒達の様子を見に来ていたらしい里長と出くわしたが、声を掛けようとしたら丁度伝令らしき上忍が訪れたのでイルカは一礼して二人の脇を通り過ぎた。
昼休みに入ったアカデミーの廊下には、食堂に向かおうとしている教師達や早弁をして昼休みをみっちりと遊ぼうと企んでいる生徒達がいる。昨日からの雨は少し小降りになったもののまだ続いているので、生徒達は廊下を遊び場としているようだ。そこかしこで騒がしい声がする。暫くしたら弁当を食べ終えた者がそこに加わり、もっと騒々しくなるに違いない。
階段を降りて少し歩き、イルカは医務室の前で立ち止まった。その扉を開けると、背を向け座っていた黒髪の少年がぱっと振り返る。
「大丈夫だったか?」
訊ねながら近付き、生徒と目線を合わせるためにイルカはその場でしゃがみこんだ。
大人しく包帯を巻かれているところだった黒髪の少年は、にっこりと笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ。少し火傷しただけです。この程度であれば跡にも残らないでしょう」
少年の手当てをしていた丸顔の女性養護教諭の言葉にほっと胸を撫で下ろし、イルカは彼女に有難うございますと頭を下げた。それから少年の手を、怪我をしてしまった右手ではなく左手をぎゅっと握り締める。
大した怪我じゃないことは分かっていた。それはイルカもすぐに分かったし、少年を医務室に運んだ時もこの丸顔の養護教諭に大した怪我ではないと言われた。その上イルカ先生は教室に戻って良いですよと追い出されたくらいだ。だがイルカは手の怪我ではなく、少年が動揺してしまっていないか気掛かりだったのだ。
事の発端は先程の火遁の授業だ。術を使う授業は基本的に屋外へ出るのだが、今日は雨だったので教室で行われることになった。生徒達はまだチャクラが少なすぎるので火遁と言っても指先で火を灯す程度しかできない。今日はその指先に灯した火を蝋燭に移す試みをする授業だった。しかしその程度でも術は術。イルカは神経を張り巡らせ随時注意を怠らなかった。
授業が終わる頃になるとクラスの半数ほどが蝋燭に火を灯すことを成功させた。生徒達の中には火遁どころかまだ上手くチャクラを練れない者がいるし、コンロトールが下手で指先に灯した火がすぐに消えてしまう者もいる。クラスの半数が成功という結果は、イルカの予想通りだった。
できたと喜ぶ子や、頑張って集中している子、できなくて不貞腐れている子。そんな生徒達を見守っていると、イルカは突然不穏なチャクラを感じた。チャクラの暴走の前兆だ。
ナルトほどではなくとも、生徒の中にはかなり大きなチャクラを秘めている子がいる。そんな子は得てしてチャクラの制御が下手であり、その量が大きすぎるからかチャクラを練ることすらままならないことがほとんどだし、普段の生活を送っている時にはその大きな力は眠っている。だから本人も教師も暴走が起こるまでその子にそんな大きなチャクラがあることに気付かない。そしてその暴走は、稀に連鎖反応を示すことがある。術を使う授業で最も注意せねばならないのは、チャクラの暴走よりも、この連鎖反応なのだ。それによって引き起こされるパニックや、チャクラ量の少ない子が連鎖反応に引き摺られることほど危険なものはない。
イルカはどの子がチャクラの暴走をしかけているのか瞬時に見抜き、その子の元へ駆け寄った。同時に暴走が起きその子の手の平から一気に炎が出た。炎を消すのは簡単だ。その子の手をイルカの手で押さえチャクラを相殺してやれば良い。だからイルカはその子の手の上に自分の手を乗せた。蝋燭の芯を素早く摘まんで火を消すように。
全ては一瞬だった。実際に教室内で突然大きな炎が出たことすら気付かなかった生徒がほとんどだった。しかしそんな中、イルカがその子の手を押さえる前に、その子の手を押さえた者がいたのだ。
それがこの、黒髪の少年だった。
隣にいた友人のチャクラの異変に気付いたのか、それとも大きな炎に気付いて咄嗟に手が出たのかは分からないが、とにかく彼はイルカより先に手を乗せた。イルカは考えたり判断したりするより先に、彼の手を通じて暴走した生徒の炎を消した。何もかもが一瞬で、黒髪の生徒もチャクラが暴走した生徒もキョトンとしていた。
黒髪の少年はイルカのように、暴走したチャクラを強引に抑え相殺する術など知らない。ほんの僅かな時間だったがモロに炎を浴びてしまった彼の手は、火傷を負った。
「怖かったか?」
大人しく包帯を巻かれている黒髪の少年の手を握り締めたままイルカが訊ねると、彼は首を振った。
「でも、吃驚しただろ?」
「少しだけ」
手当を終えると同時にアカデミー主任が医務室に顔を出し、丸顔の女性養護教諭を呼び出した。彼女はイルカに目配せし、イルカは頷く。
彼女が医務室から出て行くと、後のフォローを任されたイルカは少年の身体を抱え上げてベッドに移動する。そこに腰を掛け、自分の足の上に少年を座らせて向き合った。
少年はスキンシップが好きだった。生徒達の中にはこうしたスキンシップを嫌がる子もいるし子供扱いするなと怒る子もいるが、黒髪の少年はイルカとの触れ合いをとても好んだ。精神的に幼いと言うよりも少年は無垢で素直なのだ。
「イルカ先生、怒ってない?」
イルカを見上げ、おずおずと少年が訊ねる。イルカにはその意味がすぐに分かった。思わず手を出した自分のことではない。少年はチャクラを暴走させてしまった隣の席の友人の心配をしているのだ。
「勿論。あれは悪意があって起こったことじゃなし、やろうと思ってやったこともでもない。単なる事故だ」
「大丈夫?」
その質問も自分のことではない。
「大丈夫。あいつに怪我はないよ。吃驚してただけ。お前のことちょっと心配してたから、後で声を掛けてやってくれるか?」
コクリと素直に頷くと、次に少年はもぞもぞと身体を捩ってイルカの手を取った。そして緩く握られていたイルカの手を開かせ、念入りにそこに怪我がないか調べて行く。
「俺も大丈夫。怪我はない」
少年の優しさが嬉しくて、イルカは思わずその小さな身体を強く抱き締めた。少し苦しかっただろうに、少年は嬉しそうに笑う。
イルカはその黒髪に頬を寄せながら、チャクラとその暴走について少し詳しい話をしてやった。詳しく説明してやれば子供はちゃんと理解する。子供の理解力を侮ることなくどんな理由がありそれが起こってしまうのかを教えれば、子供はちゃんと納得し安心するのだ。
先程までイルカはチャクラを暴走させてしまった生徒に対し、同じように説明してやった。自分の身に起こったことに動揺し、友人を怪我させてしまったその子の方をまず優先させ、丁寧にゆっくりと教えてやった。それからそのチャクラ量を誉め、再び暴走が起きないようにコントロールに励もうなと話を結んだ。
「どんな切っ掛けでそれは起こるの?」
黒髪の少年は真剣にイルカの話を聞き、そう訊ねる。
「そうだなぁ。チャクラを練って術を発動させる行為を、蛇口を捻って水を出すという行為に置き換えてみる。お前みたいにチャクラコントロールが上手い子は、蛇口を捻ればすぐに水は出るな? でもコントロールが下手な子は蛇口を捻っても上手く水を出せないんだ。だが、蛇口は捻ってるわけだから水はどんどん溜まっていく。溜まった水はホースの中で行き場を失くし、どんどん膨らむ。切っ掛けって言う切っ掛けはないのかもしれない。ただ大抵集中力が高まった時なんかに膨らんだホースが突然破裂して、ビシャーー!」
ビシャー!と言いながら黒髪を乱暴に掻き混ぜてやると、少年はイルカの腕の中で嬉しそうにはしゃいだ。
「お庭は水浸し。ホースはうねうね。周りにいる子も水浸しになっちゃうね」
「そうだ。だからチャクラコントロールは凄く大切なんだ。水浸しになるだけなら良いけど、やっぱり危険だからな」
「今の話、みんなに教えてあげても良い?」
「良いぞ。是非話してやってくれ」
乱れた黒髪を今度は優しく梳いてイルカがそう答えると、少年は気持ち良さそうに目を細めてイルカの胸に顔を埋めた。
イルカは少年の性格を良く知っている。普段は悪戯三人組としてやんちゃ組の一人と見られているが、実際は誰よりも優しくて驚くほど気の利く子だ。今もチャクラを暴走させた子を案じ、その子がみんなから怖がられないように自分が説明をしてそれを回避させようとしている。
「お前は優しい子だ」
少年を抱き締め、イルカはその黒髪に口付けした。
そしてイルカはこの少年に似た、とても優しい男の子のことを思い出す。
その子も、黒い髪の少年だった。
イルカがまだ教師になったばかりの頃……担当クラスを持っておらず助教諭としてアカデミーに通っていた頃、いつもイルカにくっついていた悪戯っ子達がいた。
腕白でありながらアカデミーで誰よりも将来を期待されていたリーダー格の少年。大きな身体を持ち、体術にメキメキと才能を発揮していた少年。目立った才能は見当たらなかったが、苛烈な情熱を持った少女。それから誰よりも優しくて、最もイルカに懐いていた黒髪の少年。
雨上がりの森を里に向かって走っていると、背後から人の気配を感じた。
カカシは何も気取られぬよう移動スピードを緩めずに、里までの距離と自分の残りのチャクラを計算する。
今日は大した任務ではなかった。とある富豪の蔵の中に一風変わった術を記した巻物があると噂が立ったので、カカシがそれを確認しに行き念の為に写輪眼でコピーしただけのCランク任務だ。巻物は実際にあったし、内容はいかにも「天才肌の変人忍者が暇潰しに人畜無害な術を開発してみた」といったもので、元々忍術が使えない一般人が持っている分には何の問題もないし、敵忍に奪われても何か災いが起こるようなものではなかった。
だが、思ったより量が多かった。それを記した「天才肌の変人忍者」が余程暇人だったのか、それとも人畜無害な術を開発するのをライフワークにしていたのかは知らないが、とにかく量が多かった。中には息を飲むような美しい術式があったので後学のために全てに目を通し写輪眼でコピーしたが、そのせいで思ったより多くのチャクラを消費してしまったのだ。
できれば戦闘は避けたい。
忍犬も全てイルカに付けているので援護はない。相手が多人数の場合非常にやっかいなことになる。
カカシは里までの距離と自分のチャクラ量、装備している忍具などを頭の中で敏速に計算し、何が起こってもなんとかなると踏んだ上で速度を上げた。
途端に何かが飛んで来る。
カンカンと音を立て足元の枝に手裏剣が突き刺さる。チラリと背後を見遣ったが、一瞬黒い影が見えただけで敵の姿をハッキリとは目視できなかった。
チャクラ温存のために瞬身も影分身も使わず、素早く飛んでただ里へ向かう。
しかしふとカカシは足を止めた。
「ねぇ」
声を掛けながらカカシはゆっくりと振り返る。
「アンタ、最近俺を狙ってる人だよねぇ?」
夕暮れに包まれた森の中にカカシの声が響いた。
返事はない。
ビンゴブック級のカカシの命を狙う者は多かった。敵忍は勿論賞金稼ぎの類にも狙われる。殺しても追い払っても面倒な輩は次から次へとやって来る。だが、この中途半端さは間違いなく最近自分を狙っている毒使いの者だとカカシは思った。第一気配の出し方が中途半端で、攻撃も一度手裏剣を投げて来ただけで後はカカシの背後をぴったりと追うばかり。命を狙おうとするなら他にやりようがあるはずなのに、忍術すらも使って来ない。姿も見せない。
「ねぇ。アンタさ、抜け忍?」
里内でも里外でも狙ってくる。だが木ノ葉の忍であるならば相手も自分の任務を請け負っているはずで、こうもしばしば現れるのは不自然だった。木ノ葉に潜入している敵忍であればもっと本格的に命を狙って来ても良い。しかし抜け忍であれば時間に捉われることはないし、好きなように行動できる。
当然のように沈黙に包まれた森の中で、カカシは手で後頭部をガシガシを掻きまわして溜息を吐いた。
それからトンと枝を蹴り、とても気軽に相手に近付いてみる。
すぐさま千本が飛んできた。しかしそれは攻撃ではなく牽制のための千本で、相手は意地でも姿は見せたくないらしく、カカシがその姿を目に映す前に森の奥へと逃げて行った。
カカシは残された千本を手にする。
どこの里の忍でも持っている、極普通の千本。ありふれているもので何の手掛かりにもならない。水に潜らせたように濡れているのは毒が塗ってあるからだろう。
カカシは顔を近づけてその匂いを確かめる。
「これじゃ特定できないねぇ」
そこからは忍なら誰でもピンとくる独特の匂いがした。
それは毒草から作られる毒物の匂いで、その毒物は下忍でも作ることができる。