イルカは今自分が身に付けている装備を素早く思い起こし、ブルが見詰めている森の奥に視線を遣った。敵襲か、それとも獰猛な野生動物か。
「イルカ先生、俺だよ。ごめん、戦場での癖で気配消してた」
暗い森から聞こえてきたその声にイルカは驚き、すぐにほっと胸を撫で下ろす。
声の主はイルカとブルに配慮し、気配を出してゆっくりと近付いてきた。
「お前、今日は一人か?」
「うん」
「どうした?」
黒髪の青年は返事をせず、イルカから少し離れた場所で足を止めてブルに向かって「俺だよ? 鍋パーティーの時に会ったから、覚えてるだろ?」と宥めるように声を掛けた。
ブルは黒髪の青年をじろじろと眺めると漸くその時のことを思い出したのか警戒を解いたが、イルカの傍にべったりと張り付いたままそこに腰を下ろした。それから全身を大きく震わせて身体についた雨を飛ばす。
「どうした? こんなところで」
イルカが再度訊ねると、黒髪の青年は雨に濡れた前髪を手でかき上げて少し困ったような表情を浮かべた。雨の中、何かをしている最中だったのか手が泥で汚れている。それに青年も気付いて顔を顰め、髪に泥が付いていないか目線を上にあげた。
「ちょっと待ってろ。拭いてやるから」
黒髪の青年に近付こうとすると、ピクリとブルの身体が強張ったのを感じた。イルカはそれを不審に思いつつ、それでも躊躇うことなく青年に近付いて手拭で汚れたその手を拭ってやる。青年は全身びしょ濡れで、右手も左手も酷く汚れて爪の中まで泥が詰まっている状態だった。
青年の手を綺麗にしてやるとイルカは腰を曲げてめぼしいハクガユリを幾つか手折り、毒虫に気を付けて持ってきた袋の中に入れる。それから身体を起して青年と向き合い、周囲で最も大きな木を人差し指でひょいと指した。
瞬時に青年がその木の枝に飛び乗る。イルカもそれに続く。勿論ブルも。
「お前、びしょ濡れじゃないか」
少し怒ってそう言うと、青年はイルカの顔を見てキョトンとした。
「イルカ先生も人のこと言えない状態なんだけど?」
笑われて、そう言えばそうだったと気付き決まりが悪くなる。イルカはそれを誤魔化すように顔の傷をポリポリと掻いた。
「あ、まだその癖あるんだ。イルカ先生は照れたりばつが悪くなったりすると、顔の傷を指で掻くよね」
指摘されて慌てて指を引っ込めると、また笑われた。
「イルカ先生は良いなぁ。俺、戦場で辛いことあるといつもイルカ先生のこと思い出してた。アカデミー時代のこと。イルカ先生がいて、葉ノ紀先生がいて、いつもと同じメンバーで遊んでた頃のこと。やんちゃやって馬鹿やって、皆で笑ってた頃のこと。アカデミーの校舎とか教室とか机とかさ、夏の午後の日差し、ツツジの蜜の味、友達が俺を呼ぶ声。そういったものを思い出してた。辛くてさ、辛くて堪らなかった時もそういうこと思い出して頑張ってた。楽しかったことや大好きな先生、大好きな友達のこと考えると冷えた心が温まってくるんだ。俺にはお父さんもお母さんもいなかったけど、みんながいてくれたから。その思い出は誰にも負けないくらい大切で良い思い出だからさ」
枝の上で膝を抱えてゆったりと語る青年は、少し悲しそうな瞳をしていた。戦場という非日常的な場所では忍と雖も著しく精神を蝕まれることがある。そこはそれほど過酷であり、人の死が身近すぎる。この青年がどのような目に遭ったのか、また何を見て何を感じたのかイルカには分からないが、瞳に浮かんだ悲しみは戦場での痛みを雄弁に語っていた。
涙を流すように、青年の黒髪から雫がぽたりと落ちる。
先程青年と同じ黒い髪を持った少年から借りた手拭を取り出し、イルカは涙を拭うように雨に濡れそぼった青年の顔を拭いてやった。腕を拭いてやる。それから髪も拭いてやる。
黙って青年の身体を拭いてやる。
「俺ね、戦場からアイツに何度も手紙を書いた。長い手紙を何度も書いたんだ。でも返事は一度もなかった。里に帰ってからアイツの家にも行ったんだけど、家、無くなってた」
「うん」
「里は変わってた。俺が戦場に行って敵忍を殺しまくってた間に、色々変わってた」
「変わってないものもある。この前そう言っただろ?」
「うん。イルカ先生は変わってない。イルカ先生は俺が大好きだったイルカ先生のままでいてくれてる」
青年の声が震えたので、イルカはその身体を抱き寄せた。強く抱き締めて黒い髪に顔を擦り寄せ、優しくそこに口付ける。青年はもうすぐ上忍となるだろう。実力もあるし経験も積んだ。しかし今、イルカの腕の中にいる彼はイルカの大切な生徒だった。何よりも大切な、愛しい愛しい子供。
冷え切っている青年の身体を抱き締めながら、イルカは黒髪の少年にしてやったように黒髪の青年にもチャクラを送る。お前は一人ではないのだと分からせるために、温もりを与える。冷えた身体を温めてやる。
「そう言えばイルカ先生、恋人いたんだって? しかも写輪眼」
冷たい身体を抱き締めて雨の音を聞いていると、青年がポツリと呟いた。
「う。あの、それはな。えっと」
イルカが口籠ると青年がクスリと笑う。
「俺も色々と顔が広くなってきたんだ。知ったのは今日だけどさ」
イルカ先生がねぇ、あのイルカ先生がよりによって写輪眼とねぇとしきりに繰り返す青年に何と言うかと戸惑っていると、噂を聞き付けたかのように銀髪の上忍の式がやって来た。そして鳥の形を装った式は雨の中一直線にイルカの元を訪れ、よりによって恋人の声で「イルカー、風邪ひいちゃうから早く帰って来なさーい」と鳴いた。
「うわーー! ちょっとなにそれ! 今のなに? ちょっと俺、我慢できない。これは言い触らすしかないでしょ!」
「言うな! 頼むから誰にも言うな! 恥ずかしいから!」
腹を抱えて笑いだした青年にイルカは真っ赤になって頼み込んだが、青年は「無理。絶対言う。我慢できない。面白すぎる」と言ってきかなかった。
イルカは別にカカシとの関係を隠しているわけではない。カカシに至っては自分とイルカの関係を周囲に知ってもらいたくて仕方がないといった感もある。ただ、カカシがベタベタとイルカを甘やかしまくっているのを吹聴されるのは恥ずかしすぎる。
「もう充分温まったよ。チャクラ、有難う。イルカ先生はもう帰った方が良いよ。写輪眼が心配してる」
そう言ってまだ笑い続ける青年の身体はいつの間にかポカポカと温まっていた。
「お前は?」
「俺、もうちょっとここにいる。探しものがあるんだ」
「手伝おうか?」
「イルカー、風邪ひいちゃうから早く帰って来なさーい」
恋人の口調を真似されてイルカは再び真っ赤になった。しかし返す言葉が見当たらず、ゲフンと白々しい空咳をして視線を逸らす。
「じゃ、じゃあ俺帰るから。お前も風邪ひかないように」
「はーい」
イルカは立ち上がり、黒髪の青年の頭をひょいと撫でる。「じゃあな」と挨拶しなるべく濡れないように木の枝の上を渡って帰ろうと足にチャクラを集中させた。
空を切ってイルカが飛ぶ。
「何かを落とした気がするんだ。昔、この辺りに何かとんでもなく大切なものを」
黒髪の青年の小さな呟きは、イルカの耳には届かなかった。
ドアを開けると、身体を斜めにして壁に肩を突き腕を組んでいる不機嫌そうな銀髪の恋人がいた。手はタオルを持ち、じっとりとした目でイルカを見据えている。
イルカはとりあえず「ただいま」と誤魔化すようにヘラっと笑って見せた。
「おそーい」
「すんません」
「迎えに行こうかと思ったよ」
「すんません」
イルカが傘を持っていないことを知っているカカシがやきもきやしながらイルカの帰りを待っていたことは安易に想像できる。大人しく頭を下げてはみたが、イルカは内心カカシに大切にされていることが嬉しかった。
カカシはイルカを部屋にはあげず、タオルで簡単に雫を拭き取ると玄関先でイルカを裸にして肩に担ぎそのまま風呂場に向かった。そして湯を張った湯船の中にゆっくりとイルカを落とし、更には頭から熱いシャワーをイルカにかける。珍しく機嫌は傾いたままだったが、それは怒っていると言うよりも拗ねているような感じだった。
体温には気を付けていたつもりだが、指先がじんじんと痺れるところをみると思った以上に自分の身体が冷えていたのだと気付き、イルカはされるがままにしていた。シャワーを頭から浴びせられているので暫く黙って俯いていると、カカシがイルカの耳に触れてその温かさを確かめてからシャワーを止める。もうもうと立ち込める湯気の中にイルカの好きな入浴剤の匂いが混じっており、それがイルカをゆったりとした気分にさせた。
「イルカから男の匂いがする。子供の匂いじゃない、男の匂い」
しゃがみ込んで浴槽の縁に犬みたいに顎を乗せ、ボソリと低い声でカカシが言う。
カカシが拗ねている原因が分かり、イルカは僅かに微笑んだ。
「偶然教え子に会いまして。身体が冷えてたのでチャクラを送って温めてたんです」
「イルカだってこんなに冷たくなってたのに。このお人好し」
イルカは唇を尖らせて不平がましい態度を取るカカシの髪に手を遣りその銀髪の感触を楽しみながら、愛しい恋人が嫉妬に焼き尽くされていた頃をふと思い返した。イルカの身体に他人の匂いが移っていたら、あの頃のカカシは何をしでかすか分からなかった。嫉妬に狂ってイルカに暴虐の限りを尽くすくらいならまだ良い。だがカカシは他人にまで平気で害を及ぼした。里の掟や倫理ではカカシを縛ることなどできなかった。カカシはイルカへの想い、その激しすぎる恋にのみ縛られていたから。
「一緒にお風呂入らないんですか?」
目の上にある傷を撫でて柔らかく誘うと、カカシは浴槽の縁に顎を乗せたまま窺うようにイルカを見た。「一緒に入りましょうよ」と続けると、カカシの頬が緩む。
人はここまで変わるものなんだな。
イルカはそんなことを思いながらカカシの服の裾を摘まみ、早く脱げと急かすようにそれを引っ張った。
それから二人で風呂に入って髪や身体を洗い合っていると、カカシの機嫌などコロリと直った。身体を縮めて狭い湯船に一緒に浸かって、イルカのお気に入りの歌を二人で口ずさんでみたりもした。イルカが「この心には時間も距離もないんだよ」と歌えば、カカシが「深海の底みたいに、月の向こう側みたいに」と続ける。二人で一緒にサビの部分を歌って、歌い終わると真心の籠った口付けを交わす。とても幸福に満ち足りた入浴になった。
風呂から出ると夕食は簡単に済まそうという話になり、昨日カカシが買って来てくれた土産がまだ残っていたのでそれをつまみにしてビールを飲み、その後うどんを食べた。
その後は毎日の日課である報告会。待機だったカカシが「うんざりするほど何もなかった」と言い聞き役に回ったので、イルカは今日あったことを事細かに報告する。今日の授業の様子、昼に何を食べたのか、アカデミーが終わった後にどこに向かって何をしていたのか。カカシが何故かやけに悪戯三人組の「鼻血まみれの刑」について聞きたがったので、そこは特に詳しく報告した。
報告会が終わると明日の準備をして二人で歯を磨き、ベッドに潜り込む。
ふわふわと柔らかくそれでいて至極美しい銀色の髪をイルカが緩やかに撫でていると、カカシは気持ち良さそうにうっとりと目を細める。撫で続けていると均整の取れたその身体から力が抜けていき、カカシは至福の海をのんびりと浮遊し始めた。
イルカはそんな状態のカカシを愛しそうに見詰め、静かに話し掛ける。
「カカシさん、命を狙われてますね?」
暖かな眠りの間近にいたカカシの瞳に、上忍としての理性がひらりと舞い戻ったのが見えた。
「んー?」
わざとのんびりした声を出すカカシの額に、イルカは自分の額をコツンと合わせる。
「しらばっくれても駄目ですよ。貴方がブルを置いて行くと言った時からおかしいと思ってたんです。悪い病気が再発したかと思ったけど、そんな様子全然ないし。第一もう貴方が里に戻って来ているのに何故俺の傍にブルがいるんです?」
「んー。多分、ブルの趣味?」
「馬鹿おっしゃい」
一度額を離し、もう一度、今度は少し強めにコツンと額を合わせる。
「ブルが出なくちゃならないようなこと、今日あったの?」
「ありません。カカシさん、ちゃんと言って下さいよ。心配をかけまいとする貴方の気持ちは嬉しいですが、俺は写輪眼のカカシの恋人です。貴方が狙われるなら必然的に俺も狙われる。それは当然だし、仕方のないことだし、覚悟だって疾うにできてる。ですから、俺に心配をかけることではなく、俺に狙われているという意識がなく生活を送らせることのリスクを重視して下さい。俺は中忍でそんなに強くないですから狙われていると自覚させてもさせなくても変わらないと思うかもしれませんが、俺は万が一の事態になった時に無駄に動揺したくありません。と言うかアンタ上忍でしょう? こんな基本的なことグダグダ言わせない」
「イルカの説教ターイム」
「はいそこ、ふざけないでちゃんと答えなさい。カカシさん、狙われてるんでしょ?」
イルカに鼻先を甘く噛まれ、カカシは苦く笑う。そして上忍として、イルカの恋人として素早く思考を巡らせた。
心配をかけたくない想いもあったが、自分のせいでイルカが狙われているという負い目もあった。しかし自分の命を狙う者が賞金稼ぎの類ならまだ楽だったろうが、相手はそんな単純なものではなさそうだし、そもそもパックンでさえその姿を目撃できていない。何がしたいのかもまだよく分からない。長期戦になる恐れもある。
そうなると。
「毒を使ってくるよ」
カカシはそれを返答とした。