降り出した雨に構うことなく森の中を進んできたが、そろそろ限界だなと感じた。
雨宿りに最適な大きな木の下でイルカは足を止める。
空は雨雲に覆われ日の光を遮っていた。晴れていればまだ美しい夕暮れをじっくりと拝める時間帯だが、今日はすぐに夜がやって来るだろう。それにこれ以上は大人の許可なく立ち入ってはいけない地域になる。
「出て来い。先生は分かってるんだぞー」
振り向いて腰に手を当てそう言うと、いつもの三人組が繁みの中からひょっこりと顔を覗かせた。
「傘、持ってないのか?」
「イルカ先生だって持ってないじゃん」
「俺は良いの。でもお前等は駄目。風邪引くじゃないか」
手拭を取り出して手招きすると、三人は躊躇うことなく走り寄って来た。きっといつものように悪戯を仕掛けようと待ち伏せしていたが、アカデミーを出たイルカがそのまま森の方へ向かったので急遽尾行ごっこにでも変更したのだろう。
イルカはしゃがみ込んで濡れた三人の髪や顔を拭いてやる。もう少し早く声を掛けてやれば良かったものの、生徒の気配の消し方が以前よりもずっと上手くなっていることに感心し、思わずこんな所まで尾行ごっこに付き合ってしまった。
「寒くないか?」
優しく声をかけると三人は元気に「平気」と返事をして、なんだかんだとイルカに話し掛けた。しかしイルカの忍服の裾をぎゅっと握って見上げてくる三人の中で最も大人しい黒髪の男の子だけは、少しだけ寒そうに見えた。イルカはその子を抱えて立ち上がり、背中を摩りながらゆっくりとチャクラを流し込み体温を上げてやる。イルカに抱えられた男の子は嬉しそうに、それでもちょっと遠慮がちにイルカの身体にしがみつく。それからポーチから自分の手拭を出して、イルカの顔についた雨をとても丁寧に拭った。
「有難う。お前は本当に優しい子だな」
その愛しさに思わず頬擦りしたくなる衝動を抑えて他の二人に聞こえないようにこっそり耳打ちすると、黒髪の男の子は照れて顔を赤くさせ、またイルカの身体にしがみつく。
「イルカ先生、聞いてるの?」
イルカのベストを握ってクイクイと引っ張りむっと頬を膨らませた女の子が、抱えられている男の子を羨ましげに見上げてから「えい!」っとイルカの背中に飛び乗ってきた。
「聞いてるぞー。で、変化はどうなったんだ?」
今日こそ鼻血まみれの刑をするつもりだったんだーとあっさりと計画を暴露したリーダー格の男の子に訊ねると、その子は胸を張ってニカリと笑い、イルカにくっついている友人の二人に目で合図を送ってから印を結んだ。すぐにボンと煙が立ち込め、美しい顔の女性の全裸がイルカの目に飛び込んでくる。そしてリーダーの変化と同時にイルカにくっついている残りの二人も変化した。後ろの女の子はよく分からないが、イルカが抱えながらチャクラを送っている黒髪の子は変化には成功しているが前回と同じく服は着ている。どうやら前回から今日に至るまで若い女性の全裸を目にする機会は訪れなかったらしい。
「どーだ!」
誇らしげに両手を広げている目の前の男の子は確かに上手く変化していた。前回とは大違いで、それは喜ばしいことだ。しかし残念なことに、顔は妙齢の女性だったが肉体は中年の女性だった。
理由は想像に容易い。その子が自分の母親の全裸をモデルとしているからだ。しかもきっと彼はそれに気付いておらず、自分は若くてスタイルの良い女性に変化できていると思い込んでいる。変化は意外と集中力が必要で、変化したい姿をきっちりと頭に思い浮かべなくてはならない。しかし彼はそこで見慣れている母親の全裸、恐らく風呂場で見慣れている母親の全裸をチラリと思い出してしまった。それがこの結果だ。
イルカは色々な意味で困り果て、視線をそっとずらして咳払いをした。
「イルカせんせ、照れてる! もう少しで鼻血まるけの刑だ!」
勘違いしてしきりにイルカの視界に自分を映そうとするリーダー格の子もやっかいだが、イルカの腰に足を絡ませ背中にしがみついている女の子の方もやっかいだった。彼女はきっと完璧に変化している。背中に当たる胸の感触や絡められた腕や足の肌の張りからもそれが窺える。ただし、キャッキャと歓声をあげてイルカにしがみつくのに夢中で、その姿を視界に映そうとしないのがせめてもの救いだが。
「せんせ、見てよ!」
痺れを切らして地団太を踏むリーダー格の男の子が視界の端にチラリと映った。イルカは頭の中で何度も彼の母親にペコペコと頭を下げ、「これは事故です」とか「お母さんの全裸が鼻血に値しないとか、そういった意味では決してなく」とか、余計な言い訳までするはめになった。
それから腕を伸ばしてその男の子の身体に触れ、チャクラの流れを一気に乱して変化を強制的に解いた。続いて腰に絡まっている女の子の足に触れ、同じように強制的に変化を解く。大人しくイルカに抱えられている黒髪の子はその様子を見てにっこりと微笑み、自分からすんなりと変化を解いた。
「はい、終わり。鼻血まみれの刑失敗だったな。そもそも俺がいつ刑に処されるようなことをしたか知らんがな」
リーダー格の子の頭をポンポンと撫でてそう言うと、女の子が「つまんないなー」と不満気につぶやきながら背中から降りる。
「もうすぐ暗くなるから、お前達はもう帰れ。寄り道厳禁。真っ直ぐに家に帰って、そのまま風呂に直行。分かったな?」
真剣な声音のイルカに子供達は深く頷く。
子供は大人の声音や表情にとても敏感だ。それにふざけて良い時と悪い時が分からないようでは忍になどなれやしない。
「イルカ先生は?」
「俺はこの奥に用事があるんだ。明日の授業で使うハクガユリを採って来るんだよ」
「手伝っちゃダメ?」
甘えた声を出す女の子に、イルカは「駄目」と即答してからその髪を優しく撫でた。それから指を滑らせその頬をツンツンと突いてやる。女の子は擽ったそうに首を竦めた。
「イルカ先生、これ」
黒髪の男の子はそう言って、自分の手拭をイルカに差し出した。イルカのものは子供達を拭いた時にたっぷりと水分を含んでしまったので、とても有難かった。本当に気が利くし、優しい子だとイルカは思う。だから素直に有難うと受け取って、ヨシヨシとその黒髪を撫でてやった。続いて「俺も撫でて」とは思っても言えない性格のリーダー格の男の子の髪も撫でてやる。
それを終えるとイルカは「絶対に寄り道厳禁。帰ったら風呂直行」ともう一度繰り返し、子供達を帰した。
子供達の背中を見送ると、イルカは空を見上げる。予想以上に早く降り出した雨はまだまだ止みそうにないので、今日は上忍待機所に詰めているはずの優しい恋人は今頃イルカのために傘を持って校門に向かっているだろう。待たせると悪いので、イルカは式を飛ばして「先に帰って風呂を沸かしておいてください」と頼んでおいた。
それからふうと息を吐き、森の奥へと向かう。目指すはイシノ薬草園。
明日行う予定である毒草の授業の準備をしている時、資料集のハクガユリが枯れた状態で掲載されているのに気付いた。確かにハクガユリは芽の状態と花を付けている状態は全くの無害で、枯れてから毒を持つ少々変わった植物だ。だが枯れてからのハクガユリはあまりにもみすぼらしく、美しい花をつけている状態と資料集に掲載されているその枯れた植物が同一のものとはなかなか思えない。毒を持っているその枯れた状態を知っていれば良いわけなのだが、イルカは花をつけた状態を生徒達に見せたいと思った。こんなに綺麗だし今は無害だけど、枯れたらこの写真みたいになって猛毒を持つんだよと、説明してあげたかった。それに花をつけているハクガユリには毒虫が付く。それも教えておきたかった。
ハクガユリは丁度この時期花を咲かせる。生息している場所もよく知っている。イルカは帰宅の準備を整えると恋人と待ち合わせをしている校門には向かわずに、そのままイシノ薬草園へと駆けて行った。その後子供達の気配、尾行ごっこに気付いたわけだ。
雨に濡れながら走り続けると、少し開いた場所に出た。イシノ薬草園には先週薬草摘みの授業で訪れたばかりであり、その時ハクガユリの花も見ている。イルカは記憶を辿りながら足を緩め、暗くなり始めた森の中を見渡した。
独特の形をした白い花が群生しているのを見つける。
近付いて毒虫が付いている花を選んでいると、何の前触れもなく唐突にブルが現れた。
「え? なんだお前」
どうしたんだと続けようとしたが、ブルの様子を見て口を閉じる。
ブルは森の奥に向かって静かに威嚇をしていた。牙を剥き唸り声を上げていたわけではない。だが四肢に力を込め、どんな状況に陥ろうが即座に対応できるようにと身体を低くし張りつめた空気を纏わせている。