第九章 六月二日

「当たった!」
「うん、当たった。偉いぞ」
 ツクシが顔を輝かせて見上げてくるので、イルカは「ちゃんと見てたからな」と言い足してその頭に手を置いた。ツクシの放った手裏剣は藁でできた人型の的に見事突き刺さっている。
「もう一回! もう一回やるから、先生見てて!」
 ツクシはホルスターから手裏剣を取り出し、クルクルとそれを回すと人差し指と中指を使ってそれを挟み狙いを定めた。肘を曲げ、一旦身体の動きを止めて的に意識を集中させてからそれを放つ。
 手裏剣は弧を描くことなく真っ直ぐに飛んだが、残念ながら的から少し外れた。
「あれ?」
「大丈夫。今は肩と肘の力は抜けてたけど、投げる時に手首にちょっとだけ余計な力が入ったんだ。もっと手裏剣を柔らかく持ってみると良いぞ?」
 イルカの助言にツクシは頷き、もう一度手裏剣に手を伸ばす。集中するためか、手裏剣を指に引っ掛けたままクルクルと回し続けて的を凝視し、自分が納得すると指に挟んで今度は動きを止めずにそれを放った。
 ザクリと音を立てて、手裏剣が藁に突き刺さる。
「よーし! ツクシ、凄いじゃないか!」
 イルカが自分のことのように喜びツクシを誉めるとツクシははにかんだように笑みを浮かべ、薄らと頬を染めて手裏剣に視線を遣った。その表情からは忍具を使う授業では必ず垣間見えた緊張と怯えの色が消えている。
 何があったのかは分からない。休日に猛特訓したのかもしれない。とにかくツクシの身体からは手裏剣に対する恐れが消え、恐れからどうしても若干歪になりがちだったフォームも美しいものに修正されていた。以前は手裏剣を指に引っ掛け回すことすらできなかったというのに。指を切るのではないか、どこかに飛んで行ってしまうのではないかと、心配して怖々とそれを持つことしかできなかったというのに。
 また的に当たった。ツクシは控えめに小さくガッツポーズを取る。
「どんな魔法を使ったんだ?」
 腰を屈めてツクシの頭に顔を寄せ、少しからかうような声で小さくそう訊ねる。
「新しい友達ができて、その子に忍具の使い方を教えてもらってるんだ。二人でね、こっそり訓練してるの」
 くすぐったそうに首を竦め、同じく小さな声でツクシは答える。
「新しい友達かぁ。良かったな。アカデミーの子か?」
「分かんない。アカデミーでは見ない顔だけど。でも良い奴なんだ。色んなこと教えてくれるよ」
「ん、特訓は偉い。怪我がないよう注意するんだぞ?」
「分かってる」
 二人で内緒話のように声を潜め合ってコソコソ喋っていると、イルカが他の生徒に呼ばれる。腰を伸ばしてツクシの頭にもう一度手を置き呼ばれた方に歩き出すと、後方の林の中から不自然な物音と人の気配がした。
 神経をピンと張って素早く振り向くと、木の枝の上に腰掛けている銀髪の男がいた。
 目が合うと男は口布を下げてただいまーと嬉しそうに唇を動かす。それからイルカに向けて右手を挙げてヒラヒラと振ってくる。不自然な物音と気配は、勿論男がイルカに自分の存在を知らせるためにわざと行ったことだった。
 おかえりなさいと、イルカも唇を動かした。昨日も帰って来なかった恋人の姿を見ると、身体の隅々までが安堵した。本当はすぐにでも駆け寄って怪我の有無やチャクラの状態を確かめたいのだが、恋人は木の枝に腰掛け呑気にイルカの授業を見ているので大きな怪我はないのだろうし、チャクラ切れの心配はなさそうだ。イルカがほっと息を吐くと、銀髪の恋人の隣にブルが降り立つ。
 精々ブルから色んなことを報告して貰えば良い。貴方がいない間に俺が他人を部屋に上げたことなんかも。
 イルカは意地の悪い笑みを浮かべると踵を返し、自分を呼んだ生徒の元に向かった。

 今日は受付あるんです。お腹減ってたら先に喰っててくださいね。
 漸く暗部の尻拭いを終えたカカシが大人しくアカデミー終業まで待ち、仕事を終えたイルカにいそいそと近付くと愛しい恋人はにべもなくそう告げた。我が儘を言うでもなく、「受付あるなら仕方ないね」と言ってイルカを見送ってみたものの、カカシはつまらない。帰ったらあれやこれやとイルカの身体を弄ぼうとそればかりを考えていたし、話したいこともある。任務に出る寸前にイルカの機嫌を損ねたので土産も買って来た。今日はこれでイルカの機嫌を直し、帰還が少し遅れた詫びをしてイルカとベッドでたっぷり楽しみ、それから話を聞いてもらおう。そんな楽しい予定を勝手に立てていた。だから「受付」と言われた時は肩透かしを食らった気分だった。
 しかも受付業務は11時までだと言う。遅い。つまらないにもほどがある。
 カカシは木の枝に腰を下ろし受付に座るイルカをぼんやりと眺めながら、大きな欠伸をした。疲れているが、恐らく明日は休日か待機になるだろう。先に帰って一人で飯を食べて寝てしまうよりも、少し我慢してイルカと一緒に飯を食べたい。
 受付には闇に紛れて行う任務を貰いに来ている忍と、昼間の任務を終わらせて報告書を出しに来ている忍でごったがえしていた。これから任務に行く者達の表情は引き締まり良い緊張感に包まれているのに対し、今日の任務を終えた者達の表情は開放感に溢れている。開け放たれた受付の窓からは、「これからどっか飲みに行こうぜ」と誰かを誘う彼等の声がよく届く。そしてカカシのいる木の下では、もう日も落ちようとしているのに三人のアカデミー生らしき子供が仲良く遊んでいた。
 一日が終わり支度をしようとしている割には、ここはなかなか騒々しい。
「なんかあった?」
 その気配に気付きカカシが声をかけると、パックンが音もなく現れる。
 普段から難しい顔をしているパックンの眉間にいつもより深く皺が刻まれているのを見て、カカシはふーっと大きく息を吐きだした。それから手で後頭部をガシガシと掻きまわす。
「手練じゃな。ワシの存在に気付いておるのかその姿すら現さん」
「全部報告して」
 カカシが主命にパックンは深く頷き、事細やかにイルカの周りで起こったことを告げはじめた。
 アカデミーの授業を眺めながらカカシはブルからある程度のことは聞いている。昨日の昼食に毒が混じっており、ブルがそれに気付いて甘えるふりをして皿を引っくり返したことや、その後職員室のお茶に微量な睡眠薬が盛られていたことなど。幸いイルカはそれに手を出さなかったので実害はなかったが、イルカが冷めてしまったそのお茶を捨て淹れ直している時にブルは念のためとシンクの中に顔を突っ込み舐めてみて、冷や汗をかいたらしい。微量な睡眠薬とは言え、イルカに万一のことがあればただでは済まされない。
 パックンはそれらを全て把握していた。そしてその他に、イルカのアパートの郵便受けに毒針が仕込まれていたことをカカシに告げた。丁度死角になる場所、手を入れ指が触れる場所に小さな毒針が貼り付けてあったそうだ。その毒の刺激臭に警戒していたから気付いたものの、忍犬の鼻を持ってしても気を抜いていれば分からないくらいの匂いしかなかったそうだ。恐らくドアノブにあったものと同じだろうとカカシは憶測する。あれは無味無臭の毒ではないのでこうして発覚することがあり暗殺には向かないのだが、忍であるならば手に入りやすいものであり、希少性のない分犯人を探しにくい。
 事態を重く見たパックンは本格的に警戒に当たることになった。イルカにはブルも付いているので動きやすく敵の尻尾を掴もうと随分動いたらしいが、パックンの嗅覚や忍犬としての優秀さを以てしても敵の姿さえ見ることができなかったと言う。
「毒は二種類とも致死量に達しておらず、無臭のものも使われなかった。カカシ、これをどう見る?」
「当たり前でしょ。敵の狙いはあくまで俺。イルカは俺をおびき出し盾にするための道具だから殺したら意味がないもの。無臭の毒を使わなかったのは、イルカを見くびっているか、もしくはブルを見くびっていたか。パックンの存在は敵に知られてないよね?」
「恐らく」
「じゃあブルが侮られてたのかな」
 開け放たれた窓からカカシ達の会話を聞いていたのだろう。イルカの傍に寝そべっていたブルの耳が神経質そうにピクピクと動いていた。
「ともかく、俺が敵を始末するまで警戒を続けて。相手はかなり慎重みたいだけど、どうも何を考えているのかイマイチよく分かんないんだよね。俺にもイルカにもえらく中途半端に手を出すしさ。プレッシャーをかけ続けてじわじわと神経戦に持ち込もうとしてんのかもしれないけど、それにしてもあまりに中途半端だ」
 パックンの頭に手を置いてそう言うと、カカシは受付に向かって少し大きめな声を出した。
「ブルもだよ。イルカのこと頼むよ」
 ブルは吠えることも頷くこともしない代わりに、ブンと大きく尻尾を振ってそれを返答とした。
 パックンが姿を消すと、カカシは足を組んで膝頭を指で叩きながら思考を纏める。イルカを本気で拉致したいなら、もう少しやりようというものがあるはずだった。体術を苦手としブルを警戒しているのかもしれないが、何故かブルの鼻は見くびっている。嗅覚の弱い忍犬などいやしないのに。それからパックンがここまで動いているのにその姿すら未だ見えないというのも納得できない。敵も色々動いているのに、何故パックンが察知できないのか。
 カカシの前にも姿を見せない。カカシに気配を晒して自分の存在を主張し、イルカに毒を盛りその意図を知らせてくるのに、何もかもが半端だ。これだけ半端な行動を起こされると敵は大した忍ではないような気もしてくるが、それならパックンが尻尾を掴むはず。
 分からない。敵に殺意がないような気までしてくる。
 カカシが膝頭を指先で叩きながらあれこれと頭を働かせていると、下方から忍び笑いが聞こえた。視線を向けると三人の女が固まり、互いの姿を見遣りながら楽しそうにクスクスと笑っている。
 カカシは一瞬でそれが変化だと見抜いた。先程まで木の下で仲良く遊んでいた子供達が揃って若い女に変化をし、その出来栄えに喜んでいる。クスクスと笑いながら頭を寄せ合い、「これで明日はイルカ先生に鼻血を出させるぞ」と算段している。
 例の悪戯三人組だな、とカカシは思った。イルカの話によく出てくる、何かとイルカに悪戯をしかける三人組。微笑ましくて思わず笑みが漏れた。そして、子供達の楽しみを奪いたくなくて何も見ず何も聞かなかったことにした。イルカが明日子供達の悪戯で鼻血を出したら何てカカシに報告するのだろうと思うと、少し楽しみになったくらいだ。
 三人はもう一度互いの変化した姿を見て楽しそうに笑うと漸く日が暮れていることに気付き、大慌てで変化を解いて走って帰って行った。最後まで愉快な笑い声を出しながら。
 暫くすると、三人と入れ替わるように一人の黒髪の少年が現れた。少年は一人でとぼとぼと歩いて来て、カカシのいる木の根元で立ち止まる。それから何をするでもなく、ぼんやりと受付の窓の方を見上げてそこに立ち尽くしていた。
 アカデミーの生徒だろうか。年齢的にはそれくらいだ。それに一般人の子供ならばこんな時間にこんな場所には来ない。別に避けられているわけではないが、受付のある建物は火影邸にも近く一般の子供達は無暗に近付くことはないのだ。それに比べてアカデミー生は火影邸に臆することもないし、両親が忍であれば門限など無いに等しい。母親も父親も同時に任務が入ると、暇だからと遅い時間にフラフラと出歩く子は結構いるのだ。しかしそういう子も大人に早く帰れよと促され、結局すごすごと家に戻るのがほとんどなのだが。
 黒髪の少年は長いこと受付の窓を見上げていた。窓から漏れる明りを眺め楽しげな大人達の声に耳を澄ませていた。
 そして、不意に視線をずらしてカカシを見る。
 気配を消していたので、カカシはまさか自分の存在がばれているとは思っていなかった。しかもこんな小さな子供に気付かれるとは驚きだった。余程勘の鋭い子なのだろうか。それとも何か特殊な能力でも持っているのだろうか。どちらにしろやはり一般人ではあるまい。
 黒髪の少年は無言でカカシを見上げていた。その髪は夜に溶けるような漆黒で、その瞳もまた夜の海のように黒い。
 不思議な瞳だった。
 顔や姿には幼さが残るのに、瞳には子供特有の無邪気さがない。それどころかカカシを見詰めるその目にはどんな感情もなく、何もかもが失われた後の荒野を想像させる。
 黒髪の少年はカカシと見詰め合った後、また不意に視線をずらしてとぼとぼと歩きだした。
 カカシはその後ろ姿を見送りながら、僅かに目を細めただけだった。




back novel next