待ちに待った援軍が到着して明日には後方支援に戻れると判明した日、夜襲があった。飛び交う怒号やクナイ、手裏剣、そして忍術の中でイルカは懸命に戦った。しかし起爆札を使われ仲間が負傷し、その仲間を庇いつつ戦っていると撤退が遅れイルカは取り残された。周囲を敵に囲まれても背中に仲間を隠すように立ち、大きな術を使って時間を稼いでいたが次第にチャクラも切れて来た。敵はとてもじゃないが一人でどうこうできる人数ではなく、イルカが万事休すかと諦めかけた時。
 銀髪の暗部がイルカの前に降り立った。
 暗部と自分はここまでレベルが違うものなのか。もしくはこの男だけがこうもケタ外れに強いのか。見たこともない圧倒的な強さで、銀髪の暗部は敵を殲滅した。たった一人で。
 血に濡れた暗部が振り返り、「撤退しろ」と叫んだ。呆然と銀髪の暗部の戦いぶりを眺めていただけだったイルカはその声で我に返り、負傷した仲間を背負って駆けだした。そしてそのまま、後方支援の本拠地である野営地に戻った。
 里から送られる物資を前線へ送る補給の確保とその輸送、補給線の確保、負傷者の手当て、設営。後方支援は前線とは違う忙しさがあったが、イルカはよく働いた。前線がいかに厳しいのか身を持って知っている。後方支援のミスは前線の者の命にかかわる。里の仲間を失いたくない。途中で反吐が出るほど嫌いになった前線の上忍達にも、最終的に優しさを感じることが多々あった。不遜を働いたイルカに彼等は何の罰も与えなかったし、格下の自分の進言を真摯に受け止めてくれた。イルカはその度量に感謝し、密かに尊敬の念を抱いていた。
 だから必死に自分がすべきことをした。一人でも多くの者が負傷せずに無事里に戻れるように。
 ある日補給物資を前線に届けに行くと、銀髪の暗部に呼び止められた。その男は木の根元に腰を下ろし、不機嫌な声でイルカに声をかけてきた。呼びとめて来たのに顔を背けイルカを見ない。
 助けてもらったお礼をしようとイルカは素直に男に近付いた。そして、頭を下げ感謝の言葉を口にしようとした時、男は言った。
「アンタ、俺に助けられたよね」
 意図的に感情を殺したような、妙な言い方だった。
「俺がいなかったら、アンタ死んでたよね」
 事実の念押しに、イルカは困惑する。嫌な感じがした。
「アンタの命は俺が救ったんだから、アンタ、俺のものだよね」
 絶句した。馬鹿馬鹿しいにもほどがあった。助けられた者が助けてくれた者に恩を感じるのは当然であっても、わざわざ恩を着せる者などいやしない。そんな忍いやしない。しかも「俺のもの」ときた。絶句せざるを得ない。
 木ノ葉の忍として、人として、恥ずかしくないのか。それとも戦場で助けた者を全て自分の奴隷にするほど低俗な人間なのか。
 イルカが怒りに身を震わせ男を睨むと、男はイルカから目を逸らせたまま不貞腐れたような態度で立ちあがり、のろのろと森の中へ消えて行った。
 その後、ことあるごとに銀髪の暗部はイルカの前に姿を現した。
 負傷者を運んだついで。物資を運んだついで。伝達のついで。男は兵站地に訪れる度にイルカの前に現れた。ただ何も言わず、イルカの顔を見て帰って行く時もある。不機嫌そうに話し掛けてくる時もある。時には自分の怪我の手当てをイルカにさせる。「手当」と、男は不機嫌に言い負傷した部分をイルカに見せて促す。
 イルカは話し掛けられれば適当に返事をし、怪我の手当てを求められればそれに応じた。戦地では不足しがちな薬草の類を男が持って来れば、それなりに礼を言うこともあった。
 だが、それだけだった。
 負傷者の数が減って来たと感じるようになった頃、敵方の国と火の国が講和会議を開き一時休戦となり、争いはそのまま収束に向かった。そして出資者である国の「休戦」の達しが来ると、敵忍を含め戦場の忍達は呆気ない幕切れに驚くこともなく、極めて淡々と撤退作業を開始した。勝利の歓声も敗北の屈辱も平和回復の祈りも何もないまま、本当に淡々と。
 その時初めてイルカは、前線で戦っていた時よりもずっとリアルに戦争と呼ばれるものを理解した。それから戦争の道具である忍の立場を真に理解した。
 戦地を後にする日、銀髪の暗部がイルカの元に訪れた。日が昇り気温が上がり始めた頃だった。
 岩に腰掛け脚絆を巻き直していると、男が横柄な態度で近付いてくる。またこの人か、とイルカは思った。
「アンタ、次はどこ行くの?」
 イルカから顔を逸らし、男が不機嫌に訊ねる。どこ、と言われてもイルカには何のことか分からない。
「次の戦地、どこ」
「分かりません。戦場任務かどうかも分かりませんし」
 そっけなく答えると、男は黙る。しかし他に言いようがなかった。里に戻らないと次の任務は分からない。それは皆同じだと思っていたので、男の質問自体が間違っていると思えた。
 男が黙りこくっているので、イルカは脚絆を巻く作業を再開させた。右足が終わると次は左足。巻き終えると念のために忍具の確認をし、最終チェックに入る。それも終えると脇に置いていた背嚢に手を伸ばし、手を潜らせて背負った。丁度集合時間になる。
 銀髪の暗部に一礼して背を向けると、何か呟かれた。思わず振り向くと、男はいつの間にか暗部面を外しており、真っ直ぐにイルカを見据えていた。
 その蒼い瞳には強い怒りがあった。もどかしさと焦りと苛立ちと、激しい痛みがあった。まるで小さな子供のようにそれら全てを隠すことなく瞳の上に浮かばせて、男はイルカを見詰めていた。
「どうしたらアンタは俺を意識してくれるの?」
 男の声は震えていた。握られた拳も、足も腕も唇も震えていた。
 イルカを真っ直ぐに見据えた瞳がゆらゆらと揺れている。
 泣きだしそうな子供のように。
 男は唇を噛んで印を結び、瞬身でどこかに消え去った。
 イルカは、男の心を、魂を投げつけられたかと思った。その瞳に浮かぶ感情はあまりに強く、あまりに痛々しかった。どんなものにも守られていない剥き出しの魂をそこに感じた。触れるだけで傷付くような、剥き出しの魂を。
 里に戻ったイルカを待っていたのは、次の戦場任務だった。イルカはそこで銀髪の暗部を探したが、どこにもその姿を見つけることができなかった。その戦場は圧倒的に木ノ葉有利でことが進み、あっという間に敵を殲滅に追い込んで終結した。その後里に戻ることなくそのまま別の戦地へ飛ばされたが、そこでもイルカが所属する部隊は短期間で勝利して終わった。イルカは常に銀髪の暗部を探していたが、そこでも見つけることができなかった。
 里に戻るとイルカは高ランクの単独任務を無事に遂行し、その後アカデミー教師になるための志願書を提出した。前々からの希望であったし、試験を受けるために必要なレベルの任務と回数を戦場で既に果たしていた。アカデミー教師になるには教員採用試験を受け、それに合格しても上層部の厳しい審査がある。里を担う子供達を教育し導く教師は厳選された者のみが就けるのだ。
 イルカは里から依頼される任務をこなしながら、少しでも時間があれば試験勉強に励んだ。
 時折銀髪の暗部のことを思い出す。あの剥き出しの魂を。あの激しい感情を。あの言葉の意味を。
 男に拷問のような性処理行為をされた時、イルカの中には苦痛と怒りと嫌悪感しかなかった。「命を助けたから俺のもの」だと言われた時は、怒りの他に軽蔑が生まれた。しかしその後は男にどんな感情も向けなかった。男はイルカにとって最も興味のない、感情を向ける価値のないモノへと成り下がっていたからだった。
 思えば、男は最初からイルカに意識してもらいたがっていた。イルカばかりに自分の世話をさせ、誰よりも雑用を頼んできた。ボソボソと小さな声で話し掛けられたこともある。イルカが後方支援に戻ってからも、男は何とかイルカに意識してもらおうと必死だった。負傷者を運んできた時、イルカの前に突っ立っていた男。あれは労いの言葉が欲しかったのではないだろうか。不機嫌そうに話し掛けてきた時も、きっと構って欲しかっただけ。手当てをせがんできたのは少しでも意識して欲しかったから。少しでも、ほんの少しでも心配して欲しかったから。薬草を取って来る暗部なんていない。上忍なんていない。あれは、誉めて欲しかったのだ。有難うと言われたかったのだ。自分を感情を向ける価値もないモノと決め付けたイルカに、違うんだ、本当は違うんだ、知って、分かって、気付いてと必死に言い募っていたのだ。
 イルカは男のことを思い出す度に、男が最後に見せたあの魂に惹かれる。子供のような裸の感情に惹かれる。全てを曝け出したあの蒼い瞳に惹かれる。忘れることなどできない。一生あの魂に惹かれ続けるだろうと予感するほど。
 それが恋だと悟ったのは、男と離れ半年ほど経ってからだった。
 イルカは銀髪の暗部の訪問を待った。中忍の自分がいくら探しても暗部を探し当てることなどできないし、あの激しい感情の持ち主は必ず自分の元に現れるはずだと確信していた。日々の任務をこなし、試験勉強に励み、ひたすら男を待ち続けた。
 そしてイルカの待ち人である銀髪の暗部は、予想通りイルカの前に現れた。イルカが自分の恋を自覚してから三ヶ月ほど経ってから、不意に。
 任務から帰ると、アパートの前に佇んでいた男を見てイルカは歓喜した。すぐさま駆け寄り、「お久しぶりですね」と声を掛けた。無邪気に喜ぶイルカを見て男は動揺していたが、それでも小さな声で「うん」と返事をした。
 イルカは浮かれた気分で男を自宅に招き入れた。茶を淹れて男と向き合って座り、どこから何を話そうか思案した。自分の気持ちをすぐに打ち明けても良いのかよく分からなかったし、待ち焦がれた相手と向かい合って座っていると少し緊張もしてきた。そしてその結果、少し長く沈黙するはめになった。
「アンタ、俺のものだよね」
 男の小さな声に、イルカは驚く。
「俺、アンタの命助けたもんね」
 沈黙に耐えきれなかったのだろうとすぐに分かった。不安にかられ、それでもイルカの意識を自分に向けたくてそんなことを言っているのだとすぐに分かった。男の気持ちが分かったから、逆にイルカは少し落ち着いた。
「暗部面、外して貰えます?」
 穏やかな声でそう語りかけると、男は逡巡してからそっと面を外した。表情は強張り、目線を卓袱台の下に頑ななまでに落としている。
「俺、アナタの名前知らないんです。名前、教えて貰えますか? 暗部だから無理です?」
 続けて優しく問いかけると、男は視線を落としたまま再度逡巡し、それでも小さく「はたけカカシ」と名乗った。意味もなく拗ねているような声だった。
「カカシさん。俺は、うみのイルカと申します」
「知ってる」
「カカシさん、顔を上げて下さい。俺を見て。俺の気持ちを聞いて」
 貴方が自分を知ってもらいたかったように、俺も自分を知ってもらいたい。そういう意味だった。自分の好意を知って欲しかっただけだった。しかしカカシはイルカの気持ちを知ることを拒んだ。そこに嫌悪があるだろうと勝手に決め付け、身体を硬直させて視線を真下に下ろしたままそこに固定した。以前イルカがカカシを無価値だと決め付けたように。
「大丈夫です。俺は貴方が好きです。まず俺の話を……」
―なにそれ。しつこく付き纏う暗部をどうやって追い払うか考え抜いた結果、それが最善だと踏んだわけ?」
 イルカの言葉に弾かれたように顔を上げたカカシの瞳に浮かんでいたのは、以前見た時と同じ。
 その蒼い瞳には強い怒りがあった。もどかしさと焦りと苛立ちと、激しい痛みがあった。まるで小さな子供のようにそれら全てを隠すことなく瞳の上に浮かばせて、カカシはイルカを見詰めていた。
「アンタ、俺がアンタに惚れてるの分かっててそう言ってるんでしょ? 少し付き合ってやればどうせすぐに飽きるだろうと思ったんでしょ? しつこくだらだらと付き纏われるより、多少のことは目を瞑って嫌なことは早くやり過ごそうと思ってるんでしょ? でもそうはいかないよ。俺は絶対にアンタを手放さない」
 予想だにしなかった話の展開に、イルカは愕然としていた。自分の気持ちを知ったらカカシは喜ぶだろうと思っていた。そしてカカシの魂を慈しむ、甘い生活が始まるのだと思い込んでいた。
「残念だったね。アンタは一生俺のものだ。絶対に離れてやらない。絶対に」
 呪うようにそう言葉を吐き、両手を畳の上に突いてカカシは獣のようにイルカに近付く。
 イルカを真っ直ぐに見据えた瞳がゆらゆらと揺れていた。
 その瞳に浮かぶ感情はあまりに強く、あまりに痛々しかった。どんなものにも守られていない剥き出しの魂をそこに感じた。触れるだけで傷付くような、剥き出しの魂を。
 イルカは惹かれる。その魂に惹かれる。
 怒りと心の痛み満ちたカカシに手酷く抱かれても、イルカはカカシを愛しいと思った。どれだけ身体が苦痛を訴えようが、カカシを愛しいと思う気持ちは変わらなかった。
 ただ、今にも泣き出しそうな心を抱くカカシにどう接すれば良いのか、どんな言葉なら信じてもらえるのか、どうしたら痛い苦しいと叫ぶその瞳を慰め癒してやれるのか、カカシの剥き出しの魂をどうしたら包み守れるのか、怖いくらい分からなかった。
 それは二人の、出口のない暗い迷路を這いずり回るような恋の始まりだった。
   



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