そこにある温もりを求めていつものように手を伸ばしたが、ひんやりとしたシーツの感触の他には何もなく、その不自然さにまどろんでいた意識が一気に覚醒した。僅かに眉間を寄せてもう一度隣を探ったが依然としてそこには冷たいシーツがあるだけで、それでもしつこく手を伸ばしていると指が壁に当たる。
諦めたようにイルカは薄らと目を開けてそこにいるはずの恋人を探した。朝の弱い恋人が自分より先に起きたわけがない。だがすぐにその恋人が一昨日から任務で里外に出ていることを思い出し、イルカは憂いの表情を浮かべて何もないシーツの上を指でなぞった。
もしかしたら昨晩辺りに帰って来るかもしれないと思ったが、恋人は結局帰って来なかった。しかし帰還が遅れると告げる式も飛んで来ないので、恐らく今日は帰って来るだろうとイルカは踏んでいる。式も飛ばせない状況に陥っているなどという想像はしない。それよりもっと悪い想像も。そういった不安は力尽くで思考から退ける。
寝返りをうって時計を見ると、まだ朝の準備をするには早い時間帯だった。何かを食べる気にはなれなかったが、体術強化週間が始まっているので朝食を抜くわけにもいかない。今朝は行き掛けにパンでも買って職員室でそれを食べようと決める。しかし卓袱台の上に置かれたお椀を見て、昨日の雑炊がまだ少し残っていたのを思い出した。朝食べるからと言うと、赤い髪の女の子が残りをお椀に移してラップをかけておいてくれたのだ。彼女はそうして細々と気を利かせ、後片付けもちゃんと手伝ってくれた。イルカの横に立ち、スポンジを手にして洗いものをしている女の子は実際の年齢よりも少し大人びて見え、もうそろそろ「女の子」から「女性」に変わるのだなと感じたものだ。あと一年、いや半年もすれば彼女は見違えるほど変わるだろう。女の子という生き物は一定の時期を過ぎると蝶のように激変する。彼女はその変化が遅いくらいだ。きっとまだ恋をしていないからだろう。
イルカはもう一度時間を確かめ、右腕を上げて朝の日差しを遮るように目を覆う。
彼女と同じ年齢の頃に、イルカは恋をした。
苦しく辛い恋をした。
中忍試験に合格し、危険を伴う任務を一通りこなすとイルカは戦場に送られた。
当初は後方支援だったが途中で味方に裏切りが出て負傷者が続出し戦況が悪化。増援が来るまでイルカと数人の中忍が繋ぎとして前線に回されることとなった。
とは言っても中忍に成り立てのイルカが戦場、しかも前線で敵忍と渡り合えるわけもなく、捨てゴマとして使われた。常に囮として使われる。敵の目を、意識を奪うために使われる。トラップがあるかどうか確認するために使われる。命を擦り減らして野営地に戻っても、上忍達や一部の暗部から雑用を押しつけられ休む暇もなく働かされる。
最初は里のため味方のためと思い、また初めての戦地で興奮していたこともありイルカは殊勝な心持ちだった。言われるままに寝食を削って上忍達のために働き、言われるままに命を賭して囮となった。誰に愚痴や弱音を吐くわけでもなく、明日死ぬかもしれない自分の身を思い悲嘆に暮れるわけでもなく、自分の命が里の役に立つのであればと健気に働いた。
しかし疲労が重なると苛立ちが生まれた。生と死の境目を綱渡りで駆け抜けさせられるような激務とその緊張感がそれに拍車を掛けた。
何故それくらい自分でできないんだと、何度も怒鳴りたくなった。俺だって疲れている。俺だって命を張っている。俺だって血を拭いたい。水を浴びたい。飯を食いたい。俺は給仕をするためにここにいるわけじゃない。俺は奴隷じゃない。洗濯くらい自分でしろ。薬草くらい自分で摘んで来い。誰かを呼ぶのに俺を使うな。自分で行け。もうすぐ死ぬだろう人間に対し、使える時に使っておこうという魂胆が見え見えで反吐が出る。
そんな苛立ちがイルカやイルカと同じ立場にいる中忍達に常に付き纏うようになった。
それでもイルカは苛立ちと疲労に飲み込まれ自制心を失うこともなく、持ち前の粘り強さと驚異的な強運で生き延び続けた。動けなくなるほどの負傷もせず、自暴自棄になって命を投げ出すような行動も取らなかった。
増援の到着が遅れ、仲間の中忍が何人か死んだ。戦況は苦しいままで、上忍達の機嫌は悪くなる一方だった。それでもイルカは辛抱強く耐えた。捨てゴマ扱いされている仲間と励まし合い、協力し合い、様々な事柄に対しひたすらに耐え続けた。
そんなある日、まるで死んで来いと言わんばかりの指令が下された。前日から降り出した雨を利用して大掛かりなトラップを仕掛ける作戦でイルカがその一端を担うことになったのだが、そのトラップを発動させるためには大量のチャクラが必要であり、しかも発動するまでそこを動けず、イルカは最も危険な場所に回されたのだ。
今度こそ死ぬのだろうと思った。それまでは機転を利かせ自分の判断で上手く動いて死を回避していたが、動けないとなると成す術がなかった。チャクラを大量に使うので上手く術が発動しても何もできないまま殺されることになるだろう。身内のいないイルカは遺書を書かなかった。ただ、意外に短い人生だったなと夜空を見上げて時間を過ごしただけだった。
作戦実行日、イルカは作戦通りに動いた。目的地に着くと札で結界を張り、トラップに使う岩にチャクラを練り込み続けた。時間が来ると残り少ないチャクラを使って土遁の印を結び術を発動させ、大地に亀裂を生じさせる。轟音が聞こえトラップが無事発動したことが分かると同時に、イルカは意識を手放した。チャクラ切れだった。
目が覚めると暗闇の中だった。目を凝らしても何も見えない。息苦しく、酷く身体が重い。手を伸ばして周囲を確認すると、土の中だと分かった。自分が仕掛けたトラップに巻き込まれ土石流に飲まれたが、運良く大きな岩と岩の隙間にできた空間に閉じ込められているらしい。何だか間抜けな話だなとイルカは暗闇の中で嗤った。死ぬかと思ったが自分で仕掛けたトラップに巻き込まれ敵忍に殺されることなく助かった。助かったは良いがもうチャクラは残っておらず脱出は不可能、すぐに酸素が切れて窒息死するだろう。仲間はイルカが生きているとは思いはしまい。捜索は間違いなくない。
溜息を吐いて暗闇の中で酸素が切れるのを待っていると、不意に両親の顔が脳裡に浮かんだ。それから三代目と、隣に住んでいたお婆さんのこと、木ノ葉神社の景色、家の窓から見える火影岩、仲の良かった友達のことを思い出した。季節の移り変わりによって色を変える木ノ葉の里。夏の暑さ、雪景色、紅葉、商店街、公園、堤防、友達の笑顔。
帰りたいと思った。
木ノ葉に、帰りたいと思った。
イルカは土遁が苦手だ。チャクラが残っていない今、その苦手な土遁を使ってどうこうできるとは思えない。だが、得意としている水遁ならどうにかなるかもしれない。イルカはゆっくりと印を結び、身体中からチャクラを掻き集めて術を発動させた。地面にたっぷりとしみ込んでいる雨のおかげで術はイメージ通り岩の隙間に穴を開ける。それを見届けるとイルカはもう一度意識を手放した。
次に目覚めた時にも穴は塞がっておらず、イルカに僅かながらも酸素を提供してくれていた。雨は続いていたようで、たまにポツンポツンと上から土を通って来た雫が落ちてくる。イルカはそれを飲み、兵糧丸を食べてチャクラの回復に努めた。
そして三日後、まだ続いていた雨を利用しイルカはそこからの脱出に成功した。土石流に巻き込まれた時に肋骨が何本か痛めたらしかったし、酷く疲労していたので歩くこともおぼつかなかった。それでも木の枝を杖にして野営地に戻ると、上忍達はただ「お前、生きていたのか」と言っただけだった。労いの言葉もなかった。そしてとにかく休もうと自分の天幕に戻るや否や、イルカは一人の暗部に呼び出された。イルカを扱き使って身の回りの世話をさせていた者の中の一人だった。
銀色の髪を持つ、狐面の暗部。
歩くことも喋ることも億劫で、本当は行きたくなかった。毛布に包まって泥のように眠りたかった。だがイルカはその呼び出しに応じ、暗部の天幕を訪れた。
「本当に生きてたんだ」
銀髪の暗部が小さな声で呟いたのは聞こえたが、イルカはその声が少し震えていたことには気付かなかった。ただ、何かを命じるならさっさとして欲しいと思っていただけだった。
銀髪の暗部は何故か緊張しているかのように身体を強張らせてイルカを凝視していたが、不意に暗部面を外して素顔をイルカに晒した。整った顔立ちをしていたが、その時のイルカにはどんな感想も浮かばなかった。何か感想を浮かばせるには疲れすぎていたし、早く自分の天幕に戻って眠りたいという願望しか頭にはなかったからだ。
傍に来いと命じられたので言われるまま傍に寄った。服を脱げと言われたので何も考えず服を脱いだ。ああ、性処理かと、どこか遠くで理解しただけだった。横になれと言われ簡易ベッドに横になると、銀髪の暗部は泥と雨にまみれたイルカの身体を手拭で簡単に拭き、それからのしかかってきた。銀髪の暗部は何かを隠すようにどこか不機嫌で、他人を使った性処理に不慣れなのかやたらと張りつめた表情をしていた。
乱暴にしたいのか優しくしたいのかよく分からない指先で触れられながら、イルカはとっととこの人を馬鹿にした行為が終わるのを願っていた。捨てゴマにされ命からがら脱出した満身創痍な人間のケツに突っ込んで精を吐き出す。人を人と思わぬ馬鹿げた性処理。不愉快極まりない尻に入れられた指の感触。
つくづく嫌になった。
「何でも良いから早く終わらせてくれませんか」
自分でも驚くほど冷えた声が出た。とにかく疲れていたし、眠りたかったし、銀髪の暗部が行おうとしている行為に吐き気がした。イルカは今まで雑用を押しつけられてばかりで性処理に使われたことはない。酷く苦痛を伴うものだと噂では聞いていたが、そんなものどうだって良かった。だらだらと自分を馬鹿にする行為を続けられるくらいなら、苦痛があっても素早く終わらせた方が良い。そして眠りたい。
イルカの言葉に銀髪の暗部は身体を硬直させた。そして一瞬怒気のようなものをイルカにぶつけると、まだほとんど解していないイルカの尻に容赦なくペニスを捻じ込んだ。
その後は単なる拷問だった。内臓を直接いたぶるような拷問。
ペニスを捻じ込まれた時に後口が裂けたようで、血の匂いがした。窮屈に身体を折り曲げられた時に痛んでいた肋骨が完全に折れた。身体を真ん中から串刺しにされるような苦痛が繰り返され、痛みと衝撃で身体がバラバラになりそうだった。何故こんな目に合っているのか分からなかった。理不尽だとしか言いようがない。激しい苦痛と激しい怒りがイルカを包み、そして意識がなくなった。
翌日目覚めると、銀髪の暗部が簡易ベッドの脇に突っ立ってイルカを見下ろしていた。暗部面を被り表情は見えなかったが、まるで親にこっぴどく叱られた子供がべそをかいているように見えた。何をすれば許してもらえるのか分からなくて一人で途方に暮れているような。
しかしイルカには怒りと嫌悪しかなかった。力の入らない身体を無理やり起こして服を着ると、黙ったまま立ち尽くしている男に面と向かって「手でヌきゃ済むことに他人を使うなクソッタレ」と吐き捨てて天幕を出た。自分は暗部に向かってなんて口を利いているんだろうと自嘲したが、その勢いで部隊長の元に赴き溜めこんでいたものを全て吐き出した。下の者に無用な雑用を押しつけるな、自分のことくらい自分でしろ、戦場だからって何でもまかり通ると思ったら大間違いだ、木ノ葉の忍として恥じぬ行為をしろ、仲間を大事にできないから士気が下がるんだ、何でそのくらい分からないんだ。
周りにいた上忍達は最初に言葉を失くし、次に凄まじい怒りを見せた。しかしいくら罵倒されても上忍の身も凍るような殺気を浴びせられてもイルカは怯まなかった。全ての罵詈雑言を正論で捻じ伏せ、声を張り上げて自分の主張を通した。それは一種の演説に近く、説教と呼んでも過言ではないものだった。
言いたいことを言い終えるとイルカは自分の天幕に戻り、全てを放棄するかのようにぐっすりと眠った。その日のうちに中忍達の間にイルカが上忍達に喧嘩を売ったことが知れ渡り、誰もイルカに近付こうとはしなかったし誰もイルカを起こそうとしなかった。
しかしその日から、明らかに戦場の雰囲気が変わった。上忍達の間であの後どんな話し合いがされたのかイルカは知らないが、イルカに対し制裁を与える者すらいなかった。雑用を頼まれることはあっても、必ず「ありがとう」や「すまんな」など、感謝や労いの言葉がかけられる。勿論それはイルカだけでなく、他の中忍達に対してもだ。
それと同時に戦況も木ノ葉に有利になってきた。仲間を捨てゴマにするような作戦は控えられ、代わりに仲間の生還率を上げ着実に物事を進めようとする慎重な作戦が取られるようになった。上手く物事が回り始めたなとイルカは感じていた。