カカシが請け負う任務、特にこうして急に飛び込んで来る任務は危険なものが多い。
イルカはぎゅっと目を閉じて自分の中に生まれる恐怖と戦った。
カカシを失うかもしれない恐怖。それはカカシが忍を引退するまでずっとイルカに付き纏うことになることは分かっているし、それを抱えてカカシを愛し続ける覚悟もとうにできている。それから逃げることは絶対にしない。だが、怖いものは怖い。カカシに何かあったらと考えると恐ろしさで身が竦むこともある。カカシがいない夜に、ふいにその恐怖に飲まれて泣き出しそうになることもある。
イルカは拳を握って歯を食い縛り全身に力を込めてカカシの無事を強く祈ると、次に意図的に時間をかけて力を抜き呼吸を整えた。
心を静めると目を開ける。
室内はもう暗くなっており、手元の資料の文字が見難くなっていた。
「あー。帰ってもすることないし、今日は徹夜でここの資料全部片付けようかな」
溜息を吐いてそう呟くと、足元でガサガサと音がした。何かと思い目を向けると、カカシの忍犬が暇そうに後ろ足を上げ、首を傾げて耳の裏を掻いている。大きな図体をしている割にはどことなく可愛い仕草だったので、イルカの心が少し和らいだ。
「久しぶりだな、ブル」
声を掛けるとひとつ頷く。この犬は一見強面で無愛想に見えるが、なかなか優しい性格をしていることをイルカは知っている。
昔、まだカカシが激しすぎる恋に苦しんでいた頃、イルカはしょっちゅう忍犬達に監視されていた。カカシが任務でイルカの傍を離れる時に必ず忍犬を一匹置いていくのだ。自分がいない間にイルカがどこに行き、誰と会い、どんな会話をしたのかを知るために。
何故そんなことをする必要があるのかと何度も訊ねた。自分を愛しているなら何故そこまで疑うのだ、自分はそこまで軽薄に見えるのかと何度も問うた。しかしその度にカカシはイルカと仲の良い同僚やくノ一のことを持ち出してはイルカを詰った。何を言ってもカカシは聞き入れることはなく、イルカを詰っているうちに嫉妬が増して脅迫めいたことまで口にすることも多々あった。そしてその後、カカシは苛立ちをぶつけるようにイルカを抱くのが常だった。
カカシの恋が最も酷い泥沼に嵌っていた頃だ。底なし沼に嵌り、必死に足掻けば足掻くほど沈んでいった頃。暴力的とも病的とも呼べる恋にカカシが雁字搦めになり、常軌を逸した行動を取っていた頃。俺から離れたら必ずアンタを殺すからと、毎晩のように呟いていた頃。
その頃のイルカの主な監視役が、このブルだったのだ。だからイルカとの付き合いも長い。
イルカは手を伸ばしてブルの頭を撫でてから、次にその黒い鼻を指先でカシカシと掻いた。それから立ち上がり、室内の明かり点ける。
カカシが忍犬を置いていった意図は分からない。カカシにはもう以前のような焦燥感は見当たらない。同僚と飲みに行くと言っても問題なく見送ってくれるし、休憩中にくノ一と喋っていても咎めるようなことは言われない。長い時間をかけ信頼と呼べるものを二人で懸命に築き上げてきたからだ。だからこそ、今日カカシに忍犬を置いて行くと言われた時は驚いた。驚くと同時に止めようもない怒りも湧いた。貴方はまだそんなことを、と問い詰めそうになった。
しかし結局イルカは何も言わなかった。それはあまりに唐突で不自然だったし、怒りと同じくらいの強さで困惑したからだ。
イルカは棚から資料の束を取り出すとそれを机に置き椅子に座る。
ともかく、無事に帰って来てくれたらそれで良い。
仮に、万が一、万が一カカシが本当にイルカを疑ったのであれば、またイチから信頼を築けば良い。
イルカは背筋を伸ばし、一枚一枚資料と格闘し始めた。
自販機のボタンを押して缶ジュースを取り出す。
額当てをずらして首に掛け、代わりに冷たいそれを押し当てて目を閉じる。暫くそうしてから缶ジュースの向きを変え、冷たい部分を選んで次は目の上に押し当てる。酷使した脳と視神経がそのひんやりとした感触を喜び受け入れているのが良く分かった。
一息吐くとゆっくりと歩き出す。徹夜明けの太陽はやけに眩しかったが、その溌剌とした光は厭うようなものではなかった。
今日も晴天だ。家に帰って布団でも干したい。
「イルカせんせー!」
うんと拳を突き上げて大きな欠伸をしていると、元気の良い声と共にいつもの腕白三人組が背後から飛び付いてきた。右足を前に踏み出しつんのめりそうになるのを何とか堪える。
「今日は蛙まみれの刑じゃないのか?」
「違うね。同じ刑はしないんだ」
「だったら今日は何だろうなぁ?」
クスリと笑みを零し子供達が何か仕掛けてくるのを待つ。他人に迷惑が及んだり危ないもの以外であれば、イルカは基本的に子供達から悪戯を仕掛けられるのが好きだった。子供達の成長がよく分かるし、スキンシップにもなる。それに子供特有の奇抜な発想に度肝を抜かれることもあり、普段里外に出ないイルカには良い刺激になる。
背中に飛び付いたリーダー格の子供がイルカの顔を両手で挟んで真っ直ぐ前を向かせ固定した。腰に抱き付いていた女の子はイルカの両手を持って束縛を試みる。そして残りの一人、黒髪の男の子がイルカの正面に立ち、思わず感心するほど上手く丁寧に印を結んだ。
「女体変化!」
術を綺麗に発動させたが、そこに現れたのは小さな女の子だ。
「んん? 可愛くできたじゃないか」
からかうようにのんびりと声を掛けると、イルカを拘束している子供達が一斉に変化した子を非難する。
「違うって! 大人になってない!」
「それに裸じゃないとダメだって!」
変化した子は一瞬キョトンとし、次に自分の身体を見渡して大慌てでもう一度印を結び直す。しかし「変化!」と叫んだそこに現れたのは、確かに大人の女性でありとても上手く変化していのは良いが、どこからどう見てもくノ一のスズメ先生であり、しっかりと服も着ていた。
「なんでスズメ先生なんだよ! もっと色っぽい人に変化しないと!」
「それに服! 服服!」
「だって僕、色っぽい女の人って誰か分からないし。それにスズメ先生の裸なんて見たことないよ」
「あーもう! 次俺! 俺やるからお前代われ!」
子供達は何だかんだと言いながら大声で作戦を練り直し、ポジションをチェンジする。リーダー格の子が背中から降り、代わりにスズメ先生に変化した黒髪の男の子が術を解いてイルカの背中に乗って来た。
「上手く変化できてたぞ。印の結びも綺麗だったし早かった」
他の二人に聞こえないように誉めると、イルカの顔を両手でそっと挟んだその子がくすぐったそうに笑った。黒髪の少年は三人の中では最も大人しかったが、非常によくできる生徒だった。何をやらせても筋が良く、物覚えも良い。宿題も忘れたことはないし、おまけに性格も良く周りからも好かれている。
「イルカせんせー、ちゃんと見ててよ!」
「おう!」
リーダー格の子は忍術が少し不得意だ。忍具の扱いも良いし体術も得意としているが、少し不器用なところがある。
その子が、苦労してチャクラを練ってからおぼつかない仕草で印を結んだ。
「女体変化!」
かろうじて術を発動するが、そこに現れたのはブヨブヨと太ったガマガエルのような女性もどきだった。一応裸だが、裸と言うよりも胸だか腹だか分からない肉塊としか言いようがない。
「色っぽい女の人を思い浮かべてそれとは、お前、ちょっと趣味変わってるなぁ。いやいや、先生は人の趣味をとやかく言うつもりはないけどな」
「ちょ! ちょっと待ってもう一回!」
ポンと音を立ててもう一度術を発動させるが、やはりそこに現れたのは色気とは程遠いモノだった。顔は美しい女性だが身体はただのアカデミー生。しかも男。
「うーん。お前、明日補習だな」
イルカの言葉にその子がギャーと頭を抱える。
情けない友人達に痺れを切らしついにもう一人が「自分がやる」と言いだしたが、今度はイルカがその子の身体を拘束してそれを止めさせた。三人の内唯一の女の子。相当なお転婆だがチャクラコントロールが良く変化も上手い。同じ性の身体を持つ故に色気たっぷりの女性に変化するのは可能だろう。
「ちぇー。イルカ先生が鼻血出すとこ見たかったのに。鼻血まみれの刑にしたかったのに」
ブツブツと補習決定の子が文句を言う。ナルトから木ノ葉丸、木ノ葉丸からこの子達へと伝わっただろう自分の失態を思い出し、イルカは苦笑した。
「そもそも俺がいつ刑に処されることをしたんだ。それにお色気の術は二番煎じどころか三番煎じ。効果があるなら人の技を盗むのも良かろうが先生にはもう効かないし、それにお前達のその有様ときたら」
「イルカせんせーの小言が始まったぞ! 逃げろー!」
「イルカ先生の小言は長い! 逃げろー!」
「逃げろー」
きゃーきゃーと奇声を上げながら駆けて行く子供達を暖かく見送ってから、イルカはまた歩き始める。数歩進んだところでまた宿題忘れるなよと声をかけ忘れていたことに気付いたが、振り向いた時には三人の姿はもうなかった。逃げ足だけは一人前だとイルカは笑う。
その後イルカは自宅に帰り、布団を干して掃除と洗濯を済ませて昼飯を作りそれを食べた。カカシがいれば楽しいと思える料理も今日はただの作業に過ぎない。カカシがいれば楽しい食事も今日はただの栄養をとるための習慣でしかない。
昼食を簡単に済ませると、イルカは食器を片づけることもせず畳の上に寝っ転がった。両手を広げ大の字になり、ぼんやりと天井を見詰める。そして意味もなく木目を眺めてから瞼を閉じた。ろくな休憩も取らずに酷使させられた目と頭は休息を求めている。
身体から力を抜くと、部屋の静けさにお前は今一人なのだと念を押された気がした。眠る前に一度だけ目を開けてそっと部屋を窺う。勿論カカシはおらず、そこにはつまらない空間があるだけだった。
カカシがいない部屋は、どこか欠けている。月のない夜空のように、数を失った時計のように。