第五章 五月三十日・三十一日

 カカシが目覚めた時、居間では既に朝食の用意が整っていた。
「おはよ」
 大きな欠伸をしながら挨拶すると、台所からイルカがひょっこりと顔を出して「おはようございます、カカシさん」と笑顔で応える。
 窓の外から眩しいほどの日差しが入り、今日も晴天なのだと告げていた。
 卓袱台の前に腰を下ろし両手を後ろに突いて目を閉じると、どんよりとした眠気がカカシの瞼に圧し掛かって来る。できれば今から二度寝したい気分だ。
「シャワー先に浴びてきますか? スッキリしますよ?」
 台所からイルカの声が聞こえた。
「いや、先にごはん食べるよ」
 カカシはそう答え、お腹減ってる、と付け加えた。昨日毒を盛られた時点でカカシは食欲を失くしている。あの後はロクに食べず酒ばかりを飲んでいた。
 イルカがお盆に味噌汁を乗せて居間に戻って来る。それからごはんをよそい、カカシの前にそれらを置いた。
「いただきます」
 二人で手を合わせてそう言い、箸を持つ。
 鮭の切り身、お新香、納豆に卵、海苔。それからイルカ特製の、野菜が沢山入った味噌汁。何の代わり映えもしない朝食だが、カカシはそれを好んでいた。長く戦場に身を置いたカカシは、こうした平凡な朝食とその光景がどれほど貴重なのかを知っていたからだ。
「ん。んまい」
「有難うございます。あ、お醤油切れそうですね。今日買って来なくっちゃ」
「イルカは今日何時に終わる? アカデミー終わった後受付?」
 イルカの分は足りるだろうかと醤油の瓶を持ち上げて中の量を確かめながらそう問うと、イルカがすっと顔を反らせた。心なしか顔が赤い。
「どしたの? 今日、何かあるっけ」
「いえ」
 茶碗を置き、更に顔を反らせるイルカは明らかに挙動不審だった。身体を縮め目を泳がせている。
「なに、言いなさいよ。どうしたの? あ、そう言えば体術強化週間が始まったって言ってたけど、もう時間ないんじゃないの?」
 ふと時計を見てそう言うと、イルカは顔を真っ赤にさせてカカシにペコリと頭を下げた。
「すみません、今日アカデミー休みでした!」
「は?」
「カカシさん、今日アカデミー休み!」
「そう」
 それがどうしたと言うのだろう。何故イルカは謝っているのだろうと不思議に思い、首を傾げてから味噌汁を飲む。ほうれん草と油揚げが入っていて美味い。
「んで、今日はイルカ、オフの日なの?」
「いえ、受付ありますので通常通り出勤します。午後からは火影様の手伝いも頼まれてますから、終わるのはいつもと同じくらいですね」
「そう。じゃあ迎えに行けたら行く。俺の今日の任務、早く終わりそうだし」
 味噌汁を飲んでから鮭の切り身に箸を伸ばす。骨を取って皮を剥ぎ、一口食べる。カカシが何の問題もなく朝食を食べ続けるので、イルカもまた箸を動かし始めた。
 その後二人とも全て綺麗に平らげ、イルカが食器を洗っている間にカカシはシャワーを浴びる。身体と頭をスッキリさせて忍服を着て、装備を確認するとそれも身に付ける。手甲を嵌め額当てを巻き用意を整えると、先に支度を整えたイルカが玄関で待っていた。手にはカカシの脚絆を持ってひらひらさせている。
 カカシがそこに座るとイルカは膝を突いて手を伸ばし、丁寧にカカシに脚絆を巻いていく。心なしか嬉しそうに見えるのはカカシの願望ではない。イルカはこうして人の世話をするのが楽しいのだ。ましてや恋人の世話となるとその楽しさもひとしおだろう。
 カカシの脚絆を巻き終えると、イルカが立ち上がる。カカシも立ち上がり、サンダルを履く。
「あ!」
 鍵を出して扉を開けようとした時、カカシの大声とポンと手を叩く音がしてイルカは振り向いた。
「どうしました?」
「俺、分かった。分かったよイルカ」
 カカシはニヤニヤしながらイルカに近付き、両手を扉に付いてイルカを囲むとちゅっと耳元に口付けをした。そして身体を密着させ、何気なくイルカの尻を弄る。
「なにしてんですか朝っぱらから!」
「今朝のことだったわけね。さっきイルカが謝ってたの。早朝訓練あると思ってたから、しなかったんだもんねぇ。俺、我慢したもんねぇ。イルカの手だけで我慢したもんねぇ」
 クスクスと笑いながらそう言うと、イルカが顔を赤らめて腕の中でもがいた。
「今日は帰ったらみっちりヤラシイコトしよーね」
 尻を揉みしだきながら耳元で囁いてやると更に赤くなる。いつまで経ってもイルカは初心で、とても可愛い。恥らう姿も理性を飛ばしてカカシに強請る姿も、どちらも同じようにカカシを欲情させる。
「何だったら今からシようか? ちょっとくらい遅れても良いでしょ?」
 勃起し始めたペニスを腰に押し付けてカカシがそう言うと、「駄目に決まってます!」と真剣に拒否されついでに拳骨まで落とされた。



 その日のカカシの任務は、単独で少し遠出をすることになった上忍師仲間の代わりにその部下の面倒を見ることだった。
 出立する前にその上忍師はカカシの元を訪れてあれやこれやと細かく注意事項を告げ、「やんちゃだから怪我に注意をしてくれ」だの「とんでもないお喋りだから度が過ぎたら叱っても良い」だの「女の子の顔に傷が付かないように気を付けてくれ」だのと口煩く言っていた。自分の部下を放任主義で育てたカカシにしてみればそれは過保護としか言いようがなかったが、上忍師の教育方針は人それぞれなのでとりあえず頷いておいた。我が子のように部下を育てる者もいればカカシのように放任主義者もいるし、スパルタ方針を取る者もいる。どのように部下に接しようが、結果的に部下達が里にとって有益な忍になれば良いだけのことだとカカシは思っている。
 上忍師の代わりと言ってもまだ下忍、しかもアカデミーを卒業したばかりと言う。カカシは気楽に家を出て集合場所へ向かい、そこで子供達と落ち合って移動をした。
 三人の部下をその上忍師は「とんでもないお喋り」だと評していたが、それは間違っていないことはすぐに分かった。
 とにかくよく喋る。
 任務は失くし物の捜索だったのだが、とにかくずっと喋り倒している。女の子一人と男の子二人というありきたりなフォーマンセルだったが、これほど良く喋る子供達をカカシは見たことがなかった。女の子だけであればまだ分かる。女という生き物の中にはその年齢に関係なく、黙ることを知らないのではないかと思われるほどのお喋りがいる。しかしこの三人組は、男の子二人の方もよく喋った。
 目的地は里の外れを流れる川で、そこに行くまでは子供達も気を遣ってカカシに話し掛けていた。しかし何を言っても何を訊いてもカカシが生返事しかしないと分かると、後は三人だけでお喋りを開始した。それはもう、猛烈な勢いで。
 興味深いのは彼等の目と手だ。河原に到着し失くし物である指輪の捜索を開始しても彼等の口が閉じることはなかったのだが、不思議と手は動く。お喋りに夢中になるということがないのだ。時折からかって水をかけ合ったりはしていたものの、それでも指輪を探すという作業にすぐ戻る。それが上忍師の教育の賜物なのかアカデミー担当教師の教育の賜物なのか、はたまた彼等の生まれ持っての器用さなのかは分からないが、とにかく叱らねばならない状態にまでは陥らなかった。
「はーい、お昼にするよー」
 頃合いを見計らって声を掛けるとすっ飛んで来る。いつもそうしているのだろう。カカシの周りで綺麗に輪になって弁当を広げた。
 カカシが第七班を担当していた頃も、こうして子供達と輪になって弁当を食べることがたまにあった。しかしサスケとナルトはくだらないことでしょっちゅう喧嘩をしていたので、最後まで和気藹々と食べることは少なかったように思う。弁当の時くらい仲良くしなさいよ、と窘めた自分。呆れ顔のサクラ。ふくれっ面のナルトと、フンとそっぽを向くサスケ。
 懐かしい。
 当時はそんな子供達に頭を痛めたものだが、今ではあれはあれで良い思い出となっている。そして、それはサスケも同じだろうとカカシは思っている。今はまだ無理だとしても、いつかそうなるだろうと思っている。サスケは繋がりを断ちたがっているようだが、同じ時間を過ごした記憶は消せはしない。ふと立ち止まった時、ふと振り返ってみた時、その記憶は必ずサスケに語りかけるものがあるだろう。
「早く帰って来れば良いのにね」
 里抜けしたサスケを想いひとりごちると、子供達の目がカカシに向いた。
「シオ先生のこと?」
 女の子がそう言う。シオ先生とは、彼等の上忍師のことだ。
「そ。君達、シオ先生好きでしょ?」
 訊ねると、子供達は目を輝かせて大好きだと答える。そしてシオ上忍のことを事細かにカカシに語り出した。三人ばらばらに。
 お爺ちゃん先生だが、とても強いこと。ラーメンが好きなこと。少し変わっている部分があること。とんでもない心配症なこと。しかし心配する部分が普通とちょっとズレている時があること。とても優しいこと。敵忍と口喧嘩をしたことがあるらしいこと。しかも何度も。それから、若い頃に何度か遺書を書いてみたけど、書いても書いてもそれはいつの間にかとても楽しい日記になってしまっていたらしいこと。
 そんなことを三人はてんでばらばらに語った。普通ならば話している最中に他の子も同意をしたり相槌を打ったりするのにそれもない。一斉に一方的にカカシに語るのだ。しかも誰の話も重複しないところが凄い。
 アカデミーの教師をしているイルカを観察していると、たまに同じ境遇に立たされていることがある。あっちの子もこっちの子も向こうの子もみなでイルカに話しかけるのだ。しかしそこは教師、イルカは一斉に話しかけられても平然として聞きとり、頃合いを見計らってみなに平等に言葉を返している。何かコツでもあるのかもしれないが、生憎カカシはそんなコツは知らない。
 とりあえず生返事を繰り返していると、木ノ葉の忍特有の式が飛んで来てカカシの肩に止まった。印を結ぶと紙切れに変わる。
「誰から? 恋人? 写輪眼のカカシって恋人いる?」
「誰から? 雷を切ったってホント? 今度見せてくれない?」
「誰から? 昨日何のテレビ見た? 写輪眼のカカシもテレビ見るの? テレビ持ってる? ねぇ誰から?」
「君達の先生、噂のシオ先生からだーよ」
 何か緊急の事態が起こったのかと思いきや、子供達に怪我はないか、川ではしゃいでいるだろうが身体は冷え切っていないか、もう弁当は食べたか、だったらみな食欲はあったか、などと他愛もない質問ばかりが書き連ねてあった。
「何て書いてある?」
「元気に任務やってるかー?だって」
「やってるって書いて。返事して。シオ先生に返事。今度いつラーメン食べに連れてってくれるかも訊いて」
「返事書いて。早く書いて。俺のこと書いて」
「シオ先生は今どこにいるの? 明日ちゃんと帰って来るの? お土産は何か訊いてよ」
 知り合いに三つ子を産んだくノ一がいるが、毎日こんなふうなんだろうかとカカシは思った。それにしても自分の部下達とはあまりにも違う。サクラはさておきナルトもサスケも手が掛った部下だが、この三人とはまるで種類が違う。
 子供達があまりに強請るので、カカシは返事を書くことにした。問題ナシ。と。ただし三人がカカシを監視するかのようにそれを見ていたので、上忍用の忍文字を使った。あれもこれも書けと言われたらたまらない。この三人の言うようにしていたら報告書五枚分の文字を書いても足りなさそうだ。
「なんて書いた?」
「んー? 君達の言う通り書いたよ」
「何か短かったよ!」
「特殊な文字だからね」
「へー! 写輪眼のカカシすげー」
 素直に信じ込み感心する子供達が可笑しくて、口布の下で笑みを溢した。七班の子供達はカカシなりにとても可愛がったし今も愛着を持っているが、元々特に子供好きなわけではない。しかしこの三人には妙に好感を持った。確かにとんでもないお喋りなのだが、何故か煩いと感じない。
 昼の休憩を終えて紛失物の捜索に戻ると、子供達は小一時間ほどで指輪を発見することができた。時間が余ったので少し修行に付き合ってやり、帰る頃になるとカカシの生返事に慣れた子供達にカカシはべったりと付き纏われた。
 カカシは女の子を肩に乗せ、喋り続ける男の子二人からちょこまかと掛けられる足技をひょいひょいと避けながら里に戻る。シオ上忍がどんなふうにこの子達を教育しているのか分からなかったが、写輪眼のカカシに一泡吹かせようと絡んでくる子供二人の技のキレはなかなか良かった。足を出してくる時も当然のように子供達は喋りっ通しだ。先日テレビに出たアイドルの話なんかをしている。
 これはこれで見どころがあると思いつつカカシは夕暮れに赤く染まった空の下、里に向かって歩き続ける。はしゃぐ子供の声と夕日が、カカシの心を和ませていた。
 サスケが里を抜けナルトが修行に出てから、カカシには子供と触れ合う機会がほとんどなかった。恋人の様子を見ようとアカデミーに赴きそこで子供を見ることはあるが、あくまでカカシが目で追うのはイルカ一人であり、子供は目に映るものの中のひとつなだけだ。特にこれと言った感情を持つには至らない。
 しかし今日こうして再び忍とも呼べぬ小さな子供と触れ合う機会があり、カカシは良かったと思った。子供は里の宝だ。それは頭では分かっていたが、今日久し振りにそれを実感することができた。
 素直に、可愛いね、と思えることができた。
「おうちに帰るまでが任務でーす。各自寄り道などしないよーにー」
 良く知った気配を感じ、ふんわりと和らいでいた目に一気に嫌悪感が浮かぶのを何とか抑えてカカシはそう声をかける。
 ペラペラと回り続けていた口が一瞬閉じられ、次の瞬間には子供三人分の笑い声が沸き起こった。
「なにそれ! シオ先生とおんなじこと言ってるー」
「俺達これでも忍だ。もうアカデミー生じゃないんだよ!」
「でも帰りに駄菓子屋寄りたい。良い? ねぇ、良い?」
 駄菓子屋に行きたいと言う子供に「ダーメ」と言い聞かせてから、カカシは肩に乗せていた女の子を下ろした。
 里の大門をくぐり、今日一緒に過ごした子供達の頭に順に手を置いて行く。
「報告書は出しておくから。じゃーね」
 そう言い残し、カカシは瞬身で子供達の前から消えた。

back novel next