第4章 11月の私達



春日美代

 新生祭初日、春日は久々に木乃実と一緒にいた。
 外はカラリとした良い天気で、教室内も暖房がよくきいていてホカホカと暖かだ。
「おっはよ〜!」
「深海君遅い!!」
 いつものように始業のベルぎりぎりで深海が入って来ると、待ちかねていた砂上と周りの女生徒が揃えて声をあげた。
「…やっと来たわ」
 隣の木乃実がそれを見て、さも散々待ちくたびれたような呆れた声でそう呟いている。春日はその言葉を聞き、机を運んでいる自分の手に力を入れた。
 木乃実が深海を毛嫌いするようになったのは、いつからだろうか。
 木乃実は春日が深海の話をすると必ず話題を逸らせた。それどころか春日から遠のいて行く。何かと言い訳をし、春日から遠のこうとする。いかにも「深海君の話は聞きたくない」と言った感じで。
 春日は最初、木乃実も深海を好きになったのではないだろうかと勘ぐった。この幼い頃からの友人が、自分と同じ人間を好きになったのかと思った。それから、木乃実が気に入っている科学の教師が深海と仲が悪いのだろうか、とか、もしや深海が木乃実に対し何かとんでもないコトをしたのではないだろうか、とか、とにかく色々考えてみた。しかし、木乃実が深海を嫌う理由は分からないままだった。一度それとなく訊いてみたが、木乃実はその時露骨に顔を顰めて話をはぐらかしたのだ。木乃実が春日にそんな表情を見せた事は、今まで一度もなかった。春日はそれから、木乃実に深海の話をするのを止めたのだ。
 春日はテーブルを並べながら、今、木乃実と自分の間に何が起きているのだろうかと考えていた。
 幼い頃からずっと一緒だった自分と木乃実。自分は木乃実に何でも話せたし、木乃実の話だって何でも聞いた。相談事は一番に木乃実にしてきた。自分の肉親に話せない事も、失敗事や笑い話、噂話、他のクラスメートに対する不満、昨日見たテレビの内容、化粧品や身体の悩み、初恋、失恋、何だって何だって木乃実に話したし、木乃実の話を聞いてきた。誰よりも親密だったし、2人でいる時は他の誰といる時よりもずっと安心できる時間だった。
 それなのに、いつの間にか木乃実といる時間は互いにぎくしゃくし、今はまるで2人の間に不快音が鳴り響くのを恐れるかのようにビクビクしている。
 春日は今、深海のクリスマスプレゼントにマフラーを編んでいる。
 しかし、それすらも木乃実は知らないし、言えない。
 春日はテーブルを並べながら自分の親友を遠く感じた。

 新生祭2日目は、シトシトと降り続ける雨の中で行われた。
 深海は今日も紺色の着物に着替え、そして昨日と同じようにクラスに入る人間にサービスをしている。ケタケタと笑いながらそれでも手際良く給仕をしているその姿は、愛想の良い深海の人気を更に高めていた。
 春日は横でその様子を気にしながら、仕切られた調理場の中でレタスを洗っていた。藍川に頼まれたレタスはまだ5玉残っていたが、朝からずっと冷たい水の中でパシャパシャと水につけていた手はすでに冷え切っていた。
「美代ちゃん、変わろうか?」
 騒がしい教室と同じくらい騒がしい調理場の中、木乃実の声がして顔を上げる。久し振りに木乃実から優しい言葉を掛けてもらったような気がし、春日は少し息を飲んだ後すぐにニッコリと微笑んだ。
「ありがとう。もう手が痺れてきたところなの」
 木乃実のありがたい言葉にほっと息を吐き、手を水から出してタオルで拭いた。今まで痛むほど冷たくなっていた指先が、ジンジンと痺れながら今度は逆に熱を持ち出す。まるで懸命に血液を流し込み、本当の自分の体温をこの指先に思い出させようとしているみたいだ。
 春日はそんな自分の指先を見ながら、もう一度木乃実に感謝した。
「藍川!Aセット2・ホット3ね!」
 調理場に勢い良く入ってきた深海が客からの注文を藍川に伝え、窓辺で座っている岬杜と苅田の方に向かって行く。
「お前等さぁ、こんなゴチャゴチャした場所にいたら皆の迷惑じゃんよ」
「大丈夫。邪魔にならないように隅で見学してるからよ。な、岬杜」
「『な、岬杜』じゃねぇよバカ。ただでさえ調理場狭いから隅っこでも邪魔なんだよ、もー。藍川、このデカデカコンビにビシッと言っとくれ」
 深海の言葉に藍川が笑っている。それでも、藍川は「その二人は私と入来さんの料理を誉めてくれたから」と言って、調理場から追い出すことはしなかった。
 春日はクラスメートの楽しげな会話を聞いているだけだったが、それでも近くで深海の笑顔が見ることができて嬉しかった。本当は自分もその会話に参加したいが、聞いているだけでも良かったのだ。真田・砂上は特別として、女子の中では藍川と入来・楠田は深海と特に仲が良い。そんな彼等の会話だけでも春日には楽しいモノだったのだ。

 見ているだけでも、話や声を聞いているだけでも楽しいと思える。
 春日の初恋はそんな穏やかなで温和なものだった。





 しかし新生祭が終わる寸前、春日の1年半に渡るこの穏やかな初恋は突如として、そして強制的に終止符を打たれることになった。
 水を打ったように静まり返った教室で、そこにいた全ての人間の視線が岬杜に注がれたその時その瞬間。そして、「それ」が終わった後、岬杜が強い意志を持って教室内を見渡したその時その瞬間。
 春日が、一方的で差し込むような岬杜の視線に威圧されたその時その瞬間。



木乃実和歌

「美代ちゃん、変わろうか?」
 久々に自分の方から声を掛けると、春日が顔を上げてほっと安堵したように微笑んだ。
「ありがとう。もう手が痺れてきたところなの」

 新生祭の終わりの日、木乃実は少しだけ春日に優しくしていた。
 最近ずっと春日に冷たく振舞っていたが、木乃実本人も自分の行為に嫌気がさしていたのだ。春日がどんな人間を好きになろうとそれは春日が決めた事だと割り切って考えようと思っていたし、春日が酷い男性を好きになるはずがない、と彼女を信じるようになっていたのだ。
 実際、考えてみれば木乃実だって深海が好きだった。明るくて優しい子だと何度も感じてきた。セックスフレンドの件は納得いかないが、それでも自分でその現場を見たわけでもないし、彼等の間にどんな事情や感情があるのかも分からない。もしかしたら、深海はその女性を本当に愛している可能性だってある。
 春日は自分よりも、ずっと慎重でずっと賢い面がある。だから、春日が選んだ人間にケチをつけるのは止めよう。
 そう思っていた。
(ただし、もし深海君がどうしようもない腐った男だとしたら…学校で見せている彼の顔は実は偽物で、彼の本性がもし酷い男だと分かったならば、その時は美代ちゃんにはっきり言おう)
 木乃実はそう考えながらレタスを洗う。
 そして、今日の帰りに春日の家に寄り、自分の気持ちや今まで感じてきた事、セックスフレンドの話に拘っていた事などを全部打ち明けてみようかと思いながら、洗ったレタスを細かく千切り、氷が入っているボールの中にそれを入れた。


 砂上が取り仕切っていたカラオケ大会も無事に成功し、新生祭も終わりに近付いた頃だ。教室が満席になっていて、自分達のクラスのメンバーも他クラスからボチボチ戻って来た頃である。
 深海が、砂上が持っていたマイクを取り上げ「指名制」だと言い出した。
「美代ちゃん。深海君指名してみれば?」
 口にしてからすぐに、木乃実は最近のクセで少し意地悪く言ってしまった事に気がつき、即座に目を大きく開けておどけてみせた。隣で騒がしい教室を眺めていた春日が2・3度首を振り「そんな事はできないよ」と少し淋しげに苦笑しながら呟いている。
 廊下側の壁に凭れていた2人は、それから暫く黙って深海を見詰めていた。
 深海は同じクラスの生徒からも他クラスの生徒からも同様に人気があり、静かに見守っている2人にもその誰からも愛されている様子が伝わってきた。そして、その愛嬌のある笑顔が春日だけでなく木乃実もを辛くさせた。





 しかし岬杜の登場で事態は一変する。
 深海が岬杜を呼び出し岬杜が調理場からスッと出てきた時、何故かクラスがシンと静まり返った。
 誰もが岬杜の姿を見ていた。
 どうしてだろうか。
 岬杜と深海の親密な様子とそれに続く行為を目の当たりにし、岬杜の強い視線にたじろきながらも木乃実は泣きたくなった。
 これで春日は深海を諦めるだろうと思い、春日や深海や自分に対して感じていた苛立ちも消えてくれるだろうと安心したのだ。
 だからほっと息を吐いたら、自分の隣で俯き震える春日が見え、今度は何故だか泣きたくなった。



瀧野梨香

 瀧野はその日、深海・岬杜を除くクラスの生徒達の中で一番最後に登校してきた。
 朝の貧血が酷くて動くことができなかったのだ。
 体調は夏に比べればかなり楽になり月経もちゃんと来ているが、それでも彼女はたまに酷い貧血に襲われた。
「おはよう瀧野さん」
 教室に入ると、テーブルを整えている土岐浦が声を掛けてくる。
「おはよう土岐浦さん」
 瀧野はクラクラする頭を右手で抑え、浅い呼吸を繰り返しながら返事をした。左手に持っていた少ない荷物をロッカーに入れ、教室内を見渡す。もうほとんど準備は整っているように見えたが、瀧野は一応土岐浦に何か手伝う事はあるか訊いてみた。
「大丈夫。もうほとんど終わったし、後は男子の仕事が残っている程度だから」
 土岐浦の言葉にまた小さく息を吐く。自分がクラスの仕事を手伝わなかった事に関してはチクチクと胸が痛んだが、それでも何かしなければならない仕事が残っていても今の瀧野には何もできなかったに違いない。重い身体を引き摺って無理に登校して来たは良いが、実際来てみても何もできない自分の身体を恨めしく思いながら、学校を休んだとしても家人に何を言われるか分からないと考え、瀧野は大きく溜息を吐きながら教室の隅に座り込んだ。
「身体、辛いの?」
 土岐浦の言葉に小さく頷き、長い髪で顔を隠す。
「保健室、行く?」
 学校の文化祭に来て何もしていない自分が朝から保健室に行くのは気が咎めたが、それでも本当に横になりたかった。横になって身体を休めたかった。
「行きましょう」
 何も言わない自分を急き立てるように、土岐浦が瀧野の手を取る。
(学園祭にまで来て、私は何をしているんだろう)
 フラフラと歩きながら、瀧野は自分の身体を恨めしく思う。何故きちんと生活できないのか。何故きちんと食事を取れないのか。
 息を整えて階段を下り、土岐浦に手を引かれて歩いて行く。
「ごめんなさい」
 ふと口にした言葉に、土岐浦が驚いた様子で立ち止まった。
「なぜ?」
「土岐浦さんにはいつも迷惑をかけているし」
 階段の踊り場で立ち止まって瀧野を見ていた土岐浦が、最初はキョトンとし、次にキッとこの細い少女を睨むようにして言葉を吐いた。
「迷惑なんてかけてないわ」
 土岐浦の少し苛ついた声を聞き、瀧野はビクリと身体を硬直させる。
 瀧野にとって土岐浦は生まれて初めての親友であり、大事な話し相手であり、心を許せる人間であり、そして自分の存在を根本から認めてくれる、唯一の、何物にも代え難い存在であった。
「私は瀧野さんを、迷惑だと思った事などないわ」
 土岐浦は何故か、しかし明らかに怒っていた。
「ごめんなさ…」
「――謝らないで」
 土岐浦はキッパリと言う。まるで瀧野の口から出る謝罪の言葉が汚い汚物に思えているような、そんなトゲトゲしい口調だった。
 瀧野には何も分からない。分からないが、これ以上自分は何も言うべきではないと感じ、口を閉ざした。

 瀧野はいつも土岐浦に感謝をしていた。
 土岐浦涼子が自分にとってどれほど大事で、どれほどありがたい存在かを理解していた。
 自分の何が彼女の癇に障ったのかは分からないが、それでも土岐浦は黙って自分の手を引き保健室まで連れて行ってくれる。そして、側にいてくれる。
 それだけで瀧野は満たされた。
 自分の側にいてくれる人がいる。何も言わずに、黙って自分のペースを認めてくれる人がいるのだと。





 新生祭2日目、瀧野は失恋をする。
 教室の隅でだるい身体を休ませていた時、隣の土岐浦がふと身体を硬直させた。
 煩く騒いでいた学校の生徒や遊びに来ていた他の学校の生徒までもがピタリと口を閉ざし、ただ1人の人物を見ていた。
 彼は明らかにいつもと違った。
 他人の視線を意識していた…いや、他人の意識を自分に集めようと意識していた。そして、ただ彼がそう思うだけで、一般人は彼の思惑道り彼に意識を向けた。

(何か起こる)
 瀧野は息を飲んで彼を見詰めた。いや、どうしても見詰めてしまった。視線を彼から逸らす事ができなかった。彼は彼の数少ない友人の1人である瀧野と同じクラスの男子の隣に座り、少しだけ小さな声で話をしている。誰もが、視線を彼から逸らせない。逸らす事ができない。
 そして、誰かが飲んでいたグラスの中の氷がカタンと音をたてた時、彼が友人の手を持ち恭しくその甲に口付けをした。
 それは、見惚れてしまうような美しい光景だった。
 そしてその後、瀧野は「彼」と「彼の友人」が、自分の思っていたような関係ではなかった事を知る。


 こうして瀧野は失恋をした。



土岐浦涼子

 新生祭一日目、土岐浦は予鈴ギリギリに登校して来た瀧野を見て眉を顰めた。瀧野の顔色は真っ青で、見るからにもう立っているのがやっとだという有様だったからである。
(休めばいいのに…)
 今まで何度そう思っただろうか。学校なんて休めば良い。特に今日なんて授業はないのだし、どうせこんな状態では、瀧野は他のクラスを見て回るコトもろくにしないだろう。
 しかしそう思うと同時に、瀧野が「何故こうまでして学校に登校しようとするのか」という影が土岐浦の心を重くする。
 理由は知らない。瀧野はいつもなにも言わない。
 しかし、その理由はきっと根深いモノに違いないと土岐浦は感じていた。

 瀧野の手を引き保健室まで連れて行こうと階段を下りて行く。
 眩暈と吐き気で苦しそうな彼女の足取りを見ながら、一歩一歩確かめてゆっくりと階段を下りて行く。別に苛つく事はない。土岐浦は他人のペースに合わせる事が苦にはならないタイプだし、それにヘタな気を使う事は自分よりも瀧野の方に気を使わせる事になる。土岐浦は自分の思いやりが他人の重荷になるのを嫌い、それによる悪循環を嫌った。
 そう思っていた時である。
「ごめんなさい」
 ふと口にした瀧野の言葉に、土岐浦は硬直した。目の前の、この顔色の悪い女は何を今更言おうとしているのか。
「なぜ?」
「土岐浦さんにはいつも迷惑をかけているし」
 これだ。
 そう思われるのが嫌だったのだ。
 だから自分はいつもいつも、何も気にしていないように振舞った。瀧野の性格をよく知っている自分が、何をどうすれば良いのか考え、なるべくこの少女の負担にならないように振舞った。それに、実際瀧野の行動のトロさなんて気にしてなんていなかった。
 気にしてなかったのに。
 階段の踊り場で立ち止まって申し訳なさそうに俯いている瀧野を見て、どうしてこんな事をわざわざ言うのかと何故か腹立たしくなってきた。この細い少女は、一体今更何を言っているのか、と。
「迷惑なんてかけてないわ」
 自分の尖った声を聞き、瀧野がビクリとしている。ビクビクと、まるで自分の機嫌を伺う下僕のようにしている。
 だったら自分は何か。私はこの女の主人かなにかか。瀧野にとって自分がどんな存在なのかは知っているつもりだったのに、そして自分にとっても瀧野がどれほど大事な存在か分かっているつもりでいたのに、例えそこに岬杜に関わる大きな拘りがあるにせよ瀧野は土岐浦にとって大事な存在だと自分で分かっているつもりでいたのに、土岐浦は瀧野の言葉に酷く苛ついた。
「私は瀧野さんを、迷惑だと思った事などないわ」
 自分の言葉が刺々しい。しかしそれを抑えられない。こんな言葉一つでこの目の前の少女が傷付くのを分かっているにせよ。
「ごめんなさ…」
「――謝らないで」
 土岐浦は瀧野の言葉を遮り、細い手首を持ってまた歩き出した。
 分かっている。自分は何か酷くくだらない事で苛ついている。別に瀧野の言葉にそこまで深く反応する必要はなかったし、ごく普通に「気にしなくていいのよ」と声をかけてやれば良かったのだ。それは分かっていたはずなのに、何故…。
 階段を下りて廊下を東の突き当たりに向かって歩いていると、正面から深海がやって来た。そのすぐ後ろには岬杜がいて、まるで深海の影のように寄り添って歩いている。
「土岐浦さん…」
 前方の岬杜に気付いた瀧野が、少し声を顰めて言う。まるで困っているかのような、そんな声を聞いて土岐浦は笑ってやりたくなった。
(本当は嬉しいくせに!)
 そう言って、この痩せた少女を岬杜の方へ突き飛ばしてやりたくなった。
「土岐浦、瀧野、おはよ〜」
 ギリギリに登校してきた深海が挨拶しながら駆け足で通り過ぎていく。その後を岬杜が少し早足で続く。その後ろ姿を見ている瀧野を見て、土岐浦は強く彼女の手を引っ張った。

(謝らなければならないのは誰?私?この子?それとも両方?)
 保健室のベッドで横になっている瀧野を見て、土岐浦は心の中で大きな溜息を吐く。
(この子の何が悪い?この子は何も悪くない)
 椅子から立ち上がり、窓から差し込む日の光を遮ってやろうとカーテンを閉める。
 校内では新生祭実行委員が新生祭を開始する文章を読み上げていた。





 新生祭2日目、土岐浦の恋心は見事に砕け散った。
 深海がマイクを持って岬杜を指名する。周りの生徒達の歓声と奇声が溢れる中、ドキドキしている自分がいる。別に毎日見ているのに、どうしてこんな時はこんなに胸がときめくのだろうか。少しでも岬杜が笑っているその姿を見たい。友人である深海と話している時だけ見れるという噂の、その笑顔が見たい。
 少しの間にそんな事を考えチラリと厨房の方に視線をやると、そこには本当に岬杜が立っていた。仕方なさそうに…それでもどこか楽しげに。
 岬杜が教室に姿を現すと途端に今までの奇声や歓声が静まり、静かに歩く岬杜の姿に誰もが目を奪われた。勿論土岐浦も。勿論隣の瀧野も。
 満席状態だったため、カラオケの舞台に座っていた深海の隣に同じように腰をかけ、岬杜は深海に何かを囁いている。
 その時だった。
 岬杜は深海の手を持ち、その手の甲に恭しくキスをする。
 岬杜は御伽噺の中の王子様のようでもあり、深海は何かの小説の主人公のような存在でもあり、しかし同時に非常に現実的で生々しい匂いがする空気が教室内を支配する。掴めない岬杜とその存在、そして現実的な性の匂い。
 深海が呆然としながらも、まるで引き寄せられるように岬杜に顔を近づける。
 映画のようにそこの部分だけがクローズアップされ、誰もがそのシーンに釘付けになっているのを感じた。

 土岐浦はその後、少し微笑みながらチラリと教室内を見渡した岬杜の視線に全身を突き飛ばされた。
 土岐浦の胸に秘めてきた想いと土岐浦の存在は、岬杜の一瞬の視線で、その強烈な力で突き飛ばされて砕け散る。



本城寿美子

 本城は新生祭、ずっと1人だった。元々ツンとしている態度を持つ本城は友達が少ないし、クラスメートは本城よりもっと違う事に興味があるのだ。だから本城は、ずっと自分のクラスの教室でウェイトレスを手伝っていた。
(最近つまらない。学校も、家も、外へ遊びに行くコトも、生活そのものがつまらない)
 本城は溜息を吐きながらトレーにのせたAセットを客席に運んでいく。どうして自分はこんなコトをしているのだろうかと、そんな事をボンヤリと考えながら廊下側の薄緑のテーブルに右手に持っていたAセットをそっと置いた。
「ねぇ、砂上さんは?」
 声を掛けられ顔を上げると、他クラスの男子生徒3人組みだった。
「今は休憩中だと思うわよ」
 思わず反射的にニッコリと愛想笑いを浮かべる。
「うわぁ、来る時間ずらせば良かった…」
 不服そうに3人の中の1人が本城を見る。品物の価値を決めるようにじっとりとした視線で、上から下までジロジロと。
「顔は良いけど」
 その男子が少し呟き、本城の身体を見て苦笑する。本城は最近、また少し太ったのだ。
「ごめんねー…デブで!」
 カチンときたので左手に持っていたトレーをガタンと乱暴に置いたら、トレーの中のコーヒーが少しだけ零れた。カップの中で波を作っているコーヒーを見て、本城はしまったと思う。
「なにコイツ」
「知らねー。デブのヒステリー」
「うわ、最悪」
 クスクスと性悪な笑みを浮かべてコソコソと話す男子生徒達を見て、本城は唇を噛む。トレーごと、いやテーブルごとひっくり返してやろうかと思った。
「……何?私の友達に何か不満でもあるの?」
 拳を握り締めてテーブルの縁を持とうとした時、自分の後ろから声が聞こえ思わず手が止まった。自分のコトを「私の友達」と言っている。
「貴方達この学校の生徒よね?私の友達に、このクラスの生徒に不満があるなら苅田君呼ぶよ。彼、今厨房にいるし」
 声の主は、堀田だった。
「文句あるの?ないの?」
 堀田は続ける。明らかに怒っている様子だった。男子生徒は口を閉ざし、眉を顰めて俯いている。本城が呆然としていると、堀田が自分の手を持って廊下に向かって歩き出した。本城は引き摺られるように廊下に出て行く。
「アンタほんっとにアホじゃないの?何で黙ってるのよ?!あーゆー時はねすかさず苅田君の名前だしときゃ良いのよホント大バカね!!」
 教室のドアをガンと乱暴に閉めると、堀田が畳み掛けるように怒鳴ってくる。
 本城は、堀田と話をするのも久し振りだったし、堀田が何に対してそんなに怒っているのかも分からなかった。
「だ…だ…だって、そんな風に…」
「アンタ、勉強できるんでしょ?権力ってもんはね、使える時に上手く使っときゃー良いのよ。ホント、そんなだからあんなクズ男にバカにされるのよ」
「……アンタねー。苅田君のコトそんな風に使う為にいつも彼に媚びてるわけ?」
「バカね。ほんっと、心の奥底からバカ女ね。苅田君云々は関係ないの!私は彼は彼で好きなの!ただ、使う時は名前だけでも使わせてもらえば良いのよ。それは彼もきっと承知してるわよ!大体ね、苅田君は権力持ってるから苅田君なのよ?アンタだって苅田君がその辺のただのチンピラだったら媚びないでしょーが!」
「……アンタの言ってるコト矛盾してるわ。矛盾。矛と盾よ。結局アンタ、苅田君じゃなくて彼の権力にうっとりしてるんでしょ?さすが元祖馬鹿女ね」
「アンタはそんな甘いコト言ってるから私に『農家のドラ息子と結婚』とかって言われるのよ!権力は甘くて美味しいものなの。そんな人生の基本も分からないのね。おほほ!」
「……アンタにどうして友達が沢山いるのか理解できないわ。きっと本当の友達はいないのね。寂しい人ですこと。おほほほほ!!」

 本城は堀田と久し振りに喚き合い、とても気分が良かった。


 そしてその日の夕方教室が深海の提案で指名制になると、本城は堀田と一緒に苅田を指名する。苅田がニヤニヤしながら登場し、本城と堀田は共に苅田に媚びを売る。
 そんな中、岬杜が登場して教室がシンとなった。
 深海と岬杜が寄り合い、何か話しをしていると、ふいに岬杜が深海の手を持ちそこにキスをした。
 静まり返っている教室の中で、唯一苅田だけが楽しそうに笑っている声。
 そしてその後の、まるで映画のワン・シーンのような出来事に、本城は思わず堀田を見た。



堀田皐月

 堀田は新生祭、ずっと仲の良い友達と共に行動していた。
 いつもと同じような会話。いつもと同じような笑顔。いつもと同じような生活。
 だが、堀田は最近イライラしっぱなしだった。

 新生祭の2日目、そんな堀田のイライラを爆発させたのは本城だった。
 もうずっと本城とは話していないが、それでも本城が他のクラスの、しかも見るからにくだらなさそうな男にバカにされているのを見て本気で頭にきたのだ。
(どうして何も言わないの!どうしてすぐさま言い返してやらないの!どうしてそんなレベルの低そうな男共にアンタがバカにされなきゃいけないの!)

 しかしこの苛立ちは、その後久し振りに行われた本城との罵り合いで綺麗さっぱりとなくなる。本当に、何をあんなにイライラしていたのだろうかと感じる程、堀田はその後楽しい時間を過ごした。
 苅田の取り合い、媚び売り、苅田の見えない場所での足の蹴り合い、嫌味合戦。
 何てイヤな女だろう!と何度も思いながら、それでも楽しくて仕方ない。



 そしてそんな中、岬杜が登場して教室がシンとなった。
 深海と岬杜が寄り合い、何か話しをしていると、ふいに岬杜が深海の手を持ちそこにキスをした。
 静まり返っている教室の中で、唯一苅田だけが楽しそうに笑っている声。
 そしてその後の、まるで映画のワン・シーンのような出来事に、堀田は思わず本城を見た。







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