最終章 これからの私達



春日美代・木乃実和歌

「美代ちゃん、泣かないで」
 春日の部屋で木乃実はただオロオロするばかりだった。
「美代ちゃん、もう泣かないで」
 何度言っても春日は泣き止まない。どうすれば良いのだろうかと木乃実は途方に暮れた。
 今日、目の前で深海と岬杜がキスをした。クラスのほとんどがいて、そして他のクラスのモノや学校部外者がいる前で、彼等はキスをした。そこにどんな意味があったのかは知らない。木乃実はただ、春日がどれほど傷付いたのかを想像して深海と岬杜を恨んだりしていた。…あの時、確かにほっとしたもう1人の自分もいるのだけれど。
「美代ちゃん、泣かないで。深海君の事、もう忘れようよ」
「どうやって?」
 俯いて泣いていた春日が顔をあげ、まるで木乃実にすがるような視線で訊いてくる。
「どうやってって……」
 木乃実は春日の言葉を繰り返しながら、「泣かないで」と言うよりも「どんどん泣いて良いよ。気の済むまで泣いて良いよ」とでも言えば良かったのかしらと、少し意味のない事を頭の隅で考えていた。
「深海君と岬杜君の事、もう考えないようにしようよ」
「だって深海君の事、考えちゃうもの」
 目の端からポタポタと涙を零す春日は、いつもよりもずっと子供っぽく見えた。
「深海君の名前、出さないでおこう」
「心の中で一杯深海君の名前出しちゃうよ」
「もっと違う事考えようよ」
「何を?例えば?」
 木乃実は困っていた。
 自分は失恋した事がないけれど、春日は失恋してしまった。しかも、とても考えられないような結末で恋に敗れた。
「深海君…同性愛者だよ」
 ポツリと呟いた木乃実の言葉に、春日の肩がピクリと動く。
 そして、ゆっくりと春日は木乃実を見た。
 失恋して泣いていたとは思えないような、とても芯の強い視線だった。
「和歌ちゃん。もし深海君の事悪く言うつもりなら止めてね。それがどんなであっても、私は深海君の事を悪く言われるの嫌だわ」
 木乃実は春日の視線に堪らなくなり、思わず目を伏せて頷いた。
 しかし、ここで深海を同性愛者だと言い聞かせれば、それはそれでこれ以上どうにもならない問題として春日の心を納得できたかもしれないと思ったのだ。何しろセックスフレンドと言う単語も知らなかった春日だ。同性愛者の事も、もしかしたら知らないのかと思った。だが春日はどうやら同性愛者と言う単語は知っているらしい。世間ではそれがどんな目で見られているのかも知っているのだろう。だからこそ出てきたのだ。「悪く言うつもりなら止めてね」と言う言葉が。
「悪く言うつもりはないよ」
 木乃実が言い訳をするように呟いた。本当は美代ちゃんを泣かせる深海君の事を悪く言いたいけれど…と心の中でつけたしながら。

 それから木乃実と春日は、言葉を交わす事もなくただ時間を過ごした。
 木乃実は飽きることなくずっと春日を宥め、春日はなかなか枯れない涙をひたすらに零していた。
 それはずっと忘れていた、幼馴染みである2人のゆったりとした時間だった。

 木乃実は春日が今何を考えているのか分かる。春日はきっと「今日は1人になりたくない」と思っているに違いない。今日はずっと泣き続けるんだろう。だから自分は、今日はずっと春日の隣でこうやって春日を宥めているんだ。そう春日が望んでいるのなら、自分はそれに付き合う。春日がこんなに辛いのだ。友達であり親友である自分が、こんな時に役に立てなくてどうするのだ。
 役に立ってあげたい。春日の辛さを緩和させてあげたい。
 真っ赤になりながらもまだ流れる春日の涙を、自分の涙として半分流してあげたい。
 木乃実は春日の肩を抱いてやりながらそう思い、部屋の壁に掛けてある赤くて丸い時計にチラリと目をやると、自分のバッグを引き寄せ中から携帯を出した。
 操作して、耳元に持っていく。
「ママ?和歌だけど…。うん、今、美代ちゃんのお部屋。今日はお泊りしていくよ。……うん、大丈夫。じゃあ」
 携帯を元のバッグにしまうと、木乃実は春日を見てニッコリと笑った。


 春日はそんな木乃実を見て、思わずつられるようにニコリと笑う。
 今日は、一緒にいて欲しかった。自分がこんな状態なので木乃実には申し訳ないとは思うのだが、それでも一緒にいて欲しいと思った。
 そして、何も言わなくても木乃実は分かってくれた。
「和歌ちゃん。何か……深海君の格好悪い所とか……悪い所、言ってみて?」
 先程とは正反対の自分の言葉に苦笑しながら、春日は腫れた瞼を手で擦る。
「ど…どうしたの?急に」
 ポカンと小さな口を開けながら木乃実が目を擦る自分の手を持って訊いてくるが、その瞳が自分を見て潤んでいる気がしてまた苦笑した。
「どうもしないよ。和歌ちゃんこそどうしてそんなに泣きそうなの?」
 尋ねると、木乃実がまた眉を寄せて辛そうな顔をする。
 春日には分かる。
 木乃実が自分を理解してくれているように、自分も木乃実を理解できる。
「泣きそうじゃないよ。ただ…」
 木乃実は春日の赤い目を見て、また辛そうに眉を寄せた。
「和歌ちゃん。深海君の悪い所言ってみて?私、深海君をどうやったら忘れる事ができるのか分からないの」
 言うと、困惑したように躊躇いながら木乃実は春日を見た。
 そして、木乃実は気がついたようにコクリと頷く。

 木乃実は深海が嫌いだった。
 嫌いだが、春日は深海が好きだった。
 木乃実が深海を嫌う理由はきっと、複雑なモノだったのだ。自分の大親友である春日を取られたような気分にもなったし、どうしてこんな非の打ち所もないような春日を振ったのだと言う怒りの気持ちもあった。自分の親友が振られる事は、自分のプライドさえも傷つけられたような気がしたのかもしれない。そして、セックスフレンドの話もあった。
 とにかく、複雑なモノだったのだ。
 しかし、春日が深海を好きだったので、それを口にはできなかった。
 そして、その分どんどん深海が嫌いになった。
 木乃実が深海を嫌いになる程、春日は遠くなった。
 それを今、全部吐き出せを春日は言うのだ。

「深海君って、セックスフレンドいるんだよ?何だかとてもイヤ」
 木乃実が口にした言葉に、春日は一つ頷く。
「でも、セックスフレンドって言っても、深海君はもしかしたら本気だったのかもしれないし、それに今はきっと岬杜君だけだよね?」
 春日の言葉に今度は木乃実が一つ頷く。
「私、深海君の『誰にでも良い顔する所』が嫌い」
「でも、深海君は別に『誰にでも良い顔』してるわけじゃないと思うよ?彼は、優しいの」
「知ってる」
「うん」
「でも深海君、甘え上手だから見てて悔しいの」
「悔しい?何で和歌ちゃんが悔しいの?」
「なんとなく。……あと、深海君は美代ちゃん振った。それがイヤ」
 春日が木乃実の言葉にキョトンとし、一度パチクリと瞬きすると今度はクスクスと笑い出す。
「それは和歌ちゃん、おかしいよ」
「良いの。おかしくても。それに美代ちゃんを振ったのは、深海君が男の岬杜君を選んだのを見て納得したけれどね。あぁ、彼、同性愛者なんだって」
「和歌ちゃん……」
「――ごめん」
「うん」
 素直に謝った木乃実を見て、春日も口を閉ざした。
 木乃実はどうしても言いたかったのだ。失言だと分かっていながらも、言いたかったのだ。
 春日は話を一旦中止させると、自分の赤色と桃色と白色のチェックの模様が入ったベッドの上から、編み掛けのマフラーを手にしてそれを木乃実に見せた。
「私、深海君にマフラー編んでたの」
 木乃実が肩を落としてそのマフラーを手にした。そして、まるで木乃実が振られた本人かのように辛そうに顔を顰める。
「これ、私が貰うよ。クリスマスまでには編み上げて?」
 木乃実が目を閉じ、赤いマフラーに頬を寄せながら呟く。
「良いよ。ちゃんと使ってね」
「勿論」
 泣きそうになっている木乃実を見て、春日もまた泣きそうになった。
「……私、深海君の事嫌いなの。彼は美代ちゃんを泣かせたもの」
「でも、彼は何も悪くないの」
「知ってる」
「うん」
 木乃実は木乃実で、深海に対する今までの不満を漏らす事で自分の気持ちを整理させ、春日は春日で、深海を弁護する事で深海に対する想いを整理させていく。
「深海君、格好良いけどね。……でも、彼はずるい」
「深海君、格好良いよ。彼はずるくないよ」
「分かってる」
「うん」
「でも、ずるいって思う時があるの。美代ちゃんは深海君の事が好きなのに、深海君はいつも能天気に笑ってるもの」
「うん。彼はいつも笑ってる。でも、能天気なわけじゃないと思うよ。ただ彼は、そうやって笑って、人を和ませているのだと思う」
 まるで今日振られた春日が、木乃実を慰めているような感じだった。
 そして、まるで木乃実が深海に振られたかのように愚痴を言う。
 しかしそれは、2人にしか分からない気持ちの交換。


「美代ー、和歌ちゃーん!夕飯はどうするのー?」
 階段の下から聞こえた春日の母親の声に、2人揃って声を上げる。
「今日はいらないのー!」
「いりませーん!」
 そして、顔を見合わせてクスリと笑った。


「どうやって忘れよう」
 その日の夜、ベッドで横たわり腫れた瞼をタオルで冷やしている春日がふと思い出したように呟くのを見て、木乃実は妙に神妙な顔をして言った。
「そう言えば、深海君の格好悪い所、一個だけあるよ?」
 春日がタオルを手にとり、首を傾げながら木乃実を見て視線で尋ねる。
 木乃実はまた、妙に神妙な顔をして言う。
「……深海君、将棋がヘタ」
 思わぬ言葉に呆気にとられてから、春日は思わず笑い出した。
「そうだわ。深海君確かに将棋ヘタだ。いっつも秋佐田君に負けてる」
 春日は自分で口にして、クスクスと声を上げて笑い出す。
 そして、そんな春日を見て、木乃実も声を上げて笑い出す。
「深海君、将棋ヘタすぎ。おまじないしても負けてるもん」
 追い討ちを掛けるようにして言った木乃実の言葉が今の春日には余程ツボだったらしく、今度はアハハとお腹を抱えて笑い出した。



 そして笑いながら2人は思う。
 私達は、これからもずっと親友だと。




瀧野梨香・土岐浦涼子

 瀧野はいつまでもその細い身体を震わせていた。
 岬杜が同性愛者だった事にショックを受けているのか、それともそんな事よりももっと違う事にショックを受けているのか土岐浦には分からない。土岐浦自身、もう他人の事など考えたくもないほど今日の出来事は衝撃的だったのだ。
 岬杜に恋をしていた。
 それなのに、たった一瞬でその恋は終わった。終わったと言うか、強制的に終了させられた。
 突き飛ばされたのだ。好きだった人に。
 それは土岐浦の思い込みではなかった。岬杜は実際、あの場にいた深海以外の人間全てを突き飛ばしたのだ。それほど意味のある、そして岬杜本人が強くそう意識した視線だった。
「土岐浦さん…」
 弱い声で瀧野が話し掛けてくる。
「なに?」
 土岐浦は、自分は他人を慰めてあげる余裕なんてない気がした。だから、瀧野の話をあまり聞きたくなかった。聞けば何か言わなければならなくなるからだ。
 しかし、結局瀧野は何も言わなかった。
 後夜祭の音楽が鳴り始めたのでその後二人は後夜祭に参加し、燃え上がる炎を何も言わずただじっと見詰めていた。



 その後、二人は打ち上げには行かず学校の近くのファミレスに入った。
 お腹が減っていた土岐浦はドリアを注文し、瀧野はいつものようにサラダを注文している。
「お粥にすれば?」
 なるべく消化の良いあっさりしたモノを頼めば良いのにと、いつも思っていたのだ。
「良いの。ご飯は苦手だから…」
 瀧野は困ったように呟く。それは、何かに対しての言い訳のようだった。
 土岐浦は土岐浦の声を聞きながら運ばれてきたドリアを口にし、ぼんやりと窓の外を見ていた。目の前の道路を、見た事のある同じ学校の生徒が二人並んで横切っていく。男と女、つまりカップルだった。
(そう言えば、今日私は失恋したんだったわ)
 土岐浦は道路を横切っている恋人同士を見ながらただ黙々とドリアを口に運ぶ。
 そして、ふと自分のドリアに目を落とした。
(失恋したのに、ドリアなんて食べてる)
 考えてみると、やけに滑稽な気がした。どうして失恋したその日に、ドリアなんて食べてるんだろう。どうしてこんなに食べる事ができるんだろう。どうして、お腹が空くのだろう。
「傷付いてないの?」
 小さな声で自分に訊いてみる。
 目の前の瀧野がそれに反応した。
「何に?」
「岬杜君に突き飛ばされた事に」
 土岐浦は自分に尋ねていた。
「傷付いているわ。とても。……でも」
 瀧野は小さな声で応える。
「でも?」
「でも、今はきっと何も考えたくないのね」
 瀧野はそれ以上何も言わなかった。
 土岐浦もそれ以上何も言わなかった。

 瀧野はやはりサラダを半分以上残した。
 土岐浦もドリアを半分以上残した。
 食後の珈琲が運ばれてくると、二人でそれを飲む。
 土岐浦には、今時間がどんな風に流れているのか分からなかった。
「私は、祖父が大好きだったの」
 遠くの方から、瀧野の声が聞こえた気がした。
 瀧野は自分の長い髪を手で弄びながら、俯いて話を始める。
 それは、ファミリーレストランの窓の外から聞こえてきているような気がしていた。
「祖父は少し田舎の方に住んでいて、私は幼い頃から一人で祖父の家に遊びに行っていたの。電車に乗って、一人で行っていたのよ?ところがある日、遊びに行ったら祖父はいなかったの。私は待っていたけれど、祖父は帰ってこなかったの。夕方になっても帰ってこなかったの。隣の家からは秋刀魚の焼ける匂いがしてきても、祖父は帰らなかったの」
 珈琲を半ば無意識のように口にしながら、土岐浦はただ瀧野の話を聞いていた。それが何だと言うのだろうか、とか、何故急にそんな話をしはじめたのだろうか、とかは何も思わなかった。ただ、耳から入って来る瀧野の言葉が頭を過ぎっているだけのように感じた。
「祖父が何故帰ってこなかったのか。それは、祖父が事故に合ったからだった。酷い事故だったの。もう、お葬式に来てくださった方々に祖父の顔も見せれないくらい酷い事故だった。いえね、幼かった私は良く分からなかったのだけれども、大人達は皆そう言っていたわ。実は、私はいまだに祖父の死因を知らないの。母も父も言わないし。でも、私は祖父は自殺したのだと思っているの。誰に聞いたわけでもないけれど、幼い私はそう思ったの。直感ね。祖父は…とても内気で傷付きやすい人だったし、何か私の家族と上手くいっていないようだったし。
お葬式の日、私は棺の中にいる祖父を見る事もできず、ただ泣いていたわ。どうして祖父が急にいなくなったのか分からなかったのかもしれない。
ねぇ、土岐浦さん。人の死をまだ飲み込めないような幼い子が、どうして自殺を理解できたのか不思議でしょう?私も不思議なの。もしかしたら、祖父の事は全て自分が作った想像の出来事なのかしらと思う事もあるくらいよ。でも、私は祖父と一緒に近くの公園で遊んだ事を覚えている。祖父が作ってくれたご飯の味を覚えている。
祖父のお葬式には、あまり人が訪れなかった。親戚と、近所の方々、それくらい。そして、お葬式が終わって火葬も済むと、皆で夕食をとった。滅多に顔を合わせない私の親戚一同と、夕食を共にした。その時の夕食の光景を、私は今でも夢に見る。
ねぇ土岐浦さん。どうして人が亡くなったのに、あんなに豪華な夕食をとらなくてはいけないのかしら?祖父は自殺したのよ?何であんなに豪華な食事をしなければならないの?
私は分からなかった。だから、私はその日の夕食を食べる事ができなかった」
 瀧野の長い話が終わっても、土岐浦は自分の珈琲をぼんやりと見詰めていた。
 ふと頭に浮かんだ事を呟いてみる。
「……ならば、貴方は貴方の御爺様が亡くなった日に、親戚一同でサラダだけを食べろと?」
「そんな事は言ってないわ」
「ならば、貴方は人が亡くなった日には皆食欲を無くせと?」
「そんな事も言ってない」
「私は失恋しても、ドリアを食べているわ。これは、貴方の失恋の痛みよりも、私の失恋の痛みの方が少ないからなの?」
 瀧野が黙って土岐浦を見た。
 土岐浦も黙って瀧野を見ていた。
 ウェイトレスが珈琲のおかわりを尋ねてきたが、二人で揃って首を左右に振った。
「他人の悩みや痛みは誰も理解できない」
 誰に言うでもなく、土岐浦はまた頭に浮かび上がった言葉を口に出してみる。
 土岐浦は今、自分が何について喋っているのか自分でもちゃんと分かっていない。ただ、漠然としてそれが食事についての瀧野の根本的な問題の話だと感じていた。
 そして、瀧野は土岐浦の言葉の意味をじっと考えていた。



 ファミレスで食事を済ますと、二人で揃って店を出た。
 2人でぼんやりとしていた時間が長かったらしく、もう0時を過ぎていた。
 外は寒くて、自分達が吐いた息がまだ白くないのが不思議なくらいだ。
 大きな通りでタクシーを待つ自分達の姿を、通り過ぎていく車のヘッドライトが照らしていく。
「他人の悩みや痛みは誰も理解できない?それが、例えば土岐浦さんの悩みだとしても?」
 瀧野が、さきほど自分が呟いた言葉を繰り返して訊いて来る。
「私の悩みを貴方が理解できるかって事?できないわ。できるわけないもの」
「そうかな?」
 即座に少し否定的な口調で訊き返され、そこでようやく土岐浦は正面から瀧野を見た。自分より少し背の低い瀧野はいつものように長い髪で顔を隠すようにではなく、しゃんと背筋を伸ばして真っ直ぐ自分を見ている。
「理解できるわけないじゃない」
 自分が、どんな想いで今まで瀧野を見てきたのか。瀧野に対する友情は本物だった。それは自信があった。しかし、岬杜の話をする瀧野を見ていつも自分は何を感じてきたか。それを瀧野に言っても、瀧野はきっとこの汚い感情とそれを上回る自己嫌悪を理解できるわけがないではない。
「理解できないとしても……」
 瀧野は睨むように自分を見詰めている土岐浦をじっと見詰めながら負けじと言葉を吐く。
「できないとしても?」
 芯の強い視線を受け止めながら土岐浦は訊き返す。
「……認める事はできるわ」


 瀧野の言葉を聞いて、土岐浦は思わず唇を噛んだ。
 瞼が熱くなってきたので、目を閉じた。
 胸が痛くなってきたので顔を顰めた。
 自分が酷い顔をしているのだろうと、そんな事を頭のどこかで思った。
 悩みを認める。
 それは自分が今まで瀧野にしてきた事だった。
 悩んでいる自分を認めてもらう。
 泣けてきた。
 岬杜に突き飛ばされた時よりも、もっともっと強く自分の胸に向かって何かが飛び込んできた気がした。
 色んな意味で、泣けてきた。
 でも、何故泣けてくるのか良く分からない。
 ただ、瀧野への愛しさと感謝が溢れてきた。
 この子を支えてきたのは自分だったが、自分を支えるのはこの子なのかもしれないと思った。

 いつか、自分が何を悩んでいたのか打ち明ける日がくるのだろうか。
 互いの胸の痛みを打ち明け合う日はくるのだろうか。


 しかし、その日がきても、このままずっと自分の胸の中にしまったのだとしても。
 瀧野は泣きそうになっている土岐浦を見ながら、土岐浦はじっと見詰めてくる瀧野を見ながら、2人は思う。
 私達は、これからは互いに互いの悩みを認め合うだろうと。




本城寿美子・堀田皐月

 堀田は、岬杜と深海の突然の行為にクラスにいた人間全員が…いや、厳密に言うと苅田以外の人間全員が我が目を疑っているその時、思わず本城を見た。
 そうしたら、本城もピッタリのタイミングで自分を見た。
 その時まるで示し合わせたように真田鮎がどこからか飛んで来て、岬杜と深海の頭を叩いた。
 真田によって止まっていた時間が動き出し、堀田と本城は2人揃って椅子から立ち上がり2人揃ってそのまま駆け足で廊下に出て、2人揃って女子トイレにまるでイノシシのように突進し、2人揃って同じトイレに入って中から鍵を掛ける。

「み、み、み、みみみみ、見た?」
 本城が両手で胸を抑え、ゴクリと唾を飲んで訊いてくる。しかしその目は少女漫画のようにうっとりとお星様がキラキラと鏤められていた。
「あ、あ、あ、ああああ、当たり前でしょアンタ」
 堀田も同じように両手で胸を抑え、自分の高鳴る鼓動を懸命に落ち着かせようとする。しかし、堀田もまた、夢見る乙女のようにうっとりと遠くを見るような目をしていた。
 まさか、であった。確かに岬杜は謎の多い人物だったし、深海も彼女を作らなかった。
 しかし、だからと言ってまさかこんな事になろうとは、一体誰が想像したろうか。
「ききききき、キスしてた……」
 目の前の本城が、キスという単語だけを小声で言う。
「ききききき、キスしてたわ。こう、手を持っちゃったりして王子様みたいにして、それから何だか映画みたいにこうやって……」
 堀田も自分がどれだけ興奮しているのか自覚なしで、とにかく早口でペラペラと今自分が見た光景を手振り身振りを交えて再現する。
 そして、2人で暫く夢心地にぼーっとする事きっちり1分25秒。その後2人揃ってきっちり4.5秒間、ながーく息を吐き、0.5秒間で一気に息を吸い込み、
「ステキーーーーーーーッ!!」

 女子トイレに女の子特有の甲高い奇声が響き渡った。

「ステキすぎるわっ!!だってアンタ、岬杜君と深海君よ?!そりゃもう、王子様二人が目の前でキスしたのよ?!映画だってあれほど美味しいシーン撮れないわよ!」
 大興奮冷め遣らぬ本城が、バタバタと足を動かして狭い個室の中で騒ぎ出す。しかし堀田だって負けてない。
「ステキだわ。そりゃアンタ、ステキすぎるわ!岬杜君と深海君だもの、何したって許せる二人が、よりによってブチューとしちゃったのよ?!私なんて思わず鳥肌立ったわよ!」
「私なんて思わずオシッコ漏らしそうになったわよ。ってゆーか、あのまま岬杜君と深海君がキスしてたら完全に漏らしてたわよ!」
「私なんて思わず、『岬杜君!そのまま深海君を押し倒しても良いわよ!ってか、押し倒してーっ!』って映画監督よろしく岬杜君に指示するところだったわよ!」
「私なんてね、思わずあの二人の為に保健室からベッド運んであげようかと思ったわよ!」
「私なんてね、思わずあの二人の服脱がしてあげそうになったわ!!」
「……ってか。……アンタって下品ね」
「……つか、今更何で私だけ下品なのよ、オシッコ漏らしそうとか言ってたクセに……」
「いいのよ、私は。美人だから、何しても許されるの」
「そうね。農家のドラ息子と結婚する人は、教室でオシッコ垂れても許されるわよね」

 堀田のこの一言で、さっきまで42度近くまで高まっていた女子トイレの個室が、一気にマイナス24度にまで下がる。

「……堀田さん。貴方の今日のそのファッションは、「空き地リサイタル」の時のジャイアンと並んでも見劣りしないわ。素晴らしい出来だと思ってよ。おほほ」
 本城の言葉に堀田は自分の頬がピクピクと痙攣したのを感じた。
「……本城さん。そんな風に笑うと顎の肉がタプタプ揺れてみっともなくてよ。おほほ」
 乾いた堀田の笑い声と共に、トイレの個室の空気がまた15度程下がった。
 もしもこの個室の扉が開いていたならば、堀田本城の二人が篭っているこの個室からブリザードが吹き荒れ用を足しに来た他の生徒達を冷凍マグロのようにしてしまった……かもしれない。
「…顔もブスだけど、性格もブスね」
「…勉強はできるけど、おバカさんね」
 先程までは二人して岬杜と深海のキスシーンに熱狂していたのがまるで嘘のような冷えた言葉の応酬。だがその言葉には、2人の胸の奥までを凍らせる程のものはない。

 むっとしながら2人でトイレを出て教室に戻る。
 カラオケの終わった教室で、後片付けをして時々嫌味を言い合い、後夜祭には出ずに2人で一旦家に帰った。


 堀田は自分の部屋で、新しい服を着た自分の姿を鏡で見てみる。
「ジャイアンの空き地リサイタル……かしら?」
 ちょっと自分ではその辺よく分からない。
 ちぇっと舌打ちしながら携帯を手にして、沢山登録してある友達の番号の中から本城の番号を出した。
 ずっと前教え合ったのだが、掛けてみるのは初めてだった。
「ちょっと来てよ」
 不機嫌そうな自分の声。
 でも、本城にはそういうふうにしか話せないのは自分でも分かっている。
『は?何処に?って言うか、貴方最初はもしもしって言いなさいよ』
「五月蝿い女ね。早く来てよ。打ち上げ始まっちゃうじゃない」
 打ち上げの単語を聞いて、本城は黙った。
『しょうがないわねー』
 堀田は、本城が自分の身なりについての相談だと理解してくれたのだと思った。  携帯を切って、堀田は自分のベッドに腰掛ける。  そうだ、今日は勝負パンツを穿こう。  そう思って箪笥の中から純白のレースの下着を出して目の前に広げて見る。こんなの打ち上げに穿いて行くのを知ったら、本城は何て言うだろう。またムカツク事を言うに決まってる。
 想像してみながらも、ちょっと笑えた。


 その後本城は堀田の家を訪れ、何だかんだと偉そうに文句を垂れながら、堀田のクローゼットの中をひっくり返すようにして堀田の服を物色し、その中から組み合わせ、またもや偉そうに堀田にそれを着るように指図する。
 堀田の勝負パンツを見て本城は手を叩いてゲラゲラと笑い、その後あまりにもしつこく笑う本城に堀田が怒りのキックをくらわせ、ギャーギャー騒ぎながら2人は打ち上げ会場に向かう。
 打ち上げの最中でも2人はいつものようにこぞって苅田を取り合い、テーブルの下で足を蹴り合い、ネチネチと火花を撒き散らしながら嫌味報復を繰り返す。


 そして2人は思う。
 このクソ女だけは、ほんっとムカツク!と。
 しかし、それでも私達は気が合うのかも…とも。





end







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