第2章 7月の私達
春日美代
春日は今日も深海を見ていた。
最近の深海は元気がないのだ。一日中ぼんやりしていたり、淋しそうに俯いていたかと思うと急に元気になったり、笑ったすぐあとに大きな溜息を吐いたり、授業中も足をバタバタバタバタさせて教師に「うるさいぞ!」と叱られたり、その後もいつもならえへへと笑って誤魔化すのにシュンとしてしまったり…。
深海は最近元気がない。元気があるようには振舞っているのだが。
「和歌ちゃん。最近の深海君ってどこかおかしいよね」
昼の休憩時、裏校庭で『激空間プロ野球』(実際はただの野球)をしている深海達を渡り廊下の窓辺から見下ろしながら、春日は隣の木乃実にそう訊いた。
「どこかって?」
「どこかどこか…うーん、そうね、何だか無理してるように感じるの」
眼下では、深海がバッターボックスに立ってピッチャーの南に何か言っている。「おい、槙原もどき!」と叫んでいるようだ。南が「俺はあんなに顔デカくねーよ!」と返している。
それは普段の深海に見えるのだが、春日にはその表情ひとつひとつが気になった。
カキンと高い音がして、深海が南の投げたボールを打つ。だがボールは高く上がっただけで、そのまま他クラスの男子生徒のミットに収まってしまった。深海はありゃりゃと笑いながら木製ベンチで観戦している苅田の元に行って、そのまま苅田の足の上に座った。苅田が深海の髪をグシャグシャと撫で、深海は猫のように目を細めている。
(どうしてだろう)
春日はそんな深海をぼんやりと見詰めながら首を捻る。
(どうして深海君はあんなに無理をしているのだろう)
春日は不思議だった。
はしゃいでいる深海はいつも何かを気にしているようで、しかもそれを必死で隠そうとしているように見えた。それに春日が気付いた時、普段は子供のように笑い大人のような表情を見せる深海が何だか少し違って見えた。彼が、何度も首を振りながら小さく座っている普通の男の子のように見えたのだ。
人は誰でも、多かれ少なかれ何かを抱えているものだ。
しかし深海は、自分が抱えているものを決して他人に見せようとしない。どんなに仲の良い友人にも、絶対に見せない。
(男の子ってそんなものなのかしら)
春日が考えていると、予鈴が鳴った。
放課後、帰る用意をした春日が木乃実の席に近寄った時である。
木乃実の席の近くに、クラスの女子が4・5人かたまって何かヒソヒソと話をしていた。真ん中に砂上が座り、その砂上の言葉に周りが少しざわめいているようだ。
「和歌ちゃん。帰ろう」
砂上の方を見ている木乃実に話し掛けた時、春日にも砂上の声が耳に入ってきた。
「本当よ。私、深海君本人に聞いたもの」
深海という単語に反応して、チラリと春日が砂上を見た。木乃実が慌てて立ち上がり春日の手を引いたが、春日は動かなかった。
「深海君のセックスフレンドは年上だって」
砂上の言葉に、周りの女子は溜息を吐いたり愚痴をこぼしたりしている。
「深海君って、単純そうだけど難しい子よねー」
「そうそう。何言っても『えへへ〜』とか『ありゃりゃ〜』で済ましちゃうのよね。実際深海君が何を考えているのか良く分からないもの」
「カッコイイんだけどなー」
「だけど、そんな話を聞いちゃったらもう手は出せないよ」
「でもその年上の女性って、凄いよね」
「うん。よっぽど良い女なんだろうねー」
彼女達は口々に感想を述べ、それからまたヒソヒソと話し出す。彼女達全員が深海を狙っていたわけではないのだが、それでもこんな話題は話が弾むものなのである。
「美代ちゃん、帰ろう」
木乃実の声で我に返った春日は、砂上の言葉を思い出しながら教室を後にした。
いつものように木乃実を部屋に入れ、母親にコーヒーを頼む。
木乃実は帰宅途中ずっと何やら難しい顔をしていた。話し掛けても「うん」か「そうだね」としか言わないので会話が途切れ、春日は木乃実が何か怒っているのだろうかと心配しながら部屋へあげたのだ。
春日は、教室での砂上達の会話を気にしていた。「年上の女性」のコトだ。木乃実に聞いてもらいたい事や話したいコトは沢山あるのに、木乃実はずっと黙り込んだままだ。話し掛けるチャンスがなかった。
階下の母親に呼ばれ、アイスコーヒーとケーキが乗ったトレーを持って階段を上る。
「和歌ちゃん、コーヒーだよ」
トレーを置いて背の高いグラスとサッパリしていそうな抹茶のケーキをテーブルに置くと、今まで黙り込んでいた木乃実が急に話し掛けてきた。
「そういえば、昨日ウチのパパがね……」
春日がきょとんとしていると木乃実は置かれたアイスコーヒーのストローを手にし、さっきまでとは打って変わってペラペラと話を始めた。話の内容は別にこれと言って変わったものではなかったが、ただ彼女の父親は少々変わり者なので春日は普段その話を好んでいる。木乃実もそれを知っていたので、以前話したコトもある逸話も交えながら早口で自分の父親の奇行や戯言を話し出した。
その話は終わりがなく、春日が言葉を挟む事を拒んでいるようにも感じられた。
しかも木乃実は、学校を出てから一度も春日と目を合わせない。
(和歌ちゃんは私に気を使っている)
春日がその事に気付いたのは、日が暮れてからだった。
(私は和歌ちゃんに気を使わせている。和歌ちゃんは私が何かを言うのを恐れている)
木乃実が何に気を使っているのかは明白だった。そして、春日は彼女の心遣いに感謝をした。
だがしかし、実は春日は何も分かっていないのである。
何も分かっていないが、木乃実は自分が知らない事を知っている。
(訊いても良いのかしら)
木乃実の態度を見れば、自分が知りたい事がどんな内容なのか予想はつく。でも春日は知りたかった。木乃実に気を使わせている今の現状も嫌だった。
「和歌ちゃん。訊きたい事があるの」
話の合間で、するりと言葉を入れる。
木乃実がビクリと肩を震わせた。
「なに?」
木乃実が下を向く。
しかし春日は、できるだけ自分の恋愛はさっぱりしていたかったし、自分の恋愛のせいでこの優しい友人に気を使わせるのも嫌だったので、はっきりと訊いてみた。
「セックスフレンドってなに?」
木乃実和歌
放課後の教室で、砂上の声が聞こえた時は思わず硬直した。
「深海城落城の噂って、本当?」
「正確には落城とは違うけどね。でも本当よ。私、深海君本人に聞いたもの」
木乃実は自分の後ろに立っている春日を見て慌てて立ち上がり、彼女の手を引いてその場から離れようとした。しかし、春日は動かなかった。
「深海君のセックスフレンドは年上だって」
砂上の声は淡々としているが、少し笑みを含んでいるようにも感じた。
木乃実は春日の表情を盗み見るが、春日はただ呆然と砂上達の方を見ているように感じた。木乃実は手を引くが、春日は動かない。
木乃実は、砂上の言葉を春日がどのように捉えたのかが気になった。
(セックスフレンドがいるなんて…)
はっきり言って木乃実には信じる事ができない。木乃実にとってセックスフレンドとは、現実感のない単語なのだ。それはテレビの中や小説の中に出てくるだけの、架空のもののように感じる。
(美代ちゃんは、深海君に幻滅しただろうか)
したならしたで良い。嫌いになったらなったで良かった。ただ、それによって春日が傷付くのが何よりも嫌だったのだ。
「美代ちゃん、帰ろう」
木乃実は春日の手を引いた。
帰宅途中、春日は木乃実に何度か話し掛けてきたが、木乃実はずっと考え込んでいた。
(何て言えば良いのかしら)
例えば春日が深海の悪口を言ったりしたら、自分も一緒になって言うべきだろうか。春日が深海の事を「それでも好きだ」と言ったら、やっぱり応援するべきなんだろうか。大体、どうやって慰めてあげるべきなんだろうか。
木乃実はドキドキしながら待っていたが、春日は深海とは関係無い話ばかり口にするので余計に緊張が増してしまった。そして次第に春日は無口になり、木乃実も何も言えないので互いに黙り込んでしまったのだ。
(こっちから振る話題じゃないわよね)
木乃実は気になってしょうがない。しかし何も言えないのだ。春日が「深海君ってサイテーだね」とか言ってくれればコッチも話を合わせやすいのだけれども、彼女はやっぱり何も言わない。
(相当ショックなのかしら。…そうよね。関係無い私ですらショックだもの)
帰宅途中でいつものように春日の家に寄り、彼女がアイスコーヒーと抹茶のケーキを持ってきた所で、明るい話題を振ってみた。
「そういえば、昨日ウチのパパがね……」
春日は自分の風変わりな父親を気に入っている。木乃実はただ一心不乱に自分の父親のくだらない話を続けた。
(もし美代ちゃんが深海君の話をしてきたら…)
きっと辛い。自分も、春日も。
だから、ずっと自分がバカな話をしていれば良いのだ。これで少しだけでも春日の気が楽になれば良い。春日が笑ってくれるならなおのこと良い。木乃実はずっと喋り続けた。
だが
「和歌ちゃん。訊きたい事があるの」
話の合間で、春日がするりと言葉を入れる。
木乃実はどうしようもなく俯いた。
(何て言えば良いだろう。何て答えるべきだろう)
「なに?」
俯いている木乃実の耳に、春日の声が飛び込んできた。
「セックスフレンドってなに?」
木乃実は思わず春日を凝視したが、春日はこの上なく真剣な面持ちだった。
まさか、の一言だった。
この後少しの間があったのだが、それでも木乃実は説明を始めた。
木乃実は春日がどれだけ深海を好きなのか知っている。その気持ちを知っているからこそ都合の良い嘘は吐きたくなかった。
春日は驚くほど冷静に聴いていた。
そして、木乃実の説明を聞いてからポツリと
「そっか」
とだけ呟いた。
そして木乃実は、その「そっか」に頷いただけだった。
瀧野梨香
瀧野は最近元気がない。
梅雨に入ってから普段より更に食欲が減ったのだ。「食べなきゃ、食べなきゃ」という気持ちが半ば強迫観念のようにこびりつき、それが彼女を必要以上に苦しめた。そして、そんな彼女に追い討ちを掛けるかのように、月経がピタリと止まった。
食べなくては、人は生きていけない。
しかし、瀧野はモノを食べる事が本当に苦痛だったのだ。当然ながら腹は減る。何か食べたくなる。それにも関わらず、瀧野は食べ物を目の前にするとどうしても食が進まない。
分かっているのに、進まない。
そして、その辛さは人には理解されない。絶対に。
滝野は今日も、自分との戦いで精一杯だった。
「瀧野さん、おはよう」
朝、学校の校門で土岐浦が声を掛けてくる。
「土岐浦さん、おはよう」
最近は普通に生活するのも苦痛になっていた瀧野だが、それでも学校には毎日登校している。
「今日は岬杜君、来るといいね」
土岐浦の言葉に瀧野は頷く。岬杜は最近ずっと……もう1ヶ月以上学校に顔を出していなかった。何故かは分からない。彼は昔から学校を休みがちだったらしいし、その理由を知っている者などいなかったからだ。
授業が始まり、瀧野がいつものようにその長い髪を指で弄んでいると、ふいに自分の指先に違和感を覚えた。
絡みつく黒髪。それをよく見てみると、何かいつもよりもぱさついているように感じた。それに艶もない気がする。
(髪が痛んできているんだ…)
滝野は自分の髪を強く掴み、そのまま強く目を閉じた。
土岐浦涼子
土岐浦は目の前でがっくりと項垂れている滝野を見ながら、テーブルの上のトーストに手を伸ばした。品の良いバターの香りがして食欲を誘う。
(この子、また痩せたわ)
土岐浦は瀧野の腕を見ながらそう思った。滝野は夏でも長袖の服を着るのだが、その上からもよく分かるほど彼女は痩せていた。
(もしかして、病気なんじゃないかしら)
それは病的な痩せ方に似ていたのだ。
バターがほどよく染み込んだトーストを食べてから、土岐浦はカフェオレが入ったグラスを引き寄せる。
トーストが乗っていた皿の上には、小さく切ったオレンジと一粒だけの巨峰があった。
「瀧野さん。オレンジか巨峰、食べる?」
土岐浦が声を掛けても、瀧野は首を振るだけだった。
瀧野の前にある、全く手の付けられていないサラダを見ながら土岐浦は心の中で溜息を吐く。瀧野はこのサラダが来た途端、何も言わずただ首を振っていた。それは自分に言い聞かせるようにも他人に聞いてもらっているようにも見えた。
土岐浦には分からない。瀧野がモノを食べる事ができない理由も、自分がどうすれば良いのかも。
今までは何も言わなかった。瀧野自身が一番気にしている事を、あえて口にする必要はないと思っていたからだ。しかし、彼女の身体はもう悲鳴を上げているように感じられる。いつどこで倒れてもおかしくないような状態なのだ。
「瀧野さん」
土岐浦は難しい顔をして、瀧野の目の前にひとくち大のオレンジを差し出した。
「いら…」
「――食べなさい」
土岐浦の一言で瀧野の顔色が変わり、そして彼女は眉根を寄せて小さく頷く。青ざめたその表情を見ながらも土岐浦は、フォークに刺したオレンジを彼女の口元まで持っていき、そして少し強引にその中に押し込んだ。
(美味しと思わないのかしら)
土岐浦は瀧野の気持ちが全く分からない。口の中のモノを中々嚥下できない目の前の友人は、未知の生物のような感すらある。
ただし土岐浦涼子は、理解できないにせよ瀧野の悩みや苦労を認めていた。
本城寿美
本城は本日も堀田が嫌いだ。
もう、心の奥底から嫌いだ。
自分が苅田に擦り寄れば堀田もやって来て苅田をさらってしまう。自分が石塚に擦り寄れば、堀田も寄って来て石塚をさらってしまう。どの男に擦り寄っても、結果は同じなのだ。かなり迷惑だった。
本城に本命はいない。
だが本城は常に男の側に、しかもなるべく良い男の側にいたいのである。
「ちょっと本城さん、何サボってんのよ」
体育の時間に見学をしていたら、堀田がやって来てコンと足を蹴ってきた。
「生理なのよ。生理。月のモノ。女の子の日。オッパイが張る日」
「へぇ。本城さんって一応女の子なんだ。生理くるんだ。へぇ意外意外」
何が意外なのか、堀田がまた靴の先でコンコンと蹴ってくる。本城も負けじと堀田の足を蹴り返した。
「痛いわね。そんなに足を広げて、恥ずかしくないわけ?」
座りながら対抗していたため、確かに本城はかなり足を広げていた。
「うるさいわね。私は何をやっても許されるのよ!」
「すごい誇大妄想!お姫様気分は貴方の狭いお家の中だけにしておいてね」
堀田の言葉に本城がムっとする。
実際、本城は自分の家の中ではお姫様だったのだ。
「私はいつかイギリス王家に嫁ぐのよ。貴方とは違うの」
本城の台詞に堀田が爆笑した。
「冗談言わないで!貴方みたいな土地成金がイギリス王室?おほほ、貴方は農家のドラ息子と一緒になるのに決まってるじゃない。ドラ息子。貴方も自分で分かってるでしょ?そういう定めなのよ、さ・だ・め!」
堀田が自分の台詞に自分で爆笑しながら去っていった。
本城は腹が立ってしかたない。
なんなんだあの女は!!と怒りにまかせ、ギリギリとガラスに爪を立てて関係無い周りの見学組の女子達に不愉快極まりない雑音を撒き散らしたのだった。
堀田皐月
堀田は本日も本城が嫌いだ。
もう、心の奥底から嫌いだ。
自分が深海に擦り寄れば本城もやって来て深海をさらってしまう。自分が秋佐田に擦り寄れば、本城も寄って来て秋佐田をさらってしまう。どの男に擦り寄っても、結果は同じなのだ。かなり迷惑だった。
堀田に本命はいない。
だが堀田は常に男の側に、しかもなるべく良い男の側にいたいのである。
「おはよう本城さん。また太った?」
嫌いだから朝から嫌味を言ってやる。
「おはよう皐月さん。今日はちゃんと課題やってきた?教養はキチンと身につけないと恥ずかしいわよ」
(何て嫌な女だろ)
2人で火花を散らしながら廊下を歩いていると、向こうから砂上がやって来た。
実はこの2人、砂上が大好きである。顔もスタイルも性格も良し、賢く人望溢れるこの砂上には、どうやっても敵わない事を承知しているからである。もう嫉妬もできない。
「砂上さん、おはよう。今日もステキね!」
「砂上さん、おはよう。今日も可愛い!」
「おはよう、本城さん堀田さん。貴方達今日も仲が良いわね」
砂上の言葉に2人で顔を引き攣らせたが、それでもまぁ笑って誤魔化した。
砂上が去って行くと、堀田が顔を思いっきり顰めて言う。
「私、将来農家のドラ息子に嫁ぐ人には興味ないからね!」
すると本城が、フフンと見下すように言った。
「私だって皐月さんのように、服のセンスが『じゃんけんポイ!あっちむいてホイ!』の人には興味ないわよ」
堀田は腹が立ってしかたない。
なんなんだこのクソ女は!!と怒りにまかせ、前を歩く本城にぺっぺと唾を吐きかけてやるのだった。
当の本人達は知らないが、クラスの者は皆この2人を仲良しだと思っていた。
何故ならこの2人、何だかんだ言っていつも一緒にいるからである。
|