第9章 手を離すな
頬に触れた何かに気を取られ、思わず気が緩んだところをまた強く引っ張られる。
慌てて足を縮めて身体全部で落下を防ごうと力を込めたが、すでに疲れきっているせいか腹に力が入らない。それでも歯を食いしばって何とか踏みとどまった。
もうクタクタだ。手足が細かく痙攣している。
染み込んできそうな暗闇の中で必死に絶望感と闘っていると、また何かがトントンと頬を軽く叩いた。
「永司?」
小さく問い掛けてはみたものの、返事はない。
しかしまた、トントンと何かが触れる。長い紐のようなモノのように感じた。
……――――。
「そっちにゃ行かねぇよ。絶対に。これは多分俺のためだけではなく、お前自身のためでもあると思う」
小さく返事をしてから右肘を壁についたまま腕を動かし、頬に当たるモノを確かめた。
何だろう。これ。
指の太さ程のそれは縄よりも硬くて何かの茎のようにツルツルしていた。ツタか、もしくは木の根のようだ。
今まで何もなかったこの井戸に何故突然こんなモノがと不思議に思いながら、その根のようなモノを手で軽く引っ張ってみる。それがどこから生えていてどのくらいの長さなのかも分からなかったが、慎重にそれの強度を確かめていくと、とりあえず千切れる心配はなさそうだと判断できた。
巻きつけるように2.3度手首に絡めてゆっくりと体重をかける。
大丈夫だ。
そう思うと安堵感で何故か鳥肌が立った。
不思議なものだと思った。恐怖した時ではなく、絶望の底にいる時に自分を支える何かを見出したら鳥肌が立つなんて。
息を吐いていると、ふと自分の身体を持ち上げられたような感じがした。念のためにと右足一本は壁を支えていたのだが、それが浮いたのだ。
どうなっているのか全然把握できない。だが確かに少しずつ自分の身体が上昇しているようだった。
手で握っている根のようなモノを、誰かが上から引っ張っているようだ。
でも誰が?
「永司?」
声をかけてみてもやっぱり返事はない。その代わり俺の左足を握っている永司の手が、行くなと言わんばかりに強く力を込め下に引っ張ろうとする。握っている根がその力に耐えられなかったらと思って思わずまた肘や膝で身体を支えたが、根は多少上昇する速度を緩めたものの、切れもせずに俺の身体を持ち上げていく。
本当に、この手で握っているモノが希望の光なのかもしれない。
そう思うと、両手でソレにしがみ付いた。
……――――。
「頼むから手を離すなよ。二人で一緒にここから出よう。ライ麦畑に戻ろう」
今まではどうもがいてもただ落ちていくだけだったのに、今は確実に上に向かっている。
井戸の入り口はまだ見えなかったが、もう随分と引き上げられているような気がした。
俺の左足にはまだ永司の手がある。今すぐにでも手を握ってやりたかったのに、永司は上に行くのを嫌がるように強く下に引くから両手でしっかりと根のようなモノを握るしかなかった。
「なぁ永司。言葉って難しいな。そう思わねぇ?
お前は俺に愛していると言う。俺もお前に愛していると言う。でも、お前は『春樹の愛は俺の愛に追いつかない』って言う。そんなん分からんのに。
俺は永司のこと大好きだよ。むっちゃ愛してる。
大体さ、お前考えてもみろよ。男同士でセックスしてんだぜ?俺、ケツに挿れられてんだぜ?惚れまくってるヤツ以外にケツ掘らせるコトって出来ると思う?
お前賢いんだし、ちょっとは考えてみろよ。
まぁ、こんなふうに言ってもお前はやっぱり『春樹の愛は俺の愛に追いつかない』とかって言うのかもしれんな。そんで、俺はやっぱり『伝わってねぇ』と思うのかもしれん。言葉ってなんでこんなにいい加減で曖昧で信用できないモンなんだろうな。
でも、俺は永司と言葉を交わしたいよ。愛してると言いたい。大好きだと言いたい。伝えたい。普段どうやってお前を見詰めているのか、分かってもらいたい。
言葉で伝わらない時は触れ合って伝えよう。触れ合っても不安な時は一緒にしゃがみ込んでくだらない話をしよう。一緒に歌を歌おう。そんで、また立ち上がって一杯愛を語って一杯触れ合おう。それを何度でも繰り返そう。
納得するまで、何度でも繰り返そう。
俺はな、俺達はきっと、まだ互いに慣れてないんだと思うんだ。
暁生がさ、以前自分の中にあるスピードの話をしてくれたことがあるんだ。暁生はいつも自分のスピードを感じてて、それに身体が全然追いつかないって言ってた。その話を聞いて、だから暁生はいっつも全力疾走してんだなと思ったんだ。
それと一緒でさ、俺達もきっと自分の中にある何か大事なモンに、自分達の身体が追いついてねぇんだと思う。もしかしたら、心もそれに追いついてないのかもしれない。だからお前はあまりにも必死になるし、俺は愛を伝えるより先にお前を宥めることで精一杯になる。
だからさ。
だから、とにかく俺達は俺達が持ってるその大事なモンに慣れるまで、話し合ったり触れ合ったりを何度も繰り返そう。
…分かれよ永司。
俺はお前が好きだ。愛してる。俺はいっつもお前の愛をもらってばっかだけどさ、本当は俺だってイロイロ考えてんだぜ?お前のこと大好きだから。
だから分かれ。分かってくれ。
頼むからもっと俺の愛を…」
言い切る前に、冷えた外気に気がついた。
もうすぐ井戸の外だとすぐに気付かなかった理由は、外が井戸の中と同じく真っ暗闇だったからだ。見上げてみても月もなく星もない。勿論外灯もなかったから、本当に真っ暗だった。
木の根のようなモノを掴んでいた腕がカクンと折れてようやく地面に触れたので、身体を折り曲げて這いずり出るようにして井戸から脱出をする。
でも外は真っ暗だから手に握っているモノを離すことができなかった。どっちに行けば良いのかさえ分からない。そしてそんな俺の不安を感じ取っているかのように、井戸から出ても手に握っているモノは導くように俺を引くのだ。
立ち上がって普通に歩くのも怖かった。何せ足元が見えない。そして相変わらず永司が左の足首を掴んでいる。
「永司。手を握ろう」
井戸から少し離れた場所で身体を丸め、左手でトントンと永司の手を叩いたが、永司は俺の足首を掴んだままだった。
「このままじゃ歩けねぇだろ?俺も、お前も」
髪を撫でてやろうと思い手を伸ばした時、俺は喉まで出た悲鳴を寸前で飲み込んだ。
永司の肩があるべき場所には、何もなかった。
あったのは、腕。
井戸に引き摺り込まれた時の記憶が浮かび、思わず触れていた指を引っ込める。
白く腐った手。
そこから伸びる、異様に長い腕。
永司相手にここまで恐怖を感じていること自体が、俺にとっては恐怖だった。
この腕はなんだ。永司はどこだ。
「永司。返事できるか?」
怯えているような自分の声が口惜しくて永司の腕を握ってみると、ズルリと肌が剥けた感触があり、その直後に吐き気をまでする腐敗臭が立ち込める。生き物が腐った時の匂い。
「永司……」
今まで永司を怖いと思うことはあった。セックスしている時などはよくそう感じた。永司は俺に執着しすぎていたし、独占欲が強すぎた。でも、これほどあからさまに恐怖を感じたことはなかった。この恐怖は本能に近い。もし今誰かに逃げろと言われたら、一目散に逃げ出してしまうようなモノだ。
だが俺は逃げない。
永司に呼ばれ、そして向こうの永司を振り切って俺は自分でここに来たのだから。
「一緒に行こう」
永司の手を指先で軽く叩いたが、永司は俺の足首から手を離さなかった。
「離すなよ。何があっても」
俺は永司の手を離し、立ち上がって歩き出す。
真っ暗で何も見えなかったから、歩くことが難しかった。足場を確かめるようにしながら、手に握ったモノを手繰り寄せるようにして慎重に進んで行く。井戸の中で傷付いた身体が、今になって痛み始めた。特に指先が痛い。熱を持っているようにジンジンしている。
途中で何度か躓いた。
永司を引き摺るようにして歩くのは大変だったし、何より暗いし重いしで歩き難い。
それでも木の根のようなモノに引かれるままに足を進めて行くと、不意に森のざわめきを聞いた。
葉が触れ合う音と枝が枝を叩く音。しなる音。
風も感じないのに何をざわめくのだと上を見上げると、雲の隙間から異様に大きな、そして真っ赤な月が姿を現した。それは大きすぎ、赤すぎ、細すぎる異形の月だった。
月の明かりで薄っすらと周囲が見えてくる。手に握っているモノは予想通り薄茶色の木の根だった。朽根でもなくまだ若々しいこのしなやかな根がどこから伸びているのか分からないけど、森のずっと奥からまだ少しづつ俺を引いている。足元に視線を落とすと草木も生えていない爆心地のような場所のままだ。目の前はそこから突然木々が生い茂っているから、森に入る一歩手前だろう。と言うことは、予想に反してまだそんなに歩いてはいなかったのだ。たかだか10メートルそこそこ。
……――――。
呼ばれて思わず振り返る。
だが振り返った瞬間、俺の身体にある全ての感情が激しく動いた。
永司は…
永司の身体はまだ井戸の中だった。そこからだらりと伸びる白く腐った腕は、気味の悪い蜘蛛の足のように細く、長く、悪臭を放ちながら俺の左の足首まで続いていたのだ。
何もかもが異様であり異形だった。腕も、この地も、この森も、この月も。
……――――。
何故自分が、ここまで愛する人間にここまで恐怖を抱かなければならないのか。
何故愛する人間を恐れ慄かなくてはならないのか。
足元付近の腕の一部は皮がずり剥けたようになっていて、そこから黒っぽい肉が見えていた。さっき俺が掴んだ時、やはり皮が剥がれたのだろう。それ以外の部分は、生物室に置いてあるホルマリン漬けにされた生き物の死体のような白さだった。
自分でも分からないけれど、何だか涙が出てきた。
瞬きするたびに零れ落ちるほど、涙が溢れた。
「永司大好きだ。大好きだよ愛しい永司」
……―――。
「向こうに行くのそんなに嫌か?光を浴びるのがそんなに嫌か?だったらここにいよう。俺はその井戸の中じゃなかったら、別にどこだって良いんだ。この森で二人で過ごそう。ずっと二人でいよう」
わけも分からず溢れてくる涙を土まみれの腕で拭ってしゃがみ込み、握っていた木の根を落として今度は右手でもう一度永司の手に触れた。
「大好きだよ」
自分の涙がその白い腕に落ちると永司はゆっくりと俺の足から手を離し、俺の手を握った。
「大好き。何度でも言う。愛してる」
永司の手を持ち涙で濡れた頬に押し当て、それから微かに死の匂いがするその手の甲に口付けをした。
「―――――ッ!!」
唐突に身体を何かで強く縛り付けられ、驚く間もなく自分の身体が地面を凄い速さで這っていく。土が目に入り何がどうなっているのか確認できない。ただ、凄い速さで身体を引き摺られている。
突然の出来事に全然頭と身体がついていかない。何がどうなったのか、身体を捻ろうとしてもそれを許さない強い何かはどんどん俺をどこかに引き摺って行く。
痛みに歯を食いしばり無理矢理目を開けると、先ほどまで緩やかに俺を導いていた木の根が身体中に巻きついているのが見えた。
「手を離すな!」
ようやく声が出た途端、また月が雲に隠れ辺りは闇一色となる。
まるでこの森全部が唸り声を上げているかのような低い地響き。それに共鳴するようにどこかからやって来る叩きつけるような強い風。何度も木々に激突し身体中がバラバラになるような痛み。右手を切られるような激痛。
「永司ッ!」
慌てて永司の手を力一杯握り締める。だが俺の指一本一本に細い根が食い込み、凄い力で引き離そうとする。棘のある何かの植物が腕や手を叩く。
「永司離すなッ!絶対に手を離すなッ!!」
木の根が、いやこの森の全てが俺と永司を引き離そうとムキになっている。
足をがむしゃらにばたつかせて抵抗していると、木々のずっと先に光が見えた。それに凄いスピードで近付いている。
小指と薬指が永司の手から引き離される。
光が近付く。
森の向こうに黄金に輝くライ麦畑。
森の出口。
阿吽の狛犬。
「手ぇ離すなァアアーーーーッッ!!」
光に包まれたのと俺の絶叫と永司の手が離れたのは、全て同時だった。