第10章 君が彼に与えたもの

 まず最初に目に入ったのは、白いシーツと自分の右手で強く握り締めているいつものチョーカーだった。
 何故こんなモノを握り締めているのだろう。
 嫌な痛みを訴えるこめかみを左手で抑えながら身体を起こすと、下半身がいやにだるい。
 身体が妙にフラフラしているし、今まで何をしていたのかよく思い出せない。
 ただひとつだけ、はっきりと感じていることがあった。

 バスローブを着たままそっとリビングに出てみると、永司の姿がない。書斎にいるのかもしれないと思いながら、俺は着替えることもせず玄関に向かう。途中でテーブルに視線を遣ったが、いつもの木箱の蓋は閉じられており、素早く部屋を見渡したのだが猫の姿も見当たらなかった。
 なるべく音を立てずに歩き、なるべく音を立てずに玄関で自分の靴を探す。
 靴箱を開けようと右手を上げたが、チョーカーを握っている手は硬直していて開かない。肘から下がガチガチになっていて、自分の手だとは思えなかった。
 しょうがなしに左手で靴箱を開け、屈み込んで自分の靴を手にしようとした時、フラリとよろけて身体が壁にブチ当たった。ガタンと大きな物音がする。
 気付かれた。
 そう感じた俺は、靴も履かずに玄関から飛び出した。
 ふらつく足元にもどかしさを感じながら走り、エレベーターを待つ。一階で止まっていたエレベーターはなかなかやって来ず、俺は意味もなく閉まっているエレベーターの扉を拳で叩いた。
 早く来い。
 早く来い!
 叫びたいほどの焦りの中、物音に振り返る。
 ドアを開け、呆然と立ちすくんでいる永司。
 エレベーター到着のランプが灯り、俺はその視線から逃げるように中に乗り込んだ。俺の名を呼ぶ永司の声が聞こえたが、ボタンを押して扉を閉める。
 永司は駆け寄ったのだろう。エレベーターが動き出した時、蹴り破ろうとする凄い衝撃と物音が伝わった。
 永司はきっとエレベーターを待たず、非常階段で俺を追いかけるだろう。
 それでもこのマンションの高さから言えば、俺の方が早く下に到着できる。でもそこからどこに行くのか。この格好のまま、靴も履かず無一文でどこに行くのか。まず最初に自分のアパートへ戻りたかったが、それはできない。苅田達いつものメンバーはまず真っ先に疑われるだろうし、岸辺も駄目だ。その他のクラスメイトでも良いけど、あまり迷惑はかけられない。
 エントランスに到着すると、永司がまだ来てないのを確認してマンションを出た。
 今が何時なのか分からないが、外は真っ暗だったし人通りが全然なかったから、もう深夜を回っているのかもしれないと思った。
 マンションの敷地内は下がコンクリートだったからまだ良かったが、道路に出るとさすがに足が痛い。痛いし、ふらついて上手く走れない。
 でも、とにかく身の隠せる場所を探して走り続ける。何故か身体がやけに気持ち悪くて、何度か吐き気がした。心臓の鼓動がいつもよりずっと早くて、口がカラカラに乾いている。
 後方から単車の音がして、急いで家屋の車庫に隠れた。身を屈めて小さくなって震えていると、目の前を見知らぬ単車が通り過ぎていく。胸を撫で下ろすと、今の単車は永司の単車のエンジン音とは全然違うことに今更ながらに気がつき、緩く首を振った。混乱しているんだ。
 誰の家かも知らない車庫の中で丸くなりながら、本当にどうしようかと考えた。
 じっとしていると寒さが身に染みてくる。
 そういえば、今日は何日なんだろう。あれからどれくらい経ったのだろう。ずっとフラフラしている自分の身体や、空白になっている記憶。
 いや、今はそんなことどうでも良い。とにかくこれからどうするのか決めなくては。
 朝になるのを待っていたら、余計動けないかもしれない。ただでさえ身体の調子がおかしいのだ。動ける時に動いちまおう。
 とりあえず苅田の家に行こう。
 確かに苅田が真っ先に疑われるかもしれないが、アイツはもし何かあったとしても永司に力負けしない唯一の人間だ。岬杜の名にも屈することはないし、もし大事になってもアイツの親父さんなら何とかなる。
 行き先を決めると、今いる自分の位置と苅田家の位置を頭の中で確認し、どの経路を辿って行くのかよく考え、立ち上がる。
 車庫から出てくると、夜風が本当に冷たかった。
 苅田の家に…。
 歩き出そうとした時、ふと苅田の顔が浮かんだ。
 薄く笑った口元と常に何かを見下ろしているような瞳。低く太い声と硬い身体。俺を掴む太い腕。強い握力。そして、鍛え上げられた肉体から発する性の匂い。
 それらが脳裏に浮かび上がった瞬間、足元が崩れるように俺はその場にへたり込んだ。
 自分の身体に何が起こったのか把握できないまま薄暗い道路の脇でぼんやりしていると、ドクンと下腹部が脈を打つ。眠っていた生き物が目を覚ますように、身体が欲情を始めたことを知った。
 自分の身体が何故こんな時に何の脈絡もなく欲情しているのか理解できない。ただ、すぐに立ち上がれないくらい激しく欲情していることは分かる。それはあまりにも唐突で、呆れるほど不可解なものだった。
 街灯がジリジリと低い音を出すように、自分の腹の底から汚く濁ったモノが溢れてくる。


「……」
 誰かに呼ばれたような気がして顔を上げ、辺りを見渡してみた。
 深夜の住宅街はひっそりと静まり返っており、車一台通らないし野良猫一匹見当たらない。どこかで犬の吠えているのが聞こえたが、それ以外は何も聞こえない。
 まだ上手く足に力が入らなかったが、よろけながらもなんとか立ち上がってまた歩き出す。
「……」
 呼ばれてる。
 多分、永司だろう。
 近くにいるような気がする。もしかしたら、本当にすぐそこまで…。
 そう思っていたら、案の定後ろから足音がした。
「春樹!」
 悲鳴に近い永司の声が、静かなこの夜の町に響き渡るようだった。
 俺は振り返る。
「来るな」
 あのまま俺を追いかけ全速力で駆け回っていたのだろう。薄着のままの永司は息を切らし、俺の言葉を無視して走り寄ろうとする。
 俺はというと永司の姿を見ただけでまた激しく欲情し、そのまま永司の胸に倒れ込んでしまいたいという欲望と闘っていた。
「春樹…」
 走り寄ったまま手を伸ばす永司を見て、本当に本当に、このままその腕の中に飛び込んでしまいたいと思った。だが俺は左手でその手を払い退ける。
「俺は来るなと言ってる」
 永司の身体が止まる。
「何を言って…」
「来るんじゃねぇ」
 もう一度言いながら俺は少し後退りし身体を離す。
「どこにも行かないでくれ」
「すぐに戻る。だが、今はお前と一緒にいられない」
「何故だ。俺は春樹と一緒にいたい。絶対に離れたくない」
 永司がまた手を伸ばしたのでもう一度その手を払った。乾いた音が辺りに響き、その音が胸にも響くようだった。
「永司。お前、俺に何をした?」
 俺の言葉に、永司がピクリと反応した。
「何した?」
「……」
「俺はここ何日かの記憶がない。ハッキリしないんだ。でもさっき目が覚めた時、今はお前から逃げなくてはならないと感じた。これは多分俺のためだけではなく、お前自身のためでもあると思う」
 数日前、もしくは数時間前に同じようなことを永司に言った気がした。
「頼むから行かないでくれ」
 永司の言葉も、つい最近聞いた覚えがある。
「駄目。俺はあの部屋には戻れない」
「別にあの部屋に戻らなくても良い。あの部屋が嫌ならこのままどこかへ行っても良い。すぐに引っ越しても良い。だから行かないでくれ。頼むから」
「駄目。俺は今、お前と一緒にいたら駄目なんだ。お前も俺といては駄目だ」
「春樹がいないと生きていけない」
「知ってる。だからすぐに戻る」
「行かないでくれ。頼む。今春樹がいなくなったら、俺はもう生きていけない」
 永司の顔には血の気がなかった。ただ永司は泣きもせず喚きもせず、ただ静かに訪れようとしている絶望に向かって突っ立っているように見えた。
 本当に、俺が今永司を突き放したらコイツは生きていけないのではないのだろうかと思った。
「愛してるよ、永司」
「愛してる。俺も本当に愛してる。知ってるだろ?分かってるだろ?だから行かないでくれ。今春樹が行けば俺はもう――
 永司が再度手を伸ばし、俺の身体に触れようとした。
 手が震えている。
 永司も、俺も。

 俺は今、生涯のうちでまたとないような、とてつもなく重大な選択を迫られている気がした。それはあまりにも透明で極めて重すぎる選択なので、一生かかっても答えが出ないように思われた。



 逃げろと俺の勘が叫ぶ。
 逃げるなと俺の心が涙を流す。
 逃げろと姉ちゃんの声がする。
 逃げるなと俺の胸が悲鳴を上げる。

『岬杜永司の本能を受け止めろ』

 以前真田に言われた言葉を思い出す。
 真田。
 俺の勘は逃げろと言う。
 でも、俺は永司を受け止めたい。
 力一杯受け止めてやりたい。抱き締めて口付けて身体を繋げて愛してると何百回も何千回も囁いてやりたい。
 きっとお前も「受け止めろ」と言うだろうな。
 それでも俺は今永司の元に行ってはいけない気がする。
 例えば「愛してる」の言葉ひとつでさえ良い方向へも悪い方向へも転がっていくように、「愛してる」の感情も良い方向へも悪い方向へも転がって行くと思う。それは俺達の意思とは関係なく、目を離した隙に凄いスピードでそうなってしまう。
 そして今は、【とても悪い方向】へ進んでいると感じるのだ。



 永司の手が俺の腕を掴もうとした瞬間、今までずっと硬直したままだった俺の右手が素早く動き永司の手を止めた。チョーカーを強く握り締めたままの俺の右手は何物かに乗っ取られたかのように勝手に動きだし、止めた手を払ってそのまま永司の胸を押しやる。
「…嫌だ」
 俺の右手に押され、僅かに後ろに傾いた永司が小さく呟きながら俺の右の手首を握る。その握力に俺の身体が一気に冷えた。
 病的なほど執拗なセックスがフラッシュバックのように断片的に蘇る。
「離せ!」
「離さねぇ」
「テメェが正気に戻るまで、俺は帰らん!」
 まるで身体のどこかに隠してあったスイッチが切り替わったかのように、全身の神経が鋭く動き出す。右手首を掴まれたまま蹴りを入れると、永司の身体が後ろに傾く。
「絶対に離さねぇぞッ!!」
「離せっつってんだろが!」
 一歩後退り態勢を立て直す永司にもう一発蹴りを入れたが今度はガードされる。手を掴まれ距離をとれない俺は左手で永司の襟元を掴んで引き寄せ、素早く内掛けをして後ろに倒れさせる。
 永司の身体から道路に叩きつけた衝撃が伝わってきた。
「離せ!このままじゃ俺達は――ッ」
「離さねぇ!」
 身体の上に乗った俺は永司を左手で思いっきり殴りつける。永司が何度か俺の左手をも掴もうとしたが、俺はそれを何度でも振り払って殴った。
「離せーーッ!」
「だったら殺せ。お前に殺されるなら本望だ」
 殴った時に口の中を切ったのか、永司の唇から血が流れる。
「ふざけんな!テメェまだ分かんねぇのか?お前がそんなんだから俺は逃げなくちゃいけないんだ。今の状態のお前の元に俺が帰って何になる?それでどうなる?またセックスに狂う日々を送るのか?俺はヤリ殺されるなんてゴメンだ。俺はすぐに戻るし、一度離れて互いに少し落ち着こうと言っているだけなんだ。分かってくれ。俺だってお前のこと愛してんだよ!!」
 永司は右手を離そうとはしなかった。
 俺はもう一度力一杯殴りつける。
「……離せよ永司」
「春樹が言ってくれた。絶対に手を離すなと」
 静かに絶望していくように、もう【それ】しか残っていないかのように、永司は虚ろに呟いた。
 俺は永司が放った言葉の意味を理解できないままがむしゃらに殴り続けたが、永司はすでに抵抗を止めてただ俺の右手を握っていた。
 左手で永司の指を一本一本抉じ開けようとし、また殴り、抉じ開けようとし、殴り。
 抵抗せず殴られるままの永司の顔は酷いことになっていたが、それでも手を離さない。
 俺は構わず殴り続けた。永司が俺の手を離さない限り、俺にとってももう殴るしかなかったのだ。そうやって離させるしかなかったのだ。
 でも返り血を浴びると我慢できなくなって、そのまま俺の手を掴んでいる永司の手に思いっきり噛み付いた。自分の歯が皮や肉や骨に食い込む感触がし、獣のように唸り声を上げながらそのまま血の味がするまで噛み付いて左手で永司の指を剥がしていった。

 何もかもが酷い悪夢のようだった。
 永司の手を振り解いた瞬間俺は立ち上がり、倒れたままになっている永司を見ずに背を向けた。何があっても、絶対に今の永司を見たくなかったのだ。それは俺に殴られて永司が血だらけになっているからとかそんなんじゃなくて、もっと…自分でも分からないけど、もっとあまりにも辛く悲しい理由で。
 その時、辺りの街灯がジリジリと気味の悪い音を出し、最後にショートするようにして突然明かりが消えた。
 後ろから何か巨大な生き物が蠢く音がし、俺は悲鳴を飲み込んで走り出す。





 追いかけて来る。
 何かとてもよくないモノが追いかけて来る。
 街灯の消えた町を必死で走り回り、途中で道に迷っていることに気がついた。真っ直ぐ苅田の家に向かっていたはずなのに、いつの間にか全然知らない路地を走っている。しかし足を止める事も振り返る事も出来ない俺はそのまま真っ直ぐに走って行く。
 恐怖で全身に力が入り無性に身体が痛い。裸足だから足が痛い。キリが突き刺さっているような頭痛。
 それでも走らなくては。
 見知らぬ町並みの中を走っていると、遠くで電車の音がした。駅があるのかと思いその方向に向かってまた全力疾走して行く。

 走らなくては。
 そう思っているのに足が止まった。
 月も街灯もない気味の悪い暗さの中に目の前に明かりの消えた一本の街灯があり、そこにこの闇を吸い込もうとしているような暗闇があった。
 後ろからは何かが俺を追いかけて来る気配があり、目の前には知っている暗闇。
 乱れている呼吸も忘れるほど、ベッタリとした疲れが襲った。
「こっちにおいでよ」
 知っている声に呼ばれ、もう一度これ以上ない疲労感を味わう。
 しかし俺は、やはりそこに近付いていった。今日もまた、自分の意志とは関係なく。
「僕はあれだけちゃんと考えるようにと忠告したのにね」
 蹲る子供は今日も頭にへばりつくような声を出した。
「考えたけど、分からなかったんだ」
「もっと近くに来て。今日は長くお喋りできる?」
 言われるまま、足が動く。
「できない」
「後ろから追いかけて来るから?」
「そう」
「逃げるの?」
「逃げるよ」
 ずっと握っていたチョーカーが、熱を持ち始めた。
「お前、やっぱ人間じゃねぇのか」
「人間だよ。お兄ちゃんと一緒」
 子供の声は、夜空から降り注ぐ美しい音色と無限の地の底から鳴り響く穢れた呼吸の共鳴のようだった。
「お前は俺と違う。お前からは破壊や破滅、絶望の匂いがする」
 子供は顔を伏せたまま、楽しそうに笑う。子供が笑う度に俺の頭痛は酷くなり、チョーカーが燃えるように熱くなる。
 後ろからは何かがすぐそこまで迫って来ていた。
「俺、行く」
 そう呟いて歩き出そうと足に力を入れる。だが動かない。頭痛が吐き気を呼び、吐き気が眩暈を呼ぶ。
「破壊や破滅、絶望。それらを君が持ってないとでも?だったら今のこの状態は何だろうね。君がした事は何だろうね。君が彼に与えたものは何だろうね」
 ずるずると蠢くモノがすぐ後ろまで来た時、右手で握り締めていたチョーカーが目が眩むような光を発し俺の身体を包み込んだ。





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