第7章 事象の地平線
身体を支えている腕が疲れでだるくなってきた。
狭い井戸の中は空気が薄いのかやけに息苦しくて、何度か深呼吸をした。湿気が酷く土の匂いがする。この井戸の下の方から酷く嫌な匂いも。
無理な格好で力を入れているためか肩の筋肉が張ってきて、そのせいで頭痛がした。いや、この頭痛の理由は肩だけじゃないかもしれない。
上を見上げてみても地上までの距離がいまいち掴めなかったが、それでも俺は這い登ろうと手足を動かした。
何故こんな場所に。
いや、何故こんな場所が。
「なぁ永司。なんでこんな場所にいるんだ?ここは良くないよ。ここはいてはいけない場所だ。分かってるだろう?分かってるから、向こうにいるお前は行くなと言った。そうだろ?だったらここから出て日の当たる場所に行こう。まずは光を浴びようぜ。大丈夫、俺は側にいるよ。そしてお前の話を聞く」
捕えられている左足の自由が利かないから、どうしても右足一本で足場を支えなくてはならなかった。滑らない・崩れない足場を見つけてゆっくりと体重をかけ、次は肩と肘や手を使って上って行く。気の遠くなるような作業のように感じた。でも俺はそうするしかないのだ。
「何故こんな場所があるんだ?ライ麦畑にこんな場所があってはいけないんだ。こんな場所は…こんな嫌な匂いのする場所はあったらいけないんだよ。なのにどうして」
引き摺り落とそうとする永司の手を、俺は持ち上げようとする。腹に力を入れて、左足曲げて膝を付く。手を伸ばして永司の手を握ってやりたかったが、少しでも体勢を変えるとそのままバランスを崩して落ちてしまいそうだった。
せめて手を握れたら。
そう思うと口惜しくてしょうがない。
「永司、返事しろよ。なんでこんな場所があるんだ。なんでこんな場所にいるんだ」
永司の手は無言のまま、暗闇の中から俺の足を引っ張っていた。返事を促そうと左足を揺らしてみても、何も変わらなかった。
左足から伝わる感情も最初からずっと変わらない。まるでそれしかないかのように、ただひたすらに、ひたすらに俺を求めていた。
永司は俺を愛している。
俺も永司を愛している。
それでも永司は激しく俺を求めていた。いつも、どんな時も激しく俺を求めていた。そしてどれだけ俺が「愛してる」と言っても、その激しさは何も変わらなかった。
だから俺はここに来たんだ。
向こうの永司は行くなと言ったし姉ちゃんも行くなと言った。それでも俺は来たんだ。永司が求めるのならば、俺は行かなくてはならなかったんだ。
分かっていたのだ。
ここがどんな場所なのか。
そして俺は、ここから永司を出さなくてはいけない。
ここにいる永司が俺を欲する永司の源だろう。だから余計に、ここから出さなくてはいけないんだと思う。
それから、なのだ。
永司を抱き締めるのは。
「永司、返事しろ」
汗で土がへばりついて気持ち悪い。肩や腕で擦っても、汗を含んだ土や砂利は余計に肌にくっついてくるみたいだ。
「返事しろよ。お前が俺を呼んだんだろ」
井戸の入り口は、俺をバカにしているかのようにいつまで経っても遠いままだ。焦燥感が募る一方で、何故か分からないけど無性にやるせない。だから何でも良いから喋っていたかった。永司と話したかった。
「返事しろよ。言いたいことがあるんだったら、日の当たる場所じゃ言えないことがあるんだったらここで聞く。ちゃんと聞く。だから返事をしろ!」
永司は返事をするかわりに俺の左足を強く引っ張り、俺はまた落ちていく。
真下で水の音がした。
精一杯身体を突っ張ったので落下はギリギリで止まったが、さっき引っ張られた時に爪が剥がれたみたいで指先が酷く痛む。
ここからはもう井戸の入り口は見えない。どこまで引き摺り下ろされたのか見当もつかないほど、真っ暗だった。
身体を支えている右膝を支点にして足を動かしつま先で土を蹴ると、本当にすぐ真下で落ちていく土や砂利が水に落ちる音がした。
そしてこの水の音が、俺をやたらと怯えさせた。
この水が、水面が何かの境界線なのだろうと感じたからだ。
俺は以前に読んだ星の話を思い出す。
大きな恒星が進化の最終段階で超新星爆発を起こし、ブラックホールになる。そのブラックホールにある、物質も光も全て飲み込むかどうかの境界、事象の地平線。
俺の足元にある水面は、間違いなく事象の地平線だろうと感じた。
ここに落ちれば、もう二度と戻れない。
「永司。聞いてるな?」
恐怖で喉がひっつくような感じがした。
「お前が何故ここにいるのか俺にはまだ分からない。落ちたのか、それとも自らここに来たのか、それも分からない。でも絶対に引き摺り出してやる。だから何があってもお前は手を離すな。何があっても、だ」
永司は俺の話を無視してまた左足を引っ張ったので、身体と一緒に足も縮めて落ちないようにする。
叫び出したいくらい怖かった。
「俺はそっちには行かない。お前が呼んでも、そっちには行かないんだ。良いか永司。俺達が二人ともそっちに行ったら駄目なんだ。分かってるだろう?もう戻れなくなるんだ。それは絶対に【良くないこと】だ。永司、愛してるから引っ張るな」
永司は永司で必死になって俺を引き摺り落とそうとし、俺は俺で必死になって落ちないように身体に力を入れる。
剥がれた爪の傷に砂利が入り込み激痛が走る。膝も背中も、もうとっくに服が破れて傷だらけになっているようだった。時折上から崩れ落ちてくる土砂が口や目に入り、吐き気までしてくる。
でも俺は踏ん張るしかなかった。
ここでは誰も助けてくれない。それに俺は自らここに来たんだ。
「行かねぇぞ。絶対に行かねぇ。俺は確かにお前に呼ばれてここに来たが、そっちに行くつもりはねぇ。俺が何しに来たのか、お前、分かってねぇだろ?俺はな、お前を受け止めに来たんだ。あの日お前がずっと隠してきた子供の俺を見つけたように、俺はお前を探して受け止めに来たんだ。
覚えてるだろ?俺が自分がライ麦畑のつかまえ役だからって、自分の子供を隠してきたのををお前が見つけてくれた時のこと。嬉しかったんだ。もう、言葉も見つからないくらい嬉しかったんだ。俺の子供を見つけてくれたのが、大好きな永司だったってことも嬉しかったんだ。お前しか見つけられないと思ってたしさ。
だからさ、永司。今度は俺がお前を探して受け止めてやろうと思ってる。それには、そっちに行くわけにはいかない。俺がそっちに行ったら、ここに来た意味がねぇからな。俺はお前を……」
ドクンと耳元で鼓動が聞こえ、もう一度強く引っ張られる。
ぎゅっと目を閉じ腹に力を込めて、なんとかやり過ごそうと歯を食いしばった。
「愛してる。愛してるよ永司。お前いっつも『春樹には分からない』って言うけどよ、お前こそ分かってねぇんだよ?どんだけ俺がお前に惚れてるか分かってねぇんだよッ?!分かれよ!!いい加減分かれよ!!頼むから俺の愛を――ッ!!」
漆黒の暗闇で恐怖と行き場のない嘆きで声を上げる俺の頬に、何かが当たった。