第5章 落ちて行く
身体がいてぇ。
肘と膝、背中を使って俺の身体は井戸の途中で止まっていた。肘も膝も背中も途中で随分と擦りむいたらしくてヒリヒリしてる。井戸の中は肩と肘や膝と腰で身体を支えられるくらい狭かったが、永司が足を引っ張るので突っ張った膝や足にできるだけ力を入れていなくちゃならなかった。
上を見上げると、かなり遠くに薄暗い小さな月のようにぽっかりと井戸の入り口が見える。俺はこんな場所まで引き摺り込まれたのかと溜息を吐いた。
下を見ても暗闇で何も見えない。この井戸がどこまで続いているのか分からないが、とにかくまだ左の足首を引っ張られているのは確かだ。
どこまで引き摺り込む気か。
爪の間に入った湿った砂利が痛い。でも、このままじっとしていても埒があかないような気がして、肘と足、背中を使って上に向かって這い登ろうとした。
飛び出ていた岩に体重をかけた瞬間、岩が崩れてまた下に強く引っ張られる。音を立てながら肘と背中がまた砂利や土を削り、慌てて力を入れる。止まるとまた登りだす。滑る。引っ張られる。落ちる。止まる。それを何度か繰り返した。
問題は、何だろう。
井戸の入り口がもう随分と小さい。僅かに零れてくる光を見詰めながら、日蝕は終わっただろうかと随分悠長なことを考えていた。
問題は、何だろう。
俺の体力がどこまで持つか、だろうか。
永司が足を引っ張るから、俺は一時も気を緩ませることができない。だったら永司の手を蹴って振り解けば良いのだろうが、俺にはそんなつもりは毛頭ない。
狭い井戸だったから、手で壁を掴もうとすると土が零れてそれが顔に落ちてくる。口の中に小石や土が入ってくるたびに唾液を溜めて口を濯いだが、随分と口の中がジャリジャリしていた。俺は何故か随分と落ち着いていたし、ただ黙々とこの井戸から這い出ようともがいていた。滑ったり、引っ張られたりしても、ずっと上を見ていた。
問題は何だろう。
俺の体力の限界。今はまだ良いが、持久戦になれば俺が負けるだろう。
誰に?
俺の足を掴んでいる永司に。
そうだ。俺よりも永司の方がスタミナあるもんな。
頭の中で自分を相手に自分がゴチャゴチャ喋っているけど、どうもおかしい。自分の一部分がゴッソリと無くなっているみたいだ。
腹に力を入れて真っ暗な中を手探りで登っていると、途中で指が何かに引っ掛かり爪が割れた。酷く痛む指先に眉を顰めながら、それでも少し嬉しい。だってそこには壁から少し出っ張った手のひら大の岩があったんだ。手で何度も強度を確かめ、それがしっかりと壁にめり込んでいるのを確認すると、慎重に身体を動かしながらよじ登っていく。土の中を這い回る虫のように少しずつ進んで行き、岩の位置をもう一度確認すると、そこに自由になっている右足をかけてゆっくりと体重を乗せてみた。
大丈夫だ。これなら少しは休憩できる。
そう思うと何だか煙草が吸いたくなった。
「なぁ永司」
問題は何だろう。
俺の体力?
ここから落ちたら、どこに行くんだろう。
俺はどうなるんだろう。
「永司」
もう一度呼びかけてみたが、永司は何も答えなかった。
「永司のこと大好きだよ。むっちゃ好き。本気で好き。ちょーー好き。愛してる。
なぁ永司。去年の春に初めて同じクラスになってさ、教室で目が合ったよな?勿論覚えてるだろ?お前はすっごいカッコ良くて、俺はもう1人で興奮してたんだぞ?知ってるか?カッコイイカッコイイってさ、頭ン中で叫びまくり。お前の瞳が凄く深くてさ…俺、瞳が深い人間って大好きなんだよ。だからさ、お前の瞳ずっと見てた。お前も俺をずっと見てたな。
ああ、あの時お前、俺を見ながらなんか言ったろ?席が離れてたから分からないフリしてたけど、あれ、なんて言ったか実は知ってたんだ。『好きだよ』って言ったろ?あの時もう俺すっげードキドキしてさ。お前の後ろには春の空があって、そりゃーもう、最高に綺麗だった。
…俺さ、お前が俺の事好きなんだって、多分ずっと前から気がついてたんだろうな。もう、ずっとずーーっと前から。お前が俺を見つけるもっと前から。だって俺もお前のこと、ずっとずーーっと前から好きだったもん。でもな、俺はムッチャ鈍感でバカだから、自分でもそれに気がつかなかったんだ。ホント、バカだよな。
好きだよ永司。大好きだ。俺さ、初めて会った日のこと凄い良く覚えてるんだ。出席取ったじゃん?あの時、ちゃんとお前の名前チェックしてたんだぜ?俺、可愛いヤツだろ?あと、お前と初めて喋った時の事とかも、ちゃんと覚えてる。お前も俺のことずっと見てたけど、俺だってお前のことずっと見てたんだ。お前がどんな話に興味があるのかとか、どんな風にしたら笑ってくれるのかとか、心ン中のどっかの部分でいっつも考えてた。
好きだよ永司。大好きだ。
ずっと前、鷹の話をしたよな?覚えてるか?俺が好きで好きで欲しくてたまらなかったけど、結局死んでしまったあの鷹だよ。お前は…前にも言ったけど、お前はあの鷹と瞳が似てるよ。何よりも誇り高くて、凄く綺麗で深いんだ。俺には何も掴めない。普段何を感じ、何を見ているのかも分からない。でも、そんな永司も好きだよ。きっと俺には想像もできないようなモノを見たり考えたりしてるんだろうな。
なぁ永司。今年も一緒に桜を見に行こう。去年したみたいに、一杯一杯見に行こうぜ。誰もいない穴場を探してさ、二人だけで一杯花見をしよう。ビール持ってよ、お前のハーレーに乗ってどっか誰もいない場所に行こう。お前、好きだろ?俺と二人っきりで花見するの好きだろ?俺も大好きだよ。永司と二人っきりになれるなら、どこでも良い。でも苅田達もたまには呼ぼう。たまに、だけどな。
永司大好き。愛してるよ。
お前と一緒に風呂に入って、身体洗ってもらうの好き。あと、ホットミルク作ってもらうの好き。髪の毛撫でてもらうの好き。キスしてもらうの好き。一緒に寝るのも好き。永司と見詰め合うの大好き。ベッドで一緒にゴロゴロしてるのも超好き。
一緒にいよう。いつでも一緒にいような。
俺はお前が思ってる以上にお前に惚れてるんだ」
身体を支えていた岩が突然崩れ、俺はまた深く落ちていく。
今度はどこまで落ちたのか。
上を見上げると井戸の入り口がさっきよりずっと小さくなっていた。でも、まだ見える。まだ大丈夫だ。
この井戸はどこまで続いているんだろう。下を見てもそこには光が届いてないから何も見えないし、そのベタっと張り付くような暗闇は見ていて気持ちが悪い。俺の足首を掴む永司がこの暗闇にいたのかと思うと。
「…どうしようもなく、辛いよ」
呟いてみても永司は返事をしない。
呼ばれたから来た。
永司が俺を呼んだから。
ずっと永司は俺を呼んでいたんだ。
『向こう』の小さい永司は行くなって言ったけど、俺は行かなくちゃならないと強く感じて。
思い出した事がある。
アレはいくつの頃だったか。確かまだ小学生、それも低学年の頃だ。
引越し先の小さな借家の後ろに随分と暗い感じの山があった。それは普通の山とは違って何かやけに影の多い山だった気がする。母ちゃんは何故こんな場所に引越したのだろうかと、子供ながらに不思議に思ったくらいだった。それくらい俺はその山に暗いモノを感じていた。
引越して来たその日に姉ちゃんは高い熱を出し、暫く寝込んでいた。姉ちゃんが心配だった俺は学校から帰るとすぐに姉ちゃんの部屋を覗きに行き、何か自分に出来ることはないかとウロウロしては母ちゃんに叱られた。姉ちゃんの顔色は悪く、普段から白いその顔が怖いくらい青白くなっていた。
そうだ。あの時も、急に誰かに呼ばれた気がして俺は何も考えず家を出た。
外は夕暮れで、烏が山に帰っていくのを見ながら俺は引き込まれるようにあの薄暗い影の多い山に入っていったんだ。それは永司の声ではなく、もっと年老いていて肉が腐ったような匂いがする声だった。
それでも俺は何故か山に入っていった。何故かは分からないけど、あの時は「俺が姉ちゃんを救うんだ」と言う妙な緊迫感と使命感で一杯になっていたんだ。
山の頂上を目指して道路を進んで行くと途中で道が途切れていた。まだその道路は未完成だったらしくて近くにダンプやブルドーザーが止めてあった。俺は立ち入り禁止のロープをくぐって中に入って行き、砂利道を歩いて行こうとしたら、工事をしている砂利道のすぐ際に大きな杉の木があった。振り返ってみると眼下に自分の家が見え、まだそんなに登ってはないのだなと思った。でも夕日はもう沈みきる寸前で、これ以上登るのが怖かったのも確かだ。
どうしようと悩みながら、それでもまだ登ろうと歩き出した時だ。
杉の木の下の土が、モゾモゾと蠢いているのが見えた。
動きを止めて息を潜め何があるのだろうとじっと見ていると、ソレは土の中でグズグズと動き回っている。盛り上がった土の間から汚れた肉の塊のようなモノが見えた。
あの時、子供だった自分が何を感じ何をしたのか今ではよく思い出せない。アレが俺を呼んだのかと思って近寄ろうとしたけど、どうしても動けなかったって事は覚えているが、そこから先の記憶は薄い。あの赤い肉の塊の上にドンドン土を被せていたような気もするし、俺があの肉の塊と何か話をしていた気もする。どっちも随分と怪しい記憶だ。
ただ、次の日に姉ちゃんの熱が下がった。
昔のことをタラタラと思い出しながら、体力の回復を待つ。
さっき落ちた時に背中を随分と傷つけたらしく、常に背中から痛みが伝わっていた。
あの時。
俺は姉ちゃんを助けようと裏山に登った。誰かに呼ばれたあの時、俺は自分が姉ちゃんを助ける事が出来るんだと確信したんだ。そして、姉ちゃんは助かった。実は俺が勘違いしてるだけで、姉ちゃんは元々そんな酷い病状じゃなかったのかもしれない。俺は本当は裏山に行ってないのかもしれない。この記憶は全て俺の空想だったのかもしれない。でも姉ちゃんは助かったんだ。
だったら?
だったら今永司に呼ばれてこの場所まで来た俺が、すべき事は何だ?
「なぁ永司」
肘で支えていた部分の土が少し崩れ、パラパラと下に飲まれていく。
「俺ね、ずっと昔、山の神様に会ったんだよ。山の神様って言っても、真田の村にいるような山姫様とかじゃねぇよ?なんかもっとよくない神様みたいなモンだった。赤くて、ブヨブヨしてて、肉が腐ったような匂いのする神様だった。
今思えば、アレは太歳だったのかもしれんと思う。タイサイって知ってるか?木星の動きに合わせて動くモンで、見たり触ったり掘り出したりすると凄い祟りがあるって言われてるおっかないモンだよ。でも俺はアレを見つけてもまだ生きてるし、アレに姉ちゃんを助けてもらった。
俺はね、俺は。
あの神様みたいなモンに何かとてつもなく大事なコトを教えてもらった気がするんだ。そりゃもう、何よりも大事なコトだよ。えっとなんだっけ?難しい言葉。あの、哲学者とかが口にする【我々はどこから来たのか。我々とは何か。我々はどこに行くのか】だっけか?あんな感じの、俺にはサッパリ理解できねぇことを、教えてもらった気がする。
でもさ、俺、何も覚えてねぇんだよ。あの神様みたいなモンが何を言ったのか、全然覚えてねぇの。頭悪すぎ?記憶力とかなさすぎ?でももしかしたら、あれは覚えてはいけないコトだったのかも知れないと思うんだ。
なぁ永司。人生の中で、最後まで理解できない出来事って一体いくつあるんだろうな。お前は今自分の身に何が起こっているのかちゃんと理解してる?……俺は、全然理解できてねぇよ」
長い独り言が終わると、もう一度身体に気合を入れ直して井戸から這い出ようと身体を動かす。自由に動かすことができる右足で足場を確かめながら体重を預け、肘を使って体を持ち上げて上にずらしていく。僅かな光が差し込んでいる入り口にはウンザリするほど遠かったのだが、それでも今の俺にはこうやって上って行くしか方法がなかった。
「なぁ永司。俺さ、お前のこと大好きだよ。お前は分かってるのか分かってないのか知らんけど、俺はお前に惚れてるんだ。それは、本当なんだ。
去年の夏さ、一緒に海に行ったじゃん。盆過ぎだったから海には入らなかったけど、一緒に磯で遊んだよな。カニとか見つけたり、イソギンチャク突付いたりして。俺が貝取って食べようって言ったら、お前随分ビックリしてたっけ。お前はきっと、あんな小さくてそのヘンの岩場に一杯ひっついている貝が食べれるとは思ってなかったんだろうな。今年はもっともっといろんなモン食わせてやるよ。俺、素潜りムッチャ得意なんだ。
そうだ。春になったら山菜採りに行こう。お前、タラの芽とか食ったことある?俺の大好物なんだ。きっとお前も好きになると思うよ。
皆で行こう。真田は山菜に詳しいだろうし、また皆で山に行こう。いつもみたいにお前のマンションで酒飲んでゲームしてるより、よっぽど健康的じゃねぇ?苅田とかさぁ、面白いことねーかねーかって最近うるせーんだよ。
あーーバッティングセンター行きてぇ。そういやもうずっと行ってねぇな。最後に行ったのって、お前と一緒に行ったあの日だよ。もう半年以上行ってないぞ。俺、野球大好きなのに。なー。今度キャッチボールして。今度こそスライダーをマスターしたい」
俺の左足を掴んでいる永司に話し掛けながら、少しずつ上って行く。少しでも気を緩めれば左足を掴んでいる永司に井戸の底まで引き摺られてしまうような気がして、一瞬たりとも力を抜くことができなかった。
手を伸ばして突き出た岩に指を引っ掛け、バラバラと零れてくる砂利が目に入ると痛みで顔を顰める。首を曲げて腕の部分で目を擦った。
「一杯一緒に遊ぼう。一杯一緒にいよう。ずっと一緒にいよう。だって俺達、愛し合ってんだし」
呟きながら、何だか泣きそうになった。