第3章 日蝕
コッチから掛け直しても、家の電話は話中になっていて繋がらなかった。念の為姉ちゃんの携帯にも掛けてみたが、こちらは電波が届いてないとアナウンスされる。
俺は大きな溜息をひとつ吐いてテーブルに携帯を置き、それから永司と向き合った。
「何かあった?」
「いやなんでも」
首を振りながらもう一度今度は小さな溜息を吐き、永司の前髪を口に咥えてムシャムシャと食べるフリをする。何だったんだろう、あの気になる音。ジリジリジリジリと。
そうだ。外灯の電気が切れそうで切れない時とか、よくあんな音が鳴ってる気がする。暗い外灯とかなんか特にそうだ。あんな音が鳴ってる。大抵、俺の苦手な場所。
物思いにふけっていると、後ろからガリガリと何かを引っかく音がした。髪から口を離して振り返って見ると、こんぺいとうがテーブルの上にある木箱を開けろと爪で引っ掻いている。どうせまた木箱の中で丸まって眠りたいのだろう。
「お前のモンじゃないんだぞ〜」
ブーブーと文句を垂れながら木箱を開けてやろうと背を逸らし鍵に手を伸ばした。一瞬グラリと身体が傾くが、永司が腰を支えたのでちょっと面倒だった俺は無理な体勢のまま鍵で木箱を開けてやる。
「良いかこんぺーとー。お前のモンじゃねぇんだからなっ」
箱を開けた途端に中に入り満足げに喉を鳴らしながら丸くなるこんぺいとうを見て、俺はもう一度釘を刺してみたけど、猫は丸まったままで返事もせず永司が笑っただけだった。
「何を入れようか」
もう永司の口癖になっている言葉。
俺は正面を向いて永司の唇に指を当て、ゆるく撫でてみる。永司はさっきと同じように俺の指を少し舐め、それから俺を引き寄せて触れるだけのキスをした。
「愛してるよ」
低い囁きに、俺も同じように触れるだけのキスをする。
「俺も愛してる」
囁き返して、もう一度キスをする。
「好きだよ」
「俺も好き。大好き」
クスクスと笑いながら啄ばむようなキスを繰り返し、囁きあう。ゆっくりと触れ、すぐに離れて行く唇を追うようにまた唇に触れ、離していく。
「愛してる」
「俺だって愛してる」
視線が絡み合い、身体の奥が熱くなる。コイツの瞳は何故こんなにも俺を魅了するのだろうか。
「春樹愛してるよ。どうしようもないくらい愛してる。俺の中にはお前への愛しかないんだ。本当に、それだけなんだ」
深い瞳の底からやってくる永司の想いは抑えた囁きに変わり、俺の中へ入ると悲鳴に近い叫びに変わる。
どうしてだろう。普通に接しているだけなのに、何故急にこんな風になるんだろう。
「永司。俺だって本当に愛してるよ。大好きでたまらない。だからもっと俺の愛を――」
唇を塞がれて最後まで言えなかった。
「永司…ちゃんと聞い……」
「分かってる」
お前は分かってねぇと言ってやりたかったが、永司は俺の腰と頭の後ろを手で押さえ込み口を塞いで舌を捻じ込んでくる。
永司はたまに俺を不安にさせる。
俺の声が届いてないような不安。
強引なキスに力を抜き、されるがままになりながら何て言えば良いのか考えた。
「…んーー」
手で背中を軽く叩いて声を出すと、ようやく解放された。
「ね。一緒に愛してるって言お」
ニヘと笑いながら言ってみると、永司は頷きながら手をずらして素肌に触れてきた。背に感じる手の温もりと感情、愛情。
「キスしながら言う。キスしながら言いたい。だからもぉ一回キスしろ」
子供がねだるようにんーと唇を突き出してみると、永司が微笑みながらもう一度キスしてくる。強く押し当ててまた舌を入れようとしてきたので、顔を後ろに反らしてデコピンした。
「あのね、一緒に言おって言ってるだろ?そんなベロベロしたらお互い言えんだろ?もっと、ちゅってすんの。ちゅってしたまま言うの。分かる?」
「分かった。了解です」
永司が楽しそうにクスリと笑ったので、なんだかほっとした。「愛してる」の言葉を普通に囁いている時は問題ないんだけど、「どれくらいお前を愛しているか」とかって感じの話になるといつもちょっと切なくなる。永司は自分の感情に言葉がついてこないのがとてもイラつくみたいだし、それにコイツは頑固だから、俺が「俺もお前と同じくらい愛してる」って言ったって絶対に信じない。それどころか、いつも激しく波立ってる感情をもっとキツクして、俺に愛を訴えてくるんだ。
「んじゃもう一回、ちぅ」
さっきと同じように唇を大袈裟に突き出してみると、永司はやっぱり楽しそうに笑みを浮かべながら唇をそっと押し当てた。
俺はそれを見て、もう一度ほっとする。
「んじゃ、愛してるって言お。せーの、愛してる」
「愛してるよ」
「『よ』はいらへんの、『よ』は。愛してる、だけ。はいもぉ一回」
キスしたまま喋るのは楽しい。動く唇の感触がくすぐったくてキモチイイ。
【愛してる】
一緒に言ってみると、なんだかやけに欲情した。
【愛してる】
【愛してる】
【愛してる】
囁きあいながらキスをし、角度を変えてはまた囁きあう。もう不安なんてものは跡形もなく消え去り、俺達は互いに満たされていると感じていた。
背中に触れていた永司の手が這うようにして動き出し、背筋を伝って腰に触れる。
「春樹様。これ以上我慢できそうにないのですが、そろそろベッドへ移動しませんか?」
まだ唇を合わせたまま、永司がちょっと笑って言う。
「俺も。久々に凄い欲情してる」
「良いね、コレ。もう一回言おう」
「うん」
クスクスと笑いながら、秘密の話でもしているかのように小さく囁きあう。自分が酷く熱っぽい目で永司を見ているのを感じた。
【愛してる】
一緒に呟く。ぴったりと同じタイミングで、ひとつの言葉を触れたまま。
永司の声は俺の身体に入り俺の声となり、俺の声は永司の身体に入り永司の声となる。
たったひとつの言葉でも、遣り方を変えれば良い方向へも悪い方向へも転がっていく。でも俺は、良い方向への持って行き方をひとつ学んだ。
唇を離した永司が俺の身体を肩に担ぐようにしながら立ち上がり、寝室へと向って行く。妙に欲情している自分の身体を感じながら永司の首に抱きついて運ばれていると、寝室へ入る寸前にテーブルの上にある木箱が目に入った。
「なぁ永司。あの木箱に手紙を入れよう」
寝室のドアを閉められてベッドに運ばれる。
「なんの手紙?」
「ラブレター。お互いに恋文を書く。俺、お前に伝えたいこと一杯ある」
「俺も。春樹に伝えたい想いは一杯あるよ」
着々と俺の服を脱がせながら、永司はクスリと笑う。
「じゃあ書こう。一杯書こう。口で言っても言い切れない事とか、言葉にならない事とか、なんだか纏まらないゴチャゴチャしてる事とか、手紙でしか書けない事とか。一杯書こう。そんで、あの箱の中に大事にとっておこう」
互いに全裸になると、永司が手を伸ばして部屋の電気を消す。枕元のランプも消して、もう何も見えない。
「長い手紙になるよ。春樹は全部読んでくれる?」
「長い手紙でも読むよ。俺も長い手紙を書くよ?」
「暗記するまで読む」
「俺だって永司の手紙は百回読む」
「俺は春樹の手紙千回読む」
「じゃあ俺は手紙が擦り切れるまで読む」
「俺は擦り切れて読めなくなっても読む」
「じゃあ俺は……」
クスクスと笑いながら愛撫を受ける。
俺達はセックスしながら何度もキスし、何度も一緒に【愛してる】と囁き合った。手を繋ぎながら、身体を繋ぎながら、愛していると。
穏やかなセックスだった。
そして俺は…俺達は、幸せだった。
永司の身体から流れてくる感情もまた、満たされていた。
俺達は満ち溢れていたのだ。
その晩、俺の身体は幾度も永司を求め、永司はそれに応えた。
そして、気を失う寸前、暗闇の中で金の鍵を見た気がした。あの、鍵の頭が指輪のようになっている小さな鍵を。
それは俺と永司のようだった。
眩しくて瞼を擦りながらゆっくりと目を開けると、毎回感じる身体を包み込むような優しい風がない、そこはいつもよりずっと静かなライ麦畑。
風がないから本当に静かだけど、でも本当に暖かくて気持ちが良い。
小さな俺はふぅと小さく息を吐くと、目を閉じてここの空気を味わった。この澄んだ空気、温もり、肌に当たるライ麦達の感触。
ここは本当に気持ちが良い。まるで永司そのもののように、ここにある全ては俺を受け入れ愛してくれている。太陽も、空も、風も、大地も、向こうに見えるライ麦の地平線も。
……――――。
「今行く」
目を開けて小さく返事をすると、俺は全速力で走り出す。
今日こそは。
今日こそは行かなくちゃいけない。
振り返ったら永司が追いかけて来るような気がしたから、俺は真っ直ぐ前だけ向いて全速で走る。
風がないから自分の足音と呼吸の音しか聞こえなかった。
ライ麦達が邪魔をするように穂を当ててくる。でも、俺はそんなん構っていられない。
とにかく走れ。
永司に気付かれないうちに。
ただ真っ直ぐに走った。
まだ体力のない小さな身体の自分に歯軋りしながらも、行かなくちゃならないと感じるそれ一心で走る。ひたすらに走る。
そして遠くに緑の森が見えた時、自分の身体に鞭を打つように更にスピードを上げた。
……――――。
「今行くから!」
叫ぶように返事をしながらもつれる足に力を込めて走っていく。
行かなくちゃ。
もうそれしか思い浮かばない。
もっと早く動け。自分の足!
赤い橋に足を乗せた時、ようやく足を止めて息を整えた。身体を曲げて膝の上に手を置き、ゼーゼーと鳴る喉に唾液を流して潤そうとする。どっど汗が噴出していて、身体が異常に熱かった。手の甲で汗を拭うと、動こうとしない足を手で軽く叩きながら橋を渡ろうと歩き出す。
橋の真ん中まで来ると、今まで完全に止んでいた風が絶壁から吹き上げて俺の身体を押し戻そうとする。でもその疾風は一度しか吹かなかった。
橋を渡りきった場所にあるのは、一対の狛犬。
「春樹ッ!!」
来ると思った。
俺は橋を渡りきろうと足を上げる。
「何故?どうして行こうとする?俺は行かないでくれとあんなに頼んだ!!」
永司の声は悲鳴に近かった。
でも俺は躊躇せず橋を渡りきり森に入った。
「行かなくちゃならない」
渡りきったところで振り返り、俺は永司にそう告げる。永司も走ってここまでやって来たのだろう。橋の手前で肩で息をしながら俺を睨む。
「何故?俺は行ってはならないと言った。お前も行ってはならないと感じているはず。何故行く?どうして行く必要がある?頼むから行かないでくれ。俺はお前を大事にする!大事にしたいんだ!!」
「分かってる。全部分かってる」
悲鳴を上げる永司に静かに答え、俺は森に入って行く。
橋のたもとにいる黙ったまま俺を見下ろす一対の狛犬。口を開く阿型と口を閉じる吽型の間を通り、巨木が立ち並ぶ道なき道に踏み入る。
……――――。
「もうすぐだから」
返事をしながら森の奥へと入って行く。木々が光を遮るのか、森は暗くてやけに湿気っていた。ジメジメとした身体にへばりつく湿気と、何かが腐っているような嫌な匂いがする。背後からはいつまでも永司の叫び声が聞こえていた。
ふと気がつくと、自分の身体が変わっていた。
子供の身体じゃないけど『向こう側』の身体でもない、その中間くらいな感じ。よく分からないけど、とにかく子供の身体ではなかった。
いつ変わったんだろう。ライ麦畑にいた時は確かに子供の身体だったのに。
森の奥へと進んでいく。外から見れば小さな森なんだけど、入ってみるとどこまでも広がる深い森だった。道がないから、もう帰れないかもしれないと思った。
でも俺はそのまま進む。
どれくらい歩いただろうか。
導かれるように森の中を進み、橋の向こうから叫び続ける永司の声もついに聞こえなくなった時、ついにその場所へと到着した。
開かれた場所だった。
半径10メートルもないその場所には、何もない。木も草も苔も、枯草さえも。死んだようになっているその場所には、ただ乾ききった岩や小石が冷たく転がっているだけ。ここだけ爆弾が投下されたみたいに、酷い有様だった。
もしかしたら、森の中心なのかもしれない。
永司のライ麦畑の中心にこの森がある。周りを底なしの崖に囲まれてて、その真ん中に浮かぶこの森。そしてこの森の中心に、この場所がある。なんとなくそんな気がした。
動こうとしない足に力を入れ、この場所に踏み入る。
その暗さに空を仰ぐと、太陽が月に隠れようとしていた。
ああ、日蝕なんだ。
視線を戻してその場所の、更なる中心に向かう。
その小さな穴に。
ソレは何だか分からない。
井戸なのかもしれないと思った。
落とし穴のような井戸に近付き、覗き込んでみる。
真っ暗だ。永司の寝室みたいに、光が一切届いてない。
小さなその井戸からは、何かが腐ったようなとても嫌な匂いがした。
すっと辺りが暗くなりもう一度空を見上げると、月が太陽を飲み込んだところだった。
金環が見える。なんて美しいんだろう。
まるで俺達のあの鍵のようだな。
……―――。
ここに来るのは怖かったよ。
向こうの永司は行くな行くなって凄く必死になって言うしさ、俺の身体も酷く嫌がった。今も嫌がってるんだぜ?俺の勘なんてギャーギャー喚きっぱなしだし。
でも来たよ。
本当はな、姉ちゃんに「絶対に行っては駄目」って言われてた。
でも来た。
俺は来たよ。姉ちゃんの忠告を無視して、向こう永司の訴えを振り切って、ここまで来たんだよ。
だってお前は俺を呼んだんだ。求めたんだ。
「だから俺は来たよ。永司」
井戸の中から伸びた白く腐った手に足首を捕まれ、俺は一気に井戸の中に引き摺り込まれた。