第2章 重い靴

 なんだか気がかりな夢を見て、目が覚めた。
 寒い。
 そうだ昨日から寒波が来たってニュースで……。
 とにかく寒い。
 こんな日は出歩きたくない学校も行きたくない。ベッドの中で永司とイチャイチャしていたい…。
 まだぼんやりする頭で毛布に包まろうと腕をモゾモゾさせると、寒さの原因が分かった。隣に永司がいない。俺は寒さの原因を全部永司のせいにして、口の中でブツブツ文句を言いながら永司を待った。いつもなら、遅刻ギリギリの時間帯で俺を起こしに来てくれる。
 でも永司は来なかった。いや、来てなかった。二度寝しようとしてもやけに寒くて眠れないから枕元の携帯で時間を見てみれば、なんとすでに一限目が始まっている時刻だったのだ。慌ててベッドから飛び降りでリビングのドアを開ける。こんなことは今までなかったから、永司に何かあったのかと心配したのだ。
 でもそこには、ソファーで寝ている永司がいた。とても珍しいことだが、永司はヘッドホンをして音楽を聴きながら眠っていたのだ。溜息を吐いて永司の髪に触れると、今日もまた木箱の中で寝ていたこんぺいとうが目を覚まし俺を見た。
 テーブルの上には、こんぺいとうのベッドと化した木箱と、俺のCDケース10枚程が雑に積み上げられていた。

 その日は学校をサボった。
 窓を開けてみると外は雪で、バルコニーにも10センチほど積もっていた。こんぺいとうは生まれて初めて見る雪が珍しかったのか、それとも寒さに強い猫なのか、とにかく随分と長くバルコニーで遊んでいた。
 俺と永司はその日一日、音楽を聴いて過ごした。
 俺が持っているCDを一枚一枚聴いていき、音楽に疎い永司にかかっているアルバムについてやそのアーティストの説明をしながらギターを弾いた。ジョン・レノンのアルバムは何故か最後まで発見できなかったけれども、永司は随分と熱心に俺の奏でるギターと、俺の愛する音楽達に耳をすませていた。永司の低い声が大好きな俺は、何でも良いから知っている歌を永司に歌ってもらいたかったが、永司は苦笑するだけで歌ってはくれなかった。その代わり、俺に歌をせがんだ。それじゃ一緒に歌おうと誘ったが永司は頷いてくれず、ケチだケチだと文句を垂れながら不貞腐れた俺はギターを掻き鳴らしてかなり適当に母ちゃんがよく口ずさんでいたスナフキンの「おさびし山」とかを歌った。歌ったと言うか、喚き散らした。
 昼に近くの蕎麦屋で蕎麦を注文し、それを喰ってから少しだけリビングで昼寝をし、起きてからまた音楽を聴いた。
 レッド・ツェッペリンの天国への階段が始まり、CDの中にいるジミー・ペイジと一緒にギターを弾いた。曲が終わると永司がリプレイを押したので、俺はまたジミー・ペイジとセッションを組む。永司は何が楽しいのかリプレイを繰り返し、俺はその度に天国への階段を弾いた。

 夜になると今日も鍵で木箱を開けた。
 何故か木箱を開ける度にやって来てはそこで眠りだすこんぺいとうを見ながら、何を入れようか、何を入れようかって毎晩言ってる。
「こうなったらハルコと永司の結婚指輪でも入れておきましょうよ!」
 オメメをキラキラさせながら言ってみたり。
「指輪欲しいの?買っ…」
「いや全然いらん。俺、指輪するとやたらと肩凝ってやたらと肩凝ると今度はやたらと頭痛がする」
 嬉しそうな顔をした永司を素早く落胆させつつ、また何を入れようか考える。身体をバタンと倒して永司の膝に頭を置くと、そこから木箱とこんぺいとうの丸い背中が見えた。うーんと考えながら永司の膝に頬を擦り付けて甘えていると、こんぺいとうよりも自分の方が猫に近いような気がしてくる。苅田にも言われたなぁ。猫科だって。
「俺はティラノザウルスだぁ!」
「…………は?」
 ポカンとしている永司を見てクスクスと笑いながら手を握る。
 大きくて綺麗な手。熱い。永司の気持ちはいつも熱い。
 俺達は幸せだ。



 一月最後の日、久々に屋上に出てみると緋澄がいた。寒くて寒くてしょうがなかったけど、トイレで煙草を吸うのはもう嫌だ。だって臭いもん。苅田みたいに空き教室で吸うのも良いけど皆で吸ってると廊下まで煙が行くし、裏庭や校舎の影に行っても良いんだけどどうせ寒さはここと同じ。だからここに来た。
 昨日今日と天気が良かったからだろう。積もった雪が中途半端に溶けてグチャグチャになってる。水たまりを避けて、できるだけ乾いている場所を選びながら先に来ていた緋澄のいる場所まで行く。
「おトーフ緋澄〜」
 緋澄の前にある大きな水たまりを飛び越え、柵に手をつく。柵は少し濡れていたらしく、ジトっと肌に水分が染み込んだ。
 緋澄はチラっと俺を見て、また視線を校庭に戻した。何か見えるのだろうかと思い俺もその先に視線をやったけれども、何もない。いつもと同じ校庭・グランド・サッカーゴール・バックネット。その向こうにあるのは溶けかかった雪のように綺麗とは言えない、薄汚れたビルの直線。その上に広がるのは、同じような色をした灰色の空。
 緋澄は柵に凭れてそれらを眺めながら、眠そうに目を擦っている。コイツはいつもそうだ。昏々と眠るか、こうしてぼんやりしながら眠そうに目を擦っているか。
 ポケットから煙草の箱を出し中から一本取り出すと、それを咥えて百円ライターで火を点けた。冷たい空気と一緒に肺に煙を送り込む。
 緋澄がまたチラリと俺を見た。だから俺は喋りだす。
「目を瞑った時にだけ感じるモノってあるじゃん?例えば、自分の呼吸の音とか、藤沢が黒板に方程式書いてる時のチョークの軋みとか、自分が履いている靴の本当の重みとか、隣にいる奴の本当の体温とか、瞼に浮かぶ遠くにあるのか近くにあるのか分からない模様とかさ、そういうの。俺はそんなんが大好きなんだ。でも、目を瞑った時にだけ感じる妙な孤独感っての?こう、目で見えるモノもなく手で触れている感触もなく、世界が凄く遠く感じる瞬間。あの瞬間が…」
 言葉が出てこなくて口を閉ざした。
 あの瞬間が、好きなわけでも嫌いなわけでもない。怖いわけでも気に入っているわけでもない。ただ、漠然とした妙な孤独感が。
「自分に馴染んでないような気がして気になる。その孤独感に、本当は自分だけ混じってないような気がするんだ」
 煙草の灰をトントンと落としながら緋澄に視線をやると、目が合った。目が合ったと分かる程、緋澄の視線は俺を捕えている。流れが止まっているんだと感じた。
「混じってないと言うか、混じれない」
 俺が言葉を続けると、緋澄が手を上げて自分のこめかみに触れた。緋澄の左眼の脇、眉尻の少し上辺りには何かの傷があるんだけど、それに触れている。
「深海は……」
 緋澄は何か言おうとするも、じっと俺を見ながら考え込みそのまま口を閉ざした。口を閉じた途端、緋澄の瞳はまた流れていく。どこになにがあって、どこがどんなふうになっているのか、緋澄はきっと自分のことが何ひとつとして分かららないのだろう。
 それからは灰を落とした煙草をもう一度咥え、柵に凭れて二人で校庭を見ていた。授業が始まる鐘が鳴ったが俺達はそこから動かず、ただ柵に両腕をかけそこに顎を乗せ、片足で体重を支えもう一方の曲げた片足をプラプラさせて校庭を見ていた。
 俺は一時間に5本の煙草を吸い、緋澄は一時間で10回以上小さな欠伸をした。時折頭に浮かんだことなどを口にしたが、緋澄はいつものように聞いているのか聞いていないのか分からないし返事もなかった。でも、俺はポツポツと何か意味のない事などを話していた。
 5本目の煙草を吸い終え、携帯灰皿へと吸殻を入れた時だ。
 思い出したかのように緋澄が小さく口を開けた。
「深海って重い靴を履くの?」
 緋澄は腕で顔を半分隠すようにしながら俺を見ている。俺はその質問の意味を少し考え、そしてそれに思い当たる自分の独り言を思い出した。
「普通の靴を履いてる。でも、目を閉じると靴の重みを感じる時がある。そんな時、ああ、この靴はこんな重みがあるのかって思うんだ」
 それは誰にだってある、ふと感じてそのまま消えていく多くのモノのひとつだと思う。
「俺は、重い靴を履こうと思う。でも、どんな重い靴を履いても、どれだけ重いのか、よく分からない」
 緋澄は自分に言い聞かせるようにゆっくりと言葉にした。
「なんで重い靴を履こうと思うんだ?」
 訊ねてみても何も答えない。自分でも分からないのかもしれない。
 緋澄がまた自分の傷に触れているので、手を伸ばして俺もその傷に触れてみた。その瞬間辛そうに瞳が揺れるも、嫌がるような素振りもせずその瞳も嫌がってはいなかった。
「苅田がこの傷つけたんだろう」
「なんで分かるの?」
 灰色の雲が厚みを増し、空は昼間とは思えないくらい暗かった。
「お前の瞳が感情を表すのは、苅田が絡む時だけだから」
 緋澄がやはり辛そうに、しかし僅かに微笑む。
 灰色の空や同じように溶けかけの薄汚れた景色の中でも白く浮かび上がる緋澄の微笑を見て、この男は美しいと心底そう思った。



 その日の晩、母ちゃんから電話があった。
 俺のアパートの大家さんから連絡があったのだそうだ。そういや俺は全然向こうに帰ってない。
 言い訳に困っていると、永司がホットミルクを持ってきてくれて、それをテーブルに置いた。隣に座った永司に凭れてから、なんて説明しようか考える。
 友達の家に入り浸り…で良いのか?
『んで、私のバカ息子は元気なんかい?』
「母ちゃんの可愛い息子さんは元気一杯でお腹もまんぷくのようですぅ。何一つ問題なく暮らしておりますぅ。ちゃんと学校にも行ってるぞっ!」
 この前サボったけど。
『当然だろ。誰も住んでない部屋の家賃まではともかく、バカ息子が通ってもいない学校の金まで払ってた、なんてコトになってたら、アンタ今ごろ私から拷問コブラツイストの刑を受けてるよ』
 母ちゃんの言葉にケタケタと笑いながら温めてもらったホットミルクを手にして飲んでいると、隣から永司が抱き寄せてくる。俺は片手にミルクのカップ、片手に携帯という状態のままソファーの上でゴロリとうつ伏せになり、永司の足に腕を乗せる。
 母ちゃんは俺が永司のマンションにいると言うと「人様の家にそんなに長く入り浸るな」等などイロイロ言っていたようだけど、そのヘンの説教はちゃんと聞いてない。時折「はいっ」「分かりましたっ」「了解しましたっ」などと元気良く返事しながら、永司の足に噛み付いて遊んでいたのだ。
 途中で母ちゃんが永司と代わってくれと言うので携帯を差し出してみると、永司は意外にすんなり受け取って普通に話していた。まぁ多分、「春樹がいつもいつも…」から始まって「それじゃ御両親に宜しく」くらいで終わる何の意味もない会話なんだと思うけど、携帯から漏れてくる母ちゃんの声は微妙にテンションが高い。そういや以前「岬杜君の声にフォーリン・ラブ」などとほざいていたな。
 ミルクを飲み終えるとテーブルの上に置き、まだ母ちゃんと喋っている永司にごろごろと甘えた。鼻を摘んでみたり耳を引っ張ってみたりしても永司は相手にしてくれない。当たり前なんだけどちょっとムカツク。なんか急に淋しくなって、立ち上がってゴリラのように両手で胸を叩きながらワーワー喚いたりドタバタと足踏みしたりカンフーの真似事なんかをしていたら、ようやく永司が笑いながら俺に携帯を差し出した。
 まだ通話中だ。
『アンタ相変わらず五月蝿い子だね!』
 耳に当てた途端に叱られた。
「母ちゃんの息子は元気一杯なのさ」
「ばーか。それよりコッチの住所が変わったんだ。メモ取る準備しな」
 また引越ししたのかと思って、立ち上がってメモの準備をした。そこは能登の先にある俺の生まれた家らしかった。覚えているかと訊かれたが、勿論そんなことは覚えてない。
「深海の家なん?」
「なんだそりゃ」
「ようは、そこは借家とかじゃなくて、深海家のモンなんか?」
「そうだよ。アンタが生まれた家と、もうひとつ私達の家はあるんだよ。そんな事も知らなかった?」
 知らない。今始めて知った。
 家が何個もあると金持ちみたいな気がするが、それはまさしく「気がするだけ」だ。
 住所を書き取ったメモとボールペンをテーブルの上に置くと、電話の向こうで誰かと話している声がする。なんだろうと思っていると、すぐに母ちゃんの声がした。
『響湖と代わるよ』
「う、あ、小遣い…」
 アップしてくれと言う暇もなかった。
『春樹?』
 今までの母ちゃんの声とは打って変わって、姉ちゃんの静かで落ち着いた声が耳に届く。たまに、この二人は本当に親子なんだろうかと真剣に思ってしまうほど、姉ちゃんと母ちゃんは違う。姿形は似ては見える。でも、アルミで出来た鍋とホーローで出来た鍋と鉄で出来た鍋がそれぞれ違うように、この二人もまた違うモノで出来ていた。姉ちゃんは、父親に似ているのかもしれない。
 姉ちゃんは特に用があったわけじゃなかったみたいだ。ただ、正月に帰って来なかったからと言って、俺に近況を報告させた。どんな些細な事でも良い。姉ちゃんは、昔からとにかく俺の話を聞きたがるんだ。
 長野に行った事や最近の学校の出来事などを突っ立ったまま喋っていると、永司に手を引かれた。そのまま永司の足に跨って座ると、オデコにキスされる。アホと声に出さずに言いながら、姉ちゃんに長野で見たヘンな神社や狛犬の話をした。
 永司は俺が喋っている間、ずっと俺の身体を撫でていた。愛しい愛しいとその手は語りかけてくる。どうしてこれほどまでに人を愛す事が出来るのだろうと思うくらい。
 ずっとその状態だったが、姉ちゃんとの会話が学校でのバカ話になった時、永司が手を止めて覗き込んできた。永司の深い瞳の奥が小さく揺れているのを見て、コイツが欲情しかけているのだと感じた。そして、それを感じた瞬間に俺の身体もまたそれに反応する。
 待ってろ。もうすぐ。
 口パクで言いながらその唇に指を当てると、永司が挑発するように俺を見据えながら当てた指を舐めた。
 その時、携帯がジリジリと妙な雑音を出す。
 聞き覚えのあるその音に、思わず眉を顰めた。頭にへばりつくような奇妙な音。なんだったか、この音。気になる。
「…姉ちゃん」
 ジリジリとまだ雑音が続く。長い。
「姉ちゃん?」
 姉ちゃんは長く沈黙していた。いや、沈黙していたのか、それとも声が届かなかったのか。今話していた全てを一瞬で忘れ、俺は姉ちゃんの声が届くのを待つ。携帯を握る手が知らぬ間に汗をかいていた。
 不意に雑音が止まる。
『……ルキ』
「聞こえてる」
 自分でも分からないけど、俺は囁くように早口で返事をした。またジリジリと雑音が始まる。
 雑音は大きくもならず小さくもならず、ただ俺の頭にへばりついていく。
『…絶対に行っては駄目』
 姉ちゃんの小さな呟きが聞こえたかと思うと、突然電話が切れた。





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