蝕
第1章 二人だけの鍵・単純な部分の話・とても大事な鍵
指輪のような金の鍵で木箱を開けるのが最近の日課だった。
たまにニュースで岬杜重工の格納庫放火事件について続報を流すことはあったが、永司は俺と一緒に学校に行くし、正月のように携帯を片手に苛々している様子もない。冬休み明けは長野で散々遊んで来たらしい苅田達いつものメンバーも疲れていたのだろう。永司のマンションを訪れることもなく、俺達はとても静かな日々を過ごした。
そして毎晩、頭が輪になっているこの金色の鍵で木箱を開ける。
まだ何も入っていないけれど、木箱からはフっと木の香り漂う。俺達は何もない木箱を見ながら何を入れようか話し合う。それが何よりも楽しかった。
横幅40センチくらい。縦は15センチくらい。奥行きは20センチくらい。これを売ってくれたバーサンによると、桜の木で出来ているそうだ。濃い茶色のその木箱には細々と彫刻が施されてあって、手前に打付錠がある。ここにあの鍵を差し込んで回すと、パカっと開くわけだ。面白くもないしさほど綺麗なわけでもない。珍しいモノでもない。でもこの木箱はとても良い匂いがする。
「何を入れようか?」
二人で鍵を開けると、永司がとても楽しそうに訊いてくる。
「そりゃお前、春樹くんとと永司くんだけの、秘密のモノ」
「それ、どんなモノ?」
「……いや、分からんけど。とにかく二人だけの、秘密のモノ」
「例えば?」
「……た、例えば……………ハルコと永司の秘密のモノとか?」
「エロいモノしか思い浮かばないんだけど」
「そんなもん思い浮かばすなっ」
ケラケラと笑いながら二人でこの木箱の中に何を入れようかと話し合う。そこに何を入れるか考えるだけでとても楽しい。
永司は鍵を握ったままの手を俺の手に重ねる。「二人だけの鍵」「たったひとつの鍵」「俺と春樹が共有する鍵」。永司は木箱よりもこの鍵をとても気に入っているようで、俺の手を握ったままそれらの言葉の意味を確かめるように何度も呟く。
低い声は心地良い。目を閉じて永司の手の感触を味わっていると、唇が触れた。キスされてる。
「ハイハイちょーーーーーっと待ってねぇ」
目を開けてニッコリと笑いながら顔を叛けた。
「なんで?」
「ハルコはこの前お前に散々ヤられて…ケツがいてーんだよこのおたんちん!」
苦笑する永司にビシとデコピンしてやってから立ち上がり、キッチンに行ってお湯を沸かす。まったく永司は何でも過剰すぎるんだ。その愛情も、セックスも。
珈琲とほうじ茶をいれてリビングへ戻り、音楽でも聴こうかとCDラックに手を伸ばした。永司は音に煩いので、オーディオは一流メーカーのモノばかりだ。実は俺の姉ちゃんもレコードが好きで真空管アンプなんてモノを持っているのだが、永司は更に金のかけかたが違う。それなのにコイツが持っているのはクラシックのCDが20枚ほど。なんて勿体無い。宝の持ち腐れだ。
「なに聴くの?」
自分のアパートから持ち込んだCDはもう200枚以上あった。それらを眺めていると、永司が珈琲を飲みながら背を逸らして訊いてくる。
「何が聴きたい?」
「なんでも。春樹の好きな曲を」
自分が持っているアルバムはどれも好きだ。どれにしようかとCDケースの背を人差し指でカタカタとなぞっていくと、ジョン・レノンの文字に指が自然に止まった。
永司に聴かせてやりたい曲。真っ先に思い浮かんだのは「LOVE」。
「んじゃ、コレ。お前に聴かせてやりたい。一緒に聴きたい」
是非聴かせてやりたいと思った…と言うか、そんなふうに感じた。
永司はテーブルにカップを置いて振り返り、こっちに手を伸ばしてきたのでケースを手渡してやると、興味深そうにジャケットの裏の曲目に目を通しながらカバーを開けた。中に入っているCDを出してプレイヤーの前で待機している俺にまた手渡そうとした時、その手が止まる。
なんだ?と思ってCDを見てみると、それはジョン・レノンじゃない。
何故か、尾崎豊。
「なはは。俺、横着者だからたまにこーゆーことやちゃうんだよねぇ」
へへっと笑いながらラックから尾崎のケースを取り出し中を見てみると、今度はパンタ&HALが。うぐぐと思いつつパンタ&HALのケースを見つけ出し中を見てみると、今度はポール・ウェラーが。今度こそと思いつつポール・ウェラーのケースを探し出して中を見てみると、ウィザードリィ7が。もはや音楽じゃねぇ。ゲームになっちまった…。
「……」
永司の視線を感じてハハと空笑し、ケースを元に戻す。永司はクスクスと笑いながら立ち上がり、自分で尾崎のCDをセットした。
「春樹はこの人、好き?」
「普通に好き。好きと言うか、ソレの一曲目が好き。惚れてる。スゲー好……ぉあ゜ーーーーーッ!!」
素っ頓狂な声を出した俺の視線の先にあるのは、何を入れるか楽しみにしている俺達の木箱……と、何故かその中でちょこんと座ってコチラを見ている黒い猫。
「俺と春樹の秘密のモノ第一弾。こんぺいとう」
永司は笑いながらこんぺいとうの頭を撫でた。
曲が始まる。尾崎豊の「核」だ。
俺と永司の前では、いつも気難しい顔をしている猫が木箱の中で丸まって寝ていた。
学校の授業は相変わらずつまらない。
つまらないけど、屋上へ行くのは寒い。
なんだかなぁと思いつつも全然分からない授業もちゃんと出て、冬休み明けの俺はとても良い子ちゃんだった。数学の授業だって、一回もさぼってないんだもん。藤沢に嫌味を言われたり、授業中当てられて黒板に適当な数字を並べてみたり、そんでまた怒られたり。それでも日々を平穏に送っていた。
最近は生物の授業が楽しいと思えてきて、生物の先生と仲良くなった。シゲちゃんと呼ばれているその教師はガリガリに痩せている30代後半のオッサンで、とっても気の良い人だ。近頃は秋佐田がいない時や昼休みが暇な時なんかに生物室に行って、シゲちゃんと二人で仲良くお喋りをしている。なんで二人かっていうと、永司は物理の授業を取っているのでシゲちゃんとは面識がなく、あまりついて来ないからだ。まぁ、面識があったとしても同じかもしれんけど。
今日も一人で別棟にある生物室に行ってシゲちゃんと仲良くお喋りをした。今日は蜜蜂の話。働き蜂の特攻精神についての話だ。
シゲちゃんによると、ミツバチは専守防衛なのだそうだ。働き蜂のハリにはカエシが付いていて刺さったら抜けないようになっているけれど、そのハリは元々産卵管だから腹から毒袋ごと内臓がごっそり抜けてしまうらしい。ハチが飛び去った後も筋肉が毒を注入し続けるけど、腹に大怪我をした働き蜂はいずれ死んでしまう。だから、よっぽどじゃないと攻撃してこない。
でももし自分達の巣を狙うモノがいたら、命をかけて闘う。彼女達は自分で種を残せないから、女王の子を必死で守る。そして死んでいく。
シゲちゃんは遺伝子戦略的にその死はたいした痛手にはならないと言うし、俺もそう思う。ミツバチ達は高度な社会を作っていて、働き蜂の死はその社会の仕組みの中に最初から組み込まれているからだ。ただし、働き蜂だって自分達の命をホイホイ捨てているわけじゃない。キイロスズメバチという強力な天敵がいるニホンミツバチなんかは、ハリを刺さなくても相手を熱で蒸し殺す必殺技を編み出してる。
「ねぇシゲちゃん。伝家の宝刀を抜いたが最後、自分も死んでしまう働き蜂達。彼女達は相手の体にハリを刺す時、どんな気分になるだろうねぇ」
生物室にある石油ストーブで足元を暖めながらシゲちゃんの持っている図鑑を捲ってみると、そこには様々な蜂達の写真があった。ドアップとかもあるけど、どれが鼻でどれがオデコが分かんない。デッカイ目しか分かんない。ニキビとかあったら面白いのに。
「私は人間以外の生物の気持ちなどと言うモノを考えるのが苦手でね。人間の主観で生物の気持ちを…と言われても。ハリを刺すのはただの本能だと思うよ?」
「どんな本能?」
「勿論全ての生物が持っている最大の本能。種の保存」
ページを捲るとスズメバチの説明が書いてあった。3、40匹のスズメバチがわずか3時間で3万匹ものミツバチを殺戮した例があると記されている。1匹のスズメバチが3秒に1匹のミツバチを3時間にわたって咬み殺し続けた計算になるらしい。
「俺は違うと思う」
図鑑を閉じる。シゲちゃんは珈琲を飲んでいた。
「なにが?」
「種の保存とか」
「だったら深海君はどう思う?ハリを刺す働き蜂の気持ちは?」
「攻撃セヨ!テメーだけはブチ殺す!!死ね死ね死ねーーーッ!!とか、かなり単純なモノ」
シゲちゃんは笑いながら珈琲カップをテーブルに置いた。珈琲はまだ半分くらい残っていたけれど、シゲちゃんはいつもこのくらい残す。
「蜂だから単純なモノ?」
図鑑をテーブルの下にある棚にしまうと、頬杖をついて俺に訊ねる。
「いやソレは関係ない。ただ複雑な要素から成り立ってるモノの最後の方にある、単純な部分の話」
俺はストーブで熱くなってきた足を気にしながら答える。
「それが種の保存という本能では?」
「いや違う。ソレはかなり違う。全然違う。相当違う。……と、何の根拠もなくそう思う」
シゲちゃんは片手で頬杖をつきながら笑っていた。
教室に戻ろうと渡り廊下を歩いていると岸辺に声をかけられた。
何だろうと思ってついて行くと、岸辺は空き教室に入って行く。
「モシモシ深海ちゃんのお悩み電話相談室でぇ〜すっ」
「…あのねー、深海君」
「うーん、ちょっと声遠いかな?」
「アハハ。ラジオ番組みたい」
ドアを閉めて窓際の机に腰をかけると、岸辺も同じように向かいの机に腰をかけた。度のキツイ眼鏡の奥で楽しそうに目を細めている。結ばれた口元からは微笑が漏れ、ゆっくりとした動作で手を伸ばしてカーテンを開け光を入れた。最近の岸辺はとても大人びて見える。
冬休みに何かあったなと思った。そしてその予想は当たっており、岸辺の以前の彼女の話だった。
なんと、元の鞘に戻ったのだそうだ。
「ぶらぼー!じゃん」
手をパチパチ叩きながら喜ぶと、岸辺は多少はにかんだものの以前のようにモジモジせず、俯きもせず、俺を真っ直ぐ見詰めたまま「有難う」と言う。その瞳はとても落ち着いていた。
「岸辺の彼女って、どんな人?」
以前話で聞いた時には、岸辺は彼女の良いところを口にしなかった。政治家が選挙で相手候補を中傷するようなかなり嫌なモノの言い方をしていたので、そんなの全くあてにならない。
「例えばね……。そうだなぁ、なんて言えば良いだろう。二人でいる時お腹が減るとするよね?それで僕が『何か食べに行こうか?』って訊くとする。そうすると彼女は、『カエルの丸焼きと、ゾウリムシの串焼きが食べたいから買って来て』とかって言うよ。本気でそう言う。あとは、僕が彼女の部屋にいると急に『もう帰って欲しい』って言ったり。そんな事を言うかと思えば夜中に突然電話してきて『今すぐ来て欲しい』って言い出したりね。そんな人だよ」
岸辺は窓枠に肘をかけ、中庭にいる生徒を見る。俺も窓ガラスに寄り掛かり、腕を組んで下を覗く。
中庭では暁生と真田がこのクソ寒い中、ヘンな機械で風船を膨らませていた。
「分かった?」
「何がぁ?」
「どんな人か」
岸辺の視線を感じたので、顔を上げる。
「分かったよ。今のお前みたいな人なんだろ?」
机の上に足を乗せて胡座をかき、人差し指を軽く振りながら岸辺を指差すと、岸辺は軽く目を伏せながら微かに笑みを漏らした。
「大当たりだよ。彼女は相手の反応を伺っている人だ。常にね」
岸辺は笑みを浮かべたまま視線を上げ、そのまま教室の天上を見上げる。
俺は中庭に視線を戻す。
「誰しも人の反応を伺うことはあることだ。でも、彼女のは尋常じゃない。常に、どんな時でも相手の反応を気にしているんだ。だから酷く怖がりで、いつも懸命だ。自分が辛い思いをしないように、でもどうすれば良いのか分からないようでしょっちゅう混乱している。僕と以前付き合っていた時もそうだった。僕のことを好きになってくれた。でも、僕は彼女だけではなく君の事も好きだった。敏感な彼女はそれに気がついていた。だから彼女は自分の痛みと僕の痛みを解放しようとした」
「お前は急に大人みたいになったな。俺はなんだか負けてる気がする」
「負けてる?」
天上を見上げている岸辺がおかしそうに笑ったが、俺は本当に負けてるような気がした。岸辺の説明はとてもよく彼女を観察していて、もつれていた事柄や複雑な事柄をしっかりと理解しているようだったからだ。
「深海君。僕はね、鍵を見つけたんだ」
「鍵?」
岸辺は窓に視線を移すとゆっくりと腕を上げ、窓の鍵をカチンと外す。それから窓を開けて、目を閉じ冷えた外の空気を吸い込んだ。
「鍵を見つけるきっかけとなったのは、電話で友達と話している時の彼女の様子だった。彼女は同性の友達…いや、同性異性に限らず友達と呼べる人間がいない。でも彼女は友達を欲しがっている。だから、知り合いからの電話をとても大事にしているんだ。僕といても、僕のことなんてほったからしにするくらい大事にしているんだよ。それなのに彼女は何故友達がいないのかってずっと不思議に思ってたんだ。
じっくりとそれを考えていた日だ。突如として僕の脳裏に浮かんだのは『立つ鳥跡を濁さず』の言葉だった。あの時、彼女は僕を飛び立たせようとしていた。僕の気持ちを深海君一人に向かせようとしていたのかもしれないし、もっと違う意味があったのかもしれない。何にせよ彼女は僕の背中を押したんだ。『飛べ』と。彼女自身のためであったにしろ、その決意はとても辛いものだったと思う。そして、彼女は自分の知り合いにも同じことをしている」
「つまり、背中を押していると?」
「そう。彼女はそれしか物事を解決する方法を知らないんだと思う。そして不器用で自分も傷つきたくなくってそれでいていつも混乱している彼女は、人の背中を押すのに突き落とすような仕方をしてしまう。
僕はそれに気が付いた時、ずっと探していた鍵をようやく見つけた気がした」
中庭から歓声が沸き起こり岸辺と二人で何だろうと覗き込んでみると、真田と暁生が膨らましていた幾つかの風船が花束のような形になって空に飛んでいくところだった。
色とりどりの風船がフワフワと浮かんでいく。目の前に来た時、その風船のひとつひとつにエロい絵が描いてあるのが見えた。アイツ等らしい。
「どんな鍵?」
エロい絵が描かれた風船が目の前を飛んでいくのを見送った後、俺は岸辺に視線をやる。
「上手くは言えないよ。でも、きっととても大事な鍵なんだ」
岸辺は俺と目が合うと穏やかに微笑んだ。