第15章 全てはあの瞬間に向けて

 それから俺はキッチンでメシを喰った。
 母ちゃんは俺の身体を心配してお粥を作ろうとしていたけど、俺はそんなんじゃなくてもっと普通なのを食べたかったので、無理矢理頼み込んで野菜炒めとオニギリと味噌汁を作ってもらった。
 母ちゃんの作ったメシを食うと、今までで一番ほっとした。
 メシを喰うと朝方まで母ちゃんと二人で話をして時間を過ごした。
 最初にちょっと説教されたが、相変わらず母ちゃんは面白い。最初は二人でベラベラと話をしながら煙草をふかしていたのだが、母ちゃんは寒かったのか焼酎のお湯割りを作って飲みだしたので俺も少し貰った。でも、本当にちょっとしかもらえなかった。
 学校の話や普段の生活ぶり、バイトの話など沢山したので自然と永司の話も出たけれど、これといって突っ込まれたり怪しまれたりはしなかった。
 本当に、一晩でいろんな話をした。考えてみれば2年になってから一度も会ってなかったのだ。
 夜の3時を回った頃、海に飲まれた時の話になった。
 俺は海に飲まれてから何がどうなったのか全然覚えてない。苦しさはなかった。ただ、それだけだ。
「波が女の手のように見えた」
 椅子の上に両足を乗っけて窮屈に体操座りしながらそう言うと、母ちゃんは焼酎の入ったグラスを置いて頬杖をついた。何か思い出すように口を少し開けて、天井と壁が重なる角を見ながら3回くらい呼吸すると俺に視線を戻す。
「私も波に飲まれたことがあるよ。ずっと昔のことだけどね」
 母ちゃんは滅多に過去を語らなかったので、俺は無性に興味をそそられた。
「どのくらい昔の話?母ちゃんがチッコイ頃のこと?」
「そうだねぇ。まだ小学生の頃だった。もうよくは覚えてないよ」
 母ちゃんは立ち上がってグラスの中に焼酎を注ぎ足し、ヤカンに少しだけ水を入れて火にかけ、それが沸騰するとグラスの焼酎に足す。それからシンクの下から瓶を出して、去年漬けたと思われる梅干しをひとつお湯割りの中に入れるとまた俺の正面に座った。
「あの時、確か大好きだったセリが…勿論今のセリじゃないよ?当時の私がセリと呼んでいたセリだ。そのセリが死んだ。何故セリが死んだのか、よく覚えてないよ。寿命だったのかもしれないし、病気だったのかもしれない。とにかく私はセリが死んだのが悲しくて悲しくてね。何しろ、物心ついた頃から一緒にいた友達だったんだ。それに、大切なものの死に触れるのも初めてだった。
私の母は…春樹のお婆さんだね、あの人はとても厳しい人だったから、私はいつもひとりだったんだ。学校も転々としていたし、いや、それ以前に私はあまり学校には行ってなかったから友達も少なかった。その私の唯一の友が、セリだったんだ。その頃は他の鳥とも意思の疎通ができなかったから、本当にただ唯一の友だったね。別に母が私にペットとしてセリを与えたわけじゃないんだよ。ただ、セリはいつも私の側にいたんだ。私が来いと言えば来たんだ。ずっとずっと前からね。
セリと私はかなり親密な関係だったよ。アンタが自分の第六感と響湖の助言によって今まで危険やもっと違うよくないものを回避できてきたように、私はセリによって自分の危険やもっと違うよくないものを回避してきたんだ。
例えば……。
そうだね。セリが死ぬ少し前に、こんなことがあった。
その日、とても大きな台風がやって来たんだ。テレビでは台風の話ばかりしていて、過疎化が進んだ村のように私の家の周りには人がいなかった日だったよ。
その日は母が遠出をしていたから、私は留守番をしていたんだ。家の冷蔵庫には母が作ったおかずや飲み物があったし、炊飯器の中には保温してあるご飯があったしで、私はたいして困らずに一日中家の中にいた。ところが夜中を過ぎた頃、トントン、と家のドアを誰かが叩くわけだ。風が酷くなっていたからね、最初はそのせいかと思ったよ。でもやっぱり暫くすると、トントンとノックの音がするわけさ。私は母が家の鍵を無くしたのかと思ってね、玄関に向かった。
でも、『母さん?』と呼びかけても返事はなくてさ。風が酷くて家が軋む音ばかりしててね。ノックの音は空耳だったのかと思って自分の部屋に戻ろうと思ったんだ。そしたらまた、トントン、と音がする。時間が時間だったし私はひとりだったしで扉を開ける勇気なんてなかったけど、気になるだろ?だから扉についてる小さな覗き穴…あるだろ?アレで見てみたんだ。そしたら、いたんだよ。暗くて分からないけど、誰か人がいたんだ。誰だろうと思って『どちら様でしょうか』って訊いてみたけど、返事はなしさ。台風直撃してたから、ゴウゴウと風が家に叩きつけてくるみたいな音だけ聞こえてくる。家にいてもこんなんなんだから、外はもっと酷いに違いないと思ってね。これはよっぽどの急用なのかもしれないなと思って、チェーンをしたまま扉を開けてみたわけだよ。
そしたらさ、誰もいなかったんだ。
確かにノックの音は聞こえたし、覗き穴から見た時も誰かいたんだ。でも、実際扉を開けたら誰もいない。おかしいな。何だったんだろうなと思って、扉を閉めようと思った時だ。
何となく外の様子が気になった。こう、なんと言うか、台風の時って普段と違うだろ?人はいないし車も通らない、動物達の気配もない。静まり返ってて、別の世界のようじゃない?私は不意に、外に出てみたくなったんだ。ビュンビュンと音を立ててしなっている電線や、暗い夜空に吸い込まれていく枯葉やゴミ、風の音しかない世界。そんな世界に、自分が入ってみたかったんだね。
靴を履いて、傘を持って、チェーンを外して、そして外に出てみた。傘はすぐに役に立たないと分かったから、玄関先に置いて少し歩いてみたんだ。雨はそんなに酷くなくてね、ただ真横から吹き付ける風と、真っ暗な中に灯る街灯がずらっとどこまでも続いてた。
良い気分だったんだよ。冒険してるみたいな気分だった。だからそのままどんどん歩いて行ったんだ。
でも、途中で街灯の横にある小さなドブ川が溢れかけてるのに気がついたんだ。
いつもヘドロが底に溜まってる汚いドブ川が、今は台風によってもたらされた雨水でパンパンになってて、しかも凄い流れ方をしていた。危険だとすぐに思ったよ。私の目から見ても、その流れは異常だったんだ。この流れ方は、どんなモノでも逆らうことが出来ないと分かったんだ。私は急いで家に帰ろうと思った。
その時だ。
そのドブ川から、ボコボコと奇妙な音がしたんだ。
それは長年に渡って幾重にも蓄積された汚いヘドロが、何かのはずみで動きだしたような音だった。
私は急に動けなくなってね。その音が「どんなモノでも逆らうことが出来ない」はずの川の流れの中で、流されずに浮かんでは消えて行くんだ。上手く説明できないけど、ヘドロが動き出しているらしい場所は、川の流れに「なんら影響されてない」ような気がしたんだ。
一体何が起こっているのか。その興味がなかったわけじゃないよ。でも、自分の身に何か危険が迫っていることが分かっていたから、私は逃げたかった。それでも何故か足が動かなかったんだ。
目の前にあるドブ川を凝視したまま、私の身体は動かなかった。そして、私の前でどんどんそのボコボコという音が大きくなってね。激しい水面に、何か見えたんだ。
それは茶色ではなく、もっともっと汚い色の泥だった。
その泥が、何故か水に流されることなくどんどんと湧き出てくるんだ。
心臓が爆発しそうなくらい怖かったよ。なのに自分の身体が恐怖で動かないんだ。
目の前のヘドロはどんどん湧き出てきて、巨大な塊になった。ドロドロしてて、鼻がおかしくなるくらい臭くて、どうしようもなくて悲鳴を上げようとした時、それの形が徐々に変形していることに気がついた。
それは、人の形になろうとしていたんだ。
私は、自分はコレに殺されるんじゃないかと思った。
口元まででかかった悲鳴が恐怖で喉にひっついて、もう何もできなくて呆然としていた時だ。後ろからセリが私の身体にブチ当たってきたんだ。台風で風がバカみたいに強い時に、しかも夜中だよ?鷹は夜、あまり目が利かないんだ。それなのに、セリはどこからかやって来た。
セリは私と衝突してからヨロヨロと立ち上がり、そのヘドロの塊に向かってまた飛び掛ろうとしていた。私は慌ててセリを捕まえてね。あ、身体が動く!って思った途端に一目散に家へ逃げ帰ったのさ。
まぁ、私はセリに助けられたってことだよ。その他にも何度も助けられた。親友で、いつも一緒にいてくれて、何度も助けてくれて、いつも誇り高くて、良いヤツだったよ。
そんなセリが死んで、私がどれほど悲しんだか想像できるだろ?
セリが死んだ日、私はセリの亡骸をどうしても手放せなくて、冷たくなってガチガチに固まってしまったセリを両手で抱えながら大声で泣いてたら母に叱られてね。いい加減にしろってさ。
もう何もかも嫌になって、私はセリを持ったまま家を出た。その時住んでいた家はここみたいに海に近かったから、そのまま海辺に向かって歩いたんだよ。その日も風が強くて、風に押されるまま歩いたって感じだね。海岸に出るとそのまま防波堤を歩いてね、端まで行ってセリを抱えたまま蹲って泣いたよ。
イロイロあってね。もう本当に何もかも嫌になってたんだね。
どれくらい泣いてたろう。なんかやけに不気味な音がしてさ、顔を上げたんだ。ゴゴゴゴって感じで、台風の日に聞いた風がドブ川の流れなんかより桁違いにすさまじい音だったんだ。
で、顔を上げた途端に波に飲まれてた。私はアンタと違って苦しかったよ。海水を思いっきり飲んだしさ、息ができなくて意識を失ったんだ。
気がついたら少し離れた浜辺に打ち上げられてた。ツンツンと誰かに顔を突付かれててね、ああ、なんだろうって思って目を開けたらセリの娘が私の顔を突付いてたんだ。空にはカモメやら鳶やらカラスやらが舞っててね。彼等が私に話し掛けてきたんだよ。
私は海から戻った時、セリ以外の鳥達と意思の疎通ができるようになっていたんだ。
不思議な話さ。でも本当の話だよ。
私はね、春樹。
私は……。
セリだけが唯一の友だったことも、そのセリが死んだことも、母がいい加減にしろと言ったことも、あの人の形をしたヘドロのことも、勿論他の様々なことも、全て私が海に飲まれるあの瞬間に向かって……【全てはあの瞬間に向けて組み立てられていたのではないか】って思うんだよ。
アンタは海に飲まれたって聞いた時、私はとても心配したよ。でも頭のどっかでは、とうとう春樹にもあの瞬間が来たのかって思ってた。
でも、私とアンタは違う。アンタは響湖とも違う。
春樹。
アンタは一体、海で何を与えられて来たんだろうね」





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