第14章 災いなのか福なのか

 冷たい雨がみぞれに変わった。
 俺は昨日暁生と行った磯まで行こうと、傘を引き摺ってだらだらと歩いた。
 防風林が風を受けてしなっている。
 歩きながら、このままどこまでも歩いていたいと思った。
 暁生はいつもこんな気持ちなんだろうか。
 いや、全然違うな。
 俺は逃げていたいだけで、暁生は探しているだけだ。
 永司から逃げるのではなく、何故受け止めてやらないのかと真田に叱られそうだ。だがどうやって受け止めるのだ。両手を広げて、よくある外国の映画のように?そしたら全部上手くいくのか?俺と永司は永遠に幸せに暮らしましたとさ、と御伽噺のようになるのか?…まさか。
 傘で砂に線を引きながら歩いていると、足元に波が押し寄せてきた。膝から下はもうずぶ濡れだから気にならないが、足先は冷たさで痛い。
 濡れた靴を眺めながらぼんやりと歩いていると、ふと辺りが静まり返った。
 風が止んだのか。
 いや、波の音も……。
 顔を上げて海を見ると、見上げるほど高く大きく、女性のしなやかな手のような美しい波が俺を飲み込もうとしていた。





 一気に飲まれ、圧倒的な力で引き込まれていく。
 重力も浮力もそこにはなく、上下が分からない。
 海の中はなんて暗いのだ。

 真っ白いエレベータに乗ってる。
 ボタンも何もないエレベーターで、ひたすら下に降りて行く。

 自分の身体が変化している。
 小さくなってる。
 魚のように海を泳げ。
 泳ぐしかないんだ。
 飛び越え、ぶち壊し、泳ぎきるんだ。

 俺は永司の手を握っている。
 離すなよ永司。
 離すな。
 何があっても。
 そしてもっと俺の愛を…。

 暗闇の中、長いリボンのような、銀色に光る奇妙な魚が見えた。





「お父さん!この子生きてるよ!!」
「本当か!!」
 耳元で聞いた事のある声がする。
 なんだろう。
「この魚…なんて気持ちの悪い」
「今はそれどころじゃねぇだろ!それより早く体を温めてやらんと!」
 そうだ。この声、暁生と二人で近くにコンビニはないかって訊いた時の夫婦。
「おいお前!こんな時はどうすんだ!ああ、ええ、え、じ、じ、じじじ、人工呼吸!!」
 人工呼吸?なんの話を。
「お父さん落ち着いて。この子、息してるよ」
 ああ、俺のことなのか。俺、どうしたんだろう。
 確か海辺を歩いていたらでっかくてヘンな波に包まれて…。
「自殺しようとしたのかね」
 止めてくれ。俺が死んだら永司はきっと後追い自殺しちゃうんだぞ。
 それに俺を愛してくれる皆様が泣くだろ?苅田とか。
「あ、この子笑ってるよ。気が付いたのかい?」
 ゆっくりと瞼を上げると、老夫婦が心配そうに俺を見下ろしていた。その向こうには、今日も灰色の空。
「おい大丈夫かッ?!」
 デカイ声を出すオッサンに礼を言いたかったが、口が重くて動かない。
 オッサンとオバサンは俺の手を握ってずっと励ましてくれていた。
 俺は懸命になっているこの夫婦に心の中で何度も礼を言い、そしてこの夫婦の会話を他人事のように楽しんだ。何故なら、「もう二度と自殺なんてするな」とか「お父さん自殺じゃないかもしれないじゃないの!」とか「だってお前が自殺だって言ったから」とか、喚き合っていたからだ。
 彼等はきっと、生活感のある仲の良い夫婦だ。
 そして俺はふと、オッサンの身体を見ても何も感じない自分を発見した。
 日常が戻っている。
 自分の右手に意識を集中させ、親指からゆっくりと動かしてみた。
 ちゃんと開く。
 これで永司に会いに行ける。
 俺はとにかく永司に会いたかった。今まで逃げなくてはと感じていた自分がもう理解できないくらい、永司に会いたかった。
「しかし、気味の悪い魚だねぇ」
 オバサンの声につられるように横を向くと、見覚えのある銀色の魚が俺に寄り添うように海岸に打ち上げられていた。
「こりゃ5メートルはあるな。本当になんて魚だ。平べったくて細長くて……こんな魚見たことないぞ」
 オッサンの声を聞きながら、俺はこの美しい銀色の魚を見ていた。



 畳の匂いがする。
 いつの間に眠ってしまったのだろう。いや、いつの間に家に戻ったのだろう。
「響湖。春樹は寒中水泳でもしてたんかい?」
 母ちゃんの呆れているような声が聞こえた。
 帰って来たんだ。
 身体がほかほかしてて温かい。この布団、俺の布団だ。だって懐かしい匂いがする。そう言えば、ここは俺が産まれた家だっけ。
「まったく。他人に迷惑かけるなといつも口を酸っぱくして言ってるのにねぇ」
 母ちゃんが眠っている俺のオデコをトントンと突付く。
 僅かに母ちゃんの匂いがした。
 なんか、無性に腹が減ったな。そういや最近ろくに喰ってねぇや。
「この子の横にリュウグウノツカイが打ち上げられてたそうじゃないの。地元の漁師さん達が騒いでたよ。響湖、一体何があったんだい?」
「分からないわ。春樹自身もきっと分からないと思う」
「リュウグウノツカイって言ったら不吉な魚だよ」
「リュウグウノツカイは吉兆だとも言われているわ」
 夢うつつで母ちゃんと姉ちゃんの話を聞きながら、俺は永司の事を考えていた。早く永司に連絡しよう。すぐに戻るって言って、愛してるからなって言って、それからそれから、永司のアホって言ってやって変態って言ってやって、永司が満足するまでずっと喋っていてやろう。
 あと、もう逃げないからって言おう。
「春樹が連れてきたモンは、災いなのか福なのか」
 母ちゃんは最後にとても大きな溜息を吐いた。

 目を覚ますと、布団の横に姉ちゃんが座っていた。
「おはよぉ」
 横になったままニっと笑ってみせると、姉ちゃんも薄く笑みを浮かべる。
「おはよう春樹。そして、誕生日おめでとう」
 姉ちゃんに言われて、今日が何日なのか知った。
「そうか。今日、28日なんだ」
「そうよ。28日になったばかりだけどね」
 砂上の病院を出たのが確か24日の深夜だったから、あれから4日。イロイロあったような気もするけど、4日も経ったなんて実感がない。
 ずっと寝ていたから身体が痛い。布団の中で大きく背伸びをして、よっと上半身を起こす。一瞬クラっとしたけど、最近寝てばっかりだったらから身体が驚いただけのようだ。
 右手にはまだチョーカーが握られていたけれど、自由に動いたのでチョーカーを首にかけた。閉口したのは右腕の凄まじい筋肉痛だけだ。
「海に飲まれたの?」
「ん、多分ね」
 返事をしながらパジャマの裾を捲って左の足首を見る。
 薄く残る手の跡。
「それ、どうしたの?」
「分からん」
 最近そればっかだなぁと思いながら短く返事をして胡座をかき、腕を頭の上で組んで身体を横に曲げる。身体中の筋肉がどんなふうに解れていくのか実感できるほど気持ち良かった。
「最近寝てばっかだった気がする。よくこんなに眠れるなぁって自分で不思議に思うよ」
「貴方の身体に休まなくてはいけない理由があったからでしょう」
 姉ちゃんの言葉に視線を落とし自分の手のひらを見てみる。
 自分の身体があれほどガツガツと欲情していたのが嘘みたいだ。
「全ての物事は俺の意思とは関係なく物凄いスピードで動いてるから、俺はいっつも取り残されてるんだ。だから困る」
「困らないでよ、そんなこと当たり前なんだから。全てが春樹中心に動いたら大変よ」
 それもそうだなぁと思いながら立ち上がり自分の身体を見下ろしたが、服の上から見ても分かるくらい痩せていた。だが、もう俺は戻ったのだ。
 部屋の隅にあった電話の子機を取ると姉ちゃんが何も言わず部屋から出て行った。
 俺は姉ちゃんが出て行くのを見送ってから、永司の携帯に電話をする。この番号は、学園祭の一件以来何度も復唱させられたからちゃんと覚えている。
 コール1回半で永司が出た。
「俺」
 そう言うと、永司が息を飲んだ。
「…ルキ」
「ん、そう。俺」
 永司を振り切ったのは何日前だろう。
 自分でも分からないけど、受話器を持っている手が緊張で震えていた。心臓もドキドキしてる。声も震えそうだったから、永司に分からないように小さく深呼吸をした。
「今…」
「実家」
 言い終えると、言葉が続かなかった。永司が黙ったからだ。
「永司……愛してるぞ」
 他に言おうと思ってた事は山程あったはずなのに、何も言葉が出てこないのは何故だろう。
 痛みを持った沈黙が俺の胸に染み込んでくるようで。
「もう逃げねぇから」
「ごめん」
 永司が何に対して謝っているのか分からなかった。
 永司は俺に謝らなくてはならない事をしたのだろうか。何をした?いや、そんな事を疑問に思うなら、俺は何故永司から逃げたのだ。
「体調良ければ明日にでもそっち帰る」
「うん」
 また会話が途切れた。
 俺は畳を爪でカリカリと引っ掻きながら、言葉を探す。
 永司も何も言わなかった。
 今、何を考えているんだろう。
「それじゃ、明日」
 続かない会話を切ろうとしたのは、永司だった。
 俺は電話を切るのが凄く嫌で何か言おうと思ったが、結局何も思いつかなかった。
「うん、明日」
 自分から電話を切るのが嫌で、しつこく受話器を耳に当てていると、永司もなかなか切らなかった。
 二人ともバカみたいにそんな状態でいたけど、最後は永司が電話を切った。
 そして永司が電話を切った途端、自分がどれほど強く永司を愛してるのかを知った。





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