最終章 俺の愛を
目が覚めるともう昼過ぎだった。
昨日は母ちゃんと朝方まで話していたから、随分と寝過ごしてしまったようだ。
布団から出て顔を洗っていると、姉ちゃんが来て電話の子機を俺に渡した。誰だと尋ねるまでもなく、永司だと思った。
「おはよ」
白いタオルで顔の水滴を拭き取りながら子機を耳に当ててそう言う。
「おはよう春樹。今起きたのか?」
「ん。でも今から帰るよ」
洗面所のドアを開けて自室に戻り、障子を開ける。
今日もまた雲が広がっている。最近はやけに天気が悪い。
「迎えに行きたい」
「駅に?」
「いや、そっちまで」
「どうせ戻るんだ。別に来なくても」
「行きたいんだ」
永司の低い声は強くはっきりとした意思を運んで来る。
「お前、ちゃんと寝たか?」
「寝た」
「本当か?」
「うん」
声だけではそれが嘘か本当か分からなかった。
昨日俺の居場所を確認し、俺の声を聞き、本当に睡眠を取った可能性もあるのだが。
「来なくて良い。すぐに戻るし」
「行きたい」
永司は折れない。
「なら来い。単車で来るか?」
「うん」
「こっちはまだかなり寒いぞ。雨は降ってないけど天気悪いし、気を付けて来い」
「うん」
昨日とは打って変わって永司はすぐに電話を切った。
もしかしたら、朝からずっと俺の帰りを待っていたのかもしれない。そんで、待ちきれなくなって迎えに来ると言い出したのかもしれない。…多分そうだろう。
もっと早起きすれば良かったなと思いながらキッチンへ向かい、俺と同じように寝惚けた顔をしている母ちゃんと一緒に姉ちゃんが作ってくれた飯を喰った。ハムサンドと玉子サンドと、スーパーに売っているような青っぽいモノじゃない真っ赤に熟れた苺と、あとはホットミルク。母ちゃんと姉ちゃんは珈琲。
真っ赤な苺を食べていると無性に真田と話をしたくなったので、ごちそうさまと言うと自室に戻って電話をしてみた。電話番号が分からなかったので砂上に連絡し、携帯の番号も長野の方の番号も聞いたのだが、結局真田とは連絡が取れなかった。
夕方まで俺が何をしていたかというと、庭の手入れや物置の掃除、買ったまま箱に入っていたっていたDVDの設置と使用方法の説明、あとは加湿器が壊れたと言うのでそれの修理。そんなところだ。
何もすることがなくなると、母ちゃんの煙草をくすねて自分の部屋でそれを吸った。
永司は何時頃到着するだろう。
まず、なんの話をしよう。
俺は何をされたのか。俺の記憶にない空白の時間について訊ねるべきなのか。
いろんなことを考えながら時間を潰した。
畳の上で寝転んでうたた寝をしていると、誰かに呼ばれたような気がして目が覚める。
時計を見て時間を確認すると、コートを羽織ってリビングに向かった。
「出かけてくる。永司が来るかもしれんけど、裏の山に行ってるって伝えといて」
テレビを見ていた母ちゃんが返事をするかわりに軽く手を上げた。
家を出ると厚い雲の隙間から太陽の光が漏れていた。
明日は久々に晴れるかもしれない。
そう思いながら裏に回り、小さな山を登り始める。
本当に小さな山で、斜面もそんな急ではなかった。これといって道があるわけじゃなかったが、藪が茂っているわけじゃなく普通に登ることができた。ここらはまだ春の気配はしない。木々も芽を吹いていなかったし、やっと雪が溶けたといったところなのだろう。虫達の姿も見当たらなかった。
ここ最近の天候のせいか湿気が酷い。元々そんなに天気は良くなかったし、山が持つ独特の雰囲気も混じってとても暗く感じた。
木々の根元に生えた苔に水滴が滴っている。山の匂いを感じながらどんどんと上って行くと、頂上付近は木々の根が剥き出しになっていて湿気で艶を帯び、作られた美しい階段のようになっていた。
俺は木々の根を見ながら何かを思い出しそうになる。立ち止まって根をじっと見詰めながら懸命に何か思い出そうとしたが、どうしてもそれが何か分からない。
登りきると木々の合い間から紺色の海が広がっているのが見えた。
俺はそこで立ち止まり、胸一杯に深呼吸をして風が運ぶ海の匂いと足元から漂う山の匂いを身体に入れる。
それを何度か繰り返しながら傾いた太陽を見た。
今日の太陽はギドギドしてる。うざったらしい雨にやられてドロドロと溶けていくようだ。ドロドロと溶けつつ、その中心にあるもっとドロドロしたモノが、ゆっくり脈を打っているような感じもする。でも、太陽が少しでも現れたのは良い事なのかもしれない。光が射しこむだけで、あんなに海が輝いて見えるのだ。海じゃない他のモノにとっても、それは良いことなのだろうから。
ふと、また誰かに呼ばれたような気がした。
神経を集中させていると、後方から聞き覚えのある小さな足音。振り返ると、暁生と見た野良犬がそこにいた。そして、その犬に案内されて来たかのように永司の姿が見えた。
「ここ」
不必要に大きな声を出しながら手を上げたが、自分の手が微かに震えているような気がした。
永司と目が合う。
なんてコイツの瞳は深いんだろう。何を考え、何を感じているのか俺には全く分からない。
「久し振り…のような気がするな」
自分の声までもが少し震えていた。なんでこんなに緊張してるんだろう。
「誕生日おめでとう」
永司の第一声に、少し笑った。
「ありがとう」
「でも何も用意できなかった。ごめん」
「良いよ」
いろいろとゴタゴタしてたしな。
一度視線を落として意味もなく高鳴っている胸を落ち着かせる。
またカサカサと小さな音がし、野良犬がそのままどこかに消えて行ったのを見た。
「猫が子を産んだよ」
永司の思いがけない言葉にまた視線を戻す。
「猫って?」
「ウチにいる猫」
「こんぺいとう?」
「うん」
「いつ?」
「今朝。春樹と同じ誕生日だね」
なにがなんだか分からずに、ちょっと混乱した。猫が…。
「こんぺいとう、脱走したのか?」
「いや」
「んじゃ、いつ孕んだんだよ」
「分からないけど、とにかく今朝仔猫を一匹産んだ。俺は早く春樹に見せたくて」
「そうか」
永司は今日も寝れなかったのかもしれない。それは猫のせいじゃなく、きっと俺のせいだろう。やっぱり朝一番の電車で帰れば良かったと後悔した。
辺りはどんどんと暗くなっている。海を見ると太陽が沈もうとしていた。
話が続かない。
昨日の夜の電話みたいに、言おうとしていたことはもう全部どうでも良いことに変わってしまったような気がした。
俺は何をされたのか。
本当はそれが一番知りたかったが、それを聞いても何も変わらないような気がした。
問題はもっと違う場所にあるんだ。
「もっと…こっち来いよ」
なかなか距離を縮めない永司を呼ぶと、今度は永司が躊躇うように視線を落とした。俺達の間にある空気はとてもぎこちない。
「近寄っても良いの?」
永司の声に身体のどこかが激しく動いた。怒鳴りたくなったし、このまま永司に突っかかって殴ってやりたかったし、そのまま力一杯抱き締めたかった。
しかし、それと同じくらい冷静にもなった。
「何でそんなこと言うんだ」
「ごめん」
「謝るな」
「ごめん」
「俺は謝るなと言っている」
山の匂いに染み込むくらいゆっくりそう言うと、永司が少し俺に近付いた。
痩せた。
本当に痩せてしまった。
まず最初にそう感じたほど永司はやつれていた。それは同じように痩せていた俺の肉体とは違い、疲労や焦燥ではなくどこか病的な痩せ方だった。
「永司、愛してるよ」
また自分の声が震え出す。でも緊張してるんじゃない。
「何から言えば良いのかまだ分からない。俺はずっと考えてた。お前を振り切ってからずっと考えてた。お前に、どうやって分かってもらおうかって」
「春樹のことは全部分かってる」
「違うよ。そうじゃねぇよ。俺は…上手く言えないけど、俺達はもっとゆっくりコトを進めなきゃいけないんだと思うんだ。そりゃあ俺達はちゃんとした恋人同士だと思う。これ以上ないくらい愛し合ってると思う。お前もそう思うだろ?でも、それだけじゃ駄目なんだ。俺達の場合、それだけじゃ駄目なんだよ、きっと。例えば、メシを喰ってクソしてぐっすり眠ってセックスやオナニーしてたまにクシャミのひとつやふたつでもしてれば余裕で生きていける人間がいるように、それだけでは生きていけない人間もいる。それと同じで、俺達は今までのように愛し合ってるだけじゃ駄目なんだと思う。
いや、正直に言う。それだけじゃ駄目なのはお前だ。お前はあまりにも俺に執着していて、俺がお前の側にいる、俺がお前を愛しているってことを置き去りにしている。だからもっとゆっくりコトを進めたいんだ。それを、分かってもらいたいんだ」
「全部分かってる」
「分かってない。だったら何でそんなに痩せた?何でそんな焦燥しきった顔してるんだ?俺はあの時だってすぐに戻ると言った。お前はもっと俺の愛を信じるべきなんだ」
「あんなふうに振り切られて普通に生活してろと?お前だってどれ程俺がお前を愛してるのか分かってないんだ」
「分かってる」
「分かってない!」
分かってる、分かってない。
繰り返されるその子供っぽい言葉の応酬がどれほどくだらなく、どれほど切なく。
「俺は永司を分かっていると思い、永司も俺を分かっていると思ってる。でも、俺達は互いに互いを分かってないと思っている。だったら余計に、もっとゆっくりと愛し合おう」
「本当に…………全部分かってるんだ。何もかも本当に……」
永司が崩れるように膝をつき、俺の両手を握り締めた。
永司の両手からは最近感じた覚えがある僅かな何かの匂いがしたが、俺はそれが何か分からない。とてつもなく良くない匂いだとしか分からない。
「永司大好きだ。愛してる。こんなに愛せるのはお前だけだと思う。お前は分かってるって言うけど、お前はもっとちゃんと俺の愛を…」
「分かってるんだッ!!」
「頼むから最後まで聞けよ!今度こそ最後まで聞け!!」
俺を見上げる永司の瞳は必死で何か訴えているようだった。
「永司。俺はこれ以上なくお前を愛してるんだ。だから頼むからもっとちゃんと、もっと俺の愛を
―――……感じてくれ」
その深く激しい瞳から、涙が流れていくのが見えた。
俺は感じて欲しかった。どれだけ愛してるのか「分かる」のではなく「感じて」欲しかった。ジョン・レノンが歌ったように、愛とは感じるものだと思うから。
「好きだよ永司。大好き。本当に愛してるんだ」
どこか遠くから悲鳴のような獣の咆哮が聞こえ、時が止まる。
視界から色がなくなり、世界は灰色になる。
永司の涙に濡れた瞳が必死に何かを訴えてくる。
消えた記憶が内側から疼く。
永司の唇が開き、僅かに覗く柔らかそうな舌の上に金色の指輪が見えた。
灰色の世界に輝く金色の指輪は小さな鍵だった。
止まった時間の中で金色の鍵はゆっくりと時間をかけて永司に飲み込まれていった。
「永司!」
自分の声でまた時間が動き出し、世界の色彩が戻る。
「お前、何を飲み込んだんだ」
握られていた手を振り解いて永司の頬を両手で挟んだ。
「吐き出せ!」
「何…を?」
「何をって、鍵!!」
永司は濡れた瞳を眩しそうに瞬かせ、ぼんやりと俺を見ていた。
「鍵!吐き出せ!!」
目を見開いたままただぼんやりと俺を見上げている永司を見て、何もかもが全て食い違っている事に絶望を感じた。
ありとあらゆる事がまるで噛みあってない。
失った記憶は別の記憶となっているし、飲み込まれた鍵は俺の幻覚になる。俺達を囲む全ての出来事は俺達にとって互いに別々の意味を持ち出し、まるで何かの拍子に二人が住んでいる世界が完全に違う方向へ進み出したかのようだ。
しかし俺は絶望からやってくる眩暈を押しやって全身に力を込め、永司を抱き締めた。
精一杯の愛情を与えたいと強く感じた。
それは複雑な要素から成り立ってるモノの最後の方にある、一番強くて一番激しい俺自身のようだった。
俺は絶望なんてしない。
それが俺であり、この愛は全てを越えて存在するから。
どこかからまた獣の咆哮が聞こえ、太陽は海に消えて行った。
end