第13章 全ての物事を慎重に捉えなくてはならない
腹が減って目が覚めた。
久し振りに感じる食欲だ。
今日も空は灰色の雲が広がっていたのだが、俺の隣には勝手口に凭れ涎を垂らして眠っている暁生がいる。2月後半と言ってもまだまだかなり寒く、鼻先も耳も凍て付くようだ。俺も暁生もよくこんな場所で眠れたもんだと妙に感心した。
寒くて震えているくらいなのに、暁生の細い足に触れるとまた俺の身体の中心がジクジクと煮えたぎってくるのが分かった。
「水が枯れてるぞ…」
暁生が変な寝言を言いながら目を覚ます。
「おはよぉ〜」
丸まったままニカっと笑って手を振って見せると暁生は寝惚けた様子で俺を眺め、それから急に立ち上がるとどこかへ走っていき、戻った時には妙にスッキリした顔になっていた。お前も抜いて来いと言われたので試してみたが、思った通りどうしても射精できなかった。俺の身体はきっと、そんなんじゃ駄目なんだ。何かが足された分、何かが引かれたのかも知れないと思った。
それから俺と暁生は冷え切った身体を温めようとコンビニを求めて歩き出した。
俺の身体は暁生が近くにいるだけで辛かったのだが、それでも暁生とは少しでも一緒にいたいと思っていた。足元に上手く力が入らなくて何度かへたり込んだが、そのつど暁生にガツガツと蹴られ、罵られ、お前なんて置いてくぞと脅迫され、ふらつきながらも何とか付いて行った。
裏山を迂回し海に向かって歩き、海沿いの大きめな道路に出るとそこから東に向かう。
この辺りには本当に何もなく、海と田んぼしかない。コンビニは無理かと思われたが、途中で出会ったマラソンをしていた中年夫婦に訊ねてみるとこの先に一件あると言われた。
結局随分と歩いてコンビニまで無事到着したものの、店はまだ開いてなくて…つまりコンビニなんだけど24時間ではなくて、俺達は店先でカラスとカモメが飛んでいくのを見ながら時間を潰した。
店のシャッターが上がるとまだ中で開店の準備をしていたオバサンに頼み込み、俺はヨーグルトと温かいコーヒー牛乳を、暁生はうぐいすパンと温かいブラック珈琲を買って店の駐車場でそれを食べる。温かいコーヒー牛乳を胃に流し込むと身体が生き返るのが分かった。温もりがじわっと広がって、身体の隅々まで気力が回復していくようだ。
左手でヨーグルトを食べながら自分の空きっ腹と会話をしていると、暁生が立ってどこかに消えていく。どこへ行くんだと訊ねても何も言わず、暫くして戻った時にはやっぱりスッキリした顔をしていた。
それから俺達は磯へと歩き出した。暁生は途中で長い枯れ枝を拾ってそれを引き摺りながら歩き、海に到着すると二人で大きな岩に登って灰色の空を眺めて時間を過ごした。
雲が太陽を隠しているが、暁生からは太陽の匂いがする。つい最近嗅いだ匂いとは正反対の、良い匂いだった。
「暁生は、性善説とか性悪説とか信じる?性善悪混合説とか性白紙説なんてモンもあった気がするけど」
「何だそれ。くだらねぇ話?」
「ん。多分くだらない話」
長い枯れ枝を海に突き刺して遊んでいる暁生を見ながら、俺は少し苦笑した。
暁生は太陽と生命の匂いがし、あの子供は暗闇と死の匂いがする。
暁生もあの子供もそれは産まれ持ったモノで、これまで、そしてこれからどんな事があろうがそれらは変わらない匂いなんだろうと思った。
「暁生、善って何だと思う?」
「じゃがいものコト」
「んじゃ、悪は?」
「俺のじゃがいもを奪う時の真田のコト」
適当に返事をしながら暁生は枯れ枝でヒトデを攻撃している。
ヒトデにしてみれば、何の意味もなくただ遊び半分で自分を攻撃する暁生は絶対悪に違いない。
昼近くに家に戻ると姉ちゃんが帰って来ていた。
姉ちゃんはドアを開け俺の姿を見た途端眉を顰め黙りこくったが、それでも俺達を家に入れるとすぐにホットミルクを作ってくれた。
身体が温まると、昨日熟睡できなかったせいか暁生がひっきりなしに欠伸を連発したので、姉ちゃんが寝室に連れて行って寝かせる。
そして、キッチンには俺と姉ちゃん二人になった。
「今の貴方を母さんに見せるわけにはいかない」
まず口火を切ったのは真向かいの椅子に座った姉ちゃんだった。
俺は姉ちゃんお手製のココアのクッキーを一枚だけ瓶から取り出し、テーブルの木目を見ながらそれを一口食べた。
「助けて欲しい」
「勿論助けるわ。でも、今の貴方を見たら母さんは何を言い出すか分からない。貴方、自分がどんな目をしているのか分かってる?」
「分かってる。発情したメスの目」
「……嫌な言い方だけど正解だわ」
自分の息子が生々しいセックスの匂いをたらふく含ませ、暁生のおかげで多少は治まったものの、男を見るだけで誰でも欲情するような身体で帰って来たとしたら、母ちゃんはどんな気持ちになるだろう。
「二日前、岬杜君がここに来たわ」
永司の名が出て視線を上げると、真っ直ぐ俺を見ている姉ちゃんと目が合った。
「その前から頻繁に電話が来ていた。貴方を探していると」
「俺は……」
「逃げていたのね。貴方の身体を見てすぐに分かった」
姉ちゃんは俺を見据えたまま視線を外そうとしない。俺は今の自分の身体がやけに情けなくてまたテーブルの木目に視線を落とした。
「母ちゃんは…永司に何と?」
「母さんは一週間前から帰って来てない。だから岬杜君の電話は全て私が取ったわ。私は貴方が心配でたまらなかったけど、母さんには連絡がつかなかったから探しようがなかった。でも、それで良かったわ。母さんがいれば鳥達が動いたもの」
確かに鳥達が動いていればやっかいな事になっていた。川口さんの部屋はともかく、俺はあの病院にいる時、何も考えず窓を開けていたのだ。
「貴方は彼に何をされたの?」
「分からない」
「では何を無くしたの?」
質問の意味がよく分からなくて、チョーカーを握ったままになっている右手を額に当て目を閉じた。
俺は何か無くしたのか。
記憶?
確かに記憶もない。
「まだよく分からない。何も無くしてないかもしれないし、無くしたかもしれない」
「そのチョーカーは何?」
「俺か、永司の。この前から握ったままでなんでか離せないんだ」
「何故?」
「分からない」
本当に分からなかった。目覚めた時には既にこのチョーカーを握っていたのだし、俺の右手は固まったようにこれを離そうとしないのだ。
もしかしたら川口さんがやっているのかも知れない。あの夜、俺を子供と背後のモノから救ったのは川口さんだったからだ。でも、今もなおこれを手放せない理由は何だ。首に掛けていても別に問題はなかろうに、どうして【握って】いなければならないのだ。
「貴方は今、全ての物事を慎重に捉えなくてはならないわ」
姉ちゃんの声を聞きながら、閉じていた目を開いて目の前の右手を眺めた。
そう言えば、俺はずっと何かを握っていた気がする。このチョーカーじゃなくて、もっと別なモノを必死で握っていたような気がする。
暁生が目を覚ましたのは外が薄暗くなり始めた頃だった。
キッチンに来て俺と目が合うとすぐにトイレに走って行き、戻った時には出かける準備をしていた。
「俺、ドーラビーラに行って来る」
暁生は呆気に取られている俺を無視して姉ちゃんに別れを告げ、
タクシーの配車を頼んでいた。
「暁生?ドーラビーラって何だ?」
「スゲービーラを名古屋弁で言ってみた感じ」
暁生は全く俺を相手にしてくれない。大体ビーラってなんだ。
呆然としていると暁生はテーブルの上に置いてあるココアクッキーの瓶の蓋を開け、中から5.6枚取り出すとボリボリとそれを食べた。美味しかったのか、手に持った分が無くなるともう一度瓶を開けてクッキーを取り出して食べ、それを何度か繰り返して結局1人で全部食べた。
タクシーが着くとクッキーのカスが付いている手をパンパンと払い、立ち上がって出て行く。
出て行く気満々の暁生をとりあえず見送ろうと俺もそれに続き靴を履いた。
「ホント、なんなんだよ急に」
家先で待っているタクシーに近付き何も言わず去ろうとする暁生に文句を言うと、ようやく暁生が振り返って俺を見る。
目が合うと、暁生とこのままここにいたいと思っている自分を強く感じた。
「俺は真田に頼まれてお前に会いに来た。んで、会った。だからもう良いだろ。それにさっき目が覚めたら、急にドーラビーラに行きたくなったんだ」
だから、ドーラビーラって何だ。砂漠か?山か?湖か?
「でももう遅いぞ。明日にすれば…」
「良いんだ。とにかくどっか遠くに行きたい…とにかく動いていたいからよ。大体さ、このままお前といるといい加減俺のチンチン痛くなりそうだ」
暁生はニっと笑うとタクシーに乗り込む。
そして暁生は真っ直ぐに前を見据え、一度も振り返らず去って行った。
暁生はどこに行くのだろう。
今から向かう先に、暁生が探している風景はあるのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら消えていく太陽を見送った。
夜になると姉ちゃんと一緒に海に行った。
日が沈むと雨が降り出し、風も出てきたので海は時化ていた。
俺と姉ちゃんは傘を差して海岸を歩き、荒れ狂う海の音を聞きながらその無限のエネルギーを感じていた。
海の力はどこからやって来るのだろう。風と共に潮が声を上げ、押し寄せては引いて行く。生命を創り出し、生命を奪って行く。
俺は小さい頃、底が見えないほど深い海に浮かんでいると、自分が海に浮かんでいるのか空に浮かんでいるのかよく分からなくなった。足の下に広がる部分が何なのか、よく分からなかったからだと思う。そして、自分の足元に広がる何か分からないモノに、何故自分が恐怖を感じないのか不思議だった。
そうだ。不思議だったから、よく絵を描いた。海に浮かんでいる自分を横から見たところを想像して、大きな広告の裏を全部を黒く塗りつぶしたんだ。どうして青じゃなく黒だったのかはもう思い出せない。黒が子供の頃の俺の海のイメージだったのかもしれない。とにかく黒く塗りつぶした広告の一番上にある、色鉛筆の線の隙間に鉛筆の先っぽで点を描いた。そしてその点が自分なんだと想像し、自分はこんな場所にいるんだと頭に理解させて次の日に海に入ってそれを懸命に思い出した。深さが足りないのかと思って母ちゃんと一緒に沖の方にも出てみた。それでもやはり恐怖はなく、自分が何故平気なのかが不思議だった。今思えばそれほど不思議に思わなくても良い事なのに、俺はやたらと拘っていた気がする。
海に畏怖の念がなかったわけではない。
ただし俺にとって海とは、それを含んだもの自体だったのだ。
産まれた時から身近にありすぎたから、いつしか自分でそれを実感できなくなっていたのだ。
それは夜の暗闇に似ていた。
光の当たる場所から暗闇を見ると、そこは恐怖の対象となる。しかし、暗闇に入り自分の身体にまで闇が浸透すると、それが当然になるのだ。目が慣れ、感覚が馴染み、自分が闇の一部になるように。
潮煙を眺め足を止める。
傘を差していると言ってもかなり風が強かったので、足元はもうぐっしょり濡れていた。
「姉ちゃん。昔、俺が海で焼きイカ食べたいって駄々こねた時のコト覚えてる?真冬で、雪が降ってて、凄く寒かった時」
「覚えてるわよ。貴方は焼きイカ焼きイカって煩かったわね」
姉ちゃんが笑いながら足を止めた。
「俺はあの時どうしても焼きイカが食べたかったんだ。海に行けば食べれると思ったのに、焼きイカ屋さん無かった」
「母さんに家で作ってもらえば良かったのに」
「海で食べたかったんだ。海の焼きイカ屋さんで売ってるヤツを」
幼い頃を思い出しながら、俺は傘を畳んだ。
雨の一粒一粒を感じる事が出来る。
「母ちゃんしまいにゃ怒り出して、『そんな我が儘言うんだったら母ちゃん宇宙に帰っちまうからね!』て」
「言ってた言ってた。貴方呆然としてたわね」
「俺、本気で母ちゃんは宇宙人だったのか!って思ったもん」
「あれで味を占めて、母さん随分宇宙人ネタを使って貴方を脅したわよね」
「うん。あれからよく『母ちゃんは宇宙に帰ります』って言って俺を苛めた」
二人で笑いながら並んで夜の海を眺めた。
この海は美しいものではなく、人間が本能的に恐れる海だった。
「俺、そんな事は一杯覚えてるんだ。くだらない事ばっか、ハッキリ覚えてる。それなのに、なんで大事なことを思い出せないんだろう」
雨は雪にならないのが不思議なくらい冷たかった。
夜空を見上げるとそこには何もない。どこからともなく雨が降り注いでいるのだ。
暫く俺と姉ちゃんは黙って海を見ていた。海を見ていたと言うより、海の向こうからやってくる風や岩に当たって砕け散る波の飛沫や海の声を感じていた。
「父も、無くしてしまったモノを探していたわ」
意外な言葉に姉ちゃんを見た。
姉ちゃんは暗くうねり続ける海をじっと眺めている。
「覚えてるの?」
「何を?」
「父ちゃんのこと」
俺は自分の父の事を全く知らない。母ちゃんは父に関する事を一切俺に言わなかったからだ。ただ、「父親がいない」と言う事だけで俺には充分だったし、死んだのか別れたのかもあまり興味がなかった。
どのアルバムを捲ってみても父の写真はない。母ちゃんは何も言わない。
興味がなかったと言うか、興味を持ってはいけないと感じていたのかもしれない。
「覚えてるわ。父は私の全てだったから」
どんな人だったのか、生きているのか死んでいるのか訊いてみたかったが、姉ちゃんはそれを拒否するように踵を返し海に背を向けたので、何となく訊くタイミングを失った気がした。
母ちゃんよりも長いその黒髪が、雨に濡れている。
「私はもう帰るわ。貴方はどうする?どうしたい?」
「まだここにいる。身体を冷やしていたいんだ」
返事をすると姉ちゃんは歩き出した。
強い風が吹く度に姉ちゃんの髪がその細い身体に巻きつき、
人間とは別の生き物のように見える。
俺は姉ちゃんを見送ってから視線を海に戻した。
「慎重に物事を捉えたいとは思ってる。でも、ムカツクくらい複雑で縺れた糸のようなんだ」
誰に言うわけでもなく呟いてみると、風が姉ちゃんの声を運んで来る。
「縺れた糸?そんな単純なものではないわ」
その声は荒れ狂う波の音にも吹き付ける風の音にも掻き消されない、とても静かな声だった。