第12章 大神

 その日の夕方、窓の下に見えた見舞い客らしき男の姿を見て俺はまた激しく欲情した。
 砂上のいる前で両手で押さえつけるようにして自分の身体を抱き締め、完全に身体の熱が引くまで小さく丸まって耐えたのだ。
 今のこの身体はこのまま放っておいても元に戻ると思えなかった俺は、その日の晩に砂上と打ち合わせて夜中に病院を抜け出すことにした。
 行き先は、永司が一番目を光らせていると思われる場所のひとつ、母ちゃんのいる場所だ。
 とにかく母ちゃんと姉ちゃんに匿ってもらうしかねぇ。このままこの病院にいてもしょうがないし、砂上とあの老人にも迷惑がかかるだろう。そう思って、すぐさま出る事にしたのだ。

 身体は随分鈍っていたし足元もふらついていたが、永司や迷惑をかけている皆の事を考えるとさっさと母ちゃんの所に行って知恵を貸してもらうのが最善じゃないかと思った。
「身体はまだまだ休養が必要よ。もう少し休んでいった方が良いと思うけど?」
 車を手配してくれた砂上が、俺のためにどこからか調達して来てくれた衣服を片手にそう言う。
「確かに本調子にはほど遠いけど、男見るだけで勃起するくらだし平気だろ。それよか迷惑かけてスマン」
「勃起とか言わないでよ。喜代、恥ずかしいじゃない」
 笑っている砂上から帽子を受け取り、最後に春物のコートを羽織った。
 それから砂上に案内されて誰もいない深夜の病院の廊下を歩き、非常口から裏に出ると待っていた黒塗りの車に乗り込む。
「深海君、今回の喜代の働き、忘れないでね」
 ニコっと可愛く言いながら砂上が手を上げる。
「この借りは、いずれそのうち精神的に」
「なにそれ」
 笑う砂上に手を上げると、車がゆっくりと走り出した。

 運転手は30代前半の女性だった。
 彼女が砂上とどんな関係か知らないが、黙々と車を運転し続けていた。
 俺はとにかく疲れていたし、後部座席で横になるとまた眠りに落ちていった。

 目が覚めた時にはすっかり明るくなっており、目を擦りながら外を見てみると道路のすぐ向こうは海だった。全然知らない場所。
「今、どこ?」
「もう能登半島に入りました。あと30分もかかりませんよ」
 女性の声は思ったよりも明るくて俺を安心させる。
 彼女が窓を開けて煙草を吸いだしたので俺も一本貰った。久々に吸ったせいか随分頭がクラクラしたが、なんとなく普段と変わらない日常的な気分がして嬉しかった。
 窓の外から入る風は海の匂いがし、少し寒いがその寒さが心地良い。ただ天気は良くないのが残念だ。俺はずっと太陽を見ていない気がする。
 ぼんやりと外を眺めていると車が停車した。
「到着です」
 彼女の声に前方に視線を遣ると、そこには小さな白い家が建っていた。平屋で少し古い感じのする本当に小さな家だけど、クリーム色の壁と落ち着いた緑色の屋根が可愛い。狭い庭先にある木で出来た手作りの顔付きポストと、窓に掛っているカーテンは明らかに母ちゃんの趣味だ。
 家の後ろにはこんもりと小さな山があって、そのすぐ裏に海があるのだと思われる。
「有難う」
「いえ。ではまた縁があれば」
 俺が車から降りると彼女は少し微笑み、何事もなかったかのように去って行った。ほとんど何も喋ってなかったが、明るい声を出しさらりと去って行く彼女を見送りながら縁があれば本当にまた会ってみたいと思った。
 白い家に近付いて扉をノックしてみたが、誰も出なかった。そりゃそうだ。母ちゃんも姉ちゃんも仕事に行っているのだろう。何の仕事なのか俺は未だに知らないけれど。
 家の裏に回って開いている窓がないか調べてみたけど、結構横着なところがある母ちゃんも戸締りだけはしっかりしていて俺は中に入れない。まだ日は高かったが身体が本調子ではないため、とにかくどこかに座ろうと思って裏口のコンクリートの部分に腰を下ろした。
 今ごろ永司は何をしているのだろう。
 寝すぎで頭が痛いのだが、身体はまだまだ休みたがっていた。でも夕方になれば二人とも帰って来るだろう。
 俺はそう思ってじっと二人が帰って来るのを待った。永司の事を考えたり、あの日から自分に何が起こったのか思い出そうとしながら。
 だが、夜になっても二人は帰って来なかった。

 雨は降りそうで降らなかった。
 砂上に貸してもらった金があったが、近くにコンビニ等は見当たらない。少し歩いて探そうかと思ったけれど、ずっと何も食べてないはずなのに腹は減らずそのまま裏口にじっとしていた。遠くにある街灯がここまで届いて真っ暗闇にはならないけど、夜の匂いと静寂は俺を不安にさせた。嫌な事を思い出しそうだが、それが何なのかよく分からない。俺は何に怯えているんだろう。
 ジーンズの裾を少し捲って左の足首にべったりと付いている手の跡を見てみる。
 どんなに強く握られたらこんな跡が付くんだと思いながら指先で撫でてみたら、何故か無性に胸が痛んだ。それは本当に唐突で急激な、締め付けるような痛みだった。
 俺はきっと、本当に途方もなく大切な事を忘れているに違いない。
 それは川口さんでさえ分からないと言うほど掴む事の出来ない、例えば調子の悪いラジオみたいに不安定なモノなのかもしれないが、 俺の身体を変え俺の記憶を飛ばすほど重大な事だったのだろう。
 だってこの左足首にある手の痣は、これは永司の……永司の…………。
 何か言葉になりそうだったが、そのままそれはどこか混沌とした場所に消えていった。
 砂上が用意してくれた春物のコートに包まりながら夜空を見上げる。こんなに冷えるとは思わなかった。
 指先でもう一度足の痣を撫でながら膝の上に顎を乗せる。
 20日間に何があったのか。永司は俺に何をしたのか。
 その時、表の方から足音がした。ようやく帰って来たのかと思って腰を上げたが様子がおかしい。その足音は母ちゃんのものでも姉ちゃんのものでもなかったのだ。
 まさか永司が。
 そう思って息を潜めたが、俺の勘は何も言わなかった。
 訪問者はドアをトントン叩きながら何かボソボソと不満げに呟いている。
「んだよ。誰もいねぇのか?」
 その声を聞いた瞬間、俺は思わず叫んだ。
「暁生?!」
「あーー?!オメーどこにいんの?」
 どうして暁生がここに来たのかとか誰にこの場所を聞いたのかとか思う前に、俺は自分が出した声を後悔した。
「深海?」
「コッチ来るな」
 裏口のドアにへばりつくみたいになりながら逃げようと周りを見渡す。
「何言ってんだオメー」
 足音とともに暁生の声が近付く。
「とにかく来るな」
「んだよ。せっかく来たのに」
「来るなって」
「ウンコでもしてんのかよバーカ」
 暁生はいつもと変わらない。でも俺は違う。
 暁生には会いたくなかった。でも、暁生だけには凄く会いたかった。
 俺はその場に小さく蹲り腕で顔を覆った。
「オイ。ウンコしてるとこ見に来てやったぞ」
 暁生がすぐ側まで来て俺を覗き込んでいるのが分かった。
「変態。アッチ行け」
「変態はお前と岬杜と苅田と緋澄だろ」
「そうだ。俺は変態だから向こう行け」
「その変態の様子を見に来てやったんだ」
 髪を掴まれて強く引かれ、痛みに負けるようにして俺は暁生と目を合わせた。
 暁生の瞳は今日もギラギラしていて俺の大好きな暁生そのものだった。そして俺は予想通り、そんな暁生に欲情した。
「深海…」
 俺と目を合わせた暁生も欲情しているのが分かる。それは脂っぽいモノではなく暴力的なモノでもなく、ひたすら真っ直ぐな性欲だった。
 暁生が唾を飲み込む。
 俺の身体の中にある汚く黒いモノがそれを見て喜ぶ。
「メスになったか」
 汚いモノを見るかのように目を細め吐き捨てる暁生を見て、俺は薄ら笑いを浮かべる。
「ヤリてぇだろ?」
「俺は変態の仲間入りはしねぇ」
「チンコおっ勃てて言う台詞じゃねぇな」
 熱い息を吐きかけるように顔を近づけ、手を伸ばして暁生の身体に触れる。暁生の硬い身体を指先でなぞりながら性器に触ると、それはやはり激しく勃起していた。
 ギラギラした視線が更に熱を帯びている。俺は暁生の瞳に半ば見惚れながらゆっくりと唇を寄せた。俺も暁生も唇が触れれば絶対に止まらなくなるだろう。そう確信する俺の脳裏には永司の姿があったが、身体は止まらなかった。
「ケツにゃ興味はねぇ」
 唇が触れ合う寸前に、暁生が俺を突き放す。
「ヤリてぇくせに!」
 突き放されると感情が高ぶり身体が激しく疼いた。
 縋るようにまた暁生に手を伸ばそうとすると、一瞬何が起こったのか分からないくらいの衝撃がくる。後ろのドアに背中をぶつけ呆然としていると、頬の重い痛みで殴られた事を知った。
「お前乳首カチカチなんだろ?ヤリたがってんのはどっちだ」
「暁生だってッ」
「オスは発情期のメス見りゃチンコ勃つようになってんだ」
 暁生は自分の性欲を吐き出すかのように俺を殴ったが、俺はそれに構わず暁生に手を伸ばした。最初殴られた時に口の中が切れたのか血の味がした。
「身体辛いんだ。助けてくれ」
 伸ばした手が暁生の服を掴んだがすぐにそれは振り解かれた。吐き気がしたので口の中の血を吐き出すと、俺はまた手を伸ばす。
「一回抜いて来い」
「そう言う問題じゃねぇんだ」
「んじゃ、とりあえず俺は抜いてくる」
 早口でそう言いながら俺の手を払って表の方に去って行く暁生を追いかけようとしたが、暁生の姿が消えた途端にその気は失せた。その気は失せたが身体はまだ熱い。身体と心と頭ん中が全部バラバラになってるみたいだった。
「暁生」
「あーー?……ガツガツに勃起してるからチャックから出し難いな…イテテ」
 死角になってる壁のすぐ向こうから、ゴソゴソと何かやっている物音と暁生のいつもと変わらない声が聞こえた。
「お前人ん家の庭で精子出すのかよ」
「ちょっと黙ってろ。俺、今余裕ねー」
 暁生のバカっぽい声を聞いていると何だか笑えて来る。
「お前が来てくれて嬉しい」
「ヤラねぇからな」
「んー」
 返事をしながらコンクリートに横たわって丸まった。頬に当たる部分が冷たくて気持ち良い。真っ赤に腫れ上がった神経がゆっくりと冷えていくようだ。
 暁生は黙って自慰行為に耽っているようで、それを想像すると欲情するよりも妙に笑えた。暁生は多分すぐそこにいる。 でも、理由は分からないが暁生の性欲は思っていたほど俺を刺激しなかった。
「うわ手に付いた!深海ティッシュ持ってねぇ?ティッシュ!」
 暫くするとやけに元気な声が聞こえ、俺はまた笑った。

 それから暁生はこっちに来ようとはせず、壁の向こう側で自分が何故ここに来たのかを教えてくれた。
 まず、暁生は2月に入ってから真田の様子がおかしい事に気がついた。学校に来なくなったのだそうだ。真田は元々そんなに真面目に学校に来ていたわけではないから最初は気にしなかったらしいのだが、一週間丸まる休む事などなかったので暁生は様子を見に行った。真田は顔色が悪いようだったが別段普段と変わらなく、何故学校に来ないのかと訊ねるとただゲームをしていたと答えたらしい。暁生が学校に誘うと、真田も翌日からは登校するようになった。
 しかし日が経つにつれ真田は顔色が悪くなり、あれだけ旺盛だった食欲もほどんとないようでどんどんやつれていった。
 暁生は様子のおかしい真田を気にしながら俺と永司のことも気にしていた。何故学校に来ないのか、電話しても誰も出ないのかと思いマンションに行ってが電気も消えている。携帯にかけてもどちらも出ないし苅田に聞いても知らないと言う。遊び相手がいないからまたどこかへ旅に出ようかと思っていると、ひょっこり永司が訪ねてきた。俺を見かけなかったか?と。暁生は知らないと答えたが、永司の様子がおかしい事は分かった。そしてその翌日、突然真田に長野の実家へ行こうと誘われる。
 正月に帰省したばかりの真田が、しかもあれほど帰省を嫌がっていた真田がなぜ突然そんな事を言い出したのか暁生は分からないし、そんな深く考えなかったらしい。暁生は誘われるまま真田に付いて行った。どうせどこかに行こうと思っていたのだからと。
 誘われたは良いが、真田は長野に到着するや否や姿を消す。一日どこかへ雲隠れし、そして戻って来た時に「これからヒジキの所へ行って欲しい」と頼まれここの住所を教えられた。
 俺は暁生に何故真田がここの住所を知っていたのかと訊ねたが、暁生は知らないと答えた。ここの住所を知っているのは俺の家族と永司だけだと思う。連絡先として学校側にも伝えてあるのかもしれないから、真田が学校側に問うた可能性もあるが。

「んで、何で暁生はここに来たん?」
「知らねー。ただ真田に会いに行ってやってくれって言われたし、暇だったから来た。それよか何があったんだよ」
 暁生の問に溜息を吐く。
 何があったのかは俺が一番知りたいんだ。俺は何をされ、その間に何があったのか。何故真田は暁生を長野に誘って、そしてここの住所を暁生に教え暁生をここに来させたのか。
「何があったんだろ。俺も誰か賢い奴に図解してもらいたいくらいだ」
 苦笑していると、真正面の小さな山から小さな足音が聞こえた。カサカサと小枝と枯葉が擦れ合うような音だ。
 近付いてくる。
 木々の合い間から何かの姿が見え、なんだろうと目を細めると茶色い犬が姿を現した。
「野良犬?」
 家の裏には金網があったからこっちには来れないだろうが、やけに眼光の鋭い犬だ。そういや以前もこんな犬をどこかで…。
「あ、狼」
 暁生の呟きと足音が聞こえる。視界に入るとまた欲情しそうだったので俺は視線を逸らせた。
「狼って何だよ。犬だろ、犬」
「狼だって教えてもらったぜ?」
 暁生は金網に近付き、野良犬に向かって「なー?」と話し掛けている。
「あのな暁生。日本狼はとっくに絶滅してるよ。もしそれが本物の狼だったらエライ騒ぎになるぞ」
「だって真田がこれは狼なんだって言ってたぞ」
 暁生の言葉に笑って言い返そうと思った時、ふと正月のことを思い出した。真田・山・山神・苅田と一緒に見た犬。
 昔から狼は聖なる動物だったと聞く。「大神」に通じる聖獣であり山神の使いでもあったと。
 いや、こんな小さな山に狼なんているものか。そもそも狼は絶滅してるんだ。この犬はただの野良犬だろう。
 そう思っていると、犬が遠吠えを始めた。
 その声は闇の中の風に乗ってどこまでも届くような長い遠吠えだった。

 その晩、姉ちゃんと母ちゃんは結局帰って来なかった。
 暁生は丸まって横たわっている俺の隣に座り、ずっと握っている俺のチョーカーを不思議そうに突付いていたが、別に何も言わずそのまま黙って座っていた。
 俺はすぐ隣にいる暁生の体温を感じて欲情したが、不思議とそれほど激しい欲情ではなかった。
 汚い沼や湿地に強い日差しが差し込むように、表面が乾いてきているようだ。それは俺の身体の中にある黒く煮立った部分までは届かないにしても、その他の部分を綺麗に浄化させていくように感じた。
「暁生だけには凄く会いたかったんだ。その理由が分かった」
「あー?」
 暁生の眠そうな声を聞いて、俺も眠くなった。
「俺、ずっと太陽見てなかったんだ」





 真田の夢を見た。
 真田家の裏にあるあの神社の境内に、真田が座って俺を呼んでいる。
 やっぱりここにいたのかと思って俺は近付いていった。
 真田はしきりに話し掛けてくるのだが、何を言っているのかさっぱり分からない。聞こえるんだけど、言葉が頭に入って来ないのだ。
 分からないと首を傾げてアピールしても真田はやたら真剣に俺に何かを訴えてくる。
 どうしようと思っていると、真田が俺の手を引いて立ち上がった。
 どこに行くのだろうと思いつつ引かれるまま立ち上がると、真田が真正面に見える日本アルプスの山々を指差す。
 その瞬間辺りは暗闇に包まれ真田の気配が消えた。

 そこは永司の寝室だった。
 永司がベッドにうつ伏せになってる。
 暗くてよく見えない。
 永司は僅かに震えながら腕を伸ばし、ベッドに散らかったモノをゆっくりと掻き集めて抱き締める。それに顔を埋めて震えている。
 俺はもっとよく見ようと目を細めて少し近付く。
 ベッドの上に散乱しているモノ。
 永司が顔を埋めているモノ。
 それは俺の衣服だった。





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