第11章 2001年宇宙の旅
暖かで不思議な夢を見た。
永司と二人でリビングのソファーに座って「2001年宇宙の旅」を見ている時の夢だ。
俺の持っているDVDを永司が見たがって、
学校から帰ると部屋の電気を消して二人で見たんだ。
時代を感じさせないキューブリックの魔法のような美しい画像を眺めながら、HALとボーマン船長の会話を聞いていると、こんぺいとうがやって来て永司の膝で丸くなる。永司がその体を撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。珍しく猫は機嫌が良いようだった。
「宇宙に行ってみたい」
永司の呟きに、猫が尻尾をパタンと振って返事をする。
「んじゃ、今度俺が連れて行ってやる」
にっと笑って答えると、永司は一度猫の体を持ち上げ足を組みなおす。
「それは楽しみだ」
「永司は何で行きたい?」
「何でとは?」
俺は手を伸ばして、テーブルの上に置いてある缶ビールを取って一口飲んだ。
「宇宙に行く手段だよ。豪華宇宙客船とか改造コンコルドで思わず大気圏突破とか、羽付きチャリでキコキコ漕ぐとか……春樹くんとあてもなく歩いて行くとかね」
楽しそうに笑う永司を見ながら、冷たいビールをもう一口飲む。
「徒歩とチャリは勘弁して欲しいな」
「なんでだよぉ。楽しそうじゃん」
「疲れるよ。その前に、いつまで経っても宇宙に到着しないぞ」
「んなコトねぇよ。気合で行くんだよ根性キめて。俺なんて1才の頃ハイハイで行ったね。宇宙に」
ぎゅっと拳を握って自慢気にニッコリと笑ってみせた。
「アホ」
飲んでいるビールをテーブルの上に戻して、笑いながらそう言う永司の腕を小突く。
「誰がアホじゃ」
「春樹様」
「それ、『あ』いしているよ『ほ』んとうに、の略だろ」
「違う違う」
「んじゃ、『あ』いしているぜ『ほ』んしんは、の略だろ」
フフンと笑いながら永司の首に腕を回して少し引き寄せ、その頬に唇を寄せる。視線が合うと今度は永司の唇を親指でゆっくりと撫でてみた。
見詰め合い、微笑み合う。
「あ。今の春樹くん、カッコよさレベル8.3くらいじゃなかったぁ?お前も今日の日記に『今日の春樹ってば超ろまんつぃっく。俺は嬉し恥ずかしで困ったよ!』とかって書こうと思ったろぉ〜〜」
ツンツンと永司の頬を突付くと、猫が五月蝿い俺を見上げて呆れるように目を細める。
永司はまた楽しそうに笑った。
夢が変わる。
夜になっても姉ちゃんが帰って来ず、俺は家の中を歩き回っていた。
中学2年になっていた姉ちゃんは最近ぐっと大人びてきてたから、ガキだった俺でも本当に心配だったんだ。誘拐されていたらどうしよう、ヘンな事に巻き込まれていたらどうしようと考えれば考えるほど落ち着かず、電話と玄関の間を行ったり来たりしていた。
募る不安抱えながら電話の前に来ると、玄関から物音がする。
走って玄関に戻ろうとすると、電話のコードに足を引っ掛けて転んでしまった。
「何をバタバタしてんだい?」
顔を上げて見てみると、帰って来たのは母ちゃんだった。
「姉ちゃんが!」
慌てて立ち上がって姉ちゃんが帰って来てない事を告げようとすると、母ちゃんはそんな俺を無視してスーパーの袋を片手に台所へ向かう。
「響湖なら心配ないよ」
平然と言う母ちゃんの後ろ姿を見て家を飛び出した。
姉ちゃんの身に何かが起きている。
俺には分からない事が。
家の近くにある海岸を走りながら、不安にかられて姉ちゃんを呼ぶ。
外は随分と蒸し暑く、少し走っただけでもタラタラと汗が出た。
「姉ちゃん!」
波の音に自分の声が掻き消されるような気がしていた。
町に行こうかこのまま海岸を探そうか迷っていると遠くの岩に姉ちゃんの白いワンピースが見え、走り寄ってみると白いサンダルが砂の上に並べられてあった。
「姉ちゃん」
やけに胸がドキドキした。
この先は見てはならないような気がしたが、俺は岩の向こうをそっと覗いてみた。
そこには、海の向こうから歩いて来る天女のように美しい姉ちゃんがいた。
黒く長い髪が夜の海と同化し、姉ちゃんの白い肌だけが生々しく月光を照り返している。
「春樹?」
打ち寄せる波と共に岸に戻ろうとする姉ちゃんに声を掛けられ、俺は小さく頷く。
「来てくれたの?」
いつものように小さく優しい声を出しながら、姉ちゃんが海から上がった。肌に長い髪がへばりついているとはいえ全裸の姿を見て視線を外そうとしたが、俺は姉ちゃんの太腿に流れていくモノに気が付き思わずそれを凝視した。
その赤い液体は姉ちゃんの真っ白い太腿から伝って膝に流れ、足首まで落ちていく。
「心配かけてごめんね。でも私はもう少しここにいるわ。ここにいたいの。春樹はどうする?」
「……帰る。ちょっと心配して見に来ただけだから」
目の前にいる姉ちゃんは、俺が初めて見る姉ちゃんだった。
夢が変わる。
永司と二人でリビングのソファーに座って「2001年宇宙の旅」の3回目を見ている。
一度目は途中で永司と宇宙旅行の話をしてしまって気がついたら終わっており、二回目は途中で砂上と藍川が遊びに来たので見るのを止め、それで今、三回目なのだ。
テレビの大きな画面一杯にスターチャイルドが現れる。
「これ、結局何の話なんだ?」
永司が不思議そうに首を傾げて訊ねてきた。
「なんか進化の話らしいよ。俺には全然分からんけど」
「進化…」
永司は分かったような分からんような声を出した。
「知らんよ。他にも色々な解釈があるみたいだから。だから本当は違うのかもしれん」
永司はエンドロールを眺めながら何か考えていたが、立ち上がってビールを片付けようとした俺の手を引いて膝の上に座らせた。
「あの黒い石版欲しい」
「モノリス?だったら俺が今度作ってやるよ。永司くんのために、紙粘土で」
んーっと大袈裟なキスをしてやると、永司が嬉しそうに目を細めた。
「春樹大好き」
「俺だって俺だって、永司ちょー好き。ちょーーー好きっ」
俺達はクスクスと笑いながら、唇を突き出すようにして大袈裟なキスを繰り返した。
目が覚める。
一瞬眩暈のように視界が揺れたので、もう一度目を閉じて手の甲で擦り再び瞼を開く。
部屋は真っ白で天上が高い。視線を巡らすと部屋の隅に小さな黒いテレビと大きな茶色い本棚があった。このベッドのシーツは薄い緑で、手を上げて見てみると俺が着ているのは青色に黄色のチェックが入っているパジャマだと分かる。
見覚えがあるこれらのモノを眺めていると、徐々にぼやけていた記憶が蘇った。ああそうかと思って身体を起こそうとしたが、妙に気だるくて眩暈がし身体を動かせない。
覚めない夢の中に取り残されているような気分だ。
「川口さん」
小さな声で呼んで暫く待ってみると、部屋の扉が開き誰かが入ってい来る気配を感じた。
だが、川口さんの姿は見えない。
「どこ?」
「ここにいますよ」
耳元で優しい声がする。
「見えない」
「急だったので、姿や形で現せる状態になれなかったのです。それよりもう少し眠ってください。君は今、少しでも身体を休めなくてはいけない」
静かな部屋に二人だけの声がこだまする。
川口さんの落ち着いた声が俺を安心させた。
「永司が…」
「大丈夫です。ここは切り離された空間ですから誰も入って来られません。さぁ、目を閉じてもう少しお休みなさい」
俺は言われるままに目を閉じた。
暖かな毛布。切り離された空間。川口さんの優しい声。
でも、眠りたいのに眠れなかった。
まるで夢の中で眠ろうとしているみたいだ。
「来てくれたんだ」
「ええ。深海君が私を呼んだので」
俺は川口さんを呼んだのだろうか。あの時はもうグチャグチャになってて、自分に何が起きているのか、起ころうとしているのか分からなかった。
「迷惑かけてゴメン」
「とんでもない。私は深海君が呼ぶのであればいつでも駆けつけます」
川口さんが俺の髪を撫でた感触がした。薄っすらを瞼を開けて見てみるも、やはりそこには何もなかったのでまた目を閉じる。
何せ瞼が重かったし、不眠不休で働き続けたかのように身体が疲労で悲鳴をあげていた。
「君は丸2日間人事不省でしたよ。何故こんな事になってしまっているのか」
溜息と共に呟く川口さんの言葉を聞いて、少しだけ苦笑した。俺だって一体全体何がどうなってこんな事になってしまったのか全く理解できないんだ。
「俺の記憶見た?」
「君が今どんな状態なのかを探ろうと思ってバスローブに残っていた部分を読みましたが、よく分からなかったので…。無断で申し訳ないとは思ったのですが何しろ君は意識不明のままだし……それでさっき夢を。ごめんね今回も断りなく覗いてしまって」
「良いよ今回は。しょうがないしね」
「それにしても、よく分からない夢、つまり記憶でした。こんな経験は初めてです」
「そりゃあ、さっき見た夢は今起こっている事と全然関係ないから」
「関係ない?そんなはずはありません。私は深海君の最近の記憶を見たのですよ?」
最近の記憶?
それは何だ。俺が見た夢は、冬休みが始まった頃の夢とまだ子供だった頃の夢と、冬休みの終わりかけの頃の記憶だ。今回の事とは全く関係ない。
「川口さんの見た記憶ってどんなの?」
「それがよく分からないのです。君が私を呼ぶ寸前の記憶はありましたよ。しかしそれ以前の、肝心な記憶がよく見えないのです。見えないと言うか、上手くカタチになってないのです。君は一体、何をしていたのですか」
「俺も分からない。ただ…」
断片的に浮かび上がる記憶は、狂った獣のように行った汚らわしいセックスと悪趣味なオナニー、そしてまた繰り返されるセックス。
それしか覚えてない。
「一日何回セックスしてたんだろ。ろくにメシも喰ってなかった気がする」
寝ても起きてもヤリまくってた記憶しかない。でも、それも漠然としていてよく思い出せなかった。
「セックス?誰と?」
「永司と」
「岬杜君とセックスしていた記憶はなかったよ」
川口さんの言葉に一段と思考力が鈍るような気がした。
川口さんは嘘を吐く必要がない。ならば、俺は永司に何をされていたんだ。俺が持っている記憶は何だ。川口さんと俺が見た夢の違いは何なのだ。
「深海君が持っている記憶がどんなモノか分かりませんが、深海君の身体はもっと違う理由で極度に疲れきっているようです。とにかく今は寝て身体を休めてください」
分からないことだらけだ。
溜息を吐きながら思うように動かない自分の身体を考え、川口さんの言う通り今は眠ろうと思った。
ゆっくりと身体をリラックスさせると、身体が睡眠だけを欲していると感じる。
「深海君。君の記憶に出て来るあの奇妙な少年は、実は私は一度も見たことがないのです。駅のプラットホームにも街灯の下にも、私には何も見えなかった。そして君に起こった最近の記憶も私には見えません。しかし私は、これは別に不思議な事ではないと思うのですよ。真実がいつも難しく絡まっているように記憶もまた複雑なものだし、住んでいる世界が違うのならばそれはそうでなくてはならないと思うのです。
分かりやすく説明しましょう。本棚に二つの本があるが、それらの主人公や登場人物や世界は交わる事がないし、交わる必要もない。
つまり全てはそういう事なのです」
夢うつつで川口さんの声を聞きながら、俺は温かい泥の底に沈むように意識を失っていく。
どこかで美しい音楽が響いていた。
「永司」
自分の声で目が覚めた。
窓から入って来る風に目を細めながら、独特の匂いと自分の横にある点滴で病院だと分かる。
たっぷりと眠った日曜の昼のように頭もはっきりとしていた。
「気がついた?」
点滴の横から見知った顔が覗く。
「……永司は?」
「第一声が岬杜君の事?」
「うん」
「知らせてないわ。彼は必死で探し回っているけどね」
砂上が薄く笑いながら手を伸ばし、ベッドの脇にある小さなテーブルから水差しを持ってコップに注ぐ。
「飲む?」
「うん」
頷いてから上半身を起こした。
動く。
手も足も、ちゃんと動く。
ただ、右手だけは未だにチョーカーを握ったままでそれを離そうとはしなかった。
「質問一杯ある」
「私もよ」
手渡されたコップの水を含ませるように飲みながら、ゆっくりと呼吸を繰り返した。
「俺からで良い?」
「どうぞ」
「今日は何月何日?」
「2月24日」
砂上は水をゆっくりと飲む俺を見ながらそう答え、そして事の顛末を語ってくれた。
まず、永司から俺の行方を聞かれたのが4日前。
砂上はその時の永司の様子で、また何かあったのだと感じていた。永司はそれほど焦っていたし、まず永司から連絡がくること事態がよっぽどの事なのだ。また誘拐されたのかと思ってそれとなく事情を訊いてみたが、永司は何も答えなかった。
永司は学校に行かず、俺を探していた。
一日に何度も連絡が来て俺の行方を尋ねるが、砂上は勿論何も知らない。一応砂上自身も俺を探してはみたものの、またひょっこり帰って来るだろうと楽観視していたらしい。
ところが二日前、毎日のように掛ってくる永司からの連絡に砂上はなんとなく違和感を覚えた。それはほとんど勘のようなものだったらしい。女性特有の、いや砂上特有の勘と言おうか。
永司の話し方、伝わってくる雰囲気。違和感の原因を考えていると、砂上は永司が常に自分を疑っている事に気がついた。それは言葉尻から感じる微かなモノだったが、一旦そう感じるとハッキリと分かるようなものだった。
俺に関わることを、砂上は永司に隠している。そう疑われているのだ。
しかし理由が分からなかった。何故自分なのか。いや、もしかしたらいつものメンバー全員が疑われているのかもしれない。そう考えた砂上はそれとなく苅田や緋澄に俺の話を振ってみたが、結局何も分からなかった。分からなかったが、もしかしたら俺が永司から逃げているのではないかとそう感じた。そう考えれば、自分に疑惑の目を向ける永司の行動に合点がいくからだ。
結局砂上は何も行動を起こさないまま、様子を見ることにした。
そして昨日、夜中に砂上の携帯が鳴る。
相手は川口さんで、俺の事を頼まれる。
砂上は俺の受け渡し場所を伯父が経営しているこの病院に指定し、自分は一足先に病院に行って伯父に事情を話し、念の為と思って伯父に固く口止めをしていると、いつの間にか院長室のソファーに俺が横たわっていたのだそうだ。
「ってコトは永司には連絡してないと?」
「してないわ。川口さんからもそう言われていたの。できるなら、深海君の意識が戻るまで岬杜君には何も言わないで欲しいとね」
点滴が終わったので砂上は俺の腕から手慣れた様子で針を抜いた。
「川口さんは何で砂上に頼んだんだ?」
「さぁね。でも私で良かったわね。苅田君達以外のクラスメートは、岬杜君のあの迫力に押されて嘘を吐き通せない可能性がある。貴方の昔の友達は、財力や家庭の理由で長く匿う事が難しい」
「あの迫力って…そんなに永司ヤバそうか?」
「このまま放っておいたら尾行や盗聴までしそうだわね」
ありえない事ではないと思い、俺は口を閉じた。
考えてみればあの状態で別れたんだ。永司がまともでいられるわけがない。
「とにかく岬杜君はそろそろヤバイわね。どうするの?」
本当にどうしようと考え込んだ時、部屋の扉が開いて白衣を着た1人の老人が入って来た。
「伯父様」
砂上の呟きを聞きながら、俺は漠然とその老人を見ていた。
人の良さそうな顔。
背の低い、太った身体。
身体。
男の。
……男の身体。
「深海君?」
俺の手が甘く誘うように老人に差し伸べられた瞬間、砂上が椅子から立ち上がった。
身体の奥にある腐った部分が酷く熱を持ち始める。グツグツと煮立った汚く濁った黒いモノ。
「伯父様。部屋から出て行って」
俺をキツイ視線で見遣りながら砂上はそう言い放ったが、老人は動かなかった。
俺は自分の唇を甘ったるく舐める。老人が俺の唇と舌の動きを食い入るように見入っているのを感じながら。
「伯父様、出て行ってください」
自分が勃起しているのが分かった。部屋のドアの前で突っ立っているこの老人も粘っこい性欲を掻き立てているのが分かった。
身体が熱い。
「伯父様。出て行きなさい」
砂上が老人と俺の間に立つとドアを指差してキツイ口調で命令すると、暫くの沈黙の後ドアが閉まる音がした。
振り返った砂上と目が合う。
「凄い発情の仕方ね。人間とは思えないくらいだった。川口さんが貴方を私に託した理由のひとつは、きっとこれね」
老人が視界から消えたことで、身体の熱は波が引いていくように徐々に鎮まっていく。それでもまだ呼吸が乱れていた。
何だったんだろう、今の。
自分の身体とは思えない反応の仕方だった。
「発情期の動物。しかも雌だわ」
砂上に顎を持たれ、上を向かされる。
砂上の瞳は冷えきっていた。
「深海君。貴方、何をされたの?伯父は薬物反応はなかったと言っていたけど」
永司との間に繰り広げたセックスの数々が浮かんでは消えていく。
俺は何をされたんだ。
俺の身体はどうなってるんだ。
「……分からない。ただ、永司に」
「岬杜君に?」
「ずっと抱かれてた。延々と」
「抱かれていたとは抱き締められていたということ?それともセックス?」
「セックス」
砂上は息を吐いて俺の顎から手を離し、さっきと同じコップに水を注いだ。
「飲みなさい」
強制されて俺はコップを受け取り一口飲む。
身体に冷たい水分が染み込んでいくのが分かった。
「私は昏睡状態の貴方を見た時、真っ先にそれを考え伯父に貴方の身体を検査してもらった。でも、貴方の身体はどこも傷付いてなかったの。どこも傷付いてなく炎症も起こしていなかった。意味、分かるわよね?」
自分の記憶と川口さんが見た俺の記憶の違いを思い出した。川口さんですら、俺の身に何が起こったのか分からないと言っていたんだ。
「分かる」
「そう。なら、貴方は一体何をされていたの?何故岬杜君から逃げているの?」
何をされたのか。
それはどれだけ考えても全く分からなかった。そして永司から逃げる理由もよく分からなかった。でも、今永司の元に戻ったらまたあのセックス漬けの日々が待っているような気がしている。俺の記憶が間違いならば、俺は全く無意味に永司から逃げている事になるのだろう。砂上の伯父が「どこにも傷はなく炎症も起きてない」と言い、川口さんも「永司とセックスしている記憶はなかった」と言う以上、俺の記憶なぞ限りなく怪しいものだ。
でも、だったら、俺のこの身体の反応はなんだったのだ?何故俺があの老人にあれほど激しく欲情したのだ?
いや、あの老人に欲情したのではない。
視界に入った【男の身体】に狂ったように欲情したのだ。
永司から逃げる最中、苅田の身体を思い出して唐突に欲情した時のように。
「深海君」
呼ばれて顔を上げると、砂上が椅子に座って俺を眺めていた。
「私は川口さんから貴方を預かった時、そのまま岬杜君に渡そうかと思ったわ。岬杜君の権力を考えると、是非ともそうしたかった。でも私はそうしなかったのよ。理由は二つ。岬杜君のあの常軌を逸している様子と貴方の身体」
「昏睡状態の事?」
「いえ、それはただの疲労だから別に心配はしなかった。もう回復に向かっていたしね。私が言うのは……ちょっと自分の足を見てみなさい」
言われるままに布団を捲り、自分の足を見た。
「深海君。貴方本当に、何をされていたの?」
俺の左の足首には、くっきりと手の跡が残っていた。