第5章 甘いチョコレート・ケーキ


 楠田と上村は夏休みに入っても毎日会っている。
 楠田の家は両親とも忙しく、彼女を何処にも連れて行かない。連れて行かないどころか、2人とも滅多に家に帰ってこない。
 上村の父親は中小企業の社長だった。
 彼女の両親は比較的まともであったし、毎年恒例になっている夏の旅行をとても楽しみにしていた。
 しかし上村はこれを拒否した。上村は今、楠田と一緒にいたかったのだ。この気持ちが恋なのかどうか分からない。しかし上村は少しでも楠田の側にいたかった。
 両親は娘が夏の旅行を拒否したの事に動揺した。娘も毎年、夏の旅行を楽しみにしていたのだ。しかし結局娘を置いて自分達だけで行く事にした。上村1人を置いていくのは不安だったが、常にしっかりしている娘を両親は信用していたし、隣の住人は父親方の親戚だった。だから2週間程上村をこの親戚に預け、自分達だけで旅行を楽しもうと思ったのだ。 たまには良いだろう、と思いながら。
「由子ちゃん、今日は植物園に行きましょうよ」
 待ち合わせの時間より早く駅に着いても、上村は必ずそこに座って待っていてくれる。楠田はそれが嬉しかった。
 まるで楠田と会うのが楽しみだとでも言うように、上村は微笑んで待っている。
「あら、今日は映画ではないの?」
「だってこんなに良いお天気よ?映画なんてつまらない。私は由子ちゃんと植物園に行きたいの。駄目かしら?」
 上村は「勿論良いわよ」と言って笑う。
 優しい顔で笑う。

 それから2人で植物園に行った。
 様々な花を見ながら、楠田は幸せを感じる。
 上村はどんな花よりも可憐に見えた。
「好きよ」
 楠田が微笑んで言う。
「……ありがとう」
 上村も微笑んで言う。
 しかし上村はそれしか言えない。「私も好きよ」とは返せない。胸がチクチク痛むのだけれども、上村はそれを隠す。楠田が手を握ってきても、上村はいまだに震えてしまう。だが上村は、自分はいつか楠田を好きになるだろうと信じている。
 信じている。
 祈るように、
 信じている。





 真田は夏休み、偶然深海と岬杜に会った。
 信号待ちしていると、青いハーレーがやって来て目の前で止まった。それがこの2人だった。深海が後ろに乗っている。
「ヒジキー!!」
 真田の怒鳴り声が聞こえたのか、深海が驚いたようにコチラを見た。
「テメーちょっとコッチ来いや!」
 半ヘルを被った深海が目を真ん丸にして真田を見ていたが、信号が青になったので岬杜がアクセルを吹かす。低いエンジン音だ。
「ゴルァ!ヒジキ待たんかい!!」
 いくら真田でも追いつくわけはないのだが、それでも真田は2人を追って走り出した。周りの人間が何事かと見ているのだが、そんなのお構いなしだ。
 どれだけ走ったか分からない程走り、完全に2人を見失っても真田は走っていた。

 真田は嬉しかった。
 一瞬チラリと見えた岬杜の顔が楽しそうだったから。





 入来はバイトが終わると真っ直ぐ真田のマンションへ行く。夏の酒屋は地獄のように忙しい。疲れた身体を引きずって真田のマンションへ向かう。
 真田はあの日以来、入来の身体に触れてはこなかった。翌日は何事もなかったように話し掛けてきて入来を混乱させたが、入来自身も別にどうでも良いように思えた。
 真田は毎日入来を自分のマンションへ呼ぶ。なぜか入来が自分のアパートへ戻るのを極端に嫌がった。入来も真田のマンションにいるのが楽しかったから、それはそれで良かった。真田は毎日バイトでくたびれている入来をこき使い、掃除や洗濯、炊事もさせる。それでも真田のマンションは居心地が良かった。
 忙しいバイトと我儘な真田とで、入来は楠田の事を考えなくなっていた。

「今日、目の保養君と会ったぞー」
 食事の用意をしていると、真田がソファーに寝転んでテレビを見ながら言った。
「そう」
 入来には関係無い。興味もない。
「目の保養君元気そうだったぞー」
「そう」
 真田が味噌汁に味噌を入れていると、突然真田が笑い出した。
 最初はクスクスと。次第にゲラゲラと。最後にはガハハハと。
「目の保養君バンザーイ!!」
 何やら1人で大爆笑している真田を見て、入来は首を傾げていた。





 楠田は夏休みの終わりに上村とキスをした。いつものように遊びに出かけて、その帰りにキスをした。
 上村は震えていた。それでも上村は自分の身体を両腕で包み、震えを止めようとしていた。
 しかしそれは止まらなかった。
 上村は何度も楠田に謝った。小さな声で何度も。
「ごめんなさい」

 楠田は小さな上村を抱き締める事しかできない。
 抱き締める事で上村の身体が余計拒絶反応を起こすにしても。

「気にしないで」

 楠田はそう言うしかない。
 そう言うしかない。
 楠田は自分の心に霧が立ちこめているのを自覚する。

「由子ちゃん。私は由子ちゃんが好き。緑深い山の奥にひっそりと静かに湧き出ている泉のような由子ちゃんが好き。夏の空に白くふわふわと漂っている雲のような由子ちゃんが好き。春の陽だまりに小さく顔を出している若葉のような由子ちゃんが好き。冬にかじかんだ手を温めてくれるピンクの毛糸の手袋のような由子ちゃんが好き。私は由子ちゃんが好き。だからもう少し、もう少しだけ私に時間を頂戴」
 楠田は自分に言い聞かせるようにそう言う。
 上村は言葉を返せない。何を言えば良いのか分からない。
 とにかく、自分の身体の震えを止めたい。そこから始めたいと、そう思っていた。





 夏休みが終わると、真田の機嫌は手に取るように良くなった。理由は勿論、岬杜である。
 夏休み、実家にも帰らず毎日をダラダラ過ごしていた真田は、新学期が始まれば岬杜に会える!っとただその一心で日々の生活を送って来たのだ。
 岬杜は新学期が始まると珍しい程毎日学校に登校していた。そして驚くべきことに、岬杜自身も機嫌が良さそうだった。真田が毎朝「目の保養君専用スマイル」で挨拶すると、ちゃんと真田を見て頷く。毎日ちゃんと真田を見て肯く。これは真田にとって、飛び上がって駆け足で町内を10周してしまいそうな程嬉しい事だった。

 その日、真田は岬杜の後を追って屋上へ上がった。勿論岬杜とお喋りする為である。
 階段を上るだけで汗が頬を伝った。真田は高地の山奥で育った為この咽返るような暑さに弱いのだ。このクソ暑いのになんでまた屋上なんだろうと思いつつも、なんせ岬杜が行くのでしょうがない。テクテクと屋上に行く。
「よぉ真田ぁ〜」
 いつもの深海の声がする。
「よぉヒジキ」
 真田は深海には興味がない。興味があるのは岬杜だけだ。その岬杜の姿を見つけ、真田は特等席にスキップして行く。「目の保養君バンザーイ!」と言いながら。
 勿論当の岬杜は真田に何の興味もない。しかし真田はそんなんお構いナッシングなのだ。とにかく岬杜の顔を眺めていれればそれで良い。岬杜が時々頷くんだったらいっそう良い。お喋りできたと1人喜ぶ。
 真田はとにかく岬杜が好きなのである。
「岬杜君、今日もカッコイイわよっ!」
 おほほほっと笑いながら真田は上機嫌で言う。岬杜は黙っているのだが、真田はそんな事には慣れっこになっているので関係無い。
 今日も「目の保養君の前で煙草を吸ったらいけないだろうか?」と、いらぬ事を真剣に悩みながら岬杜の整った顔を真正面から眺める。深海の話を聞きながらクスリと笑う岬杜を見て、真田は脳内お花畑ばかりではなく、脳内岬杜ハーレム(←大勢の岬杜が真田1人の為にアレコレするハーレム)まで出現させて喜ぶ。
「真田、ヨダレでてるぞ」
 脳内岬杜ハーレムで猥らな想像をしていたのに、苅田が真田を現実に戻した。
「んだよ駅弁!今良いトコだったのに!!」
 むっとして苅田を睨むと、苅田は楽しそうにニヤニヤしていた。真田は苅田のこのニヤニヤ笑いが大嫌いだ。
「お前、今変な想像してたろ?」
「変な想像?バカ言うな、素晴らしい妄想して楽しんでたんだ!!」
 さすがに本人の前でその妄想を口にするのは憚れる。
「真田ってやっぱオモシロイな」
 苅田はまだニヤニヤして笑っている。苅田は真田がどんな想像をしていたかと思うと笑えてしょうがないのだ。しかし真田はそれが気に入らない。
「お前とは話したくねぇんだよ、この性獣!!まったくオスフェロモン撒き散らしやがって、風紀乱すために学校来てんのかテメーはっ!! まずはその卑猥な笑い方ヤメロ、この全身生殖器!!」
 大好きな岬杜の前なのに、真田はすでにそれを忘れている。
「性獣って…これでも一応抱く人間は厳選してるんだぜ?それに卑猥な笑い方って言うなよ。俺の笑い方見てそんな事思うお前の方が卑猥だぞ」
「バカ言うな!!お前みたいな、いつも青のブリーフ一丁でモッコリクッキリさせて寝ているような奴は何をしても卑猥なんだ!!」
「俺は青のブリーフなんぞ持ってねぇよ」
「いや、お前は持ってるはずだ。そんで『プリティ・ウーマン』みたく娼婦を一週間買いして得意になって喜んでるんだ!大体お前のオスフェロモンは地球基準を超えてるんだ!!」
 話がとんでもない方向へ飛んでいるのだが、真田は気付いていない。
「真田、俺のフェロモンそこまで誉めてくれなくてもいいぞ」
「ドたわけ!駅弁のオスフェロモンなんぞ誰も誉めとらんわい!!今度風紀委員会に密告しとくから見ておれ!まったくお前の淫行ウィルスが目の保養君に感染したらどうしてくれるつもりなんだ。お前なんぞ己の股間握り締めておれば良いのだ。それが世の為人の為目の保養君の為だ!!」

 なんだか今日も話がとんでもない方向へずれ、真田が「駅弁のオスフェロモン」を散々罵ってその日は終わってしまった。なぜこんな話になったのか。けれどやっぱり苅田と深海は楽しそうで、岬杜と緋澄は興味なさそうで、真田は1人カリカリしていた。
 とにかく真田は岬杜とお喋りするという本来の目的を忘れ、苅田相手に今日も1人で奮闘していたのであった。





 入来は新学期が始まっても真田のマンションを訪れていた。
 真田は当たり前のようにバイトで疲れた入来をコキ使う。最近は入来も文句を言うようになったので、真田も少しずつ家事をするようにはなったのだが。
「真田、今日は何食べる?」
 冷蔵庫を覗きながら入来が訊く。 食材は毎日真田が買っておいてくれるので何でも作れるのだ。
「私は今日、和食が食べたい。豚汁と五目御飯作れや」
 真田はつまらなそうにテレビを見ながら注文した。入来は冷蔵庫から必要な食料を取り出して準備をする。
 入来はここへ来るようになった当初、少しでも生活費を出そうとしていた。何せ毎日真田の部屋に入り浸りだ。食費だけでも出すつもりだったのだ。しかし真田は決してそれを受け取らなかった。「私の実家は金持ちだ。お前は今のうちに少しでも金を貯めておけ」と。入来はそれでも粘っていたが、真田が煩そうにするし機嫌が悪くなるので最近は真田に甘える事にしている。この女は機嫌が悪くなると大変なのだ。
 入来は豚汁の具を切りながら人参のストックを確認する。入来は人参が好きだし、真田も無類の人参好きなのだ。どんな料理でも、とにかく人参を使う料理は大量に人参を入れる。
――那馳も人参が好きだったな。
 人参の皮を剥きながら楠田を思い出した。楠田とは最近会話していない。学校で会っても真田は常に入来と共にいたし、楠田も上村と行動していた。
 それでも入来は楠田を見ていた。今でも楠田が好きだった。

「真田、できた」
 入来が呼ぶと、リビングでだらだらとテレビを見ていた真田がのっそり立ち上がる。冷蔵庫を開けてビールを出してやった。
「いただきマンコ〜」
 箸を持った真田が変な事を言って料理に手を出す。
「入来。お前、自分の方に人参多く入れたろう」
 入来は常に真田のお椀の方に沢山人参を入れてやるのにもかかわらず、毎回真田はこんな事を言う。
「真田の家は金持ちなんだろう。それなのにお前はどうしてそんなにガメツイの」
「喰いモンに関しては、人間はがめつくなるもんなんだ」
 真田はいい加減な事を言う。
「那馳はアタシが人参くれと言えば自分のを半分くれた。 だが真田は絶対、1個もくれないだろうな」
「当たり前だ。私は人参星人だ。だからこの世の人参は全て私のモノなのだ」
 真田はまた滅茶苦茶な事を言う。
「そんなに人参が好き?能面とどちらが好き?」
「両方好きだな。両方美味しい。そして両方私のモノだ」
 入来は、真田のこの根拠のない自信は一体どこから湧いて来るのだろうと思った。
 それでもそんな真田が少し羨ましいと思った。

 その晩もいつものように柔軟しキングサイズのベッドに横になる。真田もいつものように横で山の写真集を見ている。
 入来は一緒に暮らしてみても真田のコトが良く分からない。
 真田はいつも我儘で自分をコキ使う。掃除も炊事もしなくて、唯一洗濯だけはする。洗剤は全て純石鹸分でできた洗剤で、シャンプーやリンスも「この製品は水に分解します」と書かれているモノしか購入しない。そんな所には気を使っているのだが、何故か工事現場にある看板や駅に貼ってあるポスターを勝手に持って来ては自分のコレクションにしたりする。最悪だったのは入来のバイトが休みだった時、警官がパトロールに出たばかりの誰もいない交番に行って入来を見張りに立て、「模様替えしてやる!」とか言いながら交番の中のモノを次々と移動した時だ。机の位置から防犯ポスターの位置まで動かせるモノは全て動かし、1人とても楽しそうに笑っていた。
 あの時見張りに立った入来は生まれて初めて緊張してしまった。

 そんな真田だが、この寝室で山の写真集を見ている時だけはいつも真剣だ。毎晩毎晩欠かせず見ている筈なのに、それでも食い入るように見ている。
 入来はそこに真田の源があるような気がした。

「真田、アタシの良い所を10コ言って」
 真田がちょっと驚いたように入来を見る。
「なんだと?」
「アタシは以前、那馳に言われたの。『私の良い所を10コ言って』と。那馳は『女の子は皆こんな気分になる時がある。甘いチョコレートケーキが食べたくなるみたいに』って言ってた。アタシはその時良く分からなかったけど、今はちょっとだけ分かる気がする。真田にアタシの良い所を10コ言って欲しくなった」
「甘いチョコレート・ケーキが食べたくなるみたいにか?」
「そう」
 真田は入来を見ながらクスリと笑った。
「私はお前に甘いチョコレート・ケーキなんてやらないよ。抱かれたいんだったら抱いてやる。指で天国まで超特急で連れてってやる。それだけだ。その方が美味いしな」
「真田のケチ」
 入来は毛布を被って目を閉じた。真田は理解できない。どうして「良い所を10コ言ってくれ」と言ったのに、「抱かれたいんだったら抱いてやる」って言葉がでてくるのだ。

 その夜、入来は心の中で真田に文句を言いながら寝た。







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