第3章 塞き止められた用水路みたいに


 連休が明けると入来はフラフラした足取りで学校に向かった。何せ連休中はバイトのスケジュールはパンパンだった。 1日がビールケースを運んで終わる、そんな生活から昨日やっと解放されたのだ。

 入来は教室に入ると、まず楠田の姿を探した。
 いる。ちゃんと入来の前の自分の席に座っている。
 入来は少し嬉しかった。
「那馳、おはよう。久し振り」
 入来は楠田を見ながらそう言った。楠田は顔を上げない。小さく「おはよう」と返しただけだった。
「那馳?」
 楠田は返事をしない。入来も黙った。
 こんな事はいままでなかった。

 その日も次の日も、それからずっと、入来は授業中一睡もしなかった。楠田のことを考え、なぜこんな事になったのか思い悩んでいた。
 入来は楠田が俯いているのを、ただじっと見ながら考えていた。





 楠田はあの日から部活に行かなくなった。上村と目が合うのが怖かったし、上村も自分に会うのを怖がっているんだと勝手に決め込んでいた。
――告白なんかしなければ良かった。
 楠田は何度もそう思った。上村の事、そして入来との情事。
 入来との情事。これが特に楠田を苦しめた。
 入来はノーマルだと思っていた。その入来が自分の身体を愛撫してきた時、どれほど驚いたか。楠田は混乱し、よく分からないまま入来のキスを受けていた。それに自分の身体が反応しているのを、どこか遠くで感じているだけだったのだ。
 一夜明けて目が覚めれば、逃げるように入来のアパートを飛び出した。入来が作っておいてくれた朝食を見て胸が痛んだが、楠田は自分が許せなかったのだ。
 自分が入来を同性愛の世界に引きずり込んだ気がしていた。
 自分のせいで入来はあんな事をしたんだ。
 そう思って楠田は何もかもを後悔していた。

 年中忙しそうにしている両親は、楠田に見向きもしない。
 楠田は辛い連休を過ごしたのだった。





 真田鮎は上機嫌だ。何せ今日は岬杜に会える。ウキウキだ。
 いつも登校時間ギリギリにしか来ないのに、連休明けの今日は30分も前に教室に到着し岬杜を待っていた。暇なので漫画を読んでいると、深海の元気な声が聞こえて顔を上げる。
 岬杜の登場だ。
「岬杜君、おはよう!!」
 真田の「目の保養君専用スマイル」が爆発する。
「……」
 岬杜は何も言わないが、取り合えず少しだけ頷いた。
 それだけで真田は幸せ一杯夢一杯状態になる。お得な性格だ。

 数日後、午後から岬杜がいなくなったのに気付いて真田は席を立つ。最近は寝ないで授業を受けている入来を興味なさ気にチラっと見て、屋上に上がった。 今日は目の保養君とお喋りしよう!と。
 岬杜は真田とお喋りしない。真田が言う事に、たまぁーに頷くだけだ。しかし真田はそれを「目の保養君とのお喋り」と勝手に呼んでいた。実際真田は岬杜の声も聞いた事がないのだが。
 屋上に上がると良い天気だった。真田はスキップしながら岬杜に近付き、当たり前のように彼の目の前の場所に座る。「おほほ、ここはワラワの特等席じゃ」とか言いながら。
 目の保養君の前で煙草を吸うのは良くないだろうか……と、いらぬ事を真剣に悩んでいる真田を無視して、深海と苅田が成績について話していた。
「俺なんて1年の最後、数学1だったんだよぉ。もうヤダ。数学大嫌い〜」
 深海がプーとむくれながら足をバタバタさせる。それを見て岬杜が少し笑った。
 真田、脳内お花畑出現。そうか、目の保養君はそうゆう話が好きなのか!と勝手に思い込んで目を輝かせた。
「おほほ、ヒジキったら数学が1だったくらいで威張らないで頂戴!私なんて全教科中、1は7コよ、7コ!!到底ヒジキごときには抜かせない記録ね。担任の川島に『この学校中を探しても1を7コも取った生徒はいない』って誉められたくらいですからね。おほほほほっ!何せ私はこの学校に入学してから数学と古典のテストは全て0点よ、0点!!数学の藤沢だって私には何も文句言わないんだから。ねぇ貴方達知ってる?0点の0には『一夜漬けの悪あがきもせず、姑息なカンニングもせず、正々堂々とテストを受けた証拠』って意味があるのよ。だからアレは丸なの。まる。分かる?『アンタ勉強はできないけど、見事な生き様だわ』っていう意味なの。ホントよ。だって私、現国の高木にそう言われたもの」
 真田は自信満々で捲くし立てる。突っ込み所が多すぎて突っ込めないが、彼女の脳味噌は明らかに一般人のそれとズレていた。
「真田、よくそれで進級できたな……」
 深海がちょっと尊敬の眼差しで真田を見る。ちょっと尊敬の眼差しで見てしまう所が、深海のオバカな所だ。
「あらヒジキ、そんなの私の人望に決まっているじゃない!」
……。
 一同、誰も信じてない。
 しかし、それは本当だったりする。
 真田は頭が悪いし授業中も漫画ばかり読んでいるのだが、なぜか一部の教師に熱烈に好かれていた。真田を学校の恥だと考える教師もいる。虫ケラのような目で見る教師もいる。しかし一部の教師は、本当に真田に好意を抱いていたのだ。
 真田が小学中学と問題児だった事は、教師の中でも広く知られている。暴れ出すと手が付けられないと言う話も聞いている。だが真田は高校に入り落ち着いてきたし、教師の中には「真田が持っている、何か特別なモノ」に気付いている人間もいた。
 真田が高校に入り落ち着いた理由は、その辺にあるのかもしれない。

 とにかく真田は一部の熱心な教師から愛され、進級できるように「真田専用特別補習」まで作って貰い、現在に至る。


「真田、1が7コあるのは自慢できる事なのか?」
 苅田がニヤニヤして言う。
「自慢できる事に決まってるだろーがっ!駅弁のクセにニヤニヤしやがってこのAV男優もどきっ。てめーは腹筋でも鍛えてりゃいいんだよ!」
 真田はちょっと頭に来たので、岬杜の前なのに言葉使いが荒くなった。苅田がニヤニヤ笑う。
「真田はオモシロイ」
 苅田にニヤニヤ言うので、真田はまたもや頭に来る。
「オモシロイだ?オモシロイのは駅弁の方だよ!お前なんて『ありおりはべり』と『いろはにほへと』と同じくらいオモシロイよ!水田でアメンボウみたいに水の上を歩いてるショウリュウバッタくらいオモシロイよ!!」
「いや、お前の方がオモシロイ」
「いーや、お前の方がオモシロイ!夜中の2時に鳴き喚いてる鶯くらいオモシロイ!!」

 なんだか話がとんでもない方向へずれ、苅田と真田が「どっちがオモシロイか対決」をしてその日は終わってしまった。なぜこんな話になったのか。けれど苅田と深海は楽しそうで、岬杜と緋澄は興味なさそうで、真田は1人カリカリしていた。
 とにかく真田は岬杜とお喋りするという本来の目的を忘れ、何がオモシロイのか全然分からないのに、苅田相手に1人で奮闘していたのであった。





 6月も半ばに入った。
 入来はずっと考えている。最近は授業中も眠らずに考えている。楠田とはもうずっと会話していない。
 何が悪かったのか?
 あの日、入来は楠田の涙を止めたかった。だから楠田を慰めた。すると何だかキスしたくなったから、キスをした。楠田は嫌がらなかった。だから身体中にキスをした。
 何が悪かったのだろうか。
 入来には分からない。
 楠田に話し掛けても返事は返って来なかった。それに楠田の背中は明らかに入来を拒絶している。それが不思議だった。
 入来はあの日の朝、自分が楠田を好きなんだと自覚する。しかし入来は楠田の幸せを望んでいた。楠田は上村と上手くいけば良いんだと思っていた。
 入来はとにかく楠田に笑って欲しかったのだ。

「おい、寝太郎」
 後ろで不機嫌そうな真田の声がする。
 真田は最近岬杜が学校に来ないので大変機嫌が悪いのだ。
 入来が振り向かずに何?と聞くと、「屋上行くぞ」と言われた。真田は、最初屋上の入り方を知らなかった時に入来を誘ってからは、屋上へは1人で行っていた。入来は午後から勉強していたし、真田は何でも1人で行動する女だからだ。だから今、なぜ誘われたのか良く分からない。
「センセー!入来さんの大腸の調子が悪く、屁ができなくて苦しんでいるみたいなので保健係りの私が保健室まで連れて行きまーす」
 何も返事をしていないのに真田はそう言って立ち上がり、入来の腕を引っ張る。しょうがないので入来も合わせて
「先生、ちょっと軽い頭痛腹痛生理痛がするので、サヨナラです」
 と言って、立ち上がった。 数学の藤沢が思いっきり睨んでいたが、2人はさっさと教室を出た。
 屋上には深海と苅田がいた。2人並んで煙草をふかしているのが見える。真田は2人の反対方向へ向かって歩いて行った。
「真田、深海のトコへは行かないの?」
「行かん。私は最近ヒジキが憎くて憎くてしょうがなくて、憎さ余って可愛さ100倍的な気分なんだ」
 それを言うなら……と思ったが、まぁ入来は黙って付いて行く。
 結局深海達(東)とは違う、南の柵まで行き腰を下ろす。真田が即行で煙草を取り出した。
「んで?寝太郎は一体何やらかしたんだ?」
 煙を吸い込んでから開口一番、真田がこう言った。
 入来には何の事かサッパリ分からない。
「アタシは何もしてない」
「何言ってんだお前は。楠田に何かしただろうが」
 入来はかなり驚いた。真田はいつも漫画ばかり読んでいる。楠田と個人的な話をしているようにも見えなかったし、自分もしていない。
「なんで分かった?」
「なんとなく、だよ」
 入来は黙った。
 なんとなく、か。そんなモンなのだろうか。
 真田の吐く煙を見ながら、入来は別に仲良くもないこの女に全て話したくなった。真田は勉強ができない。普段は寝ている入来の椅子を蹴ったりする。いつも良く分からない事ばかり言うし、入来の事を寝太郎と呼ぶ。
 でも、真田に全て話したくなった。
 入来は真田が自分にないモノを持っている事を感じていたし、それを少し尊敬していたのかもしれない。それに楠田以外友達のいない入来は、自分の悩みを1人で抱え込んでいる今の状況が苦しかった。
 入来はできるだけ細かく話をした。楠田や上村の名はださないでおこうと思ったが、真田の目を見ていると本当に洗いざらい全部話してしまっていた。
 楠田の恋。上村の震え。楠田の涙。楠田とのキス。自分の欲情。自分への拒絶。

 話し終えると、入来は疲れたように目を閉じた。
「……それだけなのか?」
「そうだ」
「ならば簡単だ。寝太郎は何も悪くない。楠田も悪くない。勿論上村もだ」
 誰も悪くない?
 入来は少し驚いた。
「では何が悪かったんだ?」
「何も悪くないんだよ」
 何も悪くない?
 ウソだ。楠田は自分を拒否している。こんな事今までなかったのに。
「しかし那馳はアタシを無視する。何かが悪かったんだ。那馳は怒ってる」
「怒ってなんかないんだよ。お前が楠田に欲情したから戸惑っているだけさ」
 ならば自分が欲情したのが悪かったのではないだろうか。自分が楠田にキスしたのが悪かったのではないだろうか。
 自分が。
 自分が悪かった。
 入来はゴロリと横になり、額に手を置いた。下のコンクリートは太陽の光を受けて熱くなっていた。

――だるい。

 入来は最近寝ていない。
 相変らずバイトは忙しいし、学校でも楠田が気になって眠れなかった。その為入来の身体は疲れきっていたのだ。入来自身はそれに気付いてはいなかったが、彼女の身体はもう限界に近付いていた。横になっていると、不意に吐き気がした。
「寝太郎、お前は何も悪くないんだからな。絶対にだ。今は楠田も上村もちょっと驚いているだけた。2人とも止まっている。塞き止められた用水路みたいにな。しかし水を流さなければ作物は死んでしまう。それは2人とも知っているから、そのうち水は流れ出す。楠田と上村、どちらが先に水門を開けるか分からんが、とにかく水が流れれば用水路は水が満ち、土手には花が咲き畑には作物が育つだろう。そして、それはお前も同じなんだ」
「真田の言う事は良く分からない」
「分からなくてもいい。それに本当はお前にも分かっているさ」
 入来は本当に分からなかった。
「アタシが欲情したのが悪かったのではないの?」
「寝太郎はアホか?私は『お前は悪くない』と言っただろうが。しかもご丁寧に『絶対にだ』と付け加えてだ。お前は楠田に欲情し、楠田はそれを拒否しなかった。その時楠田がどうゆう状態であったにしろ、それはもうどうしようもないコトなんだぞ?レイプしたわけでもないのに何を悩むんだ。それに欲情するのが悪いコトなら、息をするのもクソをするのも笑うコトだって悪いコトさ」
 真田は自信満々に言う。
「那馳はなぜ戸惑っているの?」
「お前がノーマルだからだ。だから戸惑っている」
「そんな事関係ある?」
「ある。楠田には大きく関係あるんだ」
「アタシは那馳を好きになったらいけなかったの?」
「お前は本当にアホだな。楠田がノーマルな上村を好きになったように、ノーマルのお前が楠田を好きになっても良いだろうが」
「そう?」
「そうさ」
 入来は再び目を閉じた。真田の話は分からなかったが、自分は悪くないのだと言い切ってくれるのが嬉しかった。真田はきっと、本当に自分が悪ければ「寝太郎が悪い」と言うのだろう。
「取り敢えず寝太郎はちょっとでも寝とけ」
 真田が新しい煙草に火を点けながら言う。
 入来は微かに頷いて目を閉じる。久し振りに熟睡できる気がした。

 入来が眠り始めると、真田は立ち上がって入来に影を作った。
 初夏の日差しが真田の背中を刺していた。


 楠田は毎日が憂鬱だった。
 入来とは朝の挨拶くらいしか口を利かない。その他はずっと無視してきた。楠田はもう入来と一緒にはいられないと感じていたのだ。自分と一緒にいるだけで、入来を汚してしまう気がして。
 勿論上村とも話をしていない。目を合わせるのが怖かったし、何を話せば良いのかも分からなかった。
 だから楠田は毎日俯いて生活していた。
 自分が、とても汚い存在な気がしていた。
「楠田さん?」
 休み時間、誰かが自分の名を呼んでいる。楠田は目を上げずに返事をした。
「はい」
「次の授業体育だけど、一緒にいかない?」
 優しく誘ってくる声には聞き覚えがある。このクラスの女子の中心的人物、砂上喜代だ。
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
 楠田は静かに言う。誰とも一緒にいたくはなかった。
「あらいいじゃない。サボる気はないのでしょう?だったら一緒に行きましょう」
 砂上が強引に腕を掴む。
「お願い。触らないで」
 楠田が呟いた。けれども砂上は離さない。 離さないどころか、余計に力を入れて腕を掴まれた。
 その手は強い意志を感じる。
 楠田の心が揺れた。
「行きましょう、楠田さん」
 砂上が言う。その口調は、穏やかながらも有無を言わさぬモノがあった。
「行くから、触らないで。お願い」
 楠田は顔を上げられなかった。もうイヤだと思った。
「楠田さんはどうして俯いているのかしら?俯いてちゃ前が見えないわよ。楠田さんらしくないしね」
 砂上は去って行った。

――楠田さんらしくないしね

 砂上の言葉が楠田の胸に広がる。
 私らしいって何だろう。
 私は……私。だけど、私は……。





 真田は機嫌が悪い。
 入来は心身ともにボロボロで、しかもそれに自分で気付いていない。楠田はずっと俯いてピクリとも動かない。なにより岬杜が学校に来ない。深海は作り笑顔でニコニコし、苅田はそんな深海を甘やかしている。
 真田は機嫌が悪い。
 別に誰がどんなでも真田はかまわない。しかし自分が目の保養としている生徒がずっと学校に来ず、しかも目の前の女がフラフラと今にも ぶっ倒れそうだったらイヤでも不機嫌になるものなのだ。
 真田は今、とても機嫌が悪い。
 目の前で寝ている入来に影を作りながら、真田は黙って煙草を吸う。







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