入来はその日、バイトの帰り道で同年代のカップルが道端でキスをしているのを見た。そのカップルは人目も憚らずクスクス笑いながらキスを繰り返し、とても仲が良さそうだ。
入来は自転車で2人を追い抜かしながら、昨日楠田が「私、明日こそ由子ちゃんに告白しようと思うわ」と言ったのを思い出していた。もう何度も聞いた科白だ。
楠田が何故上村に告白しないのか良く分からない。
だからいつも入来は黙って聞いているだけだ。
入来は楠田を気に入っていた。そして楠田の想い人、上村由子も気に入っていた。上村とは話した事がないのだが、見ているだけでその優しさが分かる女の子だった。だから入来は、本当に楠田を応援していた。何もできないのだが、とにかく心の中では応援していた。
5月、楠田は演劇部の活動が楽しみでしょうがなかった。学校が連休に入った今、上村に会える唯一の接点。
この学校には部活動をしている生徒はあまりいない。楠田と上村が珍しいのだ。
今日も発声練習から始まり、部室で寝転んで腹の上に手を置き声を上げている。隣には上村がいた。
上村の高くて柔らかい声が聞こえる。
楠田は昨日も、「明日こそ由子ちゃんに告白しよう」と呟いて寝た。部活が終わって、皆が帰ってから告白しようと。
「楠田さん?」
楠田がぼんやりしているのに気付いて、上村が声をかける。
楠田は「なんでもないわ」と笑い、「部活が終わったら少し付き合って欲しい」と小さな声で言う。上村は優しい顔で頷いた。
楠田は目を閉じる。この部活が終わったら、私は本当に由子ちゃんに告白できるのかしら、と思いながら。
発声練習が長く感じた。
「楠田さん、どうしたの?」
部活が終わり仲間が帰ると、上村が優しく話し掛けてきた。
部室の中が暑く感じて楠田は窓を開ける。
風はないのだが、とにかく外の空気を入れたかった。
運動場で陸上部の生徒が走っているのが見える。
上村は楠田の横に来て、一緒に外を眺めていた。
「由子ちゃん、好きな人いる?」
今まで訊きたくても訊けなかった言葉が、なぜか今日はすんなり口にできた。
「……そうね。いないわよ」
上村が微笑しながら答える。楠田はその返事に目を閉じた。
「いる」と答えられたら「誰?」と訊きたくなる。その相手が自分ではないことを知っていながらも、ほんのわずかな期待を胸に抱いて。
「いない」と言われた今だって、チャンスがあると思う自分と、どこかで淋しいと思っている自分がいる。
――人を好きになるって、どうしてこんなにも複雑なのかしら。
楠田は運動場を見ながら、そう思った。
「楠田さんは誰か好きな人がいるの?」
「いるわ」
即答した。
楠田は窓の外を見ながら、外の空気を感じながら、
今日こそは告白できるような気がしていた。
楠田は毎晩毎晩「明日こそは由子ちゃんに告白しよう」と思っていた。しかし、いざ上村を目の前にすると何も言えない。ずっとそうだった。
だが、今日は違う。
何が違うのかは分からないのだが、楠田は今日、
上村に自分の想いを告げる事ができると感じた。
「どんな方なの?」
「優しい人。賢くて優しいの」
優しい人。いつも他人を気遣い、穏やかに笑っている上村由子。
「素敵な方?」
「素敵よ。ひっそりと咲いている花のような人。派手な身形じゃないけど上品だし、キツイ匂いはしないけれど、人を包み込む香りがするわ。それにその茎には棘もないの。細い茎から形の良い葉が伸びていて、地上の虫たちに日陰をつくっている。その花は目立とうとせずひっそりと佇んでいて、風に揺れながら微笑んでいるの。誰もをホッとさせる不思議な魅力をもっているわ」
窓の外を見ながら、楠田は心を込めてそう言った。
「本当に素敵な方みたいね。私、応援するわ」
上村の言葉に、楠田は胸が痛くなった。
そっと手を伸ばし、上村の手に触れる。上村が逃げなかったので、ゆっくりとその白い手を握った。
小さくて、柔らかな手だった。
――入来。私、由子ちゃんに告白するわ。
ふいに、開け放たれた窓から強い風が入った。
上村の前髪が風に揺れ、形の良い額が見える。楠田は、握っている手に力を込めた。
「私は由子ちゃんが好きなの」
その瞬間上村の手が硬直し、続けて大きく震えたのが伝わって来た。
――やっぱり言わなければ良かった。
楠田は上村の手から伝わる震えを感じ、涙が零れないように強く目を閉じた。
遅番のバイトから戻った午前3時、入来は自分の部屋で楠田が蹲っているのを見て驚いた。楠田はハラハラと涙を流し、入来に上村由子に告白した事を告げた。
「やっぱり告白なんてしなければ良かった。きっと、もう由子ちゃんは口をきいてくれないわ。もう一緒にいてくれないわ。私は軽蔑される。やっぱり告白するんじゃなかった。ずっと見ているだけで良かったのよ。入来、どうしよう。入来、どうしよう」
楠田はハラハラと涙を流す。
話によれば、楠田が告白した後上村は、握られた手を見ながらガタガタと震えたらしい。そして、空いているもう一方の手で握られている自分の手を抑えながら「ごめんなさい」と、小さく謝ったそうだ。楠田はそこで、「私こそごめんなさい。忘れて下さい」
と言って部室を飛び出したらしい。
楠田はショックを受けていた。上村の手が大きく震えていた事に。楠田が握っている手を見ながら、震えて「ごめんなさい」と言われた事に。その目は、恐怖で一杯だったように見えたのだ。それは楠田にとって一番辛いフられかただった。自分は好きな人に拒否され、嫌悪され、軽蔑される。楠田はそう言ってずっと泣き続けた。
入来は部屋の中で楠田の話を聞きながら、どうも納得できないと思っていた。入来は入来なりに上村を見ていた。1年の時楠田と知り合い、楠田が上村を好きだと聞いた時から、それなりに注意して見て来たのだ。2年で同じクラスになり、最近話もした。そして本当に楠田を応援していたのだ。上村なら楠田を傷付ける事はないだろうと思って。
上村が楠田をフるのは勝手だ。しかし、上村は人を軽蔑する人間ではない。しかも彼女は物事を慎重にとらえる。楠田の気持ちを聞いて、その場で拒否なんてするだろうか。
「那馳、泣かないで」
入来が優しく楠田の黒い髪を撫でる。
いつまでたっても泣き止まない楠田を見ながら、どうしようもできない自分が歯痒かった。
「那馳、上村は……」
「由子ちゃんの事はもういいの。私が告白なんてしなければ良かったんだもの。私はもう誰も好きにはならないわ。私はもう誰も」
楠田がまたハラハラと涙を零す。
「そんなの那馳らしくない。那馳はよく、『明日こそ由子ちゃんに告白する』って毎日のように言ってたし、『フられても私は私なんだから』とも言ってた。
告白した事を後悔するなんておかしい」
「入来に何が分かる?人を好きになった事もない入来に何が分かるの?フられた事もないくせに。好きな人に嫌悪された事もないくせに」
「上村は那馳を嫌悪してないと思う」
楠田は「何も知らないくせに」と何度も言いながら泣いていた。
入来はどうしたら楠田の涙を止める事ができるのか真剣に考えていた。那馳が泣くのは嫌だ、那馳に涙は似合わない、そう思っていた。
入来は楠田の髪を撫でてやりながら、どうしたら楠田の涙を止められるのかずっと考えていた。世間が連休中で、バイト先の酒屋は地獄のように忙しかった。明日は早出で朝からバイトだ。本当なら少しの時間でも睡眠にまわしたい。しかし入来は楠田の事で頭が一杯だった。
「……那馳の良い所は、真っ直ぐなところ。いつも真剣に自分と向き合うところ。自分のペースででも、ちゃんと頑張ろうとしているところ。いつも落ち着いていてしっかりしているところ。賢いところ。人をよく見て、自分でその人間を判断するところ。良く気がまわり、女らしいところ。優しい人間に、誠意を持って応えることろ。可愛く笑うところ。そして那馳の一番良いところは、その笑顔でアタシを元気にしてくれるところ」
突然の入来の言葉を楠田は呆然と聞いていた。
入来は楠田の髪を撫でながら、じっと真剣に彼女を見ている。
楠田の瞳は、涙で潤んでいた。
「だからもう泣かないでほしい」
入来はそっと楠田を抱き締めた。
楠田は泣き止まない。入来はそれでも楠田を抱き締めていた。
楠田の身体から良い匂いがする。
不意に、入来は楠田にキスしたくなった。
「那馳、キスしたい」
楠田は何も言わなかった。
入来がそっと唇を合わせる。柔らかい。
胸の中でよく分からない感情が沸き起こる。
楠田を見ると、彼女はまだ呆然と入来を見ていた。しかしその瞳はまだ涙で潤んでいる。
楠田が泣くのは嫌だ。
だが、楠田の潤んだ瞳は美しいと思った。
「那馳の良いところは、この綺麗な黒髪」
入来は楠田の髪にキスをする。
「那馳の良いところは、この綺麗な瞳」
入来は楠田の瞼にキスをする。
「那馳の良いところは、この綺麗な細い首」
入来は楠田の首にキスをする。楠田の身体が少し動いた。
「那馳の良いところは、この綺麗な身体」
それから入来は、楠田の良いところをこれでもかと言う程並べ上げ、丹念にその身体に口付けをした。服を脱がせ、下着を剥ぎ取り、指先、整った乳房や背中、足の付け根、黒々とした陰毛の奥まで、全てに口付けをした。彼女の身体は、暑さで少し汗をかいていた。しかしその身体からは甘い匂いがした。
入来の指が汗に濡れた楠田の乳房を撫でる。そっと乳首を撫で上げ、またキスをする。
潤んだ瞳と汗ばんだ身体。そして小さく喘ぎ声を上げる楠田を見て入来は、那馳はなんて美しいんだろうと思った。それと同時に、自分が生まれて初めて「欲情」している事に気付いた。
それからはもう止まらなかった。入来は唇と舌で行為を続けた。本当はどこをどうすれば良いのか分からない。しかし入来は、楠田の身体の反応を確かめながら自分が思うがままに楠田の身体にキスを落とした。
朝、シャワーを浴びた入来は、眠っている楠田を見て
「自分は那馳の事が好きなんだな」と感じる。
しかし一睡もしないまま朝食を作り、バイトに行き、夕方帰って来た時にはもう楠田の姿はなかった。
連休中、真田は実家に帰ってはいない。
彼女は実家の両親も村の住人も嫌いだったし、敵だった。唯一の味方が兄だ。この兄は、真田が暴れるのを唯一止める事ができる人物だった。しかしその兄はこの春都内に就職したばかりで仕事が忙しく、連休に帰るのは無理だという話だ。だから真田も帰らない。村に帰ってもイライラしてしょうがないだけなのだ。それに家族のモノも真田が帰らない事を喜んでいるに違いない。
真田は小さな頃から勉強ができなかった。しようとも思わなかった。学校の教師は皆、真田に頭を悩ませていた。真田は問題児だったのだ。それはそうだろう。授業はまともに受けない。授業中漫画ばかり読んでいる。気に入らない人間は、男でも女でも大人でも、平気で暴力を振るう。
しかし真田だって、それなりの理由があったのだ。
しかしその理由は、いくら説明しようと思っても言葉にはできないモノだった。
例えば真田が「どうして目上の人間を敬わなくてはいけないのか?」と教師に訊くとする。教師はそれに答える。ありとあらゆる言葉を使って真田に説明する。教科書通りの回答をする教師。なるべく噛み砕いて説明する教師。宗教の話までもちだす教師。いろんな教師が真田にその「理由」を教える。なのに誰の話も真田を納得させることはできなかった。真田は、全ての教師を「インチキ」だと判断する。
何が「インチキ」なのか、真田自身にも説明できない。ただ、そう感じるのだ。
真田は納得いかない。
「知っている」事は、それ程偉い事なのだろうか?教師は「自分が知っていると思っている事」を真田に押し付ける。物知り顔で。真田はその顔を、全身を持って拒否する。物知りは人にモノを教える時、自分が一体どんな顔をしているのかきっと見た事がないのだ。その顔は偽善に満ちていて、自分の考えを押し付けるのに精一杯だ。真田の心を読もうとする教師だって同じ。真田をどうやって納得させるか、常に考えている。
真田は「違う」と感じる。こんなの「インチキ」だと感じる。教師達が「自分は知っていると思っている事」は、自分達だけで勝手に結論を出し、自己満足しているだけなのだ。「それ」は、「真田が求めている答え」ではない。
「知っている」事は、それ程偉い事なのだろうか?
真田はいつも感じてきた。世の中は「物事を知っている」人間が権力を持つ。知っている事が権力に繋がる。知っている者は知らない者の考えを見下し、自分が知っている事に誇りを持つ。どんなに優しい笑顔を見せても、真田はコイツは「違う」と感じる。
真田は全てがインチキだと感じる。
真田だって知りたい事は山ほどあるのだ。でも、真田が「知りたい」事は、誰も教えてはくれない。
だから真田はいつもイライラしていた。
自分の中にいる苛立った自分が、真田を苦しめた。
真田は、自分が何に対して不満をもっているのか、何に対して「インチキ」と思っているのか上手く纏める事ができない。
教師は真田を殴る。それはしょうがない。真田は教師に向かって、平気で侮蔑の言葉を投げるのだ。そして真田は教師にも身体をもって反抗する。知っている事が権力に繋がるのならば、自分は身体をもってそれに対抗してやろうと決心する。
そして真田は全てのインチキに対抗する。しかし抵抗する事に虚しさを感じる。虚しさは更なる苛立ちを募らせ、真田は村を出る事を決意する。
本当は、村の全ての人間がインチキだったわけではない。
しかし真田は自分でも上手く説明出来ない理由で周りの人間を拒絶し、抵抗を続けた。
真田の抵抗は、彼女の叫びだった。
この不安定な真田が掃きだす叫びだった。
しかしその叫びは誰にも届かなかったのだ。
唯一の味方であった兄も、真田の苛立ちを完全には理解できなかった。
真田は村を出て、遠く離れたこの私立学校に入学する。
この学校は金持ちが多く、尚且つ勉強ができる人間が多いので、真田のような田舎者を「それなりの目」で見る人間はザラだ。
しかし教師にしろ生徒にしろ、村では見かけなかった種類の人間だってゴロゴロ転がっていた。ある者は知っている事を当たり前としながらも、真田を「真田鮎」として判断した。またある者は、自分が知っている事に何も興味を示さなかった。彼等、または彼女等は、決して偽善的ではなくインチキでもなかった。
真田はこの学校に来て良かったと思うようになる。
知識を得るために、他の人間がどれほど努力しているのかも良く分かった。そして「自分は知っていると思っている」人間にも、その中で様々な種類の人間がいる事を学んだ。
そして次第に真田の苛立ちは消えていった。
「お姉さん、今暇ー?」
連休の最後の日、やる事がなくて街をフラフラ歩いていると声をかけられた。見れば相手は5人。そろいも揃って5人共女がいないのかや、と真田は思った。
「お姉さん、美人だねー。一緒に遊ばない?」
真田は無視してスタコラ歩く。
「シカトしないでよー。一緒に遊ぼうよー」
「お前等、私の好みじゃねぇんだよ」
低いハスキーボイスで真田は言う。
「生意気なクソ女だな。マワしちゃうぞ」
真田はここで足を止めた。
マワす?それは強姦の事か?私相手にか?
プークスクス。馬鹿な男達め。いくら自分達が5人だからってさ、私相手に強姦だってさ。オタンコナスもいいとこだ。
「お?ビビッた?良い子にしてりゃ手荒い真似はしないぜ」
良い子にしてりゃ……だって?!
オモシロイ。
真田は、いろんな事を知っていると思っている権力者も嫌いだが、こーゆう、暴力で他人を抑え込む人間(真田も暴力者だが、自分以外の暴力者は嫌いなのだ。この辺が真田の我儘なところ)も大嫌いだ。そこには何の意思も感じない。何の拘りも感じない。
真田がニヤリと笑う。
「呉服屋、若い娘を相手に5人がかりで手込めにしようとは…オヌシも悪よのう」
一番ガタイの良い男に近付き、真田はニッコリ笑った後に手を出した。
「呉服屋、貢物はないのか?」
男達はヘラヘラ笑う。それぞれが、「俺のビッグな息子が貢物ですー」とか「ホテルで貢物を買ってあげるよ」とか言っている。
「呉服屋。オヌシはこのワシの好物を忘れたのかや?饅頭はどこぞ?」
ここでも男達は爆笑している。
真田も笑った。
「饅頭っつたら、小判百両じゃろうがこのバカタレ!!」
バカタレの言葉とともに、真田が蹴りを入れた。ご丁寧に金的。
「このクソ女!!」
真田はゲラゲラ笑いながら逃げる。
人ごみをヒョイヒョイ交わして真田は笑いながら逃げる。なんと言っても真田は猿並に運動神経が良い。
男4人は真田を追いかける。真田の実況付きで。
「ポールポジションはゼッケン25番、マクラーレン・ホンダの真田選手!只今ヘアピンに差し掛かりました!!おおっと見事なドリフト。障害物を避けながらの見事なドライビング・テクニックだー!しかしここで金髪君が怒号の追い込み。君は元陸上部だな!!」
真田は学校の体力測定の日、大好きなプレステの有名RPGが発売されたばかりだったので家に篭ってゲームをしていた。1年の時も、2年の時も。なぜかその時期に真田が大好きなメーカーのゲームが発売されたのだ。体育の時間も本気を出さない。だから学校の人間は知らなかった。真田の本当の身体能力を。
この学校の生徒は、女子では入来が一番凄いと思われている。実際入来の体力は素晴らしいモノだ。しかし所詮入来は「高校」に入ってから鍛えた身体。信州の山奥で育ち、「小学1年」の時から片道20キロも離れた学校に通い続けた真田の比ではなかったりする。しかも真田が通った学校は、峠を幾つも越えた場所にあったのだ。雨の日も雪の日も、真田は自転車をコギコギ通ったのである。全距離全速疾走で。しかも冬の山の中で雪と格闘しながら育ち、体力だけは誰にも負けないように常日頃から意識してきた。並大抵の足腰ではない。
真田と持久走して勝つことができる人間は、きっと高橋尚子選手とプロのボクサーくらいなのだった。
そうなのだ。
どんな理由があるにせよ、真田鮎はちょっと性格が悪い。