水門
 真田鮎 入来七瀬 楠田那馳



第1章 アタシはいつも生きていくのに精一杯


 入来七瀬は眠っている。
 なにせ昨晩のバイトはハードだった。24時間営業の酒屋はてんてこまいだったのだ。
「入来!」
 数学の藤沢が名前を呼ぶ。続いてチョークが頭に当たる。それでも入来は眠っている。怒った藤沢が入来の机まで来て怒鳴り散らす。それでも入来は眠っている。数学の教科書で頭を殴られ、そこでやっと目を覚ます。
「答えは25だと思います」
 と呟きながら。
 勿論、さっきまで藤沢が黒板に書いていた問題の答えは25ではない。全然違う。それでも入来は真剣に「25だと思います」と言う。まるで今の今までその問題と格闘していたかののような口調で。
「やる気がないのなら出て行けっ!!」
 藤沢がそのまま倒れそうな勢いで言うと、入来はさもしょうがなさそうに立ち上がる。何せ眠たかった。
 入来が教室から出ると前の席の楠田那馳が追いかけて来た。これは結構珍しい事だ。楠田は真面目なので、授業を抜け出す事など滅多にしない。
「入来、何処行くの?」
「保健室行って寝る」
 入来が眠そうに言うと、
「屋上、行かない?」
 と誘われた。入来はそれまでこの学校に屋上が存在する事すら知らなかった。ちょっと興味があったので付いて行く。眠いのでフラフラと付いて行く。
 屋上には先客がいた。同じクラスの深海春樹、岬杜永司、苅田龍司、緋澄潤。
しかし入来はこのメンバーの名前を知らない。何故なら彼女の生活には関係無い人間だからだ。そしてもう1つ、入来は大体午前中寝て午後から授業を受ける。深海達は午後からの授業はあまり出ない。だから気付かなかったという理由もある。
「楠田ぁ〜、珍しいじゃん」
 楠田を呼ぶのは深海だ。深海と楠田は最近仲が良い。だから楠田はこの学校に屋上があるのを知っていたのだ。
「入来さん、だよねぇ?」
 楠田の後ろを付いて行き腰を下ろすと、深海が訊ねて来る。
 しかし今、入来は強烈に眠い。日差しはぽかぽか暖かだ。思わず楠田の隣で横になりそのまま目を閉じた。

 入来は目を閉じれば3秒で完全に熟睡状態に入る。そして一旦寝てしまうとなかなか起きない。何も考えずグーグー眠る。授業中もこんな感じなので、藤沢が怒るのもしょうがないのだ。
 今も男の前で足をおっぴろげて寝ている。スカートなのに、だ。
 それに比べて楠田那馳は良い女だった。黒くて腰まである長い髪を持ち、色白で美人とも可愛いともとれる顔立ちをしている。身長は156。細くて華奢な身体だ。
 入来七瀬だって口を閉じれば、少々目がキツイのだが本当は美人さんだったりする。引き締まった肉体と162の身長。だが、自分で切ったボサボサの髪と、毎日着ている擦り切れた学校の制服が彼女を「駄目だこりゃ女」にしていた。
「入来ってどんな奴?」
 深海が楠田に聞く。
 実は楠田はこれを待っていたのだ。
 入来はバイトが忙しい為、学校でしょっちゅう居眠りをしている。身形が貧乏そのものだし、一風変わったキャラクターなのでクラスの女子からは敬遠されていた。入来も友達を作るのがヘタなので、彼女は浮いた存在だったのだ。入来自身はそんな事気にしてはいなかったのだが、1年からの親友である楠田は入来に友達を作ってやりたかった。だから今日ここに連れて来た。深海はクラスの人気者だし、性格も良い。入来と友達になってほしかったのだ。
 因みに楠田は苅田とも仲が良い。中学の時同じクラスだったし、共通点があるからだ。2人ともセックスの面でノーマルではない。苅田はバイセクシャルで、楠田は『筋金入りのレズビアン』。
 お互いその事を知ってるし認めているから、気兼ね無しの友達なのだ。

 楠田は苅田と深海に、少し入来の説明をする。
 入来の家庭は4年前まで凄く貧乏だった。変わったのは、『年末ジャンボ宝くじ』が当たった時から。今まで見たこともない大金を手に入れた父親は、今までの卑屈な生活からの反動かとても見栄っ張りになった。入来は親の見栄で県外にあったこの学校に入学させられたのだ。最初は良かった。随分贅沢したらしい。しかし貧乏人は所詮貧乏人。金の使い方を知らない。父親は働かなくなり、ギャンブル三昧の日々を送る。母親はそれを止めに入り、両親の不仲。入来家の崩壊。
 入来七瀬はこんな金のかかる私立学校を辞めようかとも思ったのだが、父親の猛反対にあった。父親は金がなくなっても見栄を張るクセが抜けなくなっていたのだ。
 実際入来は授業中寝ているわりには頭が良かったし、学校はとても楽しいと思っていた。だから本当は自由な校風のこの学校を辞めたくはなかったのだ。
 そして入来はこの学校に残った。
 金の問題は、母親がこっそり隠しておいた金を使って入来を学校に通わせ続けた。母親も入来がこの学校を気に入っていると知っていたし、別に文句は言わなかった。しかしその金はどんどん無くなる。入来は生活費くらいは自分で稼ごうと、毎日バイトをしている。だから入来は授業中寝てしまう。
 入来の格好が汚いのはしょうがない。この学校は制服を着ている生徒がほとんどいないのだが、彼女は毎日制服を着ている。何故なら、貧乏だから私服をあまり持っていない為だ。

 楠田はこんなに細々とでは無いが、ざっと入来の説明をした。
 深海は興味有りげに入来を見ている。
 この私立学校で一番の貧乏人、入来七瀬。そして(多分)二番目の貧乏人深海春樹。
「俺、入来と話してみたい」
 深海が目をキラキラさせて言った。
「入来、起きなよ」
 楠田は入来を起こす。なかなか起きない入来の背中を、楠田はバンバン叩いて起こそうとする。そしてやっと起きた入来は、目の前にいる少年のように目をキラキラさせている深海を胡散臭げに見た。
「入来ぃ、オハロー。俺、深海春樹。同じクラスだぞ、知ってるかぁ?」
「…知らない」
「入来ぃ〜、お前の親戚で野球選手いるぅ?」
深海は入来を楽しそうに見て言う。
「いない。でも入来兄は好き」
「弟は?」
「アタシはアンチ巨人」
 入来が住んでいる木造アパートにはテレビがない。売ってしまったのだ。しかし入来の父親が野球ファンだったので、小さな頃から父親と一緒に野球観戦していた。
「いやん、俺は巨人ファンだよぉ。入来は?」
「アタシは広島ファン」
 深海は何が面白いのか「敵だ敵だ〜」と言いながら足をバタバタさせている。入来は深海が可愛いと思った。
「あ、アンタ、アタシの席の隣の子?」
 入来は突然この子供のようにキラキラしている瞳を持つ男子の、 隣に座っている人間を指し訊く。
 岬杜だ。
 岬杜はすこしだけ頷く。
「アンタ、いっつも無表情。能面みたい」
 入来はそう言うとまたゴロリと横になった。「で、なんでアタシを起こしたの?」と今頃言いながら。
「深海君が入来と喋ってみたいって」
 楠田はそう言う。深海君と友達になれば?とは言い難い。余計なお世話だと思われそうだ。
「そう。深海、これから宜しく。アタシはもう少し寝たいから寝る」
 入来はそのまま目を閉じた。深海と初めて喋ったけれど、別に興味はない。笑顔の可愛い子だな、くらいしか思わなかった。入来は男に興味がない。かと言って楠田のようにレズビアンでもない。入来は今まで恋愛した事がないのだ。
「入来、男の子の前で足広げて寝るんじゃないわよ」
 楠田の言う事は正しい。なにせ入来はスカートだ。
 しかし入来はもう夢の中だった。





 楠田那馳は恋をしている。
 相手は同じクラスの上村由子だ。楠田は1年の時から上村が好きだった。演劇部で一緒だったのだ。上村はメガネをかけたあまりぱっとしない少女だが、非常に優しい性格だった。真面目で、人の話を良く聞く子だ。楠田は上村をずっと好きだった。2年で同じクラスになれたと分かった時は、本気で神様に感謝したものだ。しかし上村はどう見てもノーマルな少女だった。だから楠田は悩んでいた。この気持ちを伝えれば、絶対フられる。それだけじゃない。避けられる。私を恐れるかもしれない。軽蔑されたっておかしくない、と。
 楠田は中学の時好きだった子と両想いになれ、幸せな日々を過ごした事もあった。しかしその子は高校1年の夏、他の学校の生徒と浮気をし楠田の元を離れていった。その後新たに恋人は出来たが、すぐに男に乗り換えられてしまった。それから上村に恋をし、現在に至るのだ。

「入来。私、明日こそ由子ちゃんに告白しようと思うわ」
 入来のバイトが休みだった4月の半ば、楠田は入来の部屋でくつろぎながら呟いた。今まで130回くらい口にした科白だった。
 入来はラジオで広島巨人戦を聞いていたので、楠田の声は聞こえてないようだ。しかも広島が負けているようで難しい顔をしている。
「私はね、自分がレズでもそれを恥じたりはしない。でもね、とても不安になるわ。入来には分からないかも知れないけれど、不安になる。私は男性に恋をした事がないけれど、きっと男性に恋をしてもこんなふうに不安にはならないと思うの。女の子に恋をし、その相手がノーマルだから不安なのよ。ねぇ入来、私の話聞いてる?」
 その時入来はラジオにかじりついていた。
「入来は恋をした事ないだろうけどね、この不安はたまんないわ。自分に自信が持てなくなる。フられたっていいじゃないか、それでも私は私なんだからって思えなくなる。女性しか愛せない自分が、なにかとてつもなく悪い人間みたいな気分になるのよ」
 入来はまだラジオを聞いていた。9回裏ツーアウト2塁3塁だと実況の声が聞こえる。楠田は野球が分からない。 でも入来があまりにも真剣に聞いていたので、大事な場面なんだな、とは思った。
「ねぇ入来。私は不安なの。自分に自信が持てない」
 楠田の声はラジオの歓声に掻き消された。

 夕飯は楠田がデパートの地下で買って来た惣菜があったので、米を炊くだけだった。楠田は入来がどれだけ極貧なのか良く知っているので、遊びに来たり泊まりに来る時は何かしら食べ物と飲み物を買ってくる。今日は泊まりに来たので、明日の朝のパンもついでに買って来た。入来は機嫌良くパックに入っていた酢豚に箸を伸ばす。この家には電子レンジなんて高価なモノなど無いので、酢豚は冷たいまま食べる。2人分ちゃんと買ってくるのだが、楠田は少食なのでほとんど入来が食べる。
「那馳の人参欲しい」
 入来は人参が大好物なのだ。楠田が自分の酢豚のパックの中から、半分人参を分けてやった。楠田だって人参が好きなのだ。
「那馳のケチ。普通全部の人参くれるのに。オマエ、キリギリスに意地悪して餌分けてやらんかったアリの悪口一生言えんから」
「私はアリの悪口なんて一生言わないわよ」
 夕飯を食べ終わるともうする事がない。なにせこの部屋にはテレビがない。雑誌もない。小説もない。ゲームもない。ついでにソファーもベッドもない。入来は食器を洗いながら楠田に風呂を勧める。楠田が風呂に入っているその間に筋トレを開始。腹筋、背筋、腕立て、倒立。狭い部屋で出来るだけ身体を鍛える。
 入来は凄い筋肉を持っている。それはバイトしているからである。現在は、朝は新聞配達から始まり夜は酒屋のバイトをしている。酒屋のバイトは、配達に付いて行きビールの大瓶2ケースを持ち上げて団地の階段を4階まで登ったりする。新しい建物ならばエレベーターがあるのだが、古い建物には階段しかない。だからビールケースを持ったまま階段を登る。特に夏は大変だった。そこら中の家庭がビールを注文するのだ。バイト先の酒屋はディスカウントショップ並に安く、しかも電話一本で配達するので評判の店だったので入来は休む暇が無い。
 入来はそんな生活をしているので、普通の女の子とは格段に違う筋肉を持っていた。斜め懸垂どころか男子と一緒に普通の懸垂までこなし、持久走では運動部の女子を抜いて学年トップだ。入来は鍛え上げられた自分の身体が好きだった。だからバイトが休みの日でもなるべく身体を動かす。
 楠田が風呂から上がると自分もさっさと入り、汗を流すと今度は柔軟。いくら筋肉があっても身体が硬ければ意味が無い事知っているからだ。
 入来が柔軟している間に楠田は布団を引く。この部屋には布団が一組しかない。一緒に寝るのだ。だが楠田は入来相手に何かしようとは思わない。何故なら入来は布団に入れば3秒以内に寝てしまうからだ。ノビノビタ並なのだ。そして入来は楠田の親友なのだ。親友相手に欲情はしない。大体入来は寝相が悪くて、すぐどこかへ行ってしまう。
「那馳は何が不安なの?」
 柔軟しながら入来が訊いてきた。楠田はちょっと驚いた。だってさっき、入来はラジオ中継に夢中で自分の話なんて聞こえていないように見えたから。
「入来には分からない事よ。でも私はもう大丈夫。 さっき、ちょっと言ってみたい気分だっただけ」
「そう」
 入来は柔軟を続ける。丹念に身体を解す。
「那馳は自分に自信がないの?」
 足首を手で回しながら入来が訊く。
「時々ね。でももう大丈夫。大体いつも自信満々の女の子なんて嫌じゃない?そんなのおかしくない?私は同性愛者として当然悩む事を悩み、時々自信をなくす。普通だと思うわ。そして自分に自信を取り戻す。私は私。誰がなんと言ってもそれは変わらない」
「そう」
 柔軟を終えた入来は布団に入り寝ようとする。
「入来は自分に自信がある?」
「そんな事は考えない。考えた事もない。アタシはいつも生きていくのに精一杯。メシの心配や電気代、ガス代、学校の授業。アタシはいつもそれだけで精一杯」
 楠田は少し考える。
「入来、私の良い所を10コ言って」
「なんだ、やっぱり自信ないの?」
 入来は布団に入り目を閉じる。
「喋っていたらそんな気分になったのよ。入来の口から私の良い所を10コ言って欲しいって気持ちにね。入来には分からないと思うけど、女の子は皆こんな気分になる時があるのよ。甘いチョコレート・ケーキが食べたくなるみたいに」
 楠田は立ち上がり電気を消した。どうせ入来はもう寝ているに違いない。
 狭い布団に入り目を閉じる。
 私は明日由子ちゃんに告白したいと思っている。でも、きっとしない。本当に告白したいとは思っているけれど、出来ないもの。だって今は友達の関係だから、楽しく会話したりふざけて身体に触れたり出来るけれど、私が告白する事で全ては壊れてしまうから。私は臆病。でも、恋に臆病じゃない人間なんてきっといない。だから私はこのままでいる。もう少し待ってみる。
 私は臆病。自分の気持ちすら相手に伝えられない。「私は私」と言いながら、傷つく事を恐れている。
 でも、これも私。
 自分のペースで恋をしたい。きっと告白できる日が来るのだから。

「那馳の良い所は……」
 入来が急に呟いたので、楠田は驚いた。いつもだったらとっくに夢の中なのに。
「この部屋に来る時、メシを調達してきてくれる所」
 ……入来のバカ。
 隣で寝息がする。楠田は自分も眠ろうと思った。

「那馳の良い所は…」
「入来、寝惚けてる?」
 楠田は入来の方を見た。入来は背中を向けていたので良く分からない。
「……上村由子を選んだ所」
 楠田は黙った。
 楠田の家は両親が共働きで互いに大変忙しい為、家に帰っても誰もいなかった。だから高校1年の時に出会ったこの入来七瀬のアパートに良く遊びに来る。入来の部屋は何も無いし本人も変わった人間だが、楠田は入来を気に入っていた。
 寝惚けて言った入来の言葉。
 こういう所に楠田が彼女を気に入っている理由がある。
 入来が上村と喋っている所なんて見たことはない。でも、入来は上村を見ていたに違いないと思った。上村由子という名の人間そのものを。
 すぐに熟睡に入った寝相の悪い入来はゴロゴロと転がり、部屋の端っこまで転がってしまう。いつもそこで汚い箪笥にくっついて寝るのだ。たまに、そのままもっと転がってキッチンの方まで行ってしまう。楠田は最初何度も入来を起こしたものだが、すぐに無駄だと分かってそれからこの布団を遠慮なく独占して寝るようになった。
 楠田はこの安物の小さな布団で眠るのが好きだった。





 真田鮎は入来七瀬の後ろの席である。一番後ろの席だったりする。とても居心地が良い席だ。

 この学校は私立で、金持ちが沢山いる。深海と入来は別にして、生徒は皆お坊ちゃんお嬢さんばかりだ。そして皆賢い。
 その中でこの真田鮎はこれまた特別だった。
 真田家は、信州のやたらと山奥にある村の有名な家柄だ。真田幸村の子孫だと言う話まである。そんな中で育った真田鮎だが彼女は一族の中でも最悪にして最強娘で、昔から暴れ出すと手が付けられない、村の中でも有名なじゃじゃ馬だった。身長は170あり女の子としては大柄だが、とても均整のとれたしなやかな身体を持っている。顔も良く見れば美人さんなのだが、この見てくれに騙されてはいけない。暴れるその姿は嬉々としていて、まさに鬼のように強い。腕力ではどうしても男に負けるものの、命知らずの攻撃と勝つ為ならどんな手でも使う卑怯なヤリクチ、やられたら絶対にやり返す執拗なほどの執念、そして山の中で培われたサルのようなスピードで村の暴君として名を馳せていたのだ。
 その真田が高校に入る時、「家を出たい。駄目なら暴れる。懐中電灯頭に巻いて八つ墓村みたいに暴れる」等とこれまた最悪の我儘(脅迫?)を言い、他県にあった自由な校風のこの学校に入った。真田は頭が悪いので勿論裏口入学だった。そして只今真田は都会の生活を満喫し、自由奔放に高校生活を送っている。田舎の両親も乱暴者の真田鮎がいなくなって、ちょっと安心している。
 真田はこのように、小さな頃から誰にも口を挟まれない(挟ませない)環境で育った為、性格が悪かった。
 つまり、この学校で最強で最悪の女同士が同じ組になり、しかもご丁寧に席まで並んでしまったのだ。


 真田は頭が悪い。授業なんて全然聞いてない。聞いていても理解出来ない。だからいつも授業中は漫画を読んでいる。教師は誰も真田に文句を言わない。
 今日も駅のキオスクで買った新刊漫画雑誌を読みながら暇潰しをしていた。
「入来!」
 今日も数学の藤沢が入来を呼んでいる。
「入来!」
 続いてチョークが飛んでくる。
 真田は藤沢の怒鳴り声が大嫌いだ。藤沢は真田には文句を言わないのだが、入来が寝ていると凄く怒る。怒鳴り散らして怒る。藤沢の怒鳴り声は頭に響くし、どうせ入来が起きるまでまたギャーギャー喚き散らすので真田は入来を起こそうと軽く椅子を蹴った。
 ガコ
 入来はまだ寝ている。
 ガコガコ
 入来が眠そうに頭を振る。
 ガコガコッ!!
 真田は入来が生活の為にバイトしているのを知っていた。だから普段は起こさない。入来には興味もない。しかし毎回数学の度に藤沢の怒鳴り声を聞くのはうんざりなのだ。
 ガコガコガコッ!!
「震度5…」
 入来は変な事を言いながら目を覚ます。
 教壇には顔を渋い顔をした藤沢が入来を睨んでいた。

「真田がアタシを起こした?」
 授業が再開されると、入来が振り返って訊いてきた。
「そうだ」
「蹴らないで」
「では藤沢が呼んだ時にすぐ起きろ」
 真田はジャニス・ジョップリン並のハスキーボイスで低く言い返す。
「そんなの関係ない」
「あるんだよ、この3年寝太郎。お前のせいで藤沢が煩くてたまらん」
「だったら数学が始まる前にアタシを起こして」
「何で私が寝太郎の目覚まし時計なんぞにならねばならんのだ」
「だって藤沢ウルサイんでしょ?」
「だったら蹴って起こしてやる」
「だから蹴らないでって言ってる」
「だったら自分で起きやがれ!」
「起きれるのなら起きている」
「そんなの知るか!!」
 ここでやっと数学の藤沢が、この馬鹿女2人を注意した。
「テメーのせいで私まで注意されたじゃねーかこの寝太郎。私は授業を妨害しないのがポリシーなのに」
 真田はブツブツ言いながら、またもや入来の椅子を蹴る。
 真田は本当に授業妨害しない生徒だった。我儘だが、その辺はわきまえている。自分は漫画を読む。しかし他の生徒はお勉強をしている。これを邪魔してはいけない。皆様は頑張って良い大学に入ってくれ。と、そんな事を考えている。

 授業が再開され真田は漫画の続きを読み始めたが、すぐに終わってしまった。暇になったのでチラリと入来の左の席を見る。
 その席は岬杜永司の席である。真田が毎日目の保養としている男子生徒。
「あ、目の保養君がいない」
 真田は小さく呟いた。
 入来はもう真面目に藤沢の授業をちゃんと聞いている。入来は学校で寝てばかりいるのだが、成績は悪くない。寝ていた時の授業は楠田のノートを見て理解し、大事そうな授業は午前中でもちゃんと起きて聞いている。多分、集中力の問題なのだろう。今も教科書とにらめっこしながら藤沢の話を聞いている。
 真田は頭の切り替えの早い入来をぼんやり見ながら、もう一度岬杜の席を見た。
 今日の午前中はいたのに、どこへ行ったのだろうか。
「目の保養君がいないと暇潰しできんな……」
「目の保養君って誰?」
 真面目に授業を受け始めたと思っていた入来が、突然振り返り訊いて来る。
 小さな声で呟いたつもりだったのだが、どうやら聞こえたらしい。
「寝太郎には関係ないだろーが。お前はちゃんと授業聞いとけ」
 入来は「そうだね」と言いながら前を向く。そしてまた真剣に藤沢の話を聞いている。黒板の問題をノートに書き写しながら、それと合わせて教科書を捲って。
 真田がこの日持ってきた新刊は、思った以上に単純でつまらない内容だったので読み返そうと思えない。しかし数学なんて真田にはフランス語と同じくらい分からないから、入来のように真面目に授業を受けようとは思わない。しょうがないからノート(真田は授業を受けない為、全教科合わせても1冊しかノートがない)に、目の保養君の似顔絵を描き始めた。
「目の保養君って能面のコト?」
「うわっ!」
 顔を上げると、またもや入来が後ろを向いて真田の似顔絵を見ていた。
「んだよ寝太郎。今日はせわしないな」
 そうなのだ。入来は普段、一回授業を受けだすと凄い集中力で教師の話を聞く。
「真田の目の保養君が気になった。それ、能面の絵?」
「能面?」
 入来は岬杜の席を指す。
 真田はかなり驚いた。似顔絵を描いてはいたのだが、自分でも似ているとは思ってない。あえて言うならば、その似顔絵は辛うじて人間と分かるだけで男か女かも分からない。右の目と左の目は大きさや形が違うし、妙に顎は尖がっているし、頭はやたらとでかいし、全体的に見ても小学生が左手で描いたような絵だった。
「なんで分かった?」
 真田は藤沢に注意されないよう、小さな声で訊く。
「能面っぽい。その、能面っぽいトコとか」
 入来の言う事は理解できない。
「どうでもいいけど、私の目の保養君を能面って言うなよ」
「能面は今、多分屋上」
「マジ?」
「多分ホント。この前那馳に連れてって貰った時に見た」
 真田もこの学校に屋上がある事(入れる事)を知らなかった。
「寝太郎、目の保養君と喋ったのか?」
「能面とはしてない。でも深海とは話した」
 深海春樹か。まだ二年になって1ヶ月だから話したことないな。目の保養君はクラスでは誰とも会話しないかと思っていたが、アイツ友達なのか。ここで入来を使って深海を媒介に目の保養君と近付けるんだったら、今すぐにでも屋上に行きたい。
 真田は少ない脳味噌で考えて、入来を誘った。何せ真田は屋上へどうやって上がるのか知らない。入来は「いいぞ」と言いながら立ち上がった。
「入来、どうしたんだ?」
 藤沢が眉をひそめて訊いてきた。
「センセー。入来さんが下痢気味で今にも漏らしそうなので、保健係の私が保健室に連れて行きまーす」
 高校生にもなって保健係なんてないのだが、なんせ真田は頭が悪い。それにどうせなら「気分が悪そうなので」とか言えばいいのに、「下痢気味で今にも漏れそう」なんて汚い。
「先生、突発性インフルエンザ北海道A7型にかかったみたいなのでサヨナラです」
 ここで入来も、どうせなら「コレラ」とか言えばいいものの、聞いた事もない出鱈目な病名を出す所がトンチンカンだ。
 藤沢が苦い顔をしていたが、2人はとっとと教室を出た。
 屋上へ上がる階段は、一番西の階段上にある物置のドアを開けるとある。真田はこんな場所があったのかと1人感心しながら屋上へ登った。
「よぉ〜、入来ぃ〜」
 深海が入来を呼んだ。
 入来の後ろを歩きながら、真田は目の保養君である岬杜を探す。しかしそこに深海と苅田と、苅田に凭れて寝ている緋澄の姿はあれど、岬杜の姿はない。
「寝太郎!目の保養君いねーじゃねぇか!!」
 入来は深海の前まで歩いて行き、「能面は?」とかなんとか聞いている。真田はドキドキしながら聞いていたが、「煙草買いに行ったよぉ」との回答にちょっとほっとする。 戻って来るみたいだ。
 目の保養君、煙草吸うんだ……似合うかも。真田は1人ニヤけていた。
「同じクラスの真田…だよなぁ。俺、深海春樹。ヨロシクなぁ」
「こちらこそヨロシクお頼み申します。ところで、私の目の保養君はまだ帰ってこんのかや?」
 真田は今ちょっと緊張している為、信州の方言が少し出てしまっているのに気付かない。
「岬杜かぁ?アイツだったらもうちょっと時間かかるかも。俺のバージニアは近くの自販機にないからさぁ」
 今今、「ヨロシクお頼み申します」とか言ってネコ被ってた真田が、豹変して深海を睨んだ。
「俺のバージニアだぁ?なぜ私の目の保養君がお前の煙草なんぞ買いに行くんだ、このクソ深海!大体深海が名字だったら名前は春樹じゃなくて昆布やワカメやヒジキだろう、この海藻!!」
 真田は怒っていたが、深海は笑って「アイツのセッタもなかったから、ついでだよ」と言い訳していた。
 本当のところは違う。深海は今日、朝から頭痛がしていた。煙草がなくなっても、学校の近くにある自販機までなんて到底行く気になれなかった。それに気付いた岬杜が、自分のも無くなったからついでに買って来てやると言ったのだ。実は岬杜のセッタはまだ充分あったし深海もそれに気付いていたのだが、今日の頭痛はちょっと酷かったのでその好意に甘える事にしたのだ。
 真田はそんなこんなの複雑な事情も知らず、とにかく深海に「ヒジキのくせに生意気だ」とか、「今度目の保養君をパシリにしたら煮物にして喰ってやる」とか、小姑のようにネチネチ文句を言った。そしてスカートのポケットから自分のマイセンライトを取り出して火を点ける。真田は立派なニコチン中毒だ。彼女は日本から煙草が消えたら、国会に爆弾を仕掛けてやろうと思うほどヤニ中なのだ。
「深海ちゃん頭痛大丈夫か?」
 ふと苅田が言った。深海が笑って応えている。
 真田はここで初めてまじまじと苅田を見る。2年になって同じクラスになったものの、ちゃんと見たことはなかった。 なにせ真田は授業中休み時間問わず、一心不乱に漫画を読んでいる事が多い。
 苅田と目が合った。
 苅田は顔つきに特徴がある為、人によって評価が割れる。万人に美形と思われる緋澄。万人に良い男と思われる岬杜。万人に愛される深海。しかし苅田はそのアクの強さから票が割れる。「カッコイイ」と、「怖い」に。
 因みに真田的には好きな顔付きだった。
「お前良い身体してるな。セックスの時いい気になって駅弁ファックとかするだろ?」
 ジロジロ見ながら真田は言う。
 隣で深海が腹を抱えながら笑っている。「しそう、しそうだぁ〜」とか言いながら。苅田自身も苦笑いしている。
「真田、駅弁ファックってなに?」
 入来が訊いてきた時、屋上のドアが開いた。
 待ちに待った目の保養君登場。真田は急いで吸っていた煙草を揉み消す。
「いいかオノレ等、私は目の保養君とお付き合いしたいんだから、全身全霊を込めて援護しろ。裏切り者は極刑に処す」
 今初めて喋ったばかりの深海(しかも深海には文句ばかり言っていた)と苅田に、突然「援護しろ」とか「裏切り者は極刑に処す」とか言うところが、真田のクソ我儘本領発揮的な感じである。しかし真田は、今まで話し掛けても返事すらしてくれなかった目の保養君ととりあえずお近付きになろうと1人異様に緊張し、「いざ、出陣!」とかなんとか1人でブツブツ言っている。
 岬杜が歩いてきて深海の隣に座る。
「岬杜、サンキュなぁ」
 深海が煙草を受け取る。岬杜は頷く。
「岬杜君。私、貴方の斜め後ろの席の真田鮎よ」
 岬杜は真田を見て、少し頷いた。真田は嬉しい。ニコリと笑う。しかしここで、
「真田、駅弁ファックってなに?」
 と、場を読めない入来が絶妙なタイミングで訊いて来た。 ニコリと笑った真田の顔が凍りつく。
ガシッ!
「いやだーん!入来さんってば、おほほ」
 岬杜に見えないように、入来に蹴りを入れつつ真田は笑う。
「何で蹴るんだ!それと駅弁ファックってなに?」
ガシガシッ!
「真田痛い」
「……裏切り者め」
 岬杜が興味なさそうに新しいセッタの封を切った。 深海と苅田は俯いて笑いをかみ殺している。
「真田、駅弁……」
「五月蝿いんだよこの眠り虫!駅弁ファックってのは、泣き喚く息の荒い赤ちゃん抱っこして、もっと息荒くして天国に連れてく洗脳的子育て方なんだよ!」
 小声で言う真田の説明はかなり意味不明なのだが、入来は「そうなのか」と言ったきりごろりと横になって眠り始めた。どうやら本気で「子育て方法」だと信じたらしい。
 深海と苅田は声を出さないように顔を覆って笑っている。
「おほほほ。入来さんってば、変なお方ね」
「……」
 岬杜は興味なさそうに空を見上げていた。
 真田はここで引いてなるものかと、コホンと咳払いをし深海に視線を送る。深海は首を傾げたのだが、「オヌシ、裏切り者か?」等と低い声で囁かれ、しょうがないので真田の援護(?)をしようと話し掛けた。
「真田って赤い服多いなぁ。赤好きなのか?」
 赤い服は本当に多かった。目の覚めるような真っ赤のシャツからエンジ色のジーンズまで、真田の着ているモノは必ずどこかに赤色が入っていた。
「そりゃ、真田と言えば赤だからよ」
「何でぇ?」
「何でって、真田の軍装は赤一色でしょ?」
 これは真田幸村の軍(大阪夏の陣)の事である。
「まさか、真田って真田一族の子孫とかかぁ?」
「まさかじゃなくて、子孫と言われているわ」
「スゲーッ!!」
 深海はここで岬杜に、「聞いた?真田って真田一族の子孫だって!凄いなぁ」とか言ってる。岬杜は可愛い笑顔の深海の言葉に、これまた優しい笑顔でコクリと頷いた。
 この瞬間、真田の小さな脳味噌にお花畑が出現した。真田は初めて見る岬杜の笑顔を、まるで後光が見えているかのように目を細めながら拝み、「凄いなぁ」と言った深海の言葉に岬杜が頷いた事を飛び上がるように喜んでいた。脳内お花畑は花弁が雪のように舞い、脳内真田鮎が、現実真田鮎に花束を贈呈しているシーンまである。
「……。深海春樹、しがない農民から真田軍兵に昇格」
 満足そうに真田が呟く。苅田がそれを聞いて笑っていた。
「それで真田はやっぱり信之のほう?それとも信繁の娘の方?」
「幸村よ。深海君、詳しいじゃない」
「俺、真田一族好きなんだぁ」
「……。深海春樹、真田丸の飯炊き係りに昇格」
 実際幸村を信繁と呼ぶあたり、深海は本当に真田一族が好きなようだった。
 それから真田は自分の家に伝わる話をしてやった。  幸村は大阪夏の陣で戦死したと言われているが、実は秀頼に随行して薩摩へ落ちのびた。これは京童部にもあるように有名な話だ。(「花のようなる秀頼様を」と真田が口にしたところで、深海が「鬼のようなる真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」と続いたので、深海はここで真田の赤備え隊に昇格)
 幸村は鹿児島で秀頼の身辺を最後まで保護しようと思っていたのたが、数年後、秀頼の突然の死によって帰郷。死んだとされた身なので松代に帰る事も真田の里に帰る事もせず、信州の山奥で余生を送ったと言う。そしてそこが真田鮎の生まれ育った村であり、真田はその子孫だと。
 かなり眉唾物だが、真田は自分が生まれた時から身に付けている首にぶら下げていたお守りを見せて一同を驚かせた。それは本物の六文銭だった。
「マジだわこりゃ」
 深海が感心して呟く。
 幸村はその最後の戦いがあまりにも有名で強烈なので「鬼のようなる真田」と歌われた程なのだが、実際はヨボヨボの歯抜けジイサンで、しかも「物事柔和・忍辱にして強からず。言葉少なにして、怒り腹立つことなかりし」と伝えられている。真田鮎がその子孫だとは信じられないのだが、しかしこの六文銭は本物に見えた。
「これ、アレ?」
「そう、不惜身命の六文銭。これさえあれば私はいつでも死ねる。死んでもこの六文銭さえあれば、三途の川が渡れるからな」
 この六文銭はそうゆう意味だ。
 深海は食い入るように真田の六文銭を見ていたが、「ホント、凄いよねぇ」と、目をキラキラさせながら岬杜に言葉を振った。
 岬杜は、今度は深海を見ながらではなく、ちゃんと真田を見てコクリと頷いたのだ。
 この瞬間、深海は真田十勇士に昇格した。

 次の授業は体育だったので、深海が張り切って立ち上がると岬杜もそれに続いた。屋上には真田と苅田、寝ている入来と、これまたずーっと寝ている緋澄が残った。
「目の保養君……万歳!!」
 またもや出現した、脳内お花畑に脳内真田鮎。今や真田の脳味噌は、花弁と蝶々が舞い池からは酒が湧き出て笑顔の目の保養君が裸で踊る、ウヒウヒ酒池肉林状態だった。
 唯一現実に取り残されている苅田だったが、どこか遠い所にイってしまっている真田を見ながら一人笑っていた。







back  next