第9章 現実感を持って

 そこは驚くほど透明な河だった。
 流れはそれほど速くはないが、所々力強く渦を巻いている。
 緋澄の身体は河の表面で浮き沈みを繰り返していたが、力なく漂うだけの彼はほとんど死体のようだった。
 彼はじっと空のようなものを見ていた。
 空のようなものはこれ以上なく青かったが、ただ青いだけだった。そこには白く漂う雲もどこかに飛んでいく鳥も小さな飛行機もなければ、底の見えない深さも果てしなく続く広さも、冷たさすらもない。
 死体のように漂っていた緋澄の左手が、小さな水音をたてながら青い空間に向かう。
 だが、そこに空はない。
 紺碧の空に似たモノがあるだけだ。
 それに爪を立てるとガリガリと表面が剥がれ―――

 突然鳴り出した携帯の着信音で目を覚ます。
 緋澄はまだはっきりしない意識のまま枕元に置いてある携帯を取った。
「ガッコー」
 このところ聞かなかった苅田の声に瞬きをし、 それから小さな欠伸をして目を擦る。
「お前夏休み明けてから休みすぎ」
 どこか咎めるような声を出して苅田は携帯を切った。緋澄は携帯を枕元に置き、出来るだけゆっくりと身体を伸ばす。基本的に他人には我関せずの苅田だが、緋澄があまりにも自堕落な生活を送るとこうして小さな警告をする。
 やっぱり紺野とは違う。
 緋澄はそう思いながら起床の準備をした。まだ半分眠っている身体に自分が起きていることを確かめさせながら、カーテンの隙間から漏れる日光を浴びる。

 学校へ行っても眠いだけだったが、それでも以前のように自分がどんどんダメになっていくとは思えない。毎日起きて毎日登校することがそれほど大事だとは思えないにしても、一日中ベッドの中で寝ているよりはマシだなと思いながら緋澄は午前の授業を受けていた。
 午後になるとさすがに眠くなり、深海と一緒に屋上へ行く。9月に入ってもう随分経つのにあまりにも残暑が厳しく、昨日降った雨のせいかやけに蒸し暑かった。
 深海の左隣に座り、深海に寄り掛かって汗を拭う。太陽から落ちてくる直線的な光と午前中に目一杯溜め込んだコンクリートの熱は、座っているだけで身体を溶かしていくようだ。その熱はどこか苅田とのセックスに似ていた。ぐらぐらと煮え立ち、眩暈を呼ぶ熱。
 眠気と暑さでぼんやりする。
 深海も暑いのか汗を拭っては溜息を吐いているが、それは緋澄の感じている熱とは別のもののようだった。緋澄は身体をずらして深海の腕に顔を擦りつける。深海の身体からはトクントクンと心臓の音が聞こえてくるようだった。
 トクントクンと、心臓の音が。
 深海の心臓の音が。
 緋澄が深海に凭れながら秋とは思えぬ空を虚ろに見上げたその時、何の前触れも無く、酷く急激に、記憶の底から湧き出るように、夢の続きを思い出した。
 死体のように流れていく自分の身体。ただひたすら透明で無音の河。何一つ見当たらない空洞のような紺碧の空。爪を立てるとガリガリと表面が剥がれ―――錆びた鉄が……。

『爪を立てると錆びた鉄が出てきたんだ。錆びた鉄が出てきたんだ。どうしてもどうしてもどうしてもどうしても、いつだって俺と現実は繋がらない』

 何かの反動で突然蘇った夢の記憶は、いつしかライブハウスで歌っていたあの男の声に変わっていた。
 緋澄は静かに左手を青色の空間に伸ばし爪を立てる。しかしそこには何もない。表面が崩れ落ち、錆びた鉄が出てくるわけではなかった。
 何か感じてる。自分は今、とても大切な事を感じている。それなのに、繰り返される夢の続きがそれを邪魔するのだ。
 心臓が苦しい。
 緋澄の額から汗が一筋頬に伝う。心臓の音がする。トクントクンと。それは緋澄のものなのか、深海のものなのか分からなくなっていた。
 熱い。身体が熱い。身体の熱を持て余し、伸ばした手を力なく下ろして乾いた唇を舌で濡らす。手を伸ばしても爪を立てても錆びた鉄は出てこない。だが緋澄にとって現実とは……。
 何か感じてる。大切な事を。それなのに、繰り返し浮かんでくる夢の続きが邪魔をして、ちゃんと考えることができない。
 トクントクンと心臓の音がする。これは誰の音だ。これは誰の現実だ。
 深海が何か言っているが緋澄の耳には何も聞こえてこなかった。高い金属音のような耳鳴りがする。
 深海と視線を絡める。深海の目にはいつものような穏やかさはなく、緋澄が始めて見る男としての目があった。
 深海は触覚。深海は感覚。 深海はいつだって自分にない全てのものを持っている。
「深海、俺に欲情してる?」
 訊ねならが、緋澄はこの深海が欲しいと思った。緋澄はこの男が持っているものを全て欲しいと思った。
 深海が緋澄の頬に手を添え、濡れた唇に親指を押し当てる。金属音のような耳鳴りは静かに消えていき、またゆっくりと心臓の音が聞こえ出す。緋澄はゆっくりと見せつけるようにその指に歯を立てた。
「お前に欲情してる。お前も俺に欲情してるだろう?」
「してる」
 少しだけ笑った。
 緋澄は深海が欲しかった。深海の持っている現実が欲しかった。深海が知っている空を知りたかった。
 何故なら自分が知っている現実は……。
 そこまで考えるとまたどこかから心臓の音がする。遠い遠い胸の内側に、張り裂けるような痛みを感じたような気がした。
 ああ、そうだ。……自分が知っている現実は、苅田から教えてもらった快楽と、孤独と不安しかない。
「俺、深海のこと好きになれば良かった」
 呟いてみて、どうしてか酷く苅田を憎んだ。苅田から与えられたものはそれだけなのだ。快楽、孤独、不安。
「緋澄は俺を好きになったとしても、きっと何も変わらない。お前の流れを止める事なんて出来ない。お前は…」
「言わないでよ」
 何も聞きたくなかった。例えそれが本当でも、その言葉の後に苅田の名が出てくるにしても。
 深海は何をしても何を言っても、結局何もしてくれなかった。いつものように優しく抱き締めていつものように髪にキスをしただけだった。
 深海が指で傷に触れる。
「俺は深海になりたかった」
 緋澄は深海になって、その心の琴線に触れたかった。この男の心に触れて、この男の心と共鳴して、溢れるその感情を持って、錆びた鉄じゃない現実感を持って、苅田に……。
『爪を立てると錆びた鉄が出てきたんだ。錆びた鉄が出てきたんだ。どうしてもどうしてもどうしてもどうしても、いつだって俺と現実は繋がらない』
 歌の続きが邪魔をして、緋澄は何も考えられなくなる。


 薄暗い部屋に響く荒い呼吸音。
 痺れている自分の思考。
 まだ鈍い音を立てながら身体の中で動き続けているバイブ。
 身体から流れる汗。

 先程かけられた苅田の精液が頬を伝い垂れていくのを感じ、緋澄は指でそれを掬うとそのまま口に含み舌で舐めとった。
 苅田はベッドの下に転がっているウィスキーの瓶を取り、アルミの蓋を開けて瓶に口を付けそのまま中身を喉に流し込む。その度に動く苅田の喉仏を緋澄は潤んだ瞳で息を弾ませたまま見ていた。
 ウィスキーの瓶を差し出されたが、緋澄は受け取らない。乱れた呼吸が身体を苦しめ、苦しむ身体が快感を求める。
 苅田は薄く笑いながら残っているウィスキーを緋澄の身体にかけ、白い肌の上で汗と混じりながら流れ落ちシーツに染み込んでいく様子をじっくりと魅入っている。低い音を立てながら蠢くバイブの振動に小さく喘ぐその声と細かく震える緋澄の白い身体は、ウィスキーの匂いを含みながら苅田をほどよく誘う。
「潤」
 その名で呼ぶのは…今は苅田だけだ。
 手を伸ばして苅田の身体に触れる。いつも笑っているような口元といつもどこか冷えている瞳、そこにいるだけで周りの人間を萎縮させる威圧感。一年前から更に伸びた身長とともに厚みを増した硬い身体。右腕に巻きつく龍。
 苅田に触れた緋澄の指が震えていた。
 このまま何をされても構わないと思うほど、これがずっと続けば良いと思うほど、緋澄の身体は苅田に慣らされている。そして、いつも堪らなくなって苅田の身体に抱きつく。


 いつの間にか深海と岬杜が付き合うようになっていた。
 しかし苅田は変わっていない。緋澄も変わっていない。緋澄は重い靴を履いて歩き、苅田は気ままな日々を送る。苅田の側にいることが当然になってからもう1年半以上経つのに、緋澄は自分の立場が定まらない。
 心とはどこにあるのだろうと、深海と岬杜を見ながらよく考えた。もうずっと苅田の側にいるのに苅田の心は分からないし、当然のように自分の心も分からない。
 確かに最初から身体だけだった。苅田は自分の身体だけを求め、自分の身体だけがそんな苅田に慣れのだ。

 心はどこにあるのだろうかと、秋の夕暮れを見ながらぼんやり考えた。
 下校する生徒達を見下ろしながら屋上の柵に寄り掛かり、緋澄は一人で冷たい風に当たる。このところずっと身体が冷え切っており、何をしてもどんなに厚着をしても身体は熱を取り戻さない。
「緋澄ーーー!」
 眼下から深海の声がする。深海は岬杜の単車の後ろに乗り、こちらに向かって手を振っていた。
「ばいばいきーーーん!」
 深海の声はよく届く。子供のようなその言い方に緋澄は少し微笑み、同時に何の音も立てず自分が透明な河の底に沈んでいくような気がした。深海とは違い、何もない自分の身体。その身体が冷たい河の底に沈んでいくような感覚。
 後方で扉の開く音がしたが、緋澄は振り返らずそのまま校門に消えていく生徒達を眺めていた。
 近付く足音。
「帰らねーの?」
 緋澄はその太い声に頷くことも首を振ることもせず、伸びていく校舎の影を見つめていた。
 手を取られてようやく振り向く。しかし何となく視線を逸らせるように緋澄は俯く。
「潤」
 顔を上げろと言うように、苅田は俯いている緋澄の顎を指でトンと叩く。しかし緋澄は顔を上げなかった。
 沈んでいく自分の身体を見たら、目の前のこの男はどう思うだろう。見捨てるか、手を取り引き上げるか。もし紺野ならば……紺野ならば、手を握り同じ場所まで一緒に沈んでくれるだろう。
 芯まで冷えた緋澄の身体を凍らすように風が吹く。
 苅田の熱い手が頬に添えられると、 その熱から逃げるように緋澄は顔を叛けた。
 その時、苅田は酷く不機嫌になったわけでもなくムキになったわけでもなく、緋澄の態度には何の反応も起こさなかった。 しかし苅田はその日から緋澄を抱かなくなった。
 戸惑ったのは緋澄の方だった。

 その年の秋は、やけに暑い日や凍えるほど寒い日が繰り返された。
 緋澄は何故自分が苅田の側にいるのかよく分からないまま日々を送っていた。呼吸をせずに生きていく生物を生物と呼ぶには躊躇いを覚える。それと同じように、苅田の側にいるのにセックスをしない自分が何か間違っているような気がした。
 深海は岬杜のマンションで暮らすようになったようでアパートへ行っても誰もいないし、深海の他に特別仲の良い友人はいない緋澄は行くあてもなく彷徨い、結局は冷たい身体を抱えて家に帰りそのまま倒れこむように眠る日々が続いた。深く考える気力も無ければ余裕もなく、一人で眠る夜だけが身体に染み込んでくる。
 苅田が自分に与えたもの。
 緋澄はベッドの中で指を折り曲げ数える。
 快楽。不安。孤独。
 3つ数えると目を閉じた。目を閉じたまま枕元にある携帯を取り、苅田のセックス専用の携帯を鳴らそうかと迷った。しかし何も出来ず、自分の携帯を握ったまま眠りについた。





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