第8章 重い靴
苅田だけではなく、深海とも同じクラスになった。
それは緋澄が今まで経験したこともないほど騒々しく協調性のない、常にバサバサと鳥の羽が舞っているような不思議なクラスだった。
緋澄はその中で真田鮎と出会う。真田は基本的には非常に攻撃的で我侭で随分と変わった生徒だったが、それでも緋澄はこの不可思議な生徒を気に入っていた。緋澄が他人に何らかの感情を抱くこと事体珍しかったが、本当に真田は見ていて飽きないのだ。学校の屋上で勢いよく岬杜に話し掛ける様子も、かと思えば急に怒りだし苅田を罵りだす様子も、全てが緋澄の興味をひいた。
緋澄は何も変わってはいない。苅田はこの年の春、右腕に龍の刺青を入れ髪を赤から金に変えたが、それだけだ。相変わらず好き勝手に生きていた。
そんな中、深海だけが僅かに変化を見せた。
その変化に最初に気付いたのは、深海を寵愛している苅田だった。苅田はほとんど何も言わず深海を見守り続けたが、それは彼らしいと言えば彼らしいことだった。
しかし深海のその僅かな変化は小さな波紋となり、誰にも分からぬほどひっそりと無音のまま広がっていく。
緋澄は苅田の隣に座り込んで、ただぼんやりしていることがほとんどだった。苅田と深海、それにこの春から深海の側にいるようになった岬杜。この4人で午後の授業を抜け出す。そしていつだって深海を中心にして話題が進む。
空はもう随分と青く、日差しもまた日に日に強くなっていくのが分かる。
「次、俺の体育!」
苅田の足に頭を乗せて寝そべっていた深海が大きく背伸びをし、気合を入れてから立ち上がる。
「俺のって何だよ、俺のって」
「だって体育は俺のだもん」
苅田が笑いながら立ち上がろうとしたので、緋澄は身体を離す。
「緋澄は? 行くか?」
いつもは苅田の口から発せられる言葉を今日は深海が口にする。緋澄は小さく首を振った。
「岬杜は?」
岬杜も同じように首を振る。
立ち上がった二人は授業の終わりを告げる鐘が鳴る前に、
屋上から去って行った。
緋澄は鉄の柵に凭れ二人の背中を見送りながら、例えようのない違和感と沈み込むような不安の中にいた。何故そんな違和感や不安を感じるのか自分でも分からないし、不安というモノからほとんど無縁の世界に住んでいた緋澄は、どうしてもそれに上手く対処することができなかった。いつもはすぐに流れていく感情が、纏わりつく泥のように身体を包んでいく。
次の授業が始まり、グラウンドからはしゃぐ深海の声がする。隣で煙草を吸っていた岬杜が立ち上がり、柵に凭れながら深海を見つめていた。緋澄も何となく立ち上がり、クラスメイトがハードルを準備しているのを眺める。
深海が苅田の背中に飛びついたのが見える。深海がトラックを指すと、苅田は深海を背負ったまま走り出す。まだ準備し終わってないハードルを苅田は深海を背負ったまま飛び越えていく。少し重そうでハードルが足に引っ掛かるも、苅田はハードルをなぎ倒していく。クラスメートが笑っている。苅田の背中にしがみついている深海も子供のように足をバタつかせて笑っている。勿論苅田も笑っている。
苅田がハードルを全て越え足を止めると、深海が手を振ってきた。隣の岬杜が無表情のまま手を上げ深海に応える。苅田もこちらを見た。
しかし岬杜を見ているのが分かった。
その時、緋澄は酷い眩暈に襲われた。
それと同時に、自分を包んでいた違和感と不安の正体が見えた気がした。
苅田は先ほどの1時間、そして今も、1度も緋澄を見なかったのだ。
「なにそれ……」
半ば呆然として呟いた緋澄の声は緋澄にしか聞こえない。
本当にたったそれだけなのだ。苅田はずっと深海を見ていたという、ただそれだけのことで緋澄は違和感と不安を覚えたのだ。そんなことが今までなかったわけではない。苅田は深海が側にいると、深海だけを見ていることがほとんどだった。
なのに今、どうして急に。
緋澄は虚ろに流れる記憶を弄り、最近苅田に抱かれることが随分減っていることに気付いた。
苅田が何を考えているのか緋澄は考えたこともなかったし、考える必要もなかった。しかし苅田の今日の態度が緋澄を不安にする。苅田が何を考え何故自分を側においているのか。その答えが知りたい。
もう一度酷い眩暈に教われ、視界の歪みに目を閉じて緋澄は柵を手で握り締めながらその場にしゃがみ込んだ。
苅田は何故自分を側においているのか。苅田は何を考えているのか。苅田の感情。苅田が見る夢。その全部を知りたい。
細く目を開けると鉄の柵を握っている自分の手が小さく震えているのが見え、それで自分の身体が異常に冷えていることに気付いた。柵から手を離し、両腕で自分の身体を抱きしめながら小さく息を吐く。
何度か瞬きを繰り返し、眩暈が完全に治まったことを確認するともう一度グラウンドを見た。苅田はすでに座り込んでおり、深海は秋佐田に背負ってもらっている。やけに楽しそうで、深海のはしゃぐ様子がよく見えた。
ふと隣の岬杜を見てみると、立ち上がってグラウンドを見下ろしていた岬杜と目が合う。
この時緋澄は何故か、岬杜に自分との共通点を感じた。
日々は静かに流れていく。雨が降り続き空気が湿気で一杯になったかと思えば、いつの間にか青すぎる空が広がりどこからか蝉の声が聞こえ始める。何もかもが温くいやな温度を保ち、夜の街が一年で最も澱んだ空気に覆われれる季節になっている。
その日緋澄は学校から帰るとまずシャワーを浴び、汗を流しながら熱くなりすぎている自分の身体を冷やした。日に日に強さを増す太陽の日差しに反応しすぎ、緋澄の身体は最近やけに熱を持ちすぎている。その熱を逃がそうと冷たい水に打たれながら緋澄は自分の白い肌をぼんやりと眺め、最近まであったはずの赤い痕を探した。苅田につけられたはずの痕は胸元と首筋、右の足の付け根、足首、腰元。しかしもうどこにも残っていない。
最近苅田はある年上の女に入れ込んでいた。緋澄もその女を見たことがあるが、もう三十路をとっくに過ぎているように見えるその女は、少し脂肪が多くて大抵色褪せた服を着ており、大きな声で笑う女だった。既婚なのか未婚なのかは知らないが、主婦と言われれば一番納得がいくような女だ。苅田はこの女のどこをどう気に入ったのか、随分頻繁に会っているようだった。決まった女を作らない苅田にしては随分珍しいことだった。
苅田の性癖を知っている周りの者でも、夜の街から異様に浮いているこの女に多少は戸惑いを見せた。だが決して嘲笑するようなことはしなかった。苅田が選んだ女を笑うということは、苅田を笑うことになる。それに苅田の選ぶ女はいつも決まって、何らかの飛びぬけた、特徴的な魅力があった。
この女にどんな魅力があるのか、それは緋澄にも分かった。女はいつも色褪せた服を着て汚れきったクリーム色のサンダルを履き、大きな声で喋り大きな声で笑う。ただしどんな時でもこの女は生命力に満ちており、周りのどんな大人よりも、どんな人間よりも覇気があった。
苅田はこの女と出会ってからほとんど緋澄を抱いていない。緋澄は中々冷えない自分の身体を眺め、まだぼんやりと苅田がつけた痕を探していた。
だらしなく沈む太陽の姿がようやく街の隅に消えると、
緋澄は服を着て家を出る。
まだ太陽の光が残る空には蝙蝠が舞い、カラスが電柱の上で鳴いていた。
熱い身体に流れる汗を時折腕で拭いながら通りに出てタクシーをつかまえ、深海のアパートに向かう。見慣れた階段を上り、見慣れた扉を軽く叩く。深海は緋澄を部屋に入れ、二人で早い夕飯を食べた。
「何か喋って」
食器を片付ける深海の背中に向かって、小さくそう言う。聞こえてないかと思ったが、深海は返事をする代わりにポツポツと独り言のような話を始めた。
その日の深海の話は「ココアのクッキー」の話と、「六本足の猫」の話だったが、ココアのクッキーが大好きなのに、もしある日突然嫌いになってしまったらどうしようと思う時がある。もしかして本当はもう自分はココアのクッキーが好きなのではなく、ココアのクッキーを嫌いにならぬよう心のどこかで「必死になって好きになっている」のではないかとたまに不安になる、という内容と、六本足の猫が出てくる夢を見たけれども、その猫は随分と機嫌が悪かった。自分はその猫がどうやって走るのか見たかったけれども、猫は座り込んで憮然としているだけで、絶対に走ってはくれなかった。もしかして、六本足の猫に「走ってみてくれ」と頼むのは、失礼なのかもしれない、などと相変わらず緋澄にはよく分からない話だった。
緋澄はココアのクッキーの話と六本足の猫の話を聞きながら深海のベッドを占領し、壁に貼ってある映画のポスターを眺めていた。そして、それを見ながら紺野の部屋にあったポスターを思い出していた。紺野に「このポスターの男は誰?」と訊いたら、紺野が「ジャコパス」と答えた事などを。その時の紺野の横顔などを。
シンクに食器を突っ込み、テーブルの上を拭き終えた深海が、空いているベッドの端に腰を下ろし足を伸ばした。手を伸ばし深海を引き寄せてみると、深海は逆らうことなく緋澄の横に身体を寝かせた。狭いベッドなので深海は落ちそうになっている。緋澄はそんな深海を落とさぬよう、その細い腰に手を回した。深海は何も言わぬまま、緋澄の髪を撫でる。
深海は過剰とも思えるスキンシップを当然のようにする。何の躊躇もなく身体に触れてくるので初めて彼と接した人間は多少困惑することがあるが、その困惑もすぐに消えることが多い。彼はそれだけの魅力をもっており、彼の手にはそれだけの力があった。
深海の手が緋澄の頬に触れ、その指が左のこめかみを撫でた。傷を見ても深海は何も言わない。緋澄はふと、今このままこの男とセックスをしたら苅田はどうするだろうと思った。そして、以前にも同じことを考えたような気がして息を吐いた。
深海の手は緋澄の身体をナマモノにする。しかしそれは一瞬だけだ。深海が触れた場所はその時だけイキモノとして目を覚まし、血液が流れ肌は呼吸を始めるが、その手がなくなればあっという間に元の無感覚な身体に戻る。
深海は何もしなかった。時折緋澄の身体を抱きしめる程度で、それ以上はいつものように何もしてこない。
緋澄は熱い身体のまま、虚ろに苅田のことを考えた。それから紺野の部屋にあったポスターと、紺野の手を思い出した。そして最後に、自分の身体に苅田の痕がないことを思い出した。
深海の部屋を出ると、緋澄はそのまま苅田に連絡をした。
今まで一度もかけたことのないその番号に。
苅田は驚きも喜びもしなかった。どこで会うかと訊ねられたので、苅田の家に行くと告げ、携帯を切った。
今日は女と会っていなかったのか、苅田は自宅で緋澄を待っていた。
部屋に入ると緋澄は自分から服を脱ぎ、自分から唇を合わせる。苅田との口付けは紺野と違い煙草の匂いがする。
何をしてもどうしても身体が熱い。
時折やってきては視界を歪ませる眩暈を感じながら苅田のペニスを口に含み、たっぷりと唾液をつけてから口を離す。その唾液を舐め取るように舌でペニスを刺激する。根元から先端まで舌でなぞっていき、時折口に含んでは軽く歯を立てる。
苅田の手に触れられるだけで身体から汗が流れた。このまま溶けることが出来れば、どれだけ良いだろうと感じた。溶けて、流れて、消えていけば良いと思った。
腹ばいにさせられて、腰を高くかかげる。腰を掴まれる。背後から突かれる圧迫感に声が漏れ、逃げるように身を捩りながらシーツを掴む。苅田は緋澄の腰を引き寄せ、愉しむように緋澄の身体を貪る。
視界に映る全てがゆっくりと溶けだし、緋澄は本能に全てを委ねた。
夏休みが始まると元々狂いっぱなしの緋澄の生活リズムは更に崩壊する。
いつまでもベッドの中で眠っている時もあれば、だるい身体を引き摺って朝方まで街を彷徨う時もある。どれだけ気温が高くても震えて毛布に丸まっている夜もあれば、幾らクーラーの温度を下げても暑くてたまらない夜もある。眠っても眠っても意識がはっきりとせず、ただひたすらベッドで横たわっているだけで一日が終わったりもした。
「あら」
珍しくまだ日がある時刻に目を覚ました緋澄が玄関で靴を履いていると、丁度家政婦が買い物袋を下げて扉を開けた。この家政婦は数年前からこの家の家事を任されているのだが、緋澄は彼女の名をどうしても覚えることができないでいた。40代前半辺りに見える彼女は、少し陽気な口調で喋る小太りで背の低い女性で、緋澄の父を崇拝してやまないせいか緋澄の父その本人からの信頼も厚い。
「おでかけ?」
声を掛けられ、緋澄は素直に頷く。普段この時間は学校に行っているし、休みの日は大抵寝ているので、緋澄は彼女を見るのが久し振りだった。
「ご飯は冷蔵庫に入っているの知ってますよね?」
スーパーの半透明の袋を手に持ったまま、彼女はサンダルを脱ぐ。彼女は毎日緋澄の食事を作っているが、緋澄はほとんど彼女の食事を口にしない。当初は彼女もそれを気にしたものだったが、最近ではもうほとんど何も言わなくなっていた。緋澄にしても決して彼女の料理が嫌いなわけではないのだが、元々小食であり、この家にいるとあまり食欲がわかないのだ。
緋澄は彼女の問いに頷くと、立ち上がって扉を開ける。
「お父様、来週末にも戻って来るそうですよ」
背後から聞こえた声が何の話なのか分からず、緋澄は振り返って彼女を見る。彼女は身体を屈め、脱いだ自分のサンダルを揃えているところだった。
「どこから?」
緋澄の声に彼女が顔を上げる。
「はい?」
「どこから帰って来るの?」
「スウェーデンですよ。毎年行っているじゃないですか」
彼女は緋澄の顔を眩しそうに見ながら、もう一度食材の入った透明の袋を持ち直して立ち上がる。緋澄は口を閉じ家を出た。
緋澄は今まで自分の父がいないということに気付かなかった。彼女から聞くまで、父が毎年スウェーデンに行っていることも知らなかった。
映画館の前を通った時、興味もわかなかったのに何となく入ってみようという気になった。
映画館の前には白い服を着たブロンドの女が水辺でひっそりと佇んでいるポスターが貼ってあったが、その女優の名も知らなければ映画のタイトルすら聞いたことがない。しかしそれは並べられた他のポスターも同様で、緋澄は白い服を着たブロンドの女の映画を見ようと思った。
上映時間を確かめると次の上映まで随分時間があることが分かり、緋澄は二つ並んだ自販機の横にある二つ並んだベンチに向かった。ひとつは空いており、もうひとつにはギターを抱えた若い男が座っている。
少し眠い。
このままだと映画館で眠るかもしれないと思いつつ、目を擦って空いている方のベンチに近付く。それからすぐそこにある自販機で珈琲を買おうかどうか少し悩んだ。自販機は二つある。
自販機を見たつもりだったが、緋澄の目に映ったものは自販機の横にある、ごく普通の小さな靴屋だった。
店頭には様々な色や形や材質の靴が並べられており、その中央にはワゴンがあって流行りモノのサンダルがごちゃごちゃと放り込まれている。小さな靴屋で客が入っている様子はなく、また店員の姿さえ見当たらなかった。
別に靴が欲しかったわけではない。ただ緋澄はあのベンチに座るよりも、この靴屋に入ってみようと思ったのだ。
入って左が男性用だ。綺麗に並べられてある多種類のブランドものスニーカーを眺めながら奥へ進むと革靴のコーナーになる。こちらはあまり売れてないのか、陳列の仕方が少し雑に見えた。
サイズを確かめ茶色の靴を手にしてみる。明るい色合いのその靴は、思ったよりもずっと軽かった。隣の靴を持ってみる。趣味の悪いサラリーマンが履くような靴だったが、それもかなり軽かった。どうしても納得がいかないような気がして、緋澄は陳列されている靴を次々と手にし重さを確かめ、そして店内で一番重い靴を買った。
靴を買うとそのまま履き替え店を出る。もう映画を観る気にはならず、緋澄はそのまま歩き出して苅田に会いに行った。携帯をかけると近くのファミレスにいるとのことだったので、そこまで歩いて行く。新しい靴は少し歩きにくかった。
ファミレスで苅田は友人達と一緒に珈琲を飲んでいた。苅田の隣に座っていた男は緋澄の姿を確認すると正面の席に移る。緋澄はいつものように苅田の隣に腰を下ろし、小さな息を吐いて手を額に当て目を閉じた。
先程感じていた眠気がまた襲ってくる。
苅田とその友人達は何か話をしている中、緋澄はそのままうとうとしていた。
「緋澄」
熟睡に入る寸前に声を掛けられ目を覚ます。
「お前、なんでそんな靴履いてんだ?」
中年男性が好みそうなデザインのその黒い靴は緋澄には全く合っていないし、そもそもサイズが大きすぎている。ここまで来る途中に何度も靴が脱げそうになったことを思い出しながら、緋澄は自分も視線を落として靴を見た。
「重い靴を履こうと思って」
緋澄の言葉に苅田は目を細める。
「何でだ?」
その問いには答えることができない。自分でも何故急に重い靴を履こうと思ったのか分からない。
黙っている緋澄の手を引いて苅田が立ち上がる。
「重い靴、買ってやるよ」
引かれるまま緋澄も立ち上がり、何も分からぬまま店を出た。
それから二人で重い靴を求めて街を歩き回った。苅田は最終的に5足の靴を緋澄に買い与え、緋澄はそれを履くようになった。
8月半ばに苅田の姿が消えた。
ただの旅行だったようで夏休みが明ける前には戻ってきたが、その間は所在確認の電話も全く無く、緋澄は何の色も匂いも感覚もない弛んだ時間を過ごした。
「何をしてきたの?」
セックスが終わり、動かない自分の身体をベッドに沈ませ緋澄は訊ねる。
「別に。苅田建設の何とかパーティーとやらに出ただけ。大抵はホテルでごろごろ寝てた。ああ…レイブに行ったな」
苅田はベッドの脇に転がっているティッシュを取ると、片手で自分の腹に付いている緋澄の精を簡単に拭き取り立ち上がる。
「シャワー浴びるぞ。起きろ」
腰に手を当て日に焼けた厚みのある苅田の身体を眺めながら、緋澄はぼんやりと苅田のいない日々のことを思い出していた。
重い靴を履いている自分に声を掛けてきた幾人もの男達、女達。
もし彼等について行ったならば、どうなっていただろう。
突然いなくなって突然帰ってきて、それが当然とばかりに自分を抱く苅田を見つめながら、緋澄は乾いた砂に流されているような感覚に陥った。誰もいない…以前は紺野が側にいたのに、もう自分以外誰もいない灼熱の流砂。苅田に買って貰った重い靴を履いて歩いているのに、自分の足跡はどうしてもつかない。歩いても歩いても、自分の足跡は跡形も無く流れては消えていく。