第10章 水が溢れる音
大きな戸惑いと強い不安、冷たい孤独の中で日々が続く。
緋澄は最近…いや、もう思い出せぬほどずっと前から寝不足が続いていた。いくら寝ても寝たりない。部屋の温度はどれだけ変えても常に暑く、そして常に寒かった。寝苦しい夜だけが繰り返し繰り返し続き、それは学校の教室でも屋上でも自分の部屋でも同じだった。
11月が始まる寸前、緋澄は真田と一緒に中庭の芝生の上で枯草色の虫の狩りを見物した。枯草色の虫が足の欠けたバッタを捕まえると、カリカリと小気味好い音を立ててそのバッタを食べ始める。
最近ずっと冷たかった身体が反逆を始めたかのように熱を持ち、追い討ちをかけるような太陽の日差しの下で緋澄は眩暈を感じていた。
食べられていくバッタの身体。カリカリと音を立てる枯草色の虫。
足の欠けたバッタの身体から赤い肉が見えるが、人間のように血が溢れるようなことはない。それなのに、その音だけがやけに現実的に耳にこびり付く。
緋澄はそんな枯草色の食事を見ながら、もし自分が苅田に喰われたら同じようにこんな音がするのだろうか、やはり血は出ないのだろうかと考えていた。
「喰われればいい」
緋澄の呟きは緋澄にしか聞こえないはずなのに、隣にいた真田が僅かに反応する。しかし真田はその呟きがはっきりと聞こえなかったのか、緋澄に軽く視線を遣っただけで何も言わなかった。
「喰われればいい」
緋澄はもう一度呟くが、真田はやはり何も言わなかった。
学校裏の林から飛び立った鳶が空を舞いながら鳴いている。
喰われればいい。
自分の身体もこのバッタのように喰われれば良い。剥き出しの牙に肉を裂かれ、跡形も無くなるほど喰われたならばどれほど――――。
だるさも眩暈も孤独も不安も快楽もない世界。
しかしいざ想像してみるとやけに胸が痛んだ。胸は痛むのに、何故胸が痛むのか分からない。痛みの理由を思い出そうとしても、どうしても分からない。思い出そうとしているうちに、胸の痛みもどこかへ消えていく。
そんな痛みなんて元々なかったかのように。
緋澄は毎晩携帯を握って眠るようになった。もうずっと苅田に抱かれていない身体は時折思い出したように熱を帯びたが、それもすぐに終わり今度は凍えつくような冷たさが身体を覆う。それが何度も繰り返され緋澄をいつまでも苦しめた。
今でもたまに、突然携帯の着信音が鳴る。緋澄は握っていた携帯を耳に押し当て息を殺して苅田の声を待つ。どこにいると訊ねられ、家にいると答える。何をしていたのかと訊ねられ、寝ていたと答える。それで終わる短い会話。
苅田は緋澄に冷たくするわけではなく、普段と何も変わらない。屋上に出て二人で時間を潰す時もあれば、放課後一緒に帰ってそのままどこかで食事をする時もある。緋澄が身体を寄せれば苅田は支えるし、苅田が緋澄の手を引いて歩くこともある。金色の髪を撫でることも、指で唇に触れることさえも。
それでもセックスはなかったし、緋澄も苅田に抱いてくれと言えないままだった。緋澄の中にある緋澄の知らない緋澄が、その番号にかけるのを頑なに拒否していたからだ。しかし緋澄自身はそんなことに気付かず、ただ虚ろに手の中にある携帯を感じながら毎晩静かに眠りにつく。
そんな中、学園祭が始まった。
いつも遅くに登校する緋澄を当日は実行委員会の砂上が電話で起こし、寒くて寝不足な緋澄は学校へ着いてからもずっとウトウトしていた。
他校の女子生徒がマイクを持ってアップテンポな曲を歌い、他学年や他クラスの生徒が入れ代わり立ち代り顔を出しては騒いでいる。教室は暖かく、時折漂ってくるほどよく焼けたバタートーストの匂いや珈琲の香りが緋澄を更に眠くさせた。
着物に着替えさせられた緋澄は何をするわけでもなくただ椅子に座り、うつらうつらと夢を見るか空空とカラオケの舞台を見やっているかのどちらかだった。沢山の女子生徒に話し掛けられるも、その声や内容の違いが分からず、いったん目を閉じると永遠と同じ人間が同じことを繰り返し話しているような錯覚に陥り、少しだけうんざりした。
休憩の度に藍川が着物の崩れを直してくれる。優しげでありながらも芯の強そうな藍川の目を見て、緋澄は何となく彼女の頬を指の腹でツンと触れてみた。人形のように生気のない顔をして眠るか、周りの人間の話を聞いているか聞いていないか分からない顔をしているか、もしくは小さく欠伸をしながら苅田に寄り添っている緋澄しか見たことがない藍川は酷く驚き大きく目を見開いたが、すぐに人懐っこい笑顔を見せ負けじと緋澄の頬を指で突付いた。
教室では接客をしている深海の楽しそうな声が聞こえる。カラオケの舞台で歌っている2人組みの少女達、砂上の声、騒がしい人々の声、藍川の瞳とその指の感触。緋澄以外の人間は全て生き生きとし、今を楽しんでいる。緋澄からすればそれは、ゲームセンターでシューティングゲームをして遊ぶ子供達を眺めたり、10分ほどの短いニュース番組でどこかの国の戦争の映像をチラリと見たりするのと少し似ていた。
学園祭初日の騒々しさからようやく解放されると、緋澄は誰にも告げずこっそりと教室を出て、暖かい空気から逃れるようにそのまま階段を上り屋上へ向かった。
外は風もなく、東の空からは今まさに赤く大きな月が昇ろうとしており、冷え冷えとした空気だけが肌にしみこむようだった。鉄柵に凭れぼんやりと月を見上げていると、背後から足音がする。振り向くまでもなくそれが誰なのか分かった。
「寒くねーのか?」
横に並んだ苅田の声に首を振る。苅田は月を見上げることもせずその場に座り込み、柵に背を預けて煙草を取り出し火を点けた。
はしゃぐ生徒達の声が校庭から聞こえ、緋澄も腰を下ろす。煙草の煙が空に消えていくのを見ながら、苅田の腕に身体を寄せた。
苅田が何も言わないので、随分と黙ったままだった。日が傾くにつれ気温がどんどん低くなるのを肌で感じる。
遠くの空にある厚い雲を眺めながら、明日は雨かもしれないと緋澄は思った。
半分ほど吸った煙草を下のコンクリートで揉み消してから、苅田が指で緋澄の頬に触れる。
「藍川」
「……え?」
突然の苅田の言葉に緋澄は多少呆気に取られた。苅田はそんな緋澄を見てクスリと笑い、頬に触れる指を僅かに動かす。
「藍川にこうやってたろ」
ああ、と納得し緋澄は少しだけ頷く。だから何だろうと言いたげな視線を苅田に送ったが、苅田は何も言わなかった。
触れた指が頬から顎を伝っていき、そしてまた頬に戻る。じっとしていると、大きな手のひらが包むように頬に添えられた。ジンと身体が熱を持つ。
苅田の口元は今日もやはり笑っている。どうしてこの男はこれほど余裕があるのだろうと、緋澄は少し不思議に思った。例え明日がどうなろうと、自分がどうなろうと、この男はこうして笑みを浮かべているのだろうかと。
苅田の顔が近付く。
思わず顔を叛けようとすると顎を掴まれた。
「嫌がるな」
苅田の声に心臓がトクンと音を立てる。
嫌がっているわけではなかった。ただ不意に、毎晩携帯を握って寝ていたことを思い出して胸が詰まった。
苅田の唇の感触に目を閉じる。何をされているわけでもないごく普通の口付けに身体が震えた。そっと苅田の上着に手を伸ばし力を込めて握ると、苅田の手が顎から離れて身体の線をなぞりながら着物の裾に押し入ってくる。
緋澄はもう一度携帯を握りながら眠っていた日々を思い出していた。そして苅田が今、こうして何事もなかったかのように気紛れで自分を抱こうとしているのかと思うと、冷たい河の底に沈んでいくような感覚に陥った。
「苦しい」
緋澄の呟きは緋澄にしか聞こえない。
いつの間にか帯を解かれ、ゆっくりとしたセックスが始まっていた。這うような手が足の付け根を撫で、はだけた襟から厚みのある舌が胸元へ落ちていく。
「緋澄」
苅田の低い囁きが水に浸透し、沈んでいく自分の身体を包み込んでいく気がした。身体の奥から強烈な熱が溢れてくる。
「なぁ」
「…なに?」
汗ばんだ肌。
徐々に荒くなっていく呼吸。
「なぁ…潤」
「……な……に」
「潤…」
セックスが始まれば完全に思考は止まる。
一度精を吐いてその滑りを借り、苅田のペニスを受け入れれば尚更だ。快楽の中を漂う緋澄が携帯を握りながら眠りについた日々を脳裏に浮かべることなどなく、ただひたすらに苅田にしがみつき快感を追った。
薄暗い夕闇の中で女のような白い肌を晒し、苅田の指を咥え喘ぎ声を殺しながら身体を震わせる。
身体の中にある苅田のペニスが硬さを増しそのまま射精する。しかしセックスは終わらず、そのまま焦らしているとしか思えない苅田の愛撫が始まる。身を捩り背に爪を立て急かそうとする緋澄を、苅田は愉しんでいるようだった。
再び苅田が入ってくる。緋澄は息を飲んでそれに堪える。
溶けていくような意識の中、緋澄は快楽に濡れた目で苅田を見た。
視線が絡む。
笑みの消えている苅田の口元よりも、その獣の目が緋澄を突き動かした。
喰われればいい。
はっきりと、そう感じた。今までよりももっと鮮明に、どんな透明な河にも流されないはっきりとした感情が、その時緋澄の中に湧きあがった。
苅田が緋澄の首筋に唇を寄せて強く吸う。
喰われれば良い。この男に喰われれば。剥き出しの牙に肉を裂かれ、跡形も無くなるほど喰われたならばどれほど――――。
緋澄の願いを聞き入れるように苅田がその白く細い首筋に歯を立てた時、緋澄は掠れた声を上げながら身体を震わせ精を放った。
「あ。 お前これ、明日も着るんじゃねー?」
久々にしたセックスの余韻に溺れながら何度も口付けを交わしていると、苅田が緋澄の着物に視線を移してそう言った。
緋澄はまだ弾んでいる呼吸を整えようと静かに深呼吸をしながら頷く。
「汚れたら藍川に…ま、藍川はともかく砂上にとやかく言われそうだな」
苅田は苦笑すると身体を起こし、自分の服を着始める。テキパキと自分の身なりだけを整え立ち上がる苅田の足を緋澄は掴んだ。しかし何故自分が苅田の足を掴んだのかよく分からない。
「潤、ちょっとそのままでいてくれ。動くな」
苅田がしゃがみ込んで緋澄の髪に優しく撫でると、緋澄は苅田の足を離す。苅田はそれを見て足早に去って行った。
動くなと言われたのを頑なに守り、緋澄はピクリとも動かず苅田を待った。汗ばんだ身体と下腹部をべったりと濡らしている自分の精、少しでも動けば足を伝いそうな苅田の精。しかし不快感はなく、むしろ緋澄はこのままでいたいと思っていた。
扉が開く音がしたが、現れたのは苅田ではなく深海と岬杜だった。
セックスの痕跡を見た深海に更衣室でシャワーを浴びて来いと言われたが、緋澄は笑みを浮かべそれを拒んだ。苅田に動くなと言われた以上絶対に動きたくはなかったし、今はこのまま苅田を待っていたかった。
緋澄は苅田が戻って来るまで深海に話をしてもらった。生物が見る夢の話をしてもらった。深海は「みんなみんな昔はひとつだった」と言う。苅田も、自分も。
「ひとつだったら良かったのに」
緋澄はそう呟いた。ひとつだったら、苅田が何を考えているのか分かる。何故あの日からずっと抱いてくれなかったのか、何故今日突然抱いてくれたのか、何故口付けをするのか、何故髪をあんなに優しく撫でるのか。
……何故紺野から自分を奪ったのか。
「苅田はどうしてこんなに目立つ場所に跡を付けたと思う?」
先程苅田が歯を立てた緋澄の首筋を、深海は指で撫でながらそう訊ねる。
緋澄の胸のどこかとても奥の方で、水が溢れる音がした。
紺野。
傷。
『側にいろ』
いつも急に鳴り出す携帯の着信音。
『どこにいるんだ』
いつも僅かに甘く、そしてどこかわざとらしいほど冷たい匂い。
暴力的な光。
獣。
『嫌がるな』
浮かんでは消えていくそれらひとつひとつが、緋澄にはとても大切な事のように感じられた。
それなのに、大切な事なのに、緋澄は何も掴めない。