第7章 記憶の綾と目の前の男は

 ポツンポツンと雨が降っている。
 降っていると思えば止み、止んだと思えば降るような不安定な雨が身体のどこかを侵食していくように感じられ、緋澄は小さな溜息を吐きながらバカ騒ぎを続ける街を歩いていた。街のあちこちから毎年この時期になると必ず選曲される音楽が流れ、呼び込みやチラシを配る男達が薄汚れたサンタの衣装を身に着けている。 それらは全て楽しげだったが、随分と雑に見えた。
 苅田の姿は一昨日の夜から見当たらない。どうせまたどこかの女、もしくは男と寝ているのだろうと思い、緋澄は夜の街を一人で彷徨っていた。
 今日はあまり眠くないが、やけに身体が熱い。冷えた外気に触れても身体の芯がフツフツと煮立っているようだった。
 全国チェーンである珈琲専門店で珈琲を飲みながらどこへ行こうかと少し考え、ずっと訪れてなかった街の中央にあるあの公園に行ってみようと思った。最初は紺野に会うかもしれないと思い躊躇したが、それはこの街にいる以上どこにいても同じだと思い直し歩き出す。むしろあの日から一度も会わなかったのが不思議なくらいなのだ。
 公園内は以前と何も変わっていなかった。浮浪者が使っている青いテントや足元に散らばったゴミ、無駄にライトアップされている噴水。緋澄はそれらを一瞥すると、去年と同じようにモニュメントの影に座り自分の足元を眺めながら時間を潰した。
 耳に入る音も一年前と何も変わらない。街がざわめく音、クラクション、罵声、けたたましい笑い声、携帯の着信音、近くの店から漏れるBGM。街の呼吸。
「君、幾ら?」
 違うのは緋澄の方だ。
 足元をじっと眺めていた緋澄は顔を上げ、目の前にいる中年男性に首を振る。
「男はダメ? そうは見えないけど」
 この男に自分はどう映っているのだろうとぼんやり思っていると、ポケットの携帯が小さく鳴り出す。それを機に、男はあっさりと去って行った。
 何の疑いもなく苅田だと思っていたのに、それは全く予想もしていなかった人物…紺野からだった。
『潤?』
 紺野の声はあの日と何も変わっていない。緋澄はその懐かしさに目を閉じた。
『潤、返事しろ』
「うん」
『今どこだ?』
 答えて良いかどうか分からない。分からないから答えることができない。
『苅田は?』
「いない」
『いない?』
「うん」
 携帯の向こうから街の音が聞こえる。
『今さ、あのライブハウスの前にいるんだ。お前も来いよ』
 紺野の声が少し緊張しているように聞こえる。緋澄は紺野の声を聞きながら、紺野と苅田の違いを今頃になってようやく見つけたような気がした。
『来いよ』
 真夏の夜に微熱を出している少年のような声をだす紺野。泣きそうで泣かない強情な子供のような声を出す紺野。機嫌よく歩いていたかと思えば急に怒り出し、自分を殴った紺野。大人びた紺野。屈託なく年相応の笑顔を見せた紺野。
『来いよ潤。…お前に会いてぇ』
 紺野を嫌ったことなど一度もない。あのままずっと一緒に時間を過ごしていくものだと思っていたほどだ。
 しかし返事はできなかった。
 何も言葉が出ないのだ。苅田が紺野から自分を奪ったあの日のように、どうしても言葉が出ない。一瞬胸の奥に痛みが走るも、それはすぐさまどこかに消えていく。緋澄は、深く透明な河に自分がただ流されているだけの夢を思い出した。
『潤』
 紺野の呼びかけに薄く目を開き、携帯を切ってそのまま電源を落とした。
 街はざわめいている。
 公園にいてもそれがよく分かるほど今日の街は浮つき、酒に酔って日頃の鬱憤を晴らそうと試みるサラリーマンのように軽薄でわざとらしく、うんざりするほど下品だ。今日という日を無理やり楽しもうと大声を出し自分達を鼓舞しているようにも見える。
 街がざわめけばざわめくほど緋澄は街を遠く感じ、はっきりしない気だるさに包まれる。それはライブハウスにいる人間の全てが黒いアンプから流れる音楽に酔っている時に、自分だけ壁にもたれて座り込んでいたあの頃によく似ていた。誰も自分に気付かない。誰も自分を見ていない。自分が全ての空間から切り離されているように。
 普段ならばそれを気にすることはなかった。周囲に誰一人として存在しないのではないかと思うその感覚の中でまどろむのが常だったからだ。しかし今日は少し違う。一向に眠気はやって来ず、身体の芯に集まっている熱がずっと燻っている。じっとそれを我慢していたがどうにもならず、熱を逃がしたくて立ち上がり緋澄はまた歩き出した。
 今紺野に会えば、今目の前で紺野が手を差し伸べれば、自分はそのまま付いて行くかもしれないと思った。そして、もしそうなったら苅田には絶対そのことを言わないだろうと何の理由もなく漠然と確信していた。どれだけ問われても、あの目で見つめられても、例え殴られたとしても、去年の今日、苅田に抱かれた事実を紺野には決して言わなかったように、自分は紺野に抱かれてもその事実を苅田には言わないだろうと。
 装飾された街は緋澄を突き放しも抱え込みもしない、いつもと同じ街だった。緋澄はその中をフラフラと彷徨い、時折声を掛けられては緩く頭を振り歩き続ける。
 見覚えのある場所に辿り着く。その閉ざされた灰色のシャッターの前に座り込み目を閉じる。通り行く人々はその寒さを口にするが緋澄はまだ少し熱い。
 冷たい雨がまた降り出す。緋澄は身体の温度を下げてくれる雨を感じながら目を閉じ、深海が歌っていたスカボロフェアを口ずさんだ。深海が繰り返し繰り返し何度も歌ったように、朝まで歌い続けるつもりだった。しかしすぐに口を閉じ、腕で自分の膝を抱え小さくなる。世界から自分だけが消えていくような気がした。
 雨は降り続け、緋澄の髪を濡らしていく。
 通り過ぎていく女達の嬌声や男達の高笑いの中、 近付いてくるひとつの足音があった。
「何で携帯切ってるんだ」
 その声は怒ってもないし呆れてもない。責めてもない。
「今年もサンタが来てやったぞ」
 続く声に緋澄はゆっくりと目を開け、顔を上げる。
「プレゼントは?」
 緋澄の言葉に相手はしゃがみ込み、緋澄と視線を合わせると目を細めた。
「快楽」
 口元に笑みを浮かべ、獲物に牙を立てる寸前のケダモノのような目をしているその男を、緋澄は唐突に憎いと思った。
 紺野がここに来たのなら緋澄は紺野について行っただろうし、それでも良いと思った。しかし去年の今日、この場所で緋澄を拾ったのは目の前にいるこの男だ。だから緋澄はここに来た。無意識のうちにここに来た。
 それにも関わらず、目の前の男を憎いと思った。快楽のみを自分に与えようとするるこの男を。
「お前、やっと俺を見たな」
 男は低く呟きながら手を伸ばし、雨で張り付いた緋澄の冷たい髪をかきあげて左の目元を撫でる。
 胸の奥が軋んだ。
 透明な河に逆らう何かの物音がする。
 傷を撫でる手がゆっくりと動き、緋澄の唇に触れる。
 身体の熱が再び蘇る。
 男の目が微かに揺れた。それを見て、緋澄はこの男に食い殺されたいと感じた。牙がこの身体に刺されば良い。その痛みを感じたいと。

 目の前で緋澄の知らない「誰か」が、この苅田龍司という男を求めている気がした。
 そしてその「誰か」とは、緋澄の知らない緋澄潤自身だった。


 何か変わったわけではない。冬休みが終わっても、緋澄はどうしても起きることができない日は学校を休んだし、苅田も好き勝手に女や男を抱いていた。緋澄の生活リズムは狂いっぱなしで、いつだってひたすら眠くひたすらだるい。何ひとつ変わってなどいない。
 外はまだ春にはほど遠く、時折身体を切るような風が吹く。緋澄は夢の中でそれを感じていた。

 突然鳴り出した着信音に薄っすらと目を覚まし、枕の脇に置いてある携帯を取る。
『どこだ』
「……家」
『何してた』
「寝てた」
『一人か』
「うん」
『そうか』
 それだけの会話。所在確認の電話は一年前よりは随分と減ったが、それでもまだ時折こんなやり取りが行われる。
 緋澄は時計で時刻を確かめ、随分と時間をかけてようやく自宅のベッドから起き上がると身支度を整え外へ出た。
 どこに向かうか少し悩み、マフラーに顔を埋めて深海のアパートへ向かう。電車に乗れば少しは早いのだが緋澄は歩くことを選択し、まだ街路樹の下などに汚れつつも残っている雪を眺めながら一人で歩いた。身体がまだしっかりと目覚めてはいないようで何度か足元がふらついたが、それも最初の10分程度だ。30分も経てば身体が温まり、次第にマフラーもいらなくなる。
 深海の部屋の前に着いた時には身体が熱くなりすぎて、 頭がまたぼんやりとしていた。
 トントンと扉を叩く。 暫くすると玄関の電気が点き、中から鍵を開ける音がした。
「合言葉は?」
 深海のからかうような声に自然と笑みが漏れる。しかし緋澄の口からは何も出てこない。
 深海は扉を開け、突っ立っている緋澄の手を引いて部屋に入れる。部屋の中は暖房で暖められていたので緋澄はコートを脱いでハンガーに掛け、いつものように深海の小さなシングルベッドに横になった。それを見て、深海は部屋の片隅に置いてあるギターを取りスカボロフェアを歌う。
 何度も聴いているはずのその曲は、何度聴いても飽きることがない。
「何か話して」
 身体の熱はまだ引かない。もしかしたら、今日一日ずっと熱いままなのかもしれないと感じながら緋澄は深海に話し掛ける。
 深海はギターを手放し、コタツの中に潜り込んでからどうでも良いようなことを口にする。例えば、近所で見かけた猫の喧嘩の話や昨日岸辺と作って食べた鍋焼きうどんの話など。
「俺的にはすげー美味かったのよ。これ以上なく。でも岸辺は辛い辛いって言うわけ。そーゆーのって凄く好きだ」
 それまで黙って聞いて緋澄は、その一言に小さな瞬きをひとつした。
「だって、岸辺と俺で感じてることが違うってことじゃん? 同じモン食べてんのに美味かったり辛かったり、同じモン見てるのに綺麗だったり汚かったり、同じことをしてるのに気持ち良かったりただ淋しいだけだったり。そーゆーのって、凄く良いと思う」
 深海はコタツの上に顎を乗せたまま喋り、一度大きな欠伸をして子供っぽい仕草でゴシゴシと目を擦る。
 緋澄はそんな深海を眺めながら、深海が作った鍋焼きうどんを食べてみたいと思っていた。
「もし俺がそれを食べたら」
 緋澄の呟きに、今度は深海が黒く光る少し大きな目を何度か瞬かせて首を傾げる。しかし緋澄はそれ以上何も言わない。
「緋澄が食べたら、辛いかもしれんし甘いかもしれんし酸っぱいかもしれんし、ドロドロしてると思うかもしれんし、笑いが止まらなくなるかも」
「何も感じないかもしれない」
 その言葉は緋澄の口から随分とすんなりと出てきた。
 緋澄は思い出す。紺野のことや綾のこと、自分に声をかけてきた男達のことや、その男達が苅田の手によっていとも簡単に体を壊されたことなどを。
 何も感じないかもしれない。
 いつもそうだったように。例え紺野が血を流していても、自分は何も感じることができなかったように。
 しかし憂いを帯びる緋澄の表情を見て深海は緩く首を振りながら身体を起こし、手を伸ばして緋澄の髪に触れた。
「多分、表す言葉がまだ無いだけだと……」
 珍しく深海が言葉を切った。
 深海は今自分が発した言葉に違和感を覚えているようで、少し黙り込む。そして、何度か緋澄の髪を撫で、今度は言葉を選ぶようにゆっくりと話した。
「緋澄は、自分の気持ちや感じ方に対する接し方が、他の人間とちょっと違うのだと思う」
 深海の言いたいことは緋澄にはよく分からなかった。だが先程子供のように大きな欠伸をしていたこの男に、何故か抱かれたいと思った。何故抱かれたいと思ったのかは、分からないけれど。
「深海は触覚」
「ん?」
「深海はオレンジジュース」
「甘いの?」
「違う。100パーセントの」
 緋澄が少し笑うと深海もクスクスと笑った。そして緋澄の額に自分の額を合わせ、もう一度クスクスと二人で笑った。スキンシップが全てセックスに関係してきた緋澄はその後に起こることを胸のどこかで僅かに期待したが、深海はそれ以上なにもしなかった。


 何か変わったわけではない。緋澄はいつだって眠くて、苅田はいつだって口元に笑みを浮かべている。深海は子供のように笑い、時に驚くほど大人びた表情で物事を摂受する。時間はゆっくりと流れ、緋澄は透明な夢を見る。

 2月の日曜、緋澄は深海と共に苅田の家に訪れた。
 広い庭を歩き、苅田が生活している離れに向かう途中でその本人に会った。
「よぉ」
 深海が手を上げると苅田も同じように軽く手を上げそれに応える。
 苅田の周りには4頭の大型犬が大人しく座っており、苅田の指示を待っているところだった。4頭とも毛並みがよく、手入れが行き届いていることがよく分かる。更に近付いてみると4頭の他にもう1頭、引き締まった他の犬とは違いやけに愛嬌のある小さな雑種が他の犬の影に隠れている。
「バンさん元気ぃ?」
 深海がその雑種に気がつき手を伸ばすと、バンと呼ばれた犬が嬉しそうに尻尾を振り、差し伸べられた深海の手を舐めた。
「バンさん、苛められてない?」
 深海が犬の頭を撫でながら苅田に尋ねる。
「まさか。深海ちゃんから引き取った犬なのに」
 苅田は笑いながら深海の腰に手を回す。
 深海がいると苅田はほとんど緋澄を見ない。
 苅田の目に映っている深海を見た時、緋澄は小さな孤独に襲われた。


 2年に進級する前日、その日はまだ少し寒く、どんよりとした重い雲が空に蓋をしていた。
 緋澄は先ほどまで眠っていたせいか少しだるいのだが、それよりもやけに身体が冷えており少し震えながら苅田に会いに行こうと街中を歩いていた。
 この街はいつだって変わらない。何も変わらない。
 国道沿いの広い歩道に出ると怪しげな外国人や若い女達の露店がポツポツとあり、どの店も似たり寄ったりのアクセサリーや小物を並べて客を待っているし、その反対側には同じようにポツポツとギターを抱える若者がおり、叫んだり喚いたり静かに歌ったりして何かを訴えている。緋澄は小さく震え歩きながら身体が温まるのを待ったが、今日はどうしても寒いままだった。
 ひとつ角を曲がろうとした時だ。緋澄は何かに気がついて足を止めた。
 自分でも何に気がついたのか分からない。頭に浮かんだものはそのまま記憶の隅へと追いやられてしまい、緋澄はそれを追うようにして辺りを見渡した。
 ビラを配る若い女。行過ぎる中年の男達。路上に止めてある車。信号。その隣に街路樹。その下に……。
 緋澄はギターを抱えているその男にようやく気付き、少し戻って彼の前にしゃがみ込んだ。
 男と目が合う。
 緋澄が彼を正面から見たのは初めてだったし、 ましてや目を見たのも初めてだった。
「久し振りだな」
 今まで一度も口を利いたことはなかったが、男は緋澄を覚えていた。彼はステージで歌っている時もバンドの仲間が音を合わせている時も、一度も他の誰かを見ているようには見えなかったのだが。
 何故自分を知っているのかを緋澄は少しも不思議に思わず彼を見て訊ねた。
「今日、ライブは?」
「ねぇよ。バンド、解散したんだ」
 男は何の躊躇いもなくそう答えた。
 緋澄は口を閉じて男を眺める。 彼は10代の少年のようにナーバスな目をしていたが、顔立ちは生活と時間に追われ疲れきっている中年男性のように見えた。
「お前があの店に顔を出さなくなった頃に、ちょっとしたイザコザがあってよ。それで結局解散した。 元々俺は他のメンバーと上手くいってなかったから別に良いんだけどさ」
 男がギターを抱え、指先で少しだけ弦を弾いた。高い音が一度だけ鳴る。
「お前、最初は女かと思った。綺麗でまだガキな女だと。お前見て曲作ったこともあるんだぜ?」
 いつも壁際に座り込みぼんやりと彼等の演奏を聴いていた緋澄の曲を作ったのだと、男は少し笑いながら言う。緋澄は彼等の曲を思い出したが、彼はいつもボソボソと何を歌っているのか分からないという記憶しかない。
「歌って」
「嫌だね」
 男はきっぱりと断り、ギターを抱え直す。
「でもそれ以外の曲だったら、お前のために一曲だけ歌ってやる」
「じゃあ『爪を立てると』って歌詞がある曲」
「俺の曲じゃねーヤツをリクエストしろ」
 緋澄は口を閉じ少し考える。彼の曲ではなく緋澄がよく知っているのは。
「スカボロフェア」
「良いだろう」
 男は頷き、何度か弦の調節をしてからスカボロフェアを歌いだした。
 しかしそれは緋澄の知っているスカボロフェアではなかった。深海が弾き歌うその曲とは違い、男が弾き歌うスカボロフェアはあまりにも孤独な曲だった。美しさの質が違う、とでも言えば良いのだろうか。深海のような柔らかさがなく、精神的な不安と孤独しかない。
 男は歌い終えると、またギターを抱え込んで緋澄を見た。
「俺、明日ここを出るんだ。多分もう一生オメーとは会えねーな」
 そう言うと男は立ち上がり、緋澄の髪に少し触れた。緋澄は何も言わず頷くと、立ち上がって男の顔をもう一度見る。
「じゃあな」
 ギターを持って歩き出した男を見て、緋澄も背を向け歩き出す。苅田がいる場所まで歩き出す。
「俺の足は汚れてると思う?」
 数歩進んだところで緋澄は急に振り返り、そう訊いてみた。
 以前、綾に訊ねたように。
 男も振り返り、緋澄を見る。
「汚れてねーよ。だってお前は――…」
 あの時の記憶が鮮明に蘇り、緋澄は耳を澄ます。あの時はその後の言葉が街の騒音に掻き消されたのだ。しかし綾の口の動きはしっかりと見えた。
 そして今、目の前で、記憶の中に佇む綾の唇と男の唇が完全に一致する。

「歩いてないから」

 記憶の綾と目の前の男は、ハッキリとそう言った。





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