第6章 その歌には終わりがない
桜の花弁はとうに散り、藤の季節も過ぎた雨あがりの校庭からは、初夏の匂いが漂うようになっていた。
学校の屋上では苅田と深海が煙草をふかし、髪を少し切った緋澄がぼんやりと空を見上げている。空に鳶が円を描いているのが見えた。
「鳶か」
緋澄の視線に気付き、苅田も空を見上げる。
「鳶が鷹を産むって言うけどさ、鷹ってのはそんなに凄いのかね。俺は鳶も凄いと思うけど」
「俺の母ちゃん鷹とオトモダチだけど、鷹はやっぱ凄いよぉ。綺麗だし早いし賢いし。でも俺も鳶は好きだけどね」
「お前の母ちゃん鷹師?」
「いや、ただ鷹とオトモダチな人」
深海が煙草を消し携帯灰皿に入れた。
グランドでは3年のジャージを着た生徒達が、棒高跳びをしている。
「深海ちゃん、次の授業なに?」
「体育。ぜってー参加する!
俺は今日、次の体育のためにガッコに来たんだもん」
拳を握って一人気合を入れている深海を見て、苅田が目を細めた。苅田は深海をとても気に入っている。
苅田も緋澄も、深海春樹と出会ったのは高等部へ上がってからだった。中等部の頃とあまり変わらない生徒達の中、彼はどこからかこの学校に進学して来たのだ。そんな生徒は少数派だが決して珍しいわけではなく、別に彼が何か突拍子もないことをやらかしたわけでもない。ただ初めて会った日…それはこの屋上だったが、彼はとびっきりの笑顔で苅田を魅了し、そしてこう口にした。
「指名ナンバー25。ハルコ15才でぇす」
苅田はその日のうちに彼と意気投合し、すぐさま彼を溺愛するようになり、そしてそれは現在でも変わらない。変わったのはいつの間にか彼を性の対象として見るようになった苅田の視線だけだ。
苅田は紺野から緋澄を奪ってからも、何ひとつ変わらなかった。自分の好きな時に緋澄を抱き、自分の好きな時に気に入った人間を口説き、自分の好きな時にそれらの人間を抱く。その好き勝手し放題の様は外見同様かなり紺野に似ていた。しかし外見同様似て異なる。
「今さぁ、黒いマント着たひょろっこい太陽がやって来て、『今から生理休暇取るから』って言ったら俺マジで泣く」
小さな携帯灰皿を胸のポケットにしまい、深海はグランドを見て真剣に言う。
「それは、太陽に生理が来たからマジで泣くわけか?」
「太陽に生理が来たら赤飯炊いてやるぜ。でも次の授業は体育だから」
「じゃ、風邪気味だから早退させてって言ったら?」
「ダメダメ。次は体育だから」
屈託のない顔で笑う深海を苅田が引き寄せ膝に乗せる。ずっと苅田と深海の会話を聞いていた緋澄は、その隣でまだぼんやりと空を眺めていた。空を舞う鳥を。
苅田に抱かれるようになってから緋澄の身体に変化が現れた。それは目に見えるものではなく緋澄自身気付かぬ微妙な変化だった。例えるなら、今の今まで葉を齧っていた虫が体内で知らぬ間に蛹になる準備を始めているようなものだ。そんな緋澄の変化にいち早く反応したのは他でもなく全く見ず知らずの赤の他人だった。紺野といる頃は緋澄に声をかけるのはライブハウスの常連客だけだったのに、最近では所構わず声をかけられる。しかもその大抵は男だ。同年代の男からもうとうに年金で生活しているだろうと予想される年配者まで、様々な男達に声をかけられる。
「幾ら?」
彼等は欲望に正直だ。そしてその欲望にはいつも金銭が絡む。
緋澄はそんな男達の相手をもうずっとしていない。拒んでいる理由と言えば、彼等自身の肉体への配慮だけかもしれぬ。何せ相手がどんな人間だろうと苅田は容赦をしなかった。普段から口元に笑みを浮かべ余裕のある態度を浮かべている苅田は、その余裕を保ったまま、何の躊躇もなく他人の身体を壊すのだ。
桜が咲く前、まだ緋澄が苅田のことをよく知らなかった時期に初老の男に付いて行ってホテルに行ったことがある。金が欲しかったわけではなく肉欲でもなく、ただ誘われたから付いて行ったのだ。白髪の混じった自分よりも随分と背の低いその男の後を歩き、緋澄は市内の大きなホテルの一室に入った。先にシャワーを浴びるかと問われ、頷いてバスルームに向かった時に携帯が鳴った。苅田からだった。どこにいるのかと訊ねられ、黙っているともう一度訊ねられる。それでも黙っていると苅田の声がひとつ低くなった。
「早く答えろ」
その声にどうしても逆らうことができず、ホテル名を言った。部屋の番号も。苅田が携帯を切ったので、緋澄は何も考えずバスルームでシャワーを浴びた。そして身体につけた泡を綺麗に流し終え部屋に戻ると、そこには既に初老の男はおらず苅田が悠然と座っていたのである。
こんな例は稀だった。その後も緋澄は何度も見ず知らずの男達から誘われたが、ある男は苅田に歯向かいあっさりと腕を折られ、ある男は肩の関節を外された。これらは全て緋澄の目の前で行われ、緋澄は奇妙な方向へ捩れている彼等の腕や肩を見ながら、彼等のために彼等の欲望の誘いを断るようになったのだ。
声をかけてくる男達と寝たことは何度かあった。しかし苅田は頻繁に緋澄の携帯を鳴らし、そのつど緋澄のいる場所へと足を運んだ。そして無言で相手の身体を壊した。その行為にどんな理由があるのか緋澄には分からない。ただの独占欲かもしれないし、自分の所有物に手を出されたという怒りなのかもしれない。
苅田は緋澄に「側にいろ」とだけしか言わなかった。「側にいろ」と。そして緋澄が自分の側にいない時は、必ず頻繁に緋澄の携帯の着信音を鳴らす。緋澄が「もう寝る」と言うまで、その所在をはっきりさせる。緋澄はそんな苅田からのコールを無視したことはない。無視する理由がなかったのだ。
紺野と苅田は確かに似ていた。その笑みもその身体も。しかし苅田と紺野はいつもどこか違っている。
声をかけられそれを断るのが面倒になった頃、緋澄は常に苅田の側にいるようになっていた。苅田の目の届く範囲にいればそんな面倒は起こらないからだ。そうするうちに緋澄は苅田の周りにいる人間からも認められ、傍目からは緋澄は苅田のオンナとなっていった。緋澄の美貌とその独特の雰囲気から、緋澄が苅田のオンナとして選ばれるのは周りから見れば当然のように思われたのだ。
緋澄がそんな状態の中でも、苅田は苅田で着々と自分の生き方を確立していった。彼は同年代の高校生の中でも最も大人びており、元より大きかった身体も同じように大人びていく。彼の生き方を象徴するセックスの面でもここ数ヶ月で大きく変わった。元々かなり選り好みする性質だったが更に相手を選ぶようになり、しかも相手の外見に見向きもしなくなった。彼が気に入る人間の中には美しい女もいれば美しい男もおり、周囲が引くような中年男性もいれば一見そこいらにいるただのオバサンの時すらあった。
だがそれらの中でも緋澄だけは特別だった。苅田は緋澄だけを常に自分の手の届く範囲にいさせたことや、緋澄だけは他の人間と違い、「苅田の方から」何度も携帯がかかってくることなど。
ただし、緋澄本人はそれに気付かない。
新学期が始まる。
その日はもう秋の気配がしており、澄んだ風の吹く日だった。
緋澄はいつものように学校の屋上で苅田の隣に座り、小さな欠伸を連発して時間を潰していた。苅田の隣にはこれまたいつものように深海が座り込み、足をブラブラと揺らしながら煙草をふかしていた。
「深海ちゃん」
苅田が深海の腰に手を回すと、深海は全く抵抗せず引き寄せられるまま彼の特等席である苅田の膝に乗る。
「なぁに〜?」
苅田の膝の上に乗ると深海はいつもわざとらしくはしゃぎ、わざとらしく甘ったれた猫のような声を出す。彼は苅田の性欲に気付いていたし苅田がどんな人間なのかも分かっていたが、それでも自分だけは絶対に喰われない、喰われるつもりはないという強い自信とはっきりした意思があった。
「深海ちゃんっていつも何考えてんの?」
「俺はいつも、体育の授業には何でゲートボールがないのだろうかとか、学校の帰り道でバッタリ宇宙人に出会ったらまずどんな音楽を聴くのか訊ねてみようとか、ある日突然全ての女の子ちゃん達のオッパイが6つになっちゃったらどのオッパイから揉もうかとか、子供の頃は桃の缶詰が好きだったのにどうして一度もお小遣いで買わなかったんだろうかとか、そーゆーことを結構真剣に考えてマス」
「結構真剣に考えてマス」と言うわりには深海の目は笑っている。
緋澄は隣でウトウトしながら深海の話を聞き、このままそんな夢を見れたら良いなと思った。深海が考えていることをそのまま深海のように自分自身が考えている、そんな夢を見れたらそれはどんな幸福な夢だろうかと。何となく、緋澄は深海が羨ましかったのだ。
深海には不思議な力があった。その手に触れられると、緋澄は苅田に抱かれている時のように「イキモノ」になるのだ。「イキモノ」もしくは「ナマモノ」。苅田がその指や唇で緋澄の身体を変えてしまうように、深海も緋澄の身体を変えた。雨ざらしになって忘れられている石像に深海が触れると、手が触れた部分から血の通う本物の人間になっていくような感じだった。
それと、深海は人の感情が薄っすらと読めると言う。それがどんなものなのか緋澄には見当もつかないが、深海が他人の嘘が直感で分かるのだと言うと、それは不思議とすんなり納得した。深海に嘘は通用しない。それが当たり前のように感じていたのだ。
「苅田はどんなこと考えてるのぉ?」
「深海ちゃんのことを毎晩結構真剣に考えてマス」
苅田の口調に深海が足をバタつかせ楽しそうに笑う。
「夜と朝?」
「勿論。あと、下半身が勝手に元気になった時とか」
楽しそうな二人の会話を聞きながら、緋澄はウトウトしつつも何故か完全には眠れないでいた。眠たいし、少し日光が強すぎるが風が涼しく過ごしやすいしでいつもならすんなりと眠れるはずなのに、今日はどうしても頭のどこかが起きている。
目を開けると苅田と目が合った。その目が何かを言っている。
「深海ちゃん、携帯貸して」
緋澄は苅田が何をするのかすぐに分かった。自分も紺野とのいざこざがあった翌日に同じ台詞を言われたからだ。
深海が首を傾げながら携帯を取り出し、苅田に渡す。深海の腰に手を回したまま苅田は片手で携帯を操作すると、すぐに深海に返した。
「俺に抱かれたくなったら、こっちの番号で呼び出せ」
今入れた番号を見せながら苅田が薄く笑う。その言葉や笑い方まで緋澄の時と同じだった。笑い方だけではない。目も同じだ。何事にも余裕のあるその瞳の奥にギラギラと燃えている肉欲やケダモノのような攻撃性、それと同居するように存在する全ての物事の価値をまるで認めていないような冷めた瞳。
緋澄の胸がトクンと小さな音を立てた。その自分の鼓動にどんな意味があるのか理解できないまま、緋澄は二人を見ていた。
深海は携帯を一瞥すると、小首を傾げたまま苅田を見ていた。苅田とは違い、存在する全ての物事を認めてそれを真っ向から受け止めるように、真っ直ぐに深海は苅田と見詰め合った。そして充分苅田の瞳を覗き込んだ後、深海は苅田に何かを挑むように笑みを浮かべた。深海の揺らぎない自信がそこに凝縮されているような笑みだった。
苅田がそんな深海を見て喜んでいるのが分かった。苅田の瞳には深海しか映っていないことも。
緋澄の胸がまたひとつトクンと音を立てる。
緋澄はその番号を鳴らしたことはない。何故なら一人でいる時は苅田の方から頻繁に電話がかかってくるし、緋澄の性欲よりも苅田の性欲の方がずっと勝っていたからだ。
そしていったん苅田とのセックスが始まると、それは麻薬のように緋澄を夢中にさせた。そこには緋澄潤という生きた人間が存在し、普段どこかに潜んでいる本能というものを完全に解放することができる、解放してもらえる唯一の時間だったから。
呼吸が荒くなり身体の内面から出る熱に浮かされ、女のように高い声を出す。果てることがない苅田の性欲に犯されるように何度も抱かれる。
苅田はセックスに関わることならばどんなことでもした。ありとあらゆるセックスをした。緋澄はただ言われるがままに身体を動かし、意識を失うまで本能のまま快楽を貪り尽くすだけだった。
「潤」
その名で呼ぶのは紺野だけだ。
「…ん」
緋澄は夢うつつに掠れた声で小さく返事をした。
先程までのハードなセックスに、身体が酷く疲れていた。意識もはっきりしない。
「お前って俺の名前知ってるか?」
知ってる。知らなくて殴られたから、漢字も覚えた。
「……鳥の鷹にオスの雄」
そうだろ?
頭の中でそう呟きつつも、緋澄の身体はまだまだ睡眠を欲している。尽きることなのない湿気った睡眠欲にいつまでも身を任せていると、どこか遠くの薄暗い森の中に一人の色の白い女性を見たような気がした。緋澄は森に佇む彼女を見つめながら、どうしてかそれが自分の母親だと確信していた。
女性は裸足のまま歩き出し、森を彷徨い湖に辿り着く。白い腕がすっと上がり、どこかを指差す。何を差しているのだろうとそちらに視線を向けようとした時、はっきりと声が聞こえた。
「緋澄潤」
目を開けると横で苅田が緋澄を見つめていた。その視線には暴力的な光が混じっており、緋澄は息を飲む。
「俺はな、緋澄。俺は苅田龍司だ。紺野鷹雄じゃねぇ」
まだ混乱している頭を抑えながら緋澄は頷く。知っている、分かっていると苅田に言い訳するように。
苅田は黙っていた。緋澄は先ほどまで感じていた眠気を忘れ、苅田の返事を待った。次に苅田が口を開くのを待った。しかし苅田はそれ以上何も言わなかった。
その沈黙に緋澄は途方もない戸惑いを感じた。自分がとんでもない間違いを犯したような気がし、苅田がそんな自分に何を感じているのかがひたすら気になった。
不安。
その感情はそんな言葉になる。苅田の側にいて、初めて味わった不安。
「リュウジ」
小さな声で呼んでみると苅田の瞳が少し揺れる。
「リュウジ」
今度はハッキリと呼んでみる。苅田は黙ったまま緋澄の髪をかきあげ、左の目の脇にある傷を指でなぞった。その目の奥には、苛ついた、冷めた、暴力的な感情が見え隠れし、緋澄の手がどうしようもなく震えた。
自分が何に不安を感じているのか分からないまま、苅田の身体にしがみつく。
「リュウジってどんな字?」
「……龍を司る」
ようやく返って来た声はまだ少し冷たい気がした。
「龍を司る…龍司。もう間違えない。絶対に――」
紺野とは。
そう言いかけたが、言葉は苅田の唇に塞がれた。
紅葉がようやく真っ赤に染まった頃、緋澄は初めて深海のアパートへ訪れた。
深海の小さな部屋は妙に物が多く、それらが乱雑に散らばっている。それは紺野の部屋とも苅田の部屋とも完全に違う種類の部屋であり、完全に違う匂いがした。本当の生活という匂いだったのかもしれない。
眠るつもりはなかったものの、身体を起こしているのがしんどくて深海のベッドに横になる。そのベッドも苅田の部屋のベッドとは違う匂いがした。苅田のように甘くなく、苅田のように冷たくもない。
深海はそんな緋澄を見ておもむろにフォークギターを取り出した。弦を弾いて音を調節し、どこかで聴いたことのある曲を歌いだす。
「それ、何て歌?」
「スカボロフェア」
歌の合間に深海が答える。
静かで物悲しい曲だったが、それ以上に美しい曲だった。
緋澄はベッドで横になったまま深海の奏でるスカボロフェアを無心に聴いた。身体のどこかに流れている透明な河の流れのように、その歌には終わりがないような気がした。そして深海も何度も何度も繰り返しスカボロフェアを弾き、歌った。
終わりのない歌を聴きながら紺野を思い出す。
紺野と過ごした日々。
どこに行くこともなく延々と二人だけで過ごしたあの部屋。
何も見えない明日。
二人で見た夢。
不安定に揺らぐ時間。
紺野はあの日以来緋澄の前に姿を現さなかった。高校進学を機にこの私立から他校へ転校したという話を以前聞いたことがあるが、緋澄はよく知らない。仲の良かったはずの苅田も紺野のことは口にしなかったし、緋澄もあえて訊ねることはしなかった。
「深海」
呼びかけると、音と歌声が止まる。
「俺、今深海を見てる」
「うん」
「見てるんだ」
「うん」
「見てる…よね?」
深海は何も言わない。カタンと音を立てながらギターを壁にたてかけ、ゆっくりと緋澄に近付くと目を合わせた。しかし何も言わない。
「俺を見ろって言われる。
見てるのに。お前は俺を見ないって言われる。見てるのに」
弱々しい緋澄の声に深海は黒い瞳を細め、手を伸ばし金色の髪に触れてそれをすくように撫でた。それから緋澄の頭を優しく胸に抱きこみ、サラサラと流れる金色の髪に口付けする。
緋澄は返事をしない深海の胸に抱かれたまま目を閉じた。髪に口付けられた時このまま抱かれるのかと思ったが、深海はそれ以上何もしなかった。緋澄はそれに安堵したが、ほんの少しだけ残念に思った。そして、自分が深海に抱かれたら苅田はどうするだろうと夢うつつに思っていた。
緋澄はそのまま朝まで眠った。
「ずっと前にテレビでやってたんだけどさぁ、あまりにも透明度の高い綺麗すぎる川には生物は住めないんだって。綺麗すぎるってことは微生物もいないわけだから」
深海の独り言は緋澄に届かない。