第4章 無感覚なまま生きている

 そこは驚くほど透明な河だった。
 流れはそれほど速くはないが、所々力強く渦を巻いている。
 緋澄の身体は河の表面で浮き沈みを繰り返していたが、力なく漂うだけの彼はほとんど死体のようだった。
 彼はじっと空のようなものを見ていた。
 空のようなものはこれ以上なく青かったが、ただ青いだけだった。そこには白く漂う雲もどこかに飛んでいく鳥も小さな飛行機もなければ、底の見えない深さも果てしなく続く広さも、冷たさすらもない。
 死体のように漂っていた緋澄の左手が、小さな水音をたてながら青い空間に向かう。
 だが、そこに空はない。
 紺碧の空に似たモノがあるだけだ。
 それに爪を立てるとガリガリと表面が剥がれ―――

 目が覚めた時、寒さで震えていた。暖かくして寝ているのに、どうしても寒くて目を覚ます。もしくは、暖かくしすぎて暑くて目を覚ます。
 今日もだるい身体を起こし、時間をかけて身体に起きていることを実感させる。ベッドから下りると僅かに立ちくらみを感じたが、そろそろ登校する時間だった。
 学校生活は紺野と知り合ってからも特に変わりはなかった。ただひたすら眠く、ただひたすら疲れる。
 夜遅くまで紺野と二人で夜の街をうろつき、朝目覚めて登校する。緋澄の睡眠時間は今までの生活とは打って変わって随分と短かったが、それでも何か変わったという実感はなかった。時間は知らず知らずのうちに流れ去っていき、残るものは気怠い意識だけ。声をかけてくる女と寝て精を吐き虚ろな時間を過ごす。

「どんどんダメになる」
「何がだ?」
 顔を上げると、最近少し機嫌の悪い紺野がスタイニーボトルのビールを差し出していた。瓶を受け取ると、紺野が隣に座る。
「何がだよ」
 紺野がもう一度訊ねるが、緋澄はやはり何も答えない。答えられない。何がどうダメになるのか、自分でも分からないからだ。
 緋澄は足を伸ばし、壁に背を預けてステージを見ていた。そこには数名の男達がライブを始める準備をしていた。
「最近眠れねぇんだ」
 紺野は数日前苅田に言った言葉を同じように呟いたが、そこにはどこかわざとらしい響きがあった。緋澄が黙ってステージ上の男達を見ていると、紺野が身体を寄せてくる。緋澄が手元の小瓶に視線を落とすと、顎を持たれて紺野の方を向かせられる。
「眠れない」
 同じように言う紺野の口元にいつもの笑みはなかった。緋澄は何も言えず、長い前髪の奥から紺野の視線を受けているだけだった。
「最近眠れねぇんだ」
 紺野は手を離さない。緋澄は黙って視線を逸らした。
「聞けよ」
「聞いてる」
「夢の中のお前は、俺をちゃんと見る。俺を見てくれる」
 紺野の責めるような口振りに緋澄は視線を戻す。しかし何について責められているのか分からない。
「現実のお前は俺を見ない」
「見てる」
「見てねーよ」
 紺野の顔が近付く。どこか切羽詰ったような紺野の視線を感じながら、緋澄はただぼんやりと紺野の唇の温もりを感じた。女とは違う、力強く厚みのある舌の感触。ビールの苦味が残る唾液。
「嫌がらねぇんだな。それは夢と同じだ」
 唇を離した時には、紺野の口元に笑みが戻っていた。

 ステージでは男が沈んだ声でボソボソと歌っている。
 緋澄は紺野の隣で彼らの曲を聞いていた。紺野はしきりに緋澄の髪に触れ、緋澄の肌に、唇に触れていた。何度か小さな口付けもした。
 緋澄はずっと聞き取れない歌を聴いていた。今日聞き取れたのは、『無感覚なまま生きている』『足が汚れてる』、それだけだった。
 ライブが終わると紺野は緋澄の手を引き外へ出る。
「俺ん家来る?」
 いつものように自分の呼びかけに反応しない緋澄の手を引いたまま、紺野はタクシーに乗り込み夜の街を後にした。
 緋澄はずっと黙ったまま、窓の外を見ていた。 紺野はずっと緋澄の手を握っていた。

 紺野の家は駅の近郊にある大きなマンションの8階だった。鍵を開けて部屋に入ると、手招きをして緋澄を呼ぶ。
「親はずっと帰って来ねぇんだ。オヤジはずっと出張…多分女んトコだろう。オフクロも同じく多分男んトコ」
 まだ扉の前で突っ立っている緋澄の手を引き玄関に入れるとドアを閉め、紺野はその場で緋澄を抱きしめた。緋澄は苦しいほど抱きしめられ、その次に苦しいほど口付けられる。目を閉じ力を抜くと、紺野が少し喜んだような気がした。
「潤」
 囁きに目を開けると、互いの唇から唾液が細い糸を引いていた。それを舐めとるように紺野はもう一度緋澄に小さく口付けたが、緋澄は瞬きをひとつしただけだった。
 紺野の部屋にはこれといって特別なものはなかった。窓には黒いブラインドと壁にはギターを抱えた男のポスター。本棚には雑誌と数冊の参考書。ベッド脇には真っ黒なベースギターがある。
 紺野は部屋に入っても手を離さなかった。電気を消して緋澄をベッドに寝かすと、自分はその上に跨って口元にいつもの笑みを浮かべながら緋澄の服を脱がせていく。紺野の愛撫は決して上手いとは言えないものの、丁寧で優しかった。彼の貪欲な瞳は、不器用ながらも大切なモノをなるべく大事に扱おうと必死になっているようだった。
「なぁ」
 紺野の手が下腹部に向かう。緋澄の足を曲げさせて、奥へ奥へと。緋澄に不快感はなかったが、だからと言って快感もなかった。他人にどこを触られても、それは自分に何の関係もないことのような感じがする。
「なぁ潤」
「なに」
 滑るように指が体内に入ってくる。
「お前は綺麗だな。顔も、身体も、全部」
 紺野は口付けを顎先に落としながら、いつも緋澄の顔を隠してしまっているその長い前髪を片手でかきあげる。緋澄は紺野の手に添えるようにして自分の手を上げ、それから1房だけ自分の前髪を摘んでみた。それは癖のない綺麗な金髪だ。
 母親から受け継いだもののひとつだということがよく分かる髪を眺めながらそれを指に絡めてみたが、癖のない髪はすぐにスルスルと指から離れ顔にかかる。緋澄はもう一度口元まである長い前髪を一房摘んだ。
「どうした」
 じっと自分の髪を眺めていると、紺野が緋澄の鎖骨に唇を這わせながら訊ねてくる。
「髪、少し切ろうかな」
 緋澄の何気ない一言に、紺野の愛撫が止まった。緋澄の首元に顔を埋めたまま紺野はピクリとも動かない。
「……苅田に言われたからか?」
 その低い声に、緋澄は眉を顰め髪を手放した。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。緋澄は自分でも分からない。何故自分が髪を切りたいと思ったのか。
「結局お前にしてみりゃ俺もあの女どもと一緒か。お前にとっちゃどうでもいい存在の一人か。俺も、そんな存在なのか。こんなことしてる合間にも他の男のことを考えることができるような、その程度の存在か」
 紺野は静かに笑い出す。自嘲気味に。
 緋澄は何も言えない。何を言えば良いのかも分からない。そして、何故紺野がそんな笑い方をするのかさえ分からない。
「ふざけんな」
 低い声とともに両足を抱えられ、息を飲む間も拒む間もなく無理やり捻じ込まれた。まだ全くと言って良いほど解されていないその部分に激痛が走り、緋澄は感じたこともないその痛みに身体が急激に冷え目の前が真っ白になる。
「俺はお前の夢を見る。お前の夢を毎晩見る。夢の中のお前は俺を見てくれる。俺にキスする。俺に抱きつく。俺にすがる。俺だけは特別だと言う。俺はお前にキスをする。お前を抱いてやる。お前だけに優しくする。お前だけを大事にする。毎晩毎晩毎晩毎晩、そんな夢を見る。 夢を見ては夢から覚め、夢から覚めては夢を見、俺は毎晩お前のことだけ考える。俺だけなのか。俺だけだったのか! 俺だけがお前を――ッ!!」
 紺野の叫びが遠くから聞こえた。
 身体を裂かれるような激痛の中、緋澄はとても遠い胸のどこかに重い重い痛みを感じたような気がした。それが何なのかじっくり考える間もなく、すぐにそれはどこかまた別の遠い場所に流れてしまう。その痛みが何だったのか、その重みは何だったのか、そもそもその重い痛みが本当にあったのかさえ分からなくなるほどあっさりと。
 紺野が顔を伏せたまま緋澄の真っ白な身体をひたすら強引に貪っている間、緋澄はベッドの軋む音と紺野の荒い呼吸を聞きながら今日聞いた歌を思い出していた。
『無感覚なまま生きている』
 ステージ上の彼は確かにそう歌っていた。

 3日後、紺野はまた緋澄を抱いた。それからは毎晩のように抱いた。
 緋澄にしてみればそれは肉体に痛みを伴うだけで、快感も不快感もない。時折紺野が何かとても重要なことを言っているような気になり出来るだけ慎重に耳をすましてみるのだが、そんな時に限って紺野は何も言葉を発しておらず、ただがむしゃらに緋澄の身体を抱いているだけだった。
 緋澄は紺野を拒まない。拒む理由もない。

「真っ暗な古ぼけた建物の中で宙に浮いてるみてーだ。今廊下を歩いていたはずなのに、気が付くと床がない。そこが何階なのか、俺はどこに向かってるのかも分からねぇ。空中を歩いてるはずなのに、どっかに落とし穴があるような気がして怖くなる」
 そこにどんな意味があるのかも分からないようなセックスが終わると、紺野は急にそんな話を始めた。ベッドの中で静かに横たわっている緋澄には、その言葉の意味よりも紺野の声の方が気になった。彼の声は真夏の夜に微熱を出している少年のようだったから。
「お前はどこにいるんだろう。同じ建物の中にいるような気がするんだけどな。でも多分お前は上の方にいるんだ。俺は宙に浮いてるけど、高い方には行けねぇ。お前が落とし穴に嵌って落ちてこればいいんだけど、お前の足元には落とし穴がない」
 紺野は言葉を続けながら緋澄の髪に触れた。それは精一杯優しくしようと必死になっている触れ方だったが、紺野の瞳は緋澄を憎んでいるようだった。


 いやに空気が冷えている12月初めの夜、緋澄はライブハウスで綾に会った。彼女は最近ずっとここに顔を出していなかったし、自慢げに伸ばしていた長い髪をばっさりと切っていたので最初は誰だか分からなかった。声をかけられ、唇の色と目立つ睫からようやく彼女の名と存在を思い出したのだ。
「最近は随分とモテるみたいね」
 声をかければどんな女にでもついていく緋澄は、この店の常連客の間で何度か話題になっていた。チュウガクセイの、綺麗な人形。それを女達は欲しがっていたのだ。
「私のこと忘れた?」
 緋澄はゆっくりと首を振る。綾はそれを見て満足そうに笑い、何か言おうと口を開ける。しかしその時、ステージ脇の黒いアンプからやたらと大きな音が流れだし、彼女の声は聞こえなくなった。
 今日はどこか有名なバンドのライブなのだろうか、珍しく客が多く、テーブルや椅子は全て撤去されている。客の年齢層はいつもより若干低めで、アンプから流れる音楽はいつもより若干軽め。ボーカルはやたらと元気で凄く楽しそうに歌う女の子だった。
 緋澄と綾は喋るのを止め、黙ってステージを見ていた。一度紺野がやってきて緋澄にビールを手渡したが、いつものように隣に座ろうとせず、興奮している客達の間を縫ってそのままどこかへ消えていった。
 緋澄はその夜、寒くてしかたなかった。熱狂的な客達が汗を流している間も、壁際で静かに自分の冷えた身体を手でさすっていた。綾がそれに気付き、手を差し伸べて緋澄を立たせる。そのまま綾に手を引かれ、緋澄はライブハウスを出て階段を上った。
「足、汚れてる」
 自分の前を歩く綾の足元を見て緋澄がそう呟くと、綾が振り返って笑う。
「何で分かるのよ。私、ブーツはいてんのに」
「違う。綾さんのじゃなくて」
「緋澄君も汚れてないよ?」
 階段を上りきり、綾が不思議そうな顔をしながら緋澄の足元を指差した。それも分かってると言うように緋澄は頷く。
「誰の足が汚れてるの?」
「そういう歌があって、今思い出した」
「……今日は随分と喋るね」
 珍しい、と付け足し、綾は緋澄の右手を持ってまた歩き出す。
 夜の街は今日も喧騒に包まれている。酒臭いサラリーマン達、たむろしている若者達、ここで何をしているのか見当もつかない学生達、同伴の男と腕を組んで歩いている美しい女達。様々な人間。
「足が、汚れてる」
 緋澄がもう一度口にすると、少しだけ前を歩いていた綾が振り返った。
「私、その歌知ってるよ」
 綾の言葉に緋澄は俯いていた顔を上げた。
「知ってる?」
「知ってるよ。よくあの店でライブしてる、ちょっと変わったバンドの歌でしょ」
 彼等の曲を聞いている人間は確かにいた。熱狂的なファンとまではいかないが、彼等の沈み込むような音楽を愛している人間は確かに存在した。しかし綾が彼等の音楽に興味があるということはどこか不自然な気がしたし、綾が彼等の曲を聴いているということが緋澄には上手く飲み込めなかった。
「彼等って何て名前なの?」
「ん? バンド名? ―――――よ」
 丁度聞きたい部分だけ、目の前を通り過ぎて行った単車の大きなエンジン音に掻き消された。緋澄はもう一度訊ねようと口を開いたが、今度は数台の爆音。道路を見ると道を蛇行している数台の単車。何となく、緋澄は訊くのを止めてしまった。
 そのまま手を引かれて歩き、信号で立ち止まる。
 風がやけに冷たく、緋澄は小さく震えていた。
「私の足は、きっと凄く汚れてる」
 綾が独り言のように呟く。
「私の足はきっと泥だらけ。誰よりも泥だらけ。きっと泥が酷くこびり付いちゃってもう綺麗にならないな。汚くて暗くてジメジメしてて、虫とか動物の死体が一杯埋まってる泥沼をいつまでもずっと這いまわってるから」
 冬の夜、意味のないぎらついたネオンが街を覆っている中で、シンプルな信号を見ながらそう言う綾を緋澄はじっと見ていた。もしこのまま二人だけだったならば、信号が青になっても彼は動かず綾を見ていただろう。
 しかし実際には、後ろから紺野の声がして緋澄は綾から目を逸らした。
「綾」
 紺野の声は明らかに怒りに満ちており、綾自身は何が起こったのだろうかと不思議そうに目を見開いて後ろを振り返る。
 緋澄は何となく俯いた。
「潤とどこ行くんだ」
「どこだって良いでしょ? 紺野君って不思議な子ねぇ。人を誘った次の日にはもう知らん振り。それでいて忘れた頃に急に尾行? あれ、もしかして私じゃなくて緋澄君を尾行?」
 綾は少しだけ笑っていた。緋澄は笑わないで、綾の足が汚れている話を何度も思い返していた。
「潤、来い」
 ひったくるように緋澄の左手を奪い、紺野は不機嫌なまま歩き出す。緋澄の身体が傾くと、綾はあっけなく掴んでいた緋澄の右手を離した。
 紺野の手に引かれて綾から自ら遠ざかって行く。
 紺野の手。
 紺野の歩調。
 ここまで緋澄を探して走って来たのだろうか。紺野の少し上がった呼吸と手から伝わる僅かな温もり。
「綾さん、俺の足は汚れてると思う?」
 数歩進んだところで緋澄は急に振り返り、そう訊いてみた。
「汚れてないわ。だって貴方は―――――
 綾の唇がはっきりと見えた。だが綾の声はバンド名を訊ねた時と同じように、街の騒音に消されてしまった。

 紺野はその夜、何も言わなかった。
 緋澄も黙ったまま紺野に抱かれた。
 紺野の手だけが懸命に緋澄に話し掛けていた。


 イヴの夜、街はいつもよりずっと派手な装飾をして人々を薄っぺらく歓迎していた。
 その日の緋澄は紺のハーフコートに赤いセーター、ジーンズという普段と変わらない服装で街に出て行き、いつもの公園で紺野を待っていた。
 身体の熱い夜だった。コートを羽織っていると熱い。 しかしコートを脱ぐと寒い。
 公園の噴水は数日前から無意味にライトアップされており、緋澄は光を避けるように黒い石のモニュメントに近付き、その影に入った。大通りの方からは今日も車の行過ぎる音と人声が溢れている。
 自分の靴をぼんやりと眺めていると、よく知った足音が近付いてくる。
「メシ、喰いに行かねぇ?」
 その時の紺野の声は普段と何も変わらなかった。
 ただ、薄く笑う口元も、緋澄を見る目も、歩く速さも、時折携帯を気にする仕草も、全てが少しだけ楽しそうだった。
 紺野は駅の方に向かっていく。 緋澄はその後を歩きながら、何度か眩暈に襲われた。
 熱すぎる。自分の身体が、今日はやけに熱い。
 何度かコートを脱ごうかどうか悩み、それでも紺野を見失わぬようそのまま歩いて行く。ふと小さな溜息が出た。
「んだよ」
 先程まで少しだけ楽しそうにしていた紺野が振り向き、いかにも不愉快そうに眉を顰める。緋澄は紺野が何に対してそう言ったのか分からなかった。
「紺野君」
 その時女の声がし、紺野はまた前を向く。前方で見知らぬ女が手を振っていた。緋澄はそれを見ながら目元を擦った。
 熱い。熱くて、今日は少し眠い。
 女はチラリと緋澄を見ると紺野に近付き、紺野の腕を取って自分の腰に回す。何かねばっこい声で紺野に話し掛けている。紺野は一瞬緋澄を見たが、緋澄はまだその場で突っ立って目を擦っていた。
 糸を引くような女の甘ったるい声。街に溢れるアルコールの匂い。汚れている道路。無意味なイルミネーション。いつもよりも興奮気味な街のざわめき。
 紺野がまた緋澄を見る。まるで様子を伺うように、一瞬だけ。
 緋澄はその視線に気付かなかった。朝から続く身体の熱を持て余しながらも、どこか彷徨っているような浮遊感を感じている。
 女が顔を摺り寄せ、紺野の耳元で何か囁いている。紺野は口元に笑みを浮かべながら女の赤い唇に口付けをし、また一瞬だけ緋澄を盗み見る。今度は緋澄と目が合う。緋澄は身体の熱と浮遊感から小さな欠伸をしていた。
 その時だった。紺野は絡みついている女の腕を引き離し、緋澄に近付くと何か大声で叫んだ。行き交う人々が一瞬だけ足を止め二人を見たが、すぐにそのまま通り過ぎていく。
 何が起きたのか分からなかった。ただ、緋澄はいつの間にか道端に倒れていた。左頬がジンジンする。
「嫉妬くらいしろよ」
 紺野の搾り出すようなその低い声にどんな意味があったのか、緋澄には分からない。だが、頬ではなく胸のどこかに重い重い痛みが走った。
 踵を返した紺野はそのまま強引に女の腕を引き、人ごみに消えていく。
 緋澄は黙ってそれを見送った。

 これだけ多くの人がいるのに、全員が知らない人間ばかり。
 殴られた時に切ったのか唇が痛み、それを髪で隠すように俯いて歩いた。
 誰も知らない場所に行って、誰も知らないベッドで眠りたい。誰の声も届かない場所で、誰にも見られることなく。
 気が紛れるまで彷徨うだけ彷徨い、そろそろ足が痺れてきたところで煙草の自販機を見つけ、その影に隠れるように腰を下ろした。後ろには閉ざされた灰色のシャッター。足元には投げ捨てられた煙草の吸殻と空き缶、コンビニの小さなビニール袋、誰かが落とした安っぽいライター。
 このままここで眠ろうと目を閉じ、後ろのシャッターに背をあずける。家には帰りたくなかった。このまま家に帰って自分のベッドでは寝たくないとぼんやり思っていた。ここで、人々の足音に自分の存在を消してもらおう。
 足を曲げ、その上に腕を組んで顔を乗せる。
 誰にも気付いてほしくない。いや、ここならば誰も気付かないだろう。こんなにも人々の足音がする。街の喧騒が聞こえる。ここならば、自分は消えることができる。紺野が何に対して怒ったのかすら分からない自分を消してくれる。そうすれば、夢も見ないくらいゆっくり眠ることができる。
 自販機に小銭を入れる音がした。でもきっと、煙草を買おうとしている人間も自分の存在には気付かないだろう。
 カタンと煙草を出す音。
「緋澄じゃねぇか」
 誰にも気付いて欲しくなかったはずなのに、緋澄はその声に顔を上げた。
 目の前には苅田が立っていた。





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