第3章 歌の続き
『Angst…Angst…Angst…Angst…Angst…Angst…Angst…』
男はその夜も張りのない沈んだ声で歌っていた。低音ばかりがやけに耳につく暗い彼等の曲は、知らず知らずに沈んでいく泥舟で泥川を流れ、いつの間にか生暖かい泥の中に完全に埋没する錯覚を起こす音楽だった。店内にいる客のほとんどはいつもどこか少し適当で、彼等の熱狂的なファンとは言えないにしても彼等の音楽に同調し、その深みに嵌っていくのを自堕落に楽しんでいる様子だった。
緋澄はその夜も紺野と共に店に訪れ、彼等の生暖かい泥に体を浸らせていた。いつもの壁際に腰をおろし、足を投げ出して目を閉じる。どこかで誰かと話していたはずの紺野がビールを持って来て緋澄に手渡し隣に座る。二人でずっと長い長い曲を聴く。これが最近のパターンだった。
何をするわけでもなく何を話すわけでもないのに、緋澄は夕方近くに目覚めると街中にある小さな公園まで行き紺野と落ち合い、この店で時間を潰す。あの公園で初めて紺野と出会ってから、そんなことが何回か続いた。それは約束しているわけではなかったが、緋澄が公園に行くと紺野は必ず現れたのだ。そして「潤」と呼びかけてきた。
ある夜緋澄が公園で時間を潰していると、いつもよりずっと遅れて紺野がやって来た。そして緋澄に携帯を買えと言ってきた。今までの緋澄には携帯は必要のないものだったが、その夜からあまりにも紺野が買えと言うので緋澄は携帯を買った。友人がいない緋澄の携帯には紺野の番号しか登録されなかったし、勿論紺野からしか掛かってこなかった。紺野はそれを知って子供のように屈託なく笑った。
それからは毎晩のように着信音が鳴った。「潤」と、紺野は呼びかける。緋澄は起きられない日は起きられないと素直に断り、行ける日は行けると答え公園に向かった。そしてこの店に訪れた。
この店ではライブを行うバンドもジャンルも様々だった。その日によって客層が随分変わったが、緋澄と紺野には関係ない。しかし今ステージで演奏している彼等のライブが緋澄は一番好きだった。彼等はこの店で最も頻繁にライブを行うバンドのひとつだったが、人気があるのかないのか分からない不思議な存在だ。
「彼は……」
曲がやたらとスローテンポになった時、隣から若い女の声がした。何となく目を開けてみると、紺野の耳元に口を近づけ何か喋っている髪の長い女がいた。腰までありそうな真っ黒な髪と短くヒラヒラしているスカートが愛らしいのだが、長すぎる睫と口紅だけがやけに浮いている。
緋澄は一瞥するとまた目を閉じた。
その日もずっと、ステージ上のボーカルは何かを呟くだけだった。彼が声を張り上げたのは緋澄が始めてこの店に訪れた時だけで、後は今日のように沈んだ声で虚ろに曲を終えるのが常だった。
「緋澄君」
店を出て階段を上がりきった直後に声をかけられた。声の主は先程紺野に話し掛けていた女だったので、緋澄は思わず前方にいる紺野を見た。それから何故この女が自分の名を知っているのかと思い、その次に意味もなく俯いて小さなため息を吐いた。
「潤君って言うのよね?」
女の問いかけに緋澄は返事をせず、後ろから階段を上ってくる男のために少し端に寄って道を空けた。
「潤君は、これからお姉さんと遊びに行くつもりはないかな?」
紺野は携帯で誰かと話しながらしきりに大通りの方を気にしている。緋澄が歩き出そうと足を踏み出すと、女に腕を掴まれた。
「潤君、とても綺麗な顔立ちね」
女の睫と口紅だけがこの夜の街に馴染んでいるように見え、緋澄は何となく視線を逸らしまた紺野を見た。
しつこく話し掛けてくる女は腕を離さない。緋澄は何を言うわけでも女を非難するような目を向けるわけでもなく、ただその場に突っ立っていた。
「緋澄君」
チラリと女を見る。女は目を細め、緋澄の頬に手を伸ばす。
「ようやく私を見てくれた」
女は些かわざとらしいほど妖艶な笑みを緋澄に送るが、緋澄はただ離して欲しいとばかりに握られている腕を少し振っただけだった。
それでも女は離さない。確かに目の大きな愛らしい女ではあったが、自分が愛らしいことを必要以上に自覚しているようだった。
緋澄が諦めて前方に視線を戻すと、丁度紺野が手を上げて誰かを呼んでいる。紺野の視線を追うと、大通りから一人の男がゆっくりと歩いてくるところだった。赤く短い髪と耳に光る多くのピアス、紺野に似た口元の笑み。
男は苅田だった。学校を休んでいる緋澄は久々に彼を見たのだが、前回見た時よりも更に身長が伸びたようで、それに伴い威圧感も増していた。すれ違う人々は彼がまだ15才だとはとても思えないだろう。
「おせーよ」
紺野が苅田に文句を言った瞬間、緋澄の腕を握っていた女が声を上げた。
「苅田君!」
ぼんやりと苅田を見ている緋澄を除き、その場にいた人々が揃って女を見た。女は緋澄の腕を離し苅田に駆け寄る。
「何で連絡くれないの?!」
「紺野、お前の用件ってこれか?」
「いや、これは関係ねーよ」
「苅田君! どうして私の電話出てくれないの?!」
歩行者は3人を避けるようにして歩いて行く。緋澄はようやく離してもらえた腕を軽く擦りながら苅田が来た方向、つまり大通りに向かって歩き出した。
「潤、帰るのか?」
紺野が呼びかけたので、振り返って少し頷く。紺野はライブが終わってから緋澄を誘って近くのファミレスで食事をすることがあった。緋澄は何も言わず黙って薄いコーヒーを飲んでいるだけなのだが、紺野はそれでも緋澄を誘った。苅田と仲の良い紺野だ。友人ならどれだけでもいるだろう。だが紺野は緋澄を選ぶのだ。しかし今日、紺野が苅田を呼んだとなると、その静かな食事はないだろうと緋澄は思った。
「潤? …って、あれ緋澄じゃねぇか。
お前、いつの間にオトモダチになったんだ?」
聞こえてきた苅田の声に緋澄は何となく息を止めた。
俯いていても髪で顔を隠していても、苅田が自分を見ていることが分かった。
「ナイショ。つか、何でお前緋澄のこと知ってるんだ?」
紺野の言葉に、今度は意味もなく身体が強張る。
「だって同じガッコーじゃん。それに緋澄は…」
「苅田君ってば!」
苅田の言葉を遮った女の声がやけに耳についた。
「あのさ綾ちゃん。俺、お前にゃ興味ねぇんだ。ワリーけど」
緋澄は身体の力を抜いてようやく歩き出す。後ろから女の極度に興奮したような声が聞こえたが、緋澄はそのまま大通りに出て駅に向かった。
通りすがる人々からアルコールの匂いがし、街は更に喧騒に包まれていく。信号につかまり足を止めると、前を通る車の列から吐き出される排気ガスが、生ぬるく身体に触れては去っていく。街は騒がしすぎてその排気ガスに誰も気がつかないのかもしれない。
「潤君」
不意に後ろから声がし、緋澄は大きく俯いた。声の主は先程緋澄の腕を握り、そして苅田に詰め寄っていた女の声だった。
「緋澄君」
先程とは別人かと思うほど女の声は小さかった。緋澄は一息吐き、ゆっくりと振り返る。
「緋澄君って呼ばないと、私を見てくれないのね」
女は笑みを作ろうとしていたが、上手く作れないようだった。苅田に軽くあしらわれたのが余程辛かったのか、それとも余程の怒りを覚えたのか、揺れる女の瞳はたらふく感情を溜め込んでいた。
それから何も言わず女は緋澄の手を持った。緋澄も何も言わなかった。信号が青に変わると、女が歩き出したので緋澄も歩いた。女が右に曲がれば緋澄も右に曲がり、歩調を早めれば緋澄も同じように早めた。緋澄の手をどこか縋るように握る女の手は、ずっと小さく震えていた。
街の中心から少し外れた場所にある小さなレンタルルームで、緋澄は苅田に綾と呼ばれていた睫と口紅が目立つ女とセックスをした。
彼女は部屋に入るとすぐにシャワーを浴び、それを終えるとベッドでうとうとしていた緋澄の横に全裸で座りずっとテレビを見ていた。彼女の身体は思った以上に細く、あばらが完全に浮き出ていたし、胸もほとんどなかった。緋澄がまたうとうとしだすと、彼女は緋澄のズボンを脱がせてフェラチオを始めた。緋澄は彼女の口紅と睫を思い出しながら、ただじっと横たわっていた。
付けっ放しのテレビからは、今日もどこか遠い国の内戦の様子が映し出されていた。アナウンサーが原稿を読み、現地からの報告があり、どこかのゲリラが無反動砲を肩に担いでいる映像が流れている。
女が緋澄の身体を跨ぎ、ゆっくりと腰を下ろした。彼女の膣内は彼女の細い骨ばった身体と違い、とても柔らかで生温い。
「私ね、いつも自分の側に男がいないと生きていけないの。恋愛感情なんてなくていい。とにかく、自分の側に自分が認める男がいて欲しいの。そういう男が自分の周りにいないと、私はムカツクの。悪い? ねぇ、悪い? 文句ある?!」
苅田に綾と呼ばれていた女は、叫ぶように言いながら腰を動かす。
緋澄は何も答えず、腕を伸ばしリモコンを取ってテレビを消した。
緋澄はそれから綾とよく寝るようになった。いつも彼女が緋澄の手を持って歩き出し、ホテルかレンタルルームに入ってセックスをする。いつも半ば一方的なセックスだったが、綾は何も言わなかったし緋澄も何も言わなかった。
綾がいない日は、紺野と食事に出かけた。紺野はあまりにも自分の趣味に合わないバンドがライブを行う日などは、公園で緋澄を拾ってライブハウスには寄らずにそのまま食事に出ることもあった。食事が済むとすぐ別れる日もあれば、一緒にフラフラと夜の街をうろつくこともあった。
10月も半ばになる頃、緋澄は毎日公園に行くようになったいた。
「お前、あの女とつきあってるのか?」
その夜は雨が降っていた。いつものファミレスは満席だったので、その近くのスペイン料理の店に入り、紺野はパエリヤを、緋澄は珍しく珈琲ではない普通の食事を…ブイヤベースを食べていた。
思ったより量が多かったのか、緋澄のブイヤベースはなかなか減らない。
「もう寝たか?」
テーブルの上には小さな皿に盛られたサラダとパエリヤとブイヤベース。
紺野のパエリヤは順調に減っている。注文を取りに来た国籍不明の外国人に2人前だと言われていたが、紺野は一人でどんどん量を減らしていく。緋澄はそんな紺野のパエリヤパンを見てから自分のブイヤベースに視線を戻し、困ったように一息吐いた。
「潤、返事しろ」
紺野が手を止めたので、緋澄も同じように手を止めた。
「寝た」
「付き合ってんのか?」
「分からない」
紺野は緋澄の返答に納得したのか、またスプーンを動かす。緋澄も視線をブイヤベースに戻し、少しだけスープを掬った。
この店には客がほとんどおらず、またBGMも流してないためとても静かだった。料理も本格的で素材も良い。3つ離れたテーブルでは従業員が花瓶から落ちた花弁を拾い、布巾で花粉を丁寧に拭き取っていた。
「これ、喰ってみるか?」
紺野がサフランで色付けされたパエリヤを銀のスプーンで掬い、腕を伸ばして緋澄の口元に寄せる。緋澄は首を振ったのだが、紺野がスプーンを口元に寄せたままじっとしているので諦めて少しだけパエリヤを食べた。
「美味いだろ?」
緋澄は何も言わなかった。
だが、やけに嬉しそうにそう訊く紺野の顔を見て少しだけ笑みを浮かべた。
翌日、緋澄の目の前で紺野は綾を誘い夜の街に消えていった。緋澄はすることがなかったので、そのまま家に帰って眠ることにした。
最近学校に登校するようになった緋澄は夜更かしができない。その日も布団に包まって、冷たい身体を温める間もなくすぐに眠りに落ちた。
ライブハウスで緋澄に声をかける女は多くなり、緋澄はそんな女達とよく寝るようになった。ただし、緋澄と寝た女は翌日、必ず緋澄の目の前で紺野に声をかけられ紺野とどこかに消えていくのだ。緋澄はそんな紺野の行動の意味が分からなかったが、別に興味もなかった。
10月の終わり、いつもように公園で紺野と落ち合い、いつものように紺野の後を付いて歩く。ライブハウスへは行かないようだし、ファミレスの方向でもない。この前のスペイン料理の店だろうかと思ったが、店の前を紺野はあっさりと通りすぎる。しかし緋澄は何も言わずただ紺野の後を歩く。
その夜はやけに気温が低く、緋澄の体温は高い夜だった。
ひとつ角を曲がって信号で止まる。緋澄も足を止める。
「最近、よく眠れねぇんだ」
紺野の声は街の騒音に掻き消され、緋澄の耳には届かなかった。
信号の色が変わり、車が止まる。紺野がまた歩き出したので、緋澄もそれに続く。信号を渡ってまた角を曲がり、また信号を渡りずっと無言で歩いて行く。
どれほど歩いただろうか。地下鉄やタクシーに乗った方が早いと思われるほど歩き続けると、そこは風俗店も多く立ち並ぶ、いつも紺野や緋澄がいる街とは少し毛色の違う街並みだった。いくらか大人びている紺野さえ少し浮いている。
紺野はそれでも歩いていき、誰かに向かってすっと手を上げた。少し歩きつかれた緋澄が視線をやると、今日も学校で紺野の隣にいた苅田が両手を組んで店先の看板に寄りかかりこちらを見ていた。
「待ったか?」
「いや」
緋澄は苅田の声を聞いて、何故か急にライブハウスで演奏していた彼等のことを思い出した。
『爪を立てると……』
この続きは何だっただろうか。無性にそれが気になり、俯いて記憶の中にある彼の歌を思い出そうとする。しかしなかなか思い出せない。
苅田と紺野は会話を続ける。
「睡眠薬持ってねぇ? なるべく強いヤツ」
「珍しい。どうした?」
「眠れねぇ」
「眠くならない方ならあるけど」
俯いて髪で顔を隠していても苅田の視線だけはよく分かった。今、自分を見ている。紺野と似たあの笑みを浮かべながら自分を見ている。
緋澄は苅田の視線から逃れようと紺野の身体に身を隠した。そしてまた、歌の続きを思い出そうとした。
「紺野。お前最近、付き合いわりーな」
客を呼び込む男達の声、ビラを配りながら媚を売る女達の声、様々な店から溢れてくる怪しげな音楽。そんな中でも、緋澄には苅田の声だけがよく聞こえた。
「そんなことねぇよ。それより…」
「緋澄」
紺野の声を遮って、苅田が呼びかけてくる。緋澄は紺野の身体に隠れたまま、じっと息を潜めた。
「お前、髪切れば?」
何の脈絡もない苅田のその言葉に緋澄は驚きながらも、やけに可笑しくて自然に笑みが零れた。紺野は振り返り、そんな緋澄を見て僅かに顔色を変える。
「苅田、俺やっぱ今日帰るわ」
「何だよソレ。オメーの分もチケット買って…」
「ワリーな。そんじゃ、明日」
「ホントに付き合い悪いな。まぁ良いけど、緋澄は置いてってくれ」
「ダメだ」
紺野は苅田に背を向け、まだ歌の続きを思い出せないでいる緋澄の腕を持って歩き出した。腕を引かれ少しよろめきながら苅田を盗み見ると、苅田はやはり笑っていた。紺野とは似ているようで少し違う、何もかもを自分の思うがままに出来そうな独裁者のように冷ややかで余裕をもった笑みだった。
苅田と視線が絡む。
いつも遠くからしか苅田を見ていなかった緋澄は、この日この時、初めて苅田と視線を合わせた。
苅田の目は予想以上に凶暴であり、予想以上に冷たく理性的だった。
苅田は笑みを浮かべたまま、まるで子供にしてやるように優しくバイバイと緋澄に手を振る。
緋澄はそれを見て、もう一度笑みを零した。