第2章 ステージ脇の黒いアンプから

 緋澄潤が2つの時、彼の母親が死んだ。スウェーデンの人だった。
 彼女はとにかく、思わず触れるのを躊躇ってしまうような白く薄い肌と、明らかに他の女性から隔絶された美貌を持っていた。いつも少し俯いてよくできた人形のようにじっとしていることが多かったが、時折見せる憂いを帯びた微笑は、彼女から目を離した隙に彼女があとかたもなく消えてしまうような不安に駆られる儚さがあった。夫の友人達が「彼女はきっと妖精なんだ」と冗談っぽく、しかしどこか真剣な口調で囁き合うほどに。それほど彼女は人間とかけ離れた美しさを持ち、存在自体が美しい夢のようだったのだ。
 緋澄の父と彼女がどこで知り合い、どんな経緯を経て結婚に至ったのかは誰も知らない。ただ作家である緋澄の父が旅行でスウェーデンに渡ると突然消息不明になり、数年後日本に戻ってきた時はすでに彼女と彼女の腕の中で眠る生まれたばかりの息子がいた。周りの人間が知っていることは、それだけだ。
 緋澄の父は彼女が生きている間、まったくといって良いほど仕事を受けず、生活の全てを彼女に捧げた。 彼の生涯で最も満ち足りた、それこそ夢のような日々だったに違いない。
 しかし彼女は突然病に倒れる。夢のような日々はまさしく夢のように短く、彼女は回復に向かうことなく息を引き取る。だが周囲の人間は誰も驚くことはなかった。彼女は人間というよりも白い花に近かったのだ。彼女を知る誰もが彼女の短い命を無意識に確信しており、彼女の死は彼女の美しさからして当然の出来事だと受け止めたのだ。そして、それは緋澄の父親も同じだった。
 彼は彼女がこの世から去ると何かに憑かれたように仕事を始めた。毎日毎日原稿に向かい、寝食を忘れてひとつの作品を仕上げる。
 それは言ってみればただの恋愛小説だった。ジャンル的に言えば、哀しく美しい、ありふれた恋愛小説だった。しかし、低い温度のまま淡々と進む静かな描写のこの作品は、読む者が知らぬ間に数滴の涙を落とし、涙を零した本人もそれに気付かず、読み終えた後も永遠に気がつかない、そんな不思議な作品だった。
 何年も筆を折っていたこともあり、彼がこの作品を発表した当時はそれなりに話題となった。だがそれで終わりではなかった。彼の作品は小さな音を立てて書店に並び、音もなくひっそりとその波紋を広げていく。その波紋はどこまでも広がり消えることはなく、やがて彼と彼の作品はしっかりと人々の心のどこかに存在することになったのだ。それと共に元々高かった彼の評価は不動のものとなり、その後も仕事が殺到。彼は彼女に全てを捧げたように、彼女の死後は仕事に全てを捧げた。自分の小さな息子のことなど、全く見向きもせずに。もしくは意図して見向きせず。
 彼の小さな息子はそんな父親を憎んだことがない。彼は幼子の頃から、父親とはそういう存在なのだと思っていたのだ。どこの家庭でも、父親とはこんなものだと。
 彼にとって家庭とは、ひっそりと静まり返っている場所だ。そこには言葉もなく温もりもなく匂いさえない、ひたすら静寂に包まれる場所なのだ。
 彼はその中で育ち、成長していく。ただただ、ゆっくりと静かに。




 そこは驚くほど透明な河だった。
 流れはそれほど速くはないが、所々力強く渦を巻いている。
 緋澄の身体は河の表面で浮き沈みを繰り返していたが、力なく漂うだけの彼はほとんど死体のようだった。
 彼はじっと空のようなものを見ていた。
 空のようなものはこれ以上なく青かったが、ただ青いだけだった。そこには白く漂う雲もどこかに飛んでいく鳥も小さな飛行機もなければ、底の見えない深さも果てしなく続く広さも、冷たさすらもない。
 死体のように漂っていた緋澄の左手が、小さな水音をたてながら青い空間に向かう。
 だが、そこに空はない。
 紺碧の空に似たモノがあるだけだ。
 それに爪を立てるとガリガリと表面が剥がれ―――

 ヒグラシが鳴いている。
 緋澄は頬に張り付く髪を指でかきあげ、ベッドから身体を起こした。
 だるい。
 どれだけ寝ても寝たりない。疲労とは違う、身体の芯が腐っていくようなもっと嫌なだるさが取れない。息も苦しい。どれだけ深呼吸しても息苦しさは変わらず、自分の周りだけ酸素が薄くなっているような感じだ。小さなため息を吐き、枕元に置きっぱなしの腕時計を見た。時刻は4時半。手を伸ばしてカーテンを少し開き、それが午後の4時半だと確認する。
 1時間少々、緋澄はそのままベッドの上でほとんど何もせずに座っていた。横になればまた眠ってしまうが、かと言ってこのまま立ち上がれば立ち眩みに襲われる。彼はできるだけじっとして呼吸のみを繰り返し、それから自分の両手を握ってみる。強くは握れない。まだ力が入らないのだ。そのままじっと窓の外を見る。どこからか聞こえてくる街の音に耳をすます。今自分は目を覚ましているのだということを、彼はいつもこんなふうに長い時間をかけて自分の身体と頭に教え込むのだ。
 カラスが鳴いている。
 窓を見ると、空はもう真っ赤に染まっていた。
「どんどんダメになる」
 緋澄は小さな声で呟いた。

 彼は今、学校に登校していない。元々休みがちだったのだが中等部に入ってからそれが酷くなり、3年になってからは登校した日は数えるほどになった。そして夏休みが終わった今は登校する気配も見せていない。
 不登校の原因はない。彼はただ、朝に起きることができなくなっていたのだ。いや朝だけではなく、目を覚ますこと自体が苦痛になっていた。できればずっと眠っていたいと、彼はいつもそう思っていた。しかし、寝れば寝るほどだるさだけが残った。何もしない肉体が、何もしないが故にゆっくりと腐っていくようだった。
 それでも時折ではあるが、眠れない日もあった。そんな時はいくらベッドで横になっても眠れず、何年も土の中で眠り、目を覚ましてからは数日しか生きられない昆虫の話を思い出したりした。そして眠くなるまで街を彷徨った。

「どんどんダメになる」
 緋澄はもう一度呟き、肩まである金色の髪をかきあげてからベッドを降りた。少し歩くと軽い立ち眩みに襲われ、ソファーの背に手を置くと目を閉じ体重をかける。数秒後に目を開けると部屋の端にある机の上にうっすら埃が見えたので、それから30分ほどだらだらと部屋の掃除をした。それが終わるとシャワーを浴び、真っ白なTシャツにストレートのジーンズをはいて家を出た。
 緋澄はもうすぐ15になる。年齢のわりには長身であり、その上その血のせいか物憂げな表情のせいか彼は随分大人びて見えた。しかし街の明かりに掻き消されながらも微光を放つ三日月のようなその存在は不思議と印象が薄く、彼の容姿だけがやけに印象深いものとなった。彼は表面だけの存在だった。その内側から感じれるものは何一つとしてなかったのだ。
 緋澄は駅を出るとゆっくりとした足取りで北に向かう。通りには人が多く、仕事帰りのサラリーマンやOL、学生、主婦、学生なのか社会人なのか分からない若者、時間を潰している子供などで溢れていた。緋澄は差し出されるチラシを受け取らず、雑踏の中に紛れる。
 少し進むと、騒がしそうな音がする店から出てきた学生らしい女の子のグループの一人とぶつかり、少しよろけた。
「あっごめ…」
 ぶつかった女の子は驚きつつも言葉を途中で切り、マジマジと目の前の金髪の男を見ると今度は少し嬉しそうに笑い、もう1度言い直す。
「ごめんね」
 緋澄は少しだけ俯き、彼女達が去るのを待った。
 それから、彼女達が出てきた店に視線をやった。そこは小さなゲームセンターで、通りに面して3台のプリクラが置いてある。その少し奥に小学生くらいの男の子が二人、シューティングゲームをしているのが見えた。なんてことはない、ただのシューティングゲームだった。
 緋澄はまた歩き出し、いつもの公園に足を運ぶ。街の中央にある縦長のこの公園は、夜になるとホームレスが集まりベンチを占領するので、緋澄はその公園の端にある目立たない噴水の縁に腰を下ろした。
 緋澄はこうしてぼんやりと足元を眺めて時間を過ごすのが好きだった。
 街がざわめく音を聞く。クラクション、罵声、けたたましい笑い声、携帯の着信音、近くの店から漏れるBGM。街の呼吸。
 やがて意識が薄れ始め、彼は眠らない街の囁きだけを聞く。それは砂漠の中に座っているようだった。いつまでも終わらない砂の音。生命の呼吸など聞こえない。
「緋澄じゃねぇか」
 突然意識が戻り、緋澄は顔を上げて目の前の男を見た。知っている顔だ。同じクラスの……。
「久し振りだな。同じクラスなのに」
 男の口元を見て、緋澄は彼が今年同じクラスになった紺野だと思い出した。下の名前は知らない。
 ほとんど学校に行っていない緋澄が紺野を覚えているのは、紺野が苅田に似ているからだった。苅田とはほとんど話したことはないが、いくら他人に疎いとは言えずっとこの学校に通っている緋澄はその知名度の高さから苅田を知っていたのだ。紺野はその苅田とよくツルんでおり、背格好や口元が似ているせいか兄弟のようにも見え、緋澄は初め苅田と同じクラスになったのかと思ったのだ。出席を取った時にその間違いに気付いたわけだが、そのせいで紺野の名と存在は印象深かった。
 紺野はいつも口元が笑っている。どんな時でも、口元だけは何かを一段上から下瞰してるように笑っている。
「何してんだよ」
 もう一度訊ねられたが緋澄は視線を落とす。鼻先まである前髪と肩まである金色の髪が顔にかかり、意味もなく自分の手を少し握った。
「オイ」
 再度声を掛けられた瞬間、緋澄は垂れていた前髪を掴まれ顔を上げさせられる。紺野はまだ笑みを浮かべていた。
「何してるんだって」
「……何も」
 髪を掴まれ小さく返事をしたが、紺野は離そうとしなかった。普段は俯きがちで学校にも滅多に登校しない緋澄の顔を、紺野は目を細めただじっと見つめている。緋澄その視線を受け止めながら無意識に息を止めていた。
 紺野の瞳の奥には緋澄が今まで見たこともないほど貪欲なものがあった。
「何も?」
 返事をするのが躊躇われた。緋澄は黙ったまま自分の髪を掴んでいる紺野の手首を握り離してくれとアピールしたが、紺野はそれを拒み続けた。
「来いよ」
「どこに」
「どこでも良いだろ?」
 紺野は手を離さない。髪を掴まれ噴水の縁に座ったまま顔を上げていた緋澄は有無を言わせぬ相手の態度を見て、紺野の手首を握っている自分の手に少しだけ力を込めた。
「…手」
「立て」
「……手」
 二度目の抗議でようやく紺野は手を離した。笑みを浮かべたまま。
 緋澄が一度だけ小さく息を吐いて立ち上がると、紺野は軽い足取りで歩きだした。緋澄は俯きながらそれに付いて行く。どこへ行くのかとか、何故こんなことになったのかとかは考えていなかった。
 公園を出て信号を渡って二つ目の角を右へ曲がり、3つ目の角を左へ曲がる。元々歩くのが遅い緋澄が重い足取りで歩いていると、前から来ていたサラリーマン3人組の左側の男と少し肩がぶつかり、互いにほんの少しだけ頭を下げて無言のまま謝った。それからまた歩こうと紺野の後ろ姿を探して前を見る。
 が、いない。先程まで自分の前を歩いていた紺野がいない。緋澄は呆然としてそこに突っ立っていた。
「緋澄」
 名を呼ばれ声の主を探すと、紺野は左斜め前にある雑居ビルの階段から、付いて来ない緋澄を探してか一度上がってきたところだった。
「来い」
 呼ばれるまま緋澄は紺野に近付き、紺野の後を追って地下への階段を下り始める。壁は打ちっ放しのコンクリートで、チラシや剥がれかけたポスターが適当に貼られてあり、階段の端には煙草の吸殻や透明な小瓶などが捨てられてあった。
 地下へ下りると、茶色のドアの横に階段の壁と同じくらい汚れた看板があった。店名はドイツ語のようで読めない。紺野はドアの前で振り返って緋澄を見る。
「お前さ、たったあれだけの距離で迷子になんなよ」
 紺野は笑っていた。それは普段のような口元だけの笑みでなく、屈託のない年相応の笑顔だった。そんな紺野を見て、緋澄も少しだけ笑った。
 店内にはそれなりに客がいた。この店はライブハウスのようで、ステージでは年齢がよく分からない男達がどこか散漫な様子で演奏をしており、客もまた、ただ時間を潰しているだけのような態度で男達の演奏を聞いていた。紺野は店内に入るとスタッフらしき人間と話を始めたので、緋澄は壁際の、周りに誰もいない場所を選んで床に座り込んだ。何席か空いているテーブルがあったが、どうしても椅子に座ろうとは思えなかったのだ。
 反対側の壁に若い男が一人、床に寝そべっているのが見える。緋澄は膝の上に腕を置き、小さくなって目を閉じた。
 どんなジャンルなのか分からないが、低い音ばかりがやけに耳につくその曲は随分と長かった。ボーカルはいるにはいるのだがほとんど歌わず、歌ったとしても何を歌っているのかよく分からない。緋澄は目を閉じたまま夢うつつに男達が奏でる曲を聞いていた。
 ボーカルの男がまた何かを歌っている。低い声で沈んだ張りのない声だ。緋澄はぼんやりと、今顔を上げてステージを見たら、彼はきっと天井と壁の間の角を見て歌っているに違いないと思っていた。たまに単語が聴き取れる。『太陽』『焼け付く』『砂』『裸足』『痛み』。これだけは分かった。その他はよく分からない。
「緋澄」
 呼びかけてくる声に顔を上げると、紺野がスタイニーボトルのビールを片手に二本持ち緋澄を見下ろしていた。緋澄は紺野が差し出してくる瓶を手にし、少し躊躇ってから蓋を開けて一口飲んでみる。だが麦の匂いと苦味が口に広がり、それ以上飲む気にはなれなかった。
「お前さ、なんで学校来ねぇの?」
 紺野は緋澄の隣に座り、明らかに興味の欠けらもなさそうな顔でステージを見ている。緋澄は黙ったまま、いつまでも終わらない曲を聴いていた。ギターの男が手を止め、ベースとドラムだけで音楽は沈んだまま流れていく。
 そしてビールの瓶が少しぬるくなった頃、緋澄は口を開いた。
「彼等本当は、誰にも自分達の曲を聞いて欲しくないんじゃないかな」
 隣で座っている紺野が可笑しそうに笑う。
 ボーカルの男はマイクを持ったままピクリとも動かない。やがてベースの男も手を止め、ドラム音だけになった。
 そして唐突に、何の前触れも無く、ステージ脇の黒いアンプからはっきりと声が聞こえた。

『爪を立てると錆びた鉄が出てきたんだ。錆びた鉄が出てきたんだ。どうしてもどうしてもどうしてもどうしても、いつだって俺と現実は繋がらない』

 男の叫びに似た声に、緋澄は息を飲み瓶を強く握った。
 強烈な眩暈がやってくる。
 それは竜巻のように緋澄を襲い、身体の底に沈殿しているものを全て巻き上げて攫っていく。
「どうした」
 紺野に声にふっと力が抜けた。緋澄は少しぬるくなったビールを口に運び、もう一度麦の匂いと苦さを味わった。
「今、何か思い出しそうになった」
 緋澄がそう口にした時、ようやく演奏が終わった。ライブハウスの客達は最後まで何のアクションも起こさないままだった。
 何を思い出しかけたのか分からないまま壁に凭れる。向こう正面の壁には手書きと思われるチラシやポスターが何枚も貼られ、そのほとんどは汚く汚れ中途半端に破かれていた。
「緋澄」
 紺野の呼びかけに答えぬまま、緋澄はじっと壁を見ていた。
 シンとしていたステージでは次の曲が始まろうとしている。このバンドにはMCというものはないらしかった。
「お前の名前って何? 下の名前」
 ほとんど減ってないビールを手にしたまま緋澄は立ち上がり、座っている紺野を見た。
「帰る。眠いんだ」
「名前」
 紺野が腕を握る。また離してもらえないような気がして、緋澄はすぐに諦めた。
「潤」
「どんな字?」
「潤う」
「潤う潤、ね」
 紺野が笑った。いつものような口元だけの笑みではなく先程のような年相応の笑みでもなく、それは射るような視線と共にある笑みだった。

 緋澄はその夜、朝方まで眠ることができなかった。
 ベッドに寝そべったままぼんやりとテレビの戦争映画を見ていたが、途中でチャンネルを変えてニュースを見た。ニュースの内容は政治家の汚職事件と違法廃棄物問題、どこかの遠い国で内戦が始まったこと等だった。
 意識がようやくぼやけてくるとテレビを消し、小さく吐息をついて目を閉じる。
 眠る寸前、ゲームセンターのシューティングゲームを思い出した。それで遊んでいた小学生も。それから紺野が最後に見せた視線を思い出し、叫ぶように歌っていた男を思い出した。





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