SCARBOROUGH FAIR
第1章 自分の音
秋とは思えぬほど攻撃的な日差しの下で真田の隣にしゃがみ込み、じっとその枯草色の虫を眺めていると、ツガイだと思われる二匹のシジミ蝶が低く低く地面すれすれを楽しむように飛んできた。
「失敗するぞ」
真田は芝生の上で胡座をかき、口元に意地の悪そうな笑みを浮かべてそう言う。
枯草色の虫は体を起こし大きな鎌を折り曲げたままピクリとも動かなかったので、蝶は自分達の敵に気がついていないように見え、そのため枯草色の虫の勝利は目前に迫っているように見えたのだが、それにも関わらず真田の予想通り見事狩りに失敗した。ヒラヒラと忙しく飛ぶ蝶に素早く鎌を伸ばしてみたものの、その素早さを更に上回る敏捷さで蝶は鎌をすり抜け、大急ぎで危険地帯から脱出していったのだ。
「やっぱり」
真田は枯草色の虫の失敗をどこか喜んでいるような口ぶりだったが、ただ単に自分の予想が当たったことが嬉しかっただけかもしれない。
午後の授業が始まるチャイムが鳴っても二人は中庭の芝生に座り込んだまま動かず、今この芝生は真田鮎と緋澄潤と一匹の枯草色のカマキリに占領されている。
あと数日で11月だというのに、何故これほどまでに太陽の光が強いのだろうか。
緋澄は眩暈を感じる。グラグラと、頭のどこかがグラグラと。
「今度は上手くいくぞ。さっきのシジミ蝶と違って今度のは動きが遅い。しかも足がないのがいる」
真田の声は感情そのままに生きて動いているのに、真田の身体は絶対に動かない。この枯草色の虫の小さな…いや、周りの草が自分の身の丈ほどもある大きな世界に入り込んでいるのかもしれない。
それよりも、どうしてこのバッタ達はわざわざ三匹も一緒に来るのだろう。真田が言うように一番大きなバッタの足が一本欠けているが、それと三匹一緒にいるのは関係があるのだろうか。足が欠けているバッタは痛くないのだろうか。三匹とも、側にいる枯草色の虫は見えないのだろうか。
「もうすぐだ」
真田の声が低く、小さくなる。緋澄は一瞬、目の前にいるこの枯草色の虫が真田の口を借りて自分に話し掛けてきたのかと思った。
何も気がつかないのか、それとも自ら食べられに来たのか、三匹のバッタはわざわざ枯草色の虫に近づく。枯草色の虫は先ほどの狩りと同じように素早く鎌を伸ばし、そのギザギザの部分にバッタを引っ掛けた。まず片方の鎌で足が一本欠けているバッタを捕まえ、そしてもう一方の鎌で側にいたバッタを捕まえる。最後の一匹にも気がついていたようだったが、両方の鎌が塞がっているために捕まえることができなかった。
「カマキリ、ようやくメシが食えるな」
真田はさっきまであんなに楽しそうだったのに、バッタが捕まると楽しくともなんともなさそうな声を出した。
枯草色の虫はまず足の欠けているバッタを食べだした。カリカリとバッタの体を齧る音が、やけに大きく聞こえる。緋澄にはその音が聞こえること事体が不思議に思えた。何故こんな音がするのだろうと。
「血が」
強い日差しを見上げ、時折吹く冷たい風に目を細めていた真田が、緋澄の小さな声にまた視線を落とす。
「なんじゃ?」
「血が」
「だから、なんじゃ」
緋澄はそれ以上言わない。真田は胡座をかいてバッタを見ていたが、季節外れの暑さでだるくなったのか、芝生の上に身体を倒し緋澄の膝の上に頭を乗せた。バッタはもう上半身がないが、食べられている腹の部分はよく見える。枯草色の虫が食しているモノは、その色と足の部分でかろうじてバッタと判別できたが、内臓もないも分からない赤い肉片が覗くただの肉の塊のようでもあった。
「血がない?」
真田がバッタの赤い肉を見ながら緋澄の言わんとしたことを予想して言ってみたが、緋澄は返事をしない。
「血は、ないのかの。何せ虫だし。でも赤いの」
真田が独り言のように呟いた時、また冷たい風が吹いた。
カリカリと、バッタを食べる音がする。
緋澄はしばしば深海のアパートを訪れた。深海の部屋は細々とした雑貨で溢れかえっているのだが、それらはひとつひとつがいかにも深海の趣味で集められた物達であり、そしてひとつひとつの雑貨が深海に関連する様々な意思を持っているかのようだったのだ。緋澄にはそれが心地良い。深海に溺れているようで。
その日、深海は緋澄のために子供用のカレールウを買い、随分と甘口のカレーライスを作ってやった。緋澄は非常に小食ながらも出されたモノは一応何でも口にするし、辛口のカレーライスでも文句を言わず食べる。しかし深海は緋澄が一人で自分の部屋に訪れた時に限り、甘口のカレーをよく作るのだ。
カレーライスを食べ終わると、緋澄は深海のベッドに横たわる。枕からは深海のシャンプーの匂いがし、ベッドカバーは柔軟材の匂いがした。緋澄はベッドを独占しながら、食器を片付けている深海をぼんやりと眺めていた。
深海は子供が口ずさむような童謡を歌いながら後片付けを終えると、押し入れの中からフォークギターを取り出し緋澄の足元でギターを弾いた。緋澄が来ると深海は必ずギターを弾き、そして歌う。緋澄ももうこの曲を覚えている。スカボロフェアだ。
「お前見てるとさ、何かこの曲思い出すんだよね。よくあるじゃん、そういうの。カブトムシ見るとスイカ思い出すとか、虫眼鏡を見ていると紙の焼ける匂いを思い出すとか、そういうの」
深海は一曲歌い終わった後でそう言い、言い終えるとまた同じようにスカボロフェアを弾く。
緋澄は黙って深海の静かな声を聞いていた。深海といるといつも不思議に思う。この男は、本当に人間なのだろうかと。本当に自分と同じ生物なのかと。さっきまで一人楽しそうに童謡を歌っていた人間が、今は静かにスカボロフェアを歌っている。まるで別人のようなのに、どこか同じ匂いがする。自分に完全に枯渇しているモノを、この男は溢れんばかりに持っている。
「深海は触覚」
緋澄の小さな呟きは緋澄にしか聞こえなかった。
深海は左手で弦を押さえながら、緋澄のことを考えていた。
自分のベッドに横たわっている肌の白いこの男は、今まで自分が触れてきた人間の中で最も体温の低い生物だった。それは実際の体温ではなく、存在としての体温だ。もしコウモリやイルカの前に緋澄が突っ立っていたとしても、彼等は緋澄をひとつの存在だと気がつかないのではないのだろうか。ただ自分を含め他の多くの人間が緋澄を緋澄だと認める理由は、その存在のなさに対して完全に浮いている美しさだけであって。だから緋澄を見た人間は、緋澄の美しさしか目に入らない。緋澄にはそれしかないからだ。
深海はスカボロフェアを弾きながら、ふと昔読んだ小説の1節を思い出した。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気付いて……という、ひとつの小説の中のたった3行程度の文。深海は何故かそこだけをはっきりと思い出しながらギターを弾いていた。
「緋澄もいつか自分の音に気がつくだろうか。呼吸の音。瞬きする音。何かを喰っている音。物を掴む音。自分の声。自分の靴の音」
緋澄は返事をせず、ただじっと深海に視線を送っているだけだった。いや、それは視線と呼べるものではないのかもしれない。緋澄の瞳は何も見てはいないのだから。
深海は自分のベッドで横になっている美しい男をじっと見つめていたが、暫くするとまたスカボロフェアを歌いだした。