第11章 熱帯雨林の森にヒステリー気味の動物ばかりが集まって
緋澄の時間はゆっくりと流れていく。
それは透明な河のように緋澄を緩やかに運んでいく。
春に深海が変化を見せてから、緋澄は少しだけ変わった。
それは苅田も同じこと。
時の流れだけが変わらない。
浮かんでは沈み、沈んでは浮かび。
足早に通り過ぎて行くサラリーマンをぼんやりと眺めながら、緋澄は自販機の横で足を曲げ身体を小さくして座っていた。街にはクリスマス・ソングが溢れているが、緋澄の黒いヘッドホンからはスカボロフェアが流れ続けている。
コートのポケットにある携帯が着信音を鳴らしていたが、緋澄はずっとそれに気がつかなかった。街頭の安っぽいスピーカーから溢れる音が割れているクリスマス・ソング、耳元で流れるスカボロフェア、車のエンジン音、クラクション、人々の笑い声、怒鳴り声、雑踏。緋澄の携帯はそれらに混じりながら何度か切れ、そしてまた何度目かの着信音が静かに鳴り出す。
緋澄が着信音に気がついたのは、丁度スカボロフェアが終わりに近付いた時だ。ヘッドホンを外しコートのポケットに右手を伸ばし携帯のディスプレイで相手を確かめると、何か考えるようにじっとその文字を眺め、そして通話ボタンを押す。
『潤』
相手の声に緋澄は返事をしなかった。
『返事しろ』
携帯の向こうから届く声を聞きながら、緋澄は左目を手で軽く押さえた。曲げていた足を更に小さく曲げ、携帯の向こうにいる相手から身を隠すように自販機の陰に自分の存在を詰め込む。
『何してた』
俯いた自分の目の前に転がっているのは、誰かが捨てた空き缶と2本の煙草の吸殻。道行く人の声。
『苅田はいるのか?』
「……いない」
ようやく返した緋澄の小さな声に相手は僅かな沈黙を置き、そして静かに言葉を続けた。
『来いよ』
緋澄は左手で押さえた目元を爪で軽く引っ掻いた。視線は空き缶と2本の吸殻から動かない。
『来い。苅田はいないんだろ?』
「いない」
先程と同じようにそれだけ返事をする。
『来いよ。……今日だけだ』
閉ざされた灰色のシャッターに寄りかかり、目元を押さえていた左手で金色の髪を1度だけかきあげて緋澄は何も見えない夜空を見上げた。そこには本当に何もない。星どころか、月もない。立ち並ぶ高層ビルの隙間には、街の灯りを吸い込む夜空と呼ばれているものがあるだけ。
「行かない」
緋澄は小さな声でそう告げると、携帯を切った。
それから右手にある携帯を親指で何度か撫で、またヘッドフォンをしてスカボロフェアを聴き始めた。同じ曲だけをリピートし、何度も聴いた。右手の携帯を離さないまま緋澄は俯き、誰にも気付かれず何者にもならず自販機の陰に潜み目を閉じる。深海から教えてもらったこの曲だけに浸る。
何度も何度も繰り返されるスカボロフェア。
今、緋澄の周りには誰もいなかった。人々の雑踏も今は聞こえない。空き缶と煙草の吸殻が2本。後ろにある閉ざされた灰色のシャッターと右にある自動販売機とその影。どこかに続くコンクリート。そしてスカボロフェア。
「緋澄」
突然彼の領域に入ってきた太い声に気がつき、緋澄は顔を上げた。いつの間にか目の前にしゃがみ同じ視線に下りて緋澄を見つめている男は、手を伸ばしヘッドホンの耳の部分をコツコツと爪で弾きもう一度彼の名を呼ぶ。
「緋澄」
目の前に現れた苅田をぼんやりと見ながら、緋澄は顔を上げて数十分、もしくは数時間前と同じように夜空を見上げた。そして1度だけ魚のような見えない呼吸をすると、視線を戻してヘッドホンを外す。
「今家に真田と暁生が来てる。砂上も。お前も来いよ。アイツらウルセーけど」
サンタと名乗らない今年の苅田は、立ち上がって促すように手を差し伸べた。緋澄は黙ってまた俯く。
「潤」
名を呼ばれると同時に腕を掴まれ引かれるまま立ち上がる。足元がふらつくと苅田の太い腕が腰に回り、倒れそうな身体を支えた。そしてすぐに歩き出す。
「来るか?」
すでに連れて行くつもりで緋澄の手を持って歩き出した苅田は、口元に笑みを浮かべながらそう訊ねる。
「行く」
手を引かれ、すでに歩き出した緋澄はそう返事をした。
気だるい身体を起こし、目を擦りながら時計を見るとすでに昼すぎだった。昨日ようやく長野から戻り、そのまま苅田の家に泊まったのだ。疲れきっている身体を苅田に抱かれ、疲労と快楽の間で漂いそのまま眠りに落ちたらしい。しかしその苅田は眠り続ける緋澄を置いてどこかに出かけたらしく、もうこの部屋にはいない。
ベッドの上に座りまだハッキリしない頭を手で抑えていると、携帯が鳴った。腕を伸ばして枕もとにある携帯を掴んだ時、軽い眩暈がしたのでもう一度ベッドに倒れこむ。目を閉じて通話ボタンを押すと、聞きなれた声がした。
「あのねあのねあのねぇ、苅田は?」
深海の声は楽しそうだ。深海は緋澄と一緒にいる時によく、何か酷くどうでもいいことを話すし、緋澄もそれを望む。それは何の変哲も無い内容であるにも関わらず、その声や内容自体に意思があるかの如く見えないはずの言葉が動く。まるで生きているかのように。
緋澄はクラクラする頭を枕に沈ませ、だるい腰を片手で押さえた。緋澄は信州に行くには行ったが、スキーもスノーボードもしていない。ただ、雪と戯れていただけだ。しかしそれだけでも身体中が筋肉痛になり、その上昨晩苅田に散々弄ばれ、普段に増して動くのが億劫になっていた。
「苅田の携帯繋がんないんだけど、側にいたら換わってちょ」
「……いない」
「んじゃ、お前今日苅田と会う?」
どれだけ寝ても寝足りない。緋澄は毛布を肩まで上げて目を閉じた。
「もし苅田に会ったら、ハルコがバイトの件で連絡希望って言ってたって伝えてチョウダイ。ワカリマシタカー?」
「うん」
緋澄は返事をして携帯を切った。
多分苅田は帰って来ない。携帯が繋がらない時は女の所に行っている時だ。今頃どこかの女とどこかで寝ているのだろう。
緋澄はもう一度時計を見て、自分の家に帰るかどうか少し悩んだ。そして普段以上に重い自分の身体を気だるそうに動かしうつ伏せになると、枕の下に腕を潜り込ませ1度だけ深く息を吸い込み目を閉じた。
「深海ちゃん、また宇宙人に攫われたのか?」
学校の屋上で肌を刺す冷たい風に当たりながら、苅田は煙草に火を付けた。
「今度は地底人かもの。もしくは狼に攫われて今頃狼少年になっておるとか」
返事をした真田はここのところ顔色が悪く更に機嫌も悪かった。先日南と一緒に登校してからはまだマシになったが、深海と岬杜が学校に現れなくなった辺りから真田もまた学校を休みがちだったのだ。
現に今も柵に凭れ、随分と不機嫌な顔で空を眺めている。
緋澄は真田に貸してもらった赤いマフラーを首に巻き、それに半分顔を埋めて苅田に背中を預けていた。昨晩部屋の暖房を強くしていたので暑くて眠れず、今日も一日中睡魔に襲われていた緋澄は今もまだ眠そうに目を細めている。
「お前、本当に何も知らないのか?」
「何をじゃ」
「だから、深海ちゃんのこと」
「だから、ヒジキの何をじゃ」
真田は面倒臭そうに答えながら肩を回したが、この時肩の関節が大きく鳴った。緋澄はその音に驚き、細めていた目を何度か瞬いて興味深そうに真田の肩に注目する。それに気がついた真田は1度だけ緋澄にニッと笑いかけると、今度は首の関節を鳴らす。続いて背中、指等もボキボキと音を立てた。
「深海ちゃんの行方とか」
「知ってたらそれをネタにしてホーミングにファックミー!って叫んで股開く」
「……お前も分からんヤツだな」
苅田は煙草を指先で弾き灰を落とし、また口に咥え直して真田を見た。
目が笑っている。
「お前、まだ岬杜好きなのか」
「好きじゃない。けどたまにムラムラくる」
真田は不機嫌なわりには苅田と南、藤原だけとはよく喋り、またこの時もつまらなそうな顔をしつつしっかりと会話を楽しんでいた。苅田は真田の返答に肩を揺らして笑い、それまで黙って聞いていた緋澄もまた真田のアケスケな言葉に少し笑った。それを見て真田が手を伸ばし、緋澄の髪をまるで子供にしてやるようにイイコイイコと撫でる。
それから真田は眠い眠いと欠伸を連発し、同じように眠くてしかたなかった緋澄とともに家に帰ることにした。途中まで真田の自転車の後ろに乗せてもらい、緋澄は切りつけるような冷たい風から逃れるため、まだ貸してもらいっぱなしの真田の赤いマフラーに口元を覆うようにして駅に向かう。真田は自転車をこいでいる途中、これといって何も話し掛けてこなかった。ただ、緋澄の知らない歌を口ずさんでいた。楽しい歌ではなくスカボロフェアのように静かな歌であったが、その声は通り過ぎていく車のエンジン音や横断歩道が青の時の音、自転車が段差を越えた時の音、その他諸々の街の雑音とは全く違う音だった。例えばモノクロの写真に引かれた赤い線のように。
「マフラー、貸してやる。明日はもっと暖かい格好をして来い」
自転車が駅で止まり緋澄がステップから降りると、
真田はそう言って去って行った。
緋澄は寝不足で軽い頭痛がし、時折立ち止まって呼吸を整えてはまた歩き出す。
プラットホームで立ち止まり、周囲を見渡して一番端にあるベンチに向かいそこで腰を下ろした。冷たいベンチの上で横になり、目を閉じてマフラーに顔を埋める。赤いマフラーは真田の独特な匂いがした。それは決して甘くなく、山の中で感じる草木の匂いに似ている。緋澄は真田の匂いを嗅ぎながら、秋に二人で見たカリカリとバッタを食べる枯草色の虫を思い出していた。食べられていくバッタの赤い肉の色が、やけに鮮明に脳裏に焼き付いている。
「お豆腐の美形君」
今そこで別れたはずのその声に緋澄は多少驚いたように目を開いた。
「やっぱ、お前調子悪そうだしぶっ倒れそうだったし」
真田は訊かれてもいないのに緋澄を追って来た理由を口早に告げ、身体を屈め視線を合わす。
「大丈夫かや?」
緋澄の顔を覗き込む真田自身も顔色が悪く、珍しく目の下にクマがあった。真田は自分のことに無頓着なので気付いてはいなかったが、彼女は元々顔が細く目元がキツイので、寝不足でクマができると余計に顔の印象がキツクなり不健康に見えた。傍から見れば元から色が白く体調が悪くても顔にでない緋澄よりも、今の真田の方がずっと体調が悪く見える。しかし緋澄を気遣う真田の声は誰よりも優しかった。彼女はたまに、ほんのたまにだがこんな声を出す。
「家まで送ってやろう。有難く思え」
真田は笑いながら緋澄の金色の細い髪を撫でた。
「真田の家ってどこにあるの?」
ベンチに横になったままで、緋澄はようやく口を開いた。丁度その時反対の線路に急行が通り過ぎ、緋澄の小さな声はその騒音に掻き消されたように見えたが、真田には聞こえたらしく東北を指した。
「あっち」
「行ってみたい」
「良いけど、チャリでしか行けんからオヌシはまた寒い思いをするぞ」
「行ってみたい」
真田は少し首を傾げて少し考えていたが、
すぐに立ち上がって緋澄の手を引いた。
それから二人はまた駅を出て、駐輪所に置いてあった自転車に乗って冷たい風の中真田の住むマンションへと向かった。
その日初めて緋澄は真田の部屋に訪れたのだが、部屋に到着するや否や緋澄は真田のベッドを独占して眠る。
とても短い夢を見た。
緋澄の隣には誰もいない夢だった。
一人の緋澄には何もない。生きているのか死んでいるのかも分からない自分がそこにいる。
よく知った気配に目を覚ますと、目の前に真田の顔があった。カーテンから漏れてくる街明かりで部屋はそんなに暗くはない。
「夜這いしに来た」
緋澄と目を合わせてもニコリともしない真田は掠れた声でそう言い、緋澄の顔を両手で優しく挟んで顔を近づける。夢から覚めたばかりの緋澄は、近付く真田の瞳を眺めながら何度か瞬きをする。
「真田って、やっぱり暁生にも欲情するの?」
唇が触れ合う寸前に緋澄がボソリと訊ねてみると、真田が一瞬固まった。だがすぐに顔を寄せ、緋澄の冷たい唇を啄ばむ。
「したことない」
緋澄は柔らかい真田の唇の感触に一度目を閉じるも、どうしても気になるとでも言うようにまた目を開け瞬きをする。
「暁生のこと好きじゃないの?」
「大好き。私は暁生マニア」
その言い方に思わず笑みを浮かべた緋澄に、真田がもう一度顔を寄せて覆い被さるように唇を啄ばむと、真田の柔らかい唇はやけに生々しく女の匂いを運んできた。
真田は本当に女なんだと、緋澄はこの時ようやく理解した。普段見ている真田は男でも女でもない、不可思議な生物に見えていたからだ。
温もりのある艶かしい真田の唇が開き、唾液を含んだ舌が緋澄の唇を舐める。その熱に身体の奥がジンと痺れ、緋澄も唇を開き真田の舌を受け入れる。緋澄は、真田をとても気に入っている苅田がこのことを知ったら一体どんな反応を示すだろうかとぼんやり考えた。
緋澄の頬を優しく挟んでいた真田の手が徐々に下にずれ、慣れた手つきで服のボタンを外していく。角度を変えながら深くなっていく口付けに再び目を閉じようとした時、先程見ていた夢が脳裏を掠めた。
――――誰もいない夢。
「ちょっと待っ……」
「断る」
逃れるように顔を叛けた緋澄を真田が上から押さえつける。
「真田、本当にちょっと待って」
「断る」
「大事なことなんだ。今じゃないとダメなんだ。多分、今のうちに言葉にしておかないと俺はまたすぐに分からなくなるんだ」
真田の胸を押しやろうとすると、その手を掴まれる。しかし真田は不機嫌そうに眉を顰めつつそれ以上は何もしてこなかった。
「あのね真田。俺は今、凄く大切なことを思い出したような気がする」
「それで?」
「今突き詰めておかないと、俺はまたそれが何だったのか分からなくなる」
「それで?」
「だから、ちょっと待って」
真田は緋澄の手首を掴んでいるものの、眉間に皺を寄せたままじっとしていた。
緋澄は何度か深呼吸し、今見ていた夢をもう一度思い出す。
「誰もいない夢を見ていた。自分の隣に…自分の側に誰もいない夢。ずっと前の自分を見ているような夢」
一言一言を自分に言い聞かせるように、ゆっくりと緋澄は言葉を口にする。トクントクンと心臓の音が聞こえたが、それが真田のではなく自分の心臓の音だとよく分かった。
もう一度深呼吸し、緋澄は苦しげに眉を寄せ目を閉じる。
「突き詰めないと。さっき感じたことをちゃんと思い出さないと。……何だろう。何を感じたんだろう。夢を思い出して……それで急に……」
鼓動が早くなる。
しかしどうしても思い出したかったその感情は、やはり今日も水に溶け透明な川底へ沈殿していきながら流れ消えていく。緋澄は川底へ潜り込むように息を止めて何とか消え行くモノを探し出そうとするも、河の流れが速くて何も探し当てることが出来ない。
「……ダメだ。やっぱり思い出せない。凄く大切なことだったのに」
小さく呟きながら息を吐くと肩の力が抜け、自分が全身を強張らせていたことが分かった。
「諦めるのが早すぎるぞ」
目を開けると真田が笑っていた。
真田は掴んでいた緋澄の手を離し、隣に寝転ぶ。
「でももう思い出せない。自分で感じたことなのに、もう分からない。ずっとこうなんだ。いつもこんなふうに、大切なモノを見つけてもすぐに分からなくなる。自分が何を思い、何を感じたのかよく分からなくなる。物音がしたと思って耳を澄ましても、絶対に何も聞こえないみたいに」
隣に寝転んだ真田が腕を伸ばして緋澄の頭を胸に抱き寄せ、金色の髪を撫でた。それは深海のやり方と少し似ている。
「私はお前と違って、いつもいつも一杯色んなことを感じる。でもそれは大抵苛々しててムカツク感情ばっかりで嫌になる。例えば、熱帯雨林の森にヒステリー気味の動物ばかりが集まって一斉に喚き散らすような感じで、どの動物が何を叫んでいるのか聞き取れなくなる。耳を澄ましても分からない。分からないから余計ムカツク」
熱帯雨林の森にヒステリー気味の動物ばかりが集まって…と真田が言った言葉をそのまま頭の中で繰り返してみる。
そして、真田は本当に「生きている」のだと思った。シューティングゲームをしている子供や、テレビのニュースで流れる戦争の映像よりも、真田はずっとリアルに生きている。
「真田はいつも不機嫌だけど、俺は真田が好き」
「私もお前が好き」
真田は低く掠れた声でそう言うと、小さな子供を寝かしつけるようにトントンと緋澄の背中を優しく叩く。
広くて何もない部屋に大きなベッド。床に転がっている山の写真集。赤色のカーテン。薄暗いこの部屋の中で、緋澄と真田は別々のことを真剣に考えていた。
真田の温もりに眠くなり、緋澄は目を閉じる。
夢うつつで苅田のことを想った。