最終章 本当はもっと、沢山のものを

 打ちっ放しのコンクリートには、相変わらず薄汚れたチラシやポスターが雑然と貼られてある。誰かが一度全て剥がそうと試みたらしく、糊が付着した部分のみ白く残っているモノも見られたが、その上からまた新しいチラシが数多く貼られていた。
 汚れた階段を下り、 茶色の扉を開けるとスタッフの者が一人、チラリと緋澄を見る。
「チケット……ああ、君、久し振りだね」
 襟元が伸びた長袖のTシャツを着ているその男は2年振りに訪れた緋澄を思い出したようで、親しみのある笑みを浮かべた。
「紺野はもうすぐ来ると思うよ」
 そう告げると、男は奥のカウンターに消えていく。緋澄はまだ閑散としている店内を眺め、突き当たりの壁まで歩いてそこで床に腰を下ろした。
 ステージ上にある黒いアンプからは静かにBGMが流れている。若いスタッフが随分適当に店内の掃除をし、散らかった煙草の吸殻などを集めていた。店内の後方にある小さなカウンターでは、先程の男がビールを運んでいる。
 BGMが変わり、聞き慣れた曲が始まる。知らず知らずにスカボロフェアを口ずさみながら、緋澄は少し俯いて深海を思い浮かべた。彼の柔らかなスカボロフェアを。それから膝を折り曲げ、壁に背を預けて聞き取れない歌を歌っていた男を思い出した。彼の、剥き出した孤独のようなスカボロフェアを。
 彼はよくあのステージの上で歌を歌っていた。何を歌っているか分からない彼は、唐突に叫ぶことがあった。

『爪を立てると錆びた鉄が出てきたんだ』

 今思えば、彼の声は叫びと言うより虚無の混じった悲鳴のようだった。彼は何を思い何を感じ何を歌いたかったのか、どの曲が緋澄の曲なのか、それはどんな曲なのか、彼はいつも何を見ていたのか。
 緋澄はもう一度彼に会いたかった。もうこの街にはいない彼に。

「潤?」
 顔を上げると、呆然とした顔の紺野が立っていた。
「潤…だよな」
 確かめるように呟く紺野に、緋澄は小さく頷く。
 紺野は2年前に比べ、また背が高くなっていた。顔も身長も体格も瞳もまだ少し苅田に似ていたが、顎先に生やした無精髭ともう笑っていない口元があの日からの2年を物語っている。緋澄はあの頃、紺野を随分大人びた15才だと思っていた。しかし今こうして目の前の紺野と比べてみると、過去の彼ははやりどこか子供らしい部分が残っていたように思われた。
「苅田は?」
「いない」
「お前……」
「紺野に会おうと思って」
 まだどこか呆然としている紺野を見て、緋澄は立ち上がる。
「お腹減ったんだ」
 緋澄の言葉に紺野が我に返り、すぐに笑みを漏らす。
「何が喰いてぇ?」
「パエリヤ」
 緋澄がそう言うと、紺野は笑って頷いた。

 国籍不明の外国人が運んできたパエリヤを二人で分ける。
 まだ早い時間帯なので、客は緋澄と紺野しかいなかった。
 大通りに面した雑居ビルの2階にあるこの店はL字形をしている。店内は以前と同じようにとても静かで、テーブルには細い花瓶があり3本の白い花が生けてあった。
「学校行ってるの?」
 紺野に分けてもらったパエリヤをスプーンで掬いながら訊ねる。
「一応行ってる。お前は?」
「一応行ってる。行かないと龍司が……」
「苅田が?」
「携帯かけてきて、『ガッコー』って言う」
 緋澄の言葉に紺野が声を上げて笑った。緋澄はそんな紺野を見て自分も少し笑い、ブイヤベースを取り分ける。
 小さな皿に盛られたサラダとパエリヤとブイヤベース。以前この店に来た時と同じメニューだが、あの時からは互いに少しずつ変わっている。
「紺野は最近何やってるの?」
「別に何も……あ、バンド組んだぜ」
 小さめのジョッキに入ったビールを半分ほど飲んでから紺野が答える。
 緋澄がブイヤベースのムール貝から紺野へと視線を移すと、紺野が片眉を上げて得意そうに笑った。
「じゃあ、あのライブハウスでライブしたりするの?」
「まだムリ。まだ固定客もそんなにいないし、オリジナルの曲も少ないし。それにあの店は一定のレベル超えてないとやらしてくれねぇんだ」
 だったらあのボソボソと歌う彼のバンドも、その「一定のレベル」というものを超えていたのだなと思い、緋澄は少し不思議な感じがした。
「お前は? 最近何してるんだ?」
 紺野の声に、小ぶりのムール貝を口に入れて緋澄は少し考える。
「何もしてない…かな」
「じゃあ、最近何があった?」
「……トモダチが一人、行方不明になってる」
「行方不明?」
「うん。でもそのトモダチ、宇宙人に攫われたりするから探すの難しいんだ」
「宇宙人?!」
 紺野の声が店内に響き、国籍不明の外国人が驚いたように二人を見た。
「お前のトモダチって…」
「普通の子。でも凄く不思議な子」
 一度金色の髪をかきあげ、緋澄は何でもないようにサフランで色付けされたライスを食べていく。紺野はそんな緋澄を見て可笑しそうに笑い、自分もまた小皿の中のパエリヤにスプーンを伸ばした。
 緋澄はポツポツと自分の身の回りに起こったことなどを話し、紺野はそれに相槌を打ったりして会話と食事を進めていく。
「なぁ、潤」
「なに?」
「お前、よく喋るようになったな」
「今日はそんな気分なんだ」
 最後まで残っていたパエリヤを二人で食べ終え、空になったパエリヤパンを店員が片付けて、テーブル上には冷たい水と紺野のまだ少し残っている2杯目のビールジョッキだけになった。
 僅かな沈黙の後、頬杖をついて緋澄を眺めていた紺野が何か思い出すように目を細め、口を開く。
「潤がオトモダチの話をするなんてなぁ」
 その呟きに緋澄は視線を上げ紺野を見つめる。そして、自分にはずっと友達と呼べる人間がいなかったことを思い出した。一人でいた時はそれが当然だったし、紺野と一緒に時間を過ごすようになっても、紺野の友人達とは滅多に話をせず、また紺野自身も緋澄と自分の友人達との間に距離を作ろうとしていた。
 紺野は少し視線を落とし、僅かに苦笑を浮かべながら言葉を続ける。
「俺さ、ずっと苅田に憧れてたんだよ。いつからか分かんねーくらいずっと前から。苅田ってさ、何しててもどこにいても一番目立つじゃん。とにかく一目置いちまうような存在感っていうかさ。でも俺はきっと、苅田のもっと深いところに憧れたんだと思う。アイツの持ってる余裕っていうか、アイツ独特の生き方っていうか。そういうモンに。
お前を取られた時も何か完全に圧倒されたし、だから何か苅田のことスゲー恨んだ。口惜しくて恨んだ」
 紺野は残っていたビールを飲み干し、大きく息を吐く。
 それから緋澄と視線を合わせ、少し笑った。
 紺野は笑みを浮かべたまま、何か試すように緋澄を見つめている。
「俺な、最近よく苅田と会うぜ。知ってたか?」
「知らない」
「やっぱり。何となくそう思ってた」
 どこかから水滴が落ちる音がし、緋澄は軽く店内を見渡す。しかしどこからその音がしたのか分からなかった。
「きっと苅田は、俺と違って自分がバカなガキって分かってるから賢いんだよな。そういうトコで、俺はアイツに負けるんだ。でも、俺はお前といる時が一番熱かった。一番熱い時間を過ごしてた。お前が見た夢のように、俺とお前はきっとバカみてーに熱い流砂を流れてたんだ。それか、俺が見た夢のように、俺とお前はきっと真っ暗な建物の中でバカみてーにウロウロと彷徨ってたんだ。俺はお前が落ちてくるのをずっと待ってて……。でも俺はそれで良かった。それで良いと思ってたし、これからも多分そうやってしか生きていけねぇ。
……なぁ潤。なんで俺、お前の手を離したんだろうな」
 またどこかから水滴が落ちる音がする。




 部屋に入ると、苅田は出かける準備をしていた。
 咥え煙草のままベルトを締め、クローゼットを開けて黒いシャツを取り出すとそれをベッドの上に投げる。
 緋澄はその黒いシャツの隣に腰掛け、苅田のために灰皿を取った。
「腹減ったな」
 苅田は独り言のように呟きながら咥えていた煙草を指に挟み、緋澄が手にした灰皿で煙草を揉み消す。それから着ていた服の裾に手をかけ、腕を上げて服を脱ぐ。
「潤。何か喰いたいモンあるか?」
「食べてきた」
「そうか。珍しいな」
 苅田は少し屈みながら先程ベッドに放った黒いシャツに手を伸ばす。
 苅田の上半身は硬い筋肉で覆われている。太い右腕に絡みついている龍が緋澄を見ていた。
「紺野と」
 緋澄は少しだけ小さな声でそう言った。
 苅田がシャツを握った手に僅かに力を込め、屈めていた身体をゆっくりと伸ばしてベッドの端に腰を下ろしている緋澄を見下ろす。その口元に笑みはなく、一瞬だが瞳に凶暴な光が宿った。
 緋澄の心臓が、トクンと音を立てる。
「紺野と、何だ」
「紺野と食べてきた」
「何を」
「夕食」
「紺野に会ったのか」
「俺が会いに行った」
「なんで」
「急に紺野と話をしたくなって」
 苅田の口調は随分淡々としていたものの、緋澄を見下ろす苅田の視線は突き刺さすような強烈なものだった。
 苅田はそれ以上何も言わない。
 心臓がトクントクンと音を立てる。
「苅田」
 呼びかけても苅田は返事をしない。
 何となくこうなることは分かっていた。
「苅田」
 返事をしないことは分かっている。それでも緋澄はもう一度呼びかけた。
 これからどうなるのだろうと思った。また苅田は自分を抱かなくなるのだろうか。何か言うわけでもなく酷く不機嫌になるわけでもなく、普段通り自分に接しながら、また自分を不安にさせるのだろうか。孤独にさせるのだろうか。
 そして、苅田の気が向いた時に、何もなかったかのように自分は抱かれるのだろうか。
「龍司。……アンタ、俺の何?」
 苅田が握っていたシャツを離し、それが床に落ちた音が聞こえた。大きな手が緋澄の頬に触れ、髪を掻き分けて傷をなぞる。緋澄はその手に自分の手を重ねた。
 苅田は何も言わない。
「龍司が俺に与えたものは、快楽と不安と孤独しかない」
 緋澄はハッキリとそう言った。
 しかし初めてそれを言葉にしてみると、透明な川底に沈殿していたあまりにも多くの記憶や感情が急激に浮かび上がってきた。
 いつもこうだ。
 緋澄は口惜しくて目を閉じる。
 いつもこうなのだ。何の前触れもなく、何の脈絡もなく、大切で大切でたまらない時に限ってこうして突然記憶や感情が蘇る。何か大事なことを考えようとする度に、思考を邪魔するかのようにこうして蘇る。いつもは思い出そうとしたって思い出せないくせに。いつもは感じようと思っても何も感じられないくせに。
 そのくせ、いつだってこの記憶も感情も、またすぐに透明な河に沈殿してしまう。
 緋澄は目を閉じたまま、記憶が沈むのを待つ。

『諦めるのが早すぎるぞ』
 真田の声がした。

 だっていつも、大切なことは流れてしまうんだ。

 誰もいない夢を見た。
 苅田もいない夢。一人でいた時の夢。
 一人の自分には、空虚しかなかった。

 だって俺には何もない。

 ゲームセンターのシューティングゲームを思い出した。それで遊んでいた小学生も。テレビで流れるどこか遠い国の戦争。

 現実感もない。

 それから、紺野の声がした。
『お前が落とし穴に嵌って落ちてこればいいんだけど、お前の足元には落とし穴がない』
 紺野はそう言う。

 だって俺は。

 ライブハウスで聞き取れない声で歌っていた男と、自分の足が汚れていると言う綾の唇の動きが重なる。
『歩いてないから』

 だから重い靴を履こうと思って。
 歩いてるのに歩いてないって言われる。見てるのに見てないって言われるんだ。


 いつも透明な河の夢を見ていた。
 手を伸ばすとガリガリと表面が剥がれ、錆びた鉄が……。


 現実感?
 現実感って何? どんなもの?
 生きてる実感って何?
 快楽?
 不安?
 孤独?


 知らない。だって自分には何もないもの。

 でも


 ――――今は?





「そうだった。龍司がいなければ、無感覚なまま生きていた」

 それは今まで浮かんでは消えていった数多くのモノのひとつだった。緋澄が感じ、しかしすぐにどこかへ消え去り、時折浮かんできてはまた消え、それでも必死で思い出そうとしていたモノのひとつ。
 苅田が緋澄を押し倒すようにして抱き締めてくる。
 緋澄も大きく息を吐いて力一杯苅田にしがみ付く。

「ようやくひとつだけ思い出した。大切なことを、ひとつだけ」
「時間かかりすぎ」
「うん。呆れてる?」
「まさか」

 苅田は笑いながら緋澄に口付けをする。口付けを受けながら緋澄も微笑んだ。
 苅田がいなければ何もなかった。無感覚のまま生きていた。快楽も、不安も孤独も知らない世界で。生きているのか死んでいるのか分からないまま、透明な河に流されていくだけの世界で。
 苅田はきっと、自分に与えているのだ。
 快楽や不安や孤独を。本当はもっと、沢山のものを。例え何を言っても、言葉では緋澄に何も伝わらないことを知っていて。だから緋澄が自分で気付くまで、何も言わずに与え続けている。
 一人の時には感じられなかったものを。
 快楽や不安や孤独を。本当はもっと、沢山のものを。
 一人の時には感じられなかったものを。


 苅田の身体に包まれる。苅田の体温を感じる。苅田の鼓動を感じる。

「あ」
「なんだ」
「今、凄い幸せだって感じてる」

 緋澄は嬉しそうにそう告げた。





end






 novel