第9章 蝕まれている匂い

 梅雨明け直前の豪雨が去ると、ついに本格的な夏が始まった。精一杯気合を入れて青くなった見事な空は、家を出る前に見たテレビのお天気お姉さん曰く「梅雨明け十日」だそうなので、当分安定して気合を入れ続けることだろう。
 俺はあれから赤ん坊のようにぐっすりと気持ち良く眠り、お昼少し前に目を覚まし、夏の青空の下を鼻歌交じりで自転車を漕ぎ学校へ登校した。今日も永司は休むはずなので別に行かなくてもいいわけなのだが、ようやくの晴天だ。外に出たかった。
 例の視線はあったが俺は気にしない。途中のコンビニで凍ったお茶を買い、首元や身体を冷やしながらのんびりと自転車を漕ぐのはとても気持ちが良い。最も暑くなる時間帯だろうが、汗だ。この夏の汗が気持ち良いのだ。
 昼休みの時間帯を狙ってぶらぶらしてから学校へ到着すると、廊下を歩いている途中で永司から電話があった。永司はほとんど寝ていないらしいが、俺と同じように随分と健康的な声を出した。永司の「健康的な声」というのは、長い間耳にしていなかったような気がした。いやむしろ、俺は永司がこのような健康的な声を長い間出していないことに、その時ようやく気付いたのだ。
 何故だろう。徐々にそうなっていったのか。いつからかはハッキリしないが……まぁ間違いなく「屋上の時」か、その前の「あのこと」があった辺りだろうけど……考えてみると永司は最近、どうも声の端々に病人のようなある種の匂いがあった。
 いやそうじゃない。
 永司は声だけじゃなく、何かが、どこかが、いや、永司という存在自体が、『蝕まれている』ような気がするんだ。
 気をつけなければいけない。俺はもっと注意深くなるべきなのだ。

 教室に行きクラスメイトに挨拶をして半分溶けたペットボトル以外の荷物を置くと、すぐに暁生のクラスを覗きに行く。だが今日は朝から欠席だと言われたので、苅田に会いに行く。時間的に屋上かなと当たりをつけ屋上の扉を開けると、そこにはどう見ても「行き倒れになった美しい人」にしか見えない緋澄が一人でごろんと寝転んでいた。これが昔話であれば、俺がこの美しい男の看病すると美しいごろりん男は夜な夜な恩返しに馳せ参じるはずなのだが、残念ながら俺の目の前で行き倒れのように転がっているのは緋澄なので、恩返しはない。
 緋澄は丁度俺が開けたドアの前方少し右の辺りで倒れている……もしくは横になっていた。そこは丁度影になっているので、多分本人は涼んでいるつもりなのだろうと思う。
「お前、暑くないのかぁ?」
 近付いて少し屈んで声をかけてみると、緋澄がだるそうに頷いた。耳元から口元に張り付いている一筋の髪や首元に流れている汗、荒い呼吸、微かに寄せられた眉根。緋澄はどうも夏にはエロくなるようだ。
「もっと涼しい場所に行けよ。保健室とか、裏の森とか」
「保健室は人がいる。森には虫がいる」
 緋澄はか細い声でここにいる理由を語る。とりあえず、このまま放っておいたら雪女のように溶けてしまいそうなので、俺は緋澄に持っていたペットボトルのお茶を飲ませた。自分で起き上がろうとしないので、抱え起こして飲ませてやると、半分くらいは零した。性的な唇が濡れ白く美しい首筋が濡れ、シャツが濡れて肌に張り付いた。
 肉感的な匂いが生々しく、俺は視線を外せない。
 そして緋澄が俺の視線に気付く。
「……する?」
「何にもしねぇよ」
 笑うつもりだったが、笑えなかった。俺の視線はまだ緋澄の唇から離れないのだ。
「去年もあったね。同じシチュエーション」
「あった。お前は夏になるとエロくなるんだ」
「よく言われる」
 緋澄もまた笑わない。そして困ったことに俺はこの時点でしっかり勃起していた。多分緋澄が唇を寄せればむしゃぶりつかずにはいられないだろうし、そうなれば「それで済む」ことは絶対的にありえなかった。
 俺の視線は緋澄の唇から首筋に移り、それから更に胸元に移り、シャツの下にあるだろう小さな乳首まで想像している。指で優しく転がし、緋澄が身体を震わせるのを想像している。舌を絡めあい、緋澄のペニスをゆっくりと撫でてやることを想像している。緋澄が辛そうに身体を反らせ、強請るような声を漏らすのを想像している。
 とにかく酷く健康的に勃起をしているのだし、唐突に始まった想像も止まる気配がなかったので、俺は永司のことを考える。
「もし俺がお前とどーにかなってしまったら、永司は多分妖怪になってしまうんだ」
「妖怪?」
「うん、どこか暗い井戸のような場所に引き篭もっている妖怪。俺が近付くと手を伸ばして捕獲しようとしたりする不気味な妖怪」
「手を伸ばして?」
「手が伸びる妖怪なんだ」
 緋澄が少し笑った。あっさりとした中々可愛い笑顔だったので、俺は冷静さを取り戻す。
「相手が苅田だったらまだ良いんだよね。苅田は殺されるかもしれないけど。でも相手がお前だと永司はきっと何もできなくて、困って苦しんで悩んで挙句の果てに妖怪になるんだ。ヒキコモリの妖怪だけど。アイツはそういうタイプ」
「俺、岬杜に殺されても困らないよ?」
 心なしか緋澄の目が可笑しそうに光っている。珍しいなぁと思いながら俺は緋澄の汗ばんだ髪を撫でた。
「困れよ。いやむしろ殺されて困る困らないって変だろ。とにかく永司はお前には何もできないんだよ。永司はね、お前には何もできない」
「なんで?」
「お前を責めることができる人間は、なかなかいないんだよ。自分では気付いていないと思うけど、実はお前は人間じゃないんだ。エウロパの氷の下のイルカ達から親善大使として選ばれて地球にやってきた異星人なんだよ。地球に来た際に宇宙船にトラブルが発生してお前の記憶が消えてしまったから、俺達はお前の記憶が戻るまでこうしてそっと見守っているわけさね」  緋澄はポカンと口を開けて俺を見ている。
 何とも言えない不思議な瞳だった。外敵のいない森でいつもすやすやと眠り続ける動物がいるとしたら、こんな瞳をしているんじゃないかと想像した。
「俺はイルカに選ばれた宇宙人で、岬杜は井戸の中にいて手が伸びる妖怪なんだ」
 緋澄は何故か納得のいったようで、何度も小さく頷いている。俺はなんだか緋澄が可愛くてしょうがなくて、笑いながらそうだそうだと相槌を打った。
 そして、まるで自分の目で見たかのように、井戸の中に潜み俺を待ち続けている永司が脳裏に浮かんだ。そこは暗闇だ。俺は自分の輪郭さえ掴めないような穴の底から這い出たところだ。森のざわめきが聞こえる。雲の隙間から異様に大きな、そして真っ赤な月が見える。俺は呼ばれて振り返る。
 呼ばれて思わず振り返る。
 井戸の中からだらりと伸びる白く腐った腕は、気味の悪い蜘蛛の足のように細く、長く、悪臭を放ちながら俺の左の足首まで続いていた。
 何もかもが異様であり異形だった。腕も、この地も、この森も、この月も――

「深海?」
 我に返る。
 真夏の強い日差しが校舎の屋上を照らしていた。
「深海?」
 緋澄は小首を傾げ、手を伸ばして俺の頬に触れる。俺は全身鳥肌が立っている。汗が一筋、額を伝った。
 何だろう、今の。
「何か……重要なことを」
 思い出したのか、思い浮かんだのか、どっちだ。
「重要なこと?」
「とても重要なことを……なんだろう」
「岬杜のこと?」
 頭がまだはっきりとしなかった。どこかから蝉の鳴き声が聞こえる。フェンスの向こうには美しい空と飛んでいるカラスが見えた。
 予鈴が鳴る。
「俺は絵が描けないんだ」
 緋澄が唐突に言う。
 ちょっと待ってくれ緋澄。俺はまだ次の話題についていけない。ちょっと待ってくれ。
「図工の時間はいつも嫌だった。写生大会も嫌いだった。俺は絵が描けないんだ。何ひとつ描けない。描くべきものが分からない。例えリンゴひとつでも、俺はその何を描けば良いのか分からないんだ」
 緋澄は小さく俺に話しかける。俺はまだ頭の中を整理しようとしている最中で、上手く話が飲み込めない。
「岬杜は絵が描けるんだろうか」
 永司の名前に俺の頭が反応する。永司は多分絵が描ける。それも、とても上手く。誰もが驚くほど上手く描ける。アイツは何でもできるんだ。
 緋澄はもぞもぞと動いて俺が持ってきたペットボトルを手にし、それを飲んだ。それから大きく息を吐くと、大きな欠伸をして立ち上がる。
 俺も緋澄につられるように立ち上がる。軽い立ち眩みを感じた。忘れないうちに書き留めておきたい。
 俺は何かを思い出したのかもしれない。暗い森に異様なまでに大きく赤い月。腐敗している腕は細く長く俺の足を――

 授業に身が入らなかった。英単語のテスト中でさえ集中できず、回収される時に始めて自分の名前すら書いていないことに気付いたくらいだった。様々な記憶が蘇っては深い泥沼の中へと沈んでいく。どれが重要で、どれが無関係なのか判別できない。
 子供が言う。
「お兄ちゃんは世界の共有についてもっと考えなくちゃいけない。これは僕が人間に発する初めての忠告だ。忘れたら駄目だよ」
 忘れたら駄目だよ。
 永司はあのマンションのあの真っ暗な部屋の中にいる。ベッドの上には俺の服が散らばっていて、永司はそれに埋まるようにして眠っている。真田が世の中の悲劇は全て俺のせいだといわんばかりの不機嫌さで突っ立っている。
 暁生が光を連れてくる。

 学校が終わると直ぐに永司にメールを入れたのだが、いつもは無駄に素早い返信が珍しくなかった。何の用なのかどこに行っているのかも知らないが、こういう時に限って何だか会いたい。会えないなら声を聞きたい。
 途中でコンビニに寄り、缶のお茶を買い一休みする。
 コンビニの前でお茶を飲み、冷たい喉ごしに満足して額に浮いた汗を拭うと、そういえば今日は真田を見なかったことに気がつき、結局あの乱闘騒ぎはどうなったのだろうと真田に電話をしてみた。しかし真田は出ない。暁生にもかけたがこちらも同じだ。
 マジ切れしてたからなぁ。派手にやってたし……。
 あの時の騒ぎを思い浮かべながら、砂上なら知っているかもしれないと連絡してみると、案の定砂上はペラペラと詳しく語ってくれた。騒ぎの発端は真田が嫌っている女子。何かカチンとくることを言われたらしく真田から蹴りを入れた。これは軽い蹴りであったらしいが、間の悪いことに止めに入ったのも真田の嫌っている男子生徒。これもまた余計なことを口走ったらしく、真田の拳を喰らった。真田の嫌いな人間とつるんでいる者もまた真田が嫌いなタイプであったりするわけで、騒ぎが大きくなればなるほど真田は暴れはじめ、最終的にはああいう形になったらしい。教師を病院送りにする前に藤原が顔を出し、身を挺して間に入り真田を宥めたおかげでようやく事態は収拾に向かったらしいのだが、まぁ当然のように真田は謹慎処分を受けた。
 砂上は機嫌良く以上のことを語った。因みに暁生の行方は知らないらしい。俺は砂上に礼を言い電話を切ると、そのまま苅田に連絡をする。でも苅田は真田の謹慎を知っていたので、全くつまらなかった。
 まだ日差しが強い。お茶を一気飲みすると自転車に跨り、俺は登校時とは打って変わってノロノロと自転車を漕いだ。
 また視線を感じる。砂上との会話で気分転換はできたものの、俺は色々なことを思い出したり永司のことをじっくり考えたり記憶の中を弄っていたい気分であって、昨日のように間抜けなことをしたくはなかったので、相手にしない。
 視線。永司の視線。粘り気のある視線であったり、性的な視線であったり、嫉妬だったり愛情だったり。永司は様々な視線を寄越す。アイツの視線はアイツの言葉よりもずっと雄弁なのだ。それほど力強い意思がある。
「ああ」
 俺は間抜けな声をあげて自転車のブレーキをかけ振り向く。永司の視線と違い、奴等の視線には感情がない。これは監視なのだ。
 それが分かると少し笑えた。尾行されるのはまだしも、監視されるのは初めての体験だ。どこの誰だか知らないが、俺を監視しても何も面白いものなど出てきやしない。どっちにしろ相手にする気にならず、俺は「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」を歌った。このシンプルな曲を歌うと気持ちがニュートラルになるんだ。

 にも関わらず、今日はあっけなく相手の方から来た。
「深海春樹君」
 黒いベンツだった。住宅街の細い道を遮っているのはそれだけで、今は周りには誰もいない。車の脇には全員揃えたように濃い灰色のスーツを着たやたらガタイの良い男が2人、俺の背後には同じようなのが3人、声を掛けてきた男を除けばいずれも人間の表情というものを廃棄処分してしまったような男達だった。うんざりするような威圧感は、意図的なものだ。この男達は自分の威圧感が他者にどういう影響を与えるのか自覚していて、俺にそれを向けている。
 まだ明るいというのに、拉致りにでも来たのだろうか。俺はそんな男どもに囲まれながら、サングラスはかけていないのだなぁと、あまり緊迫感のないことを考えた。
「深海君ですね?」
 声をかけてくる男はやけにニコヤカで力が抜けていて胡散臭い。30代半ばか。彼もまた濃い灰色のスーツを着ている。暑くないのだろうか。
「違います。ワタクシ、春巻ハルコ」
 俺も胡散臭い笑顔で返した。携帯はシャツの胸ポケットの中にある。
「春巻さんでしたか。これは失礼。美味しそうな名前ですね。私は春巻きもシュウマイもギョーザも大好物です。春巻きとシュウマイにはカラシを欠かしません。カラシをつけると美味さ倍増ですからね。こういう話をするとお腹が減ってきますね。でもどっちにしろ貴方に用がありまして」
「セールス・勧誘・調査の類はお断り。NHKの集金でしたら今日は手持ちがないので今度にしてください。ごめんね」
 えへへと笑いながら周囲を窺う。予期していなかった完全な不意打ちだったので、困ったことに逃げ場がない。民家がずらっと並んでいるわけだが、右手はブロック塀、左手は柵だ。正面は人気は少ないものの一応向こうの方にチョクチョクと通行人の姿は見えるが、一様に皆俺……ではなくこの怪しい男どもを避け、遠くの四つ角で曲がってしまう。男達との距離は3メートル強くらい。
「手荒な真似はするなと言われているので、乱暴はできません。ですが連れて来いと言われているので、貴方を連れて行かなければならないわけでして。ごめんね」
 表情を廃棄処分した男達を代表する、一人だけやけに浮いている男が近付く。俺は自転車を男とは反対側に降りる。
「誰が俺を呼んでいるのかしらん?」
「それはナイショ」
 男は俺と対立する。いかにも軽そうで無害そうに見えるわけだが、決して馬鹿そうではない。一人だけ威圧感がないというものまた怪しい。
 右手はブロック塀。左手は……
 ――何の予備動作もなく男の手が伸び、俺は無意識のうちに仰け反ってそれを避けた。意識が行動に追いつき、そのついでに自転車から手を離し、男の方へ思いっきり蹴飛ばしてみる。その結果を見ずに右手に向かって走り、高く飛び上がってブロック塀に飛び乗ろうとしたが、足を掴まれる。反転して蹴りを、と思ったがその前に引き摺り降ろされてバランスを崩した。
――ッと」
 身体を捻るといつの間にか間合いを詰めていた無表情な男の右腕が伸びてくるのがやけにはっきり見えた。バランスを崩したままその腕を上に払いのけ蹴りを入れてみたが男の左足にガードされる。俺のマジ蹴りをガードした腕もその奥にある肉体も重く硬く、人間に蹴りを入れた感覚ではなかった。しかも男は微動だにしない。
 男がもう一度ぬっと手を伸ばしてきたのを見て思いっきり低く身を屈め足を払おうと試みるも男は矢張り微動だにせず逆に俺の足が痛い。
 一撃必殺しかないわけだ。脳震盪が一番良い。反撃が来る前に、フェイクを入れて側頭部になんとか一発――
 男の足の体重のかけ方が変わったことで足技に関する予測が働きそこに意識が奪われた瞬間、また何の気配もなく男の腕が伸びてきた。
――うわ!」
 反応が遅れた俺は全身の力を込めてその腕を叩き落として悟る。確実に俺よりも「実戦」を積んでいる……恐らくはそれ相応の訓練を受けたプロだろう。この手の人間はやるなら手抜きなどしないし油断もしない。動作を見る限り手荒な真似はできるだけしないという指示を守ろうとしている。そして俺は、手抜きをせず油断もせずクライアントの指示に正確に従う人間に囲まれている。
「待て待て待て待て待てぇええ!……ギブ」
 両手を挙げて降参を表明すると、男の動きが止まった。
「春巻さん、暴れないでください」
 無表情男の背中の後ろからひょっこりと顔を出し、一人だけにこやかな男が声をかけてきた。
「分かった。春巻はもう暴れません。でも痛いの嫌だからそっちも手を出さないでくれる?」
「分かりました」
 ニコヤカがそう言うと、無表情がすっと後ろに下がる。
「あはは。アレ級のが一人でもかなり苦戦するの目に見えてるのに、囲まれちゃってたらまぁ無理だわな」
 俺はアレ、つまり無表情男の方に視線をやりながらそう言うと、ニコヤカがニコヤカに頷く。
「とても良い状況判断です。素早くそれに気付き、あっさりと諦めることは普通はできません。君のようになまじ喧嘩の仕方を知っている子だと、逆にムキになってしまいますからね。説得が素早く済んだのは逆に君の能力の高さを物語っています」
 ニコヤカは微笑む。コイツの言う『説得』とは、つまりは肉弾戦のことだ。
「アンタ、名前は?」
「シナチクです」
 ニコヤカがニコヤカにシナチクだと言う。どうしよう、コイツ面白い。
「で、俺はそのガタイの良いオッサンたちにチョークスリーパーでもかけられて落とされて目覚めたら知らないお屋敷とか、そういう感じ?」
 落とされるのは嫌だなぁだと思っていかにも恐々と自分の首をさすってみる。
「いや、そこまではしませんが、目隠しとちょっとした拘束だけはさせてもらいます。暴れないでね」
 シナチクがポケットから細いプラスチックの紐のようなものを取り出して、真意の分からない笑みを浮かべる。
「それなに?」
「フレックスカフです。通常のモノは嫌でしょう? 私も刑事じゃないので嫌ですあんなものは。サムカフでも良かったのですがね」
 フレックスカフ、つまりは手錠らしい。これはプラスチックで出来ているが、海外ではこのような手錠が時折使われているはずだ。つまり、日本で良く見るあの手錠と効果は何も変わらず、暴れたとしても切れたり伸びたりはしない。
 シナチクは俺に近付き、両手を差し出せと指図をする。
「ねぇ、俺ってそんなに魅力的?」
 そのハンドカフで拘束されつつ俺は訊ねる。
「何故です?」
「俺、拉致されるの2回目。監禁されたこともあるんだぜー」
「それは大変ですね。私はまだ経験したことがないのに、春巻さんはその年齢で既に拉致監禁経験ありですか。どうりで落ち着いてらっしゃる。人間何事も経験ですね。勉強になります。日々勉強の毎日です」
「俺、尻方面は大人気なの」
「断っておきますが、私共のクライアントは春巻さんの尻方面に用はありません。安心してください」
 そういうことをアッサリ言うのは面白い。黙ってろと言われないのも面白い。シナチクはお喋りが好きそうなので、ただ単にシナチクが黙っていられないだけなのかもしれないが。
 ハンドカフをされると、シナチクは車の方を指し示す。勤勉な無表情男共は俺が車に乗るまでピクリとも動かず、俺はシナチクと一緒に車へ向かって歩いた。
「シナチクは今日の夕飯何食べるの?」
「味噌ラーメンにしたいです」
 ふーんと返事をしながら開かれた車のドアの前で身体を屈め、右足を上げる。シナチクが後ろにいる。
「ごめんシナチク」
「え?」
 上げた右足で勢い良く後ろ蹴りをかまし、足が地面に着くと同時に全身の力を込めて思いっきりジャンプをする。
――ッショ!!」
 両手の自由を奪われるのは効く。無事車のトランクの上に飛び乗れたもののバランスは崩す。踏み込んだ足に身体の重心をかけることだけを意識し、他の無駄な情報を排除する。男達のことは脳から追い出す。伸びてくるだろう腕も追い出す。今重要なのは、この一歩に力を込めて身体のバランスを取り戻し、次の一歩で更に高くジャンプすることのみ。
「モイッチョ!!」
 ――跳躍。
 右手にあったブロック塀に足がかかるとその家の庭が視界に入り、そのままできるだけ遠くでもう一度跳躍。
 着地。バランスが崩れる。
 意識は外には向けない。次に集中することは体勢を立て直し真っ直ぐ走ること。足に神経を集中させる。耳から入る情報は全てシャットアウトする。今最も意識すべきことは、自分の足の筋肉、つまさき、かかと、どう足の力を入れるか。
 庭を突っ切って裏口に回れ。大きなゴミ箱。
 乗れ、飛べ、バランスを崩すな、飛べ。跳躍しろ!
 追っ手がかかっていることは考えない。跳躍、走る、曲がる、跳躍、走る。視界に入ったものを頭の中で整理するな。考えるよりも先に足を動かせ。大丈夫、俺は足が速い。逃げることは得意だ。俺を捕まえることができるのは永司だけ。
 俺は音を消し色を消し逃走経路以外の全ての世界を消し、戦闘機のように機械的に走り続けた。

 どこかの工場裏にある下りの階段を一気に飛び降り、そこでようやく外に意識を向ける。自分で切っていた聴覚を取り戻し、走りながら周囲の音を聴く。竹林に入りそこを駆け抜け、小さめの畑を抜けて生垣を飛び越えた。
 誰の家か知らないが、アマチュア無線の大きな無線鉄塔がある庭の片隅でしゃがみこみとりあえず呼吸を整える。どれくらい走っただろうか、足の痙攣が始まっているから多分相当走ったはずだ。
 神経が昂ぶっているせいか呼吸を整えるのに馬鹿に時間がかかった。俺は冷静さを取り戻しながら意識を周囲に集中させる。人の気配、物音、空気の揺れ、なんでも良い。探れ。
 遠くから電車の音がする。近くに駅があるかもしれない。人ごみに紛れるか? いやそれは危険だ。奴等は人ごみでもなんでも強引に、そして素早く俺を捕まえる。車に乗せられたらアウトだ。
 手首が痛んだし、足の痙攣もまだ治まらない。ここまで真剣に逃げたのは初めてかもしれない。
 永司。いや、永司は近くにいない。苅田が良い。
 立ち上がって前屈し、胸ポケットから携帯を下に落とした。しゃがみ込んで右手で携帯を持つ。リダイヤルを何度か押し、相手を確かめ通話を押す。小さくしゃがみ込んだまま耳に当てる。大丈夫だ、ちゃんとコール音がしてる。
『どうした?』
 苅田の声が聞こえた時、垣根の外で空気が揺れた。息を殺して気配を探る。
『深海ちゃん?』
 声でけーよ苅田、と、俺は勝手に毒づく。
『おーい』
 垣根の向こうは、小さな気配。猫か犬。
「拉致されかけた。向こうはプロ。俺は手錠されてる。今は隠れてる。迎えに来て。場所は……」
 簡潔に今の大体の居場所を教えたいが、何せ無我夢中で走って誰とも知らない民家の敷地内に何度も侵入しては塀を飛び越えたので、自分でもここがどの辺りなのかよく分からない。それでも苅田はすぐにこっちの事情を飲み込み、拉致されかけた場所、電車の音、工場の裏手の階段、竹林、小さな畑とポイントを飲み込み、電話を切らずにこっちに向かってくれた。

苅田を待っている間、俺は集中力を途切れさせずに周囲の気配を探り続けた。暑かったし、焼け付くほど喉が渇いていた。
 気配を探り続けたまま何度か大きく深呼吸し、俺は喉の渇きと暑さを忘れる。

 苅田は気を利かせて爆音仕様の単車で来てくれたので、俺は目を閉じ聴覚だけに神経を集中させた。
 耳を澄ませていると様々な音が聴こえる。まずは繋がったままの携帯から漏れる音。後はトラック等の車の音だ。それから遠くの電車の音、鳥の声、風の音。もっと集中する。烏が五月蝿い、少し黙っててくれ。
 自分の鼓動も五月蝿い。これは余計な情報として排除しよう。耳なりも排除だ。余計なものは意識から切り離せ。もっと集中しろ。
 何か重機類が動いている音がする。低く唸るモーター音。あの工場か。足音、竹林の前の道から。のんびりとしているし、小さい。小学生? 民家の裏から自転車が通り過ぎる音。
 範囲を広げろ。もっと大きな範囲で音を集めろ。
 探すのは単車の音と、何かを探している足音だけで良い。それ以外はいらない。
「聴こえた」
 目を開けて苅田に告げる。しかし視覚から入る情報と自分の意識が上手く噛みあわず、全ては無意味な色彩として目に映った。
『近いか?』
「まだ遠い」
 首を捩り太陽の位置を注意深く確認する。
「お前は俺の南東…南南東から来ている」
『分かった』
 太陽の位置を確認したらようやく視界がまともになった。木を木として認識し、芝生を芝生として認識できる。
 それから苅田の単車の音だけを追い続ける。





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