第8章 主張する母親
もうすぐ梅雨も明けようかという頃になって、数日間激しい豪雨に見舞われた。学校へ行くのを躊躇してしまうほどの雨足だったが、俺は傘を差し電車に乗り、バスに乗り継いで登校していた。
その日は何か特別良いことがあったわけでもなく、むしろ変わりない平凡な日々のヒトコマにすらならない、どちらかというと相当うんざりする日だった。
まず、永司が欠席していた。メールを送ると、あっさりと「急用ができたので今日明日と欠席します」と返信がきた。それから、1限の数学で初っ端から藤沢に大説教を喰らい、3限の自習時間には、大人しそうに見えた同じクラスの女の子ちゃんが他人の悪口になった途端に突然テンションを上げたのを目の当たりにした。その後の休み時間に真田が乱闘騒ぎを起こしているとかで駆り出され、何がどうしてそうなっているのか、いかにも真田と相性の悪そうな女の子ちゃん数人と男子生徒数人、教師3人を相手に、真田が傘を持って大暴れしているのを止めに入って、とにかく傘を取り上げようとしたら逆に真田に蹴りを入れられた。マジギレモードの蹴りだったのでかなり痛かった。昼休みに苅田に会いに行ったら苅田は携帯で女を口説いている真っ最中で、暁生に会いに行ってもその姿はどこにもなく、岸辺は岸辺で風邪でお休みだった。午後の授業からは頭痛が始まり、目と口を閉じて机に突っ伏していると、近くでたむろっていた男子生徒達の壮絶な自慢合戦が耳に入った。カバさんのお鼻の穴のようにピタっと穴が閉じれば良いのだけれども、残念なことに俺の耳にはそんな素敵な機能はない。普段ならそういう話題は全く気にならないし気にしないのだが、今日はとても鼻についた。彼等は主に車の話やゴルフの話をしていたのだが、どれもこれも金持ち自慢特有の気色悪いものだったし、そもそも車の自慢は彼等が稼いで彼等自身で購入したわけじゃない。
控えめに言って、その日の俺の気分は悪かった。急に自分を上手くコントロールすることが出来なくて、余計に腹が立った。こういう日は早く帰って永司をオカズに久々にオナニーでもして寝てしまいたかった。
長い長い午後の授業を終えると、俺はなんとか重い身体を起こして下校の準備をする。鞄を持って傘を手にし、足を引き摺ってバス停まで歩いていく。何か歌でも口ずさみたいのだけれども、こういう時に限って気の利いた曲は何も浮かんでこない。学友でバスを使うのは俺と入来のようなほんの一部の生徒なのだが、その数人が学校から少し離れた場所にあるバス停で傘を差してバスを待っているのが見える。そして、俺がバス停に到着する前にバスは到着し、その数人を乗せて去ってしまう。
こういう日もある。分かってる。
何人かから、一緒にタクシーで駅まで行こうと声をかけてもらう。送って行こうかと、車の中から声をかけてくれる奴もいる。でも今日の俺はひとりで帰りたかったのでそれらに礼を言ってから断り、駅までの長い道のりを歩くことを決めた。
豪雨の名に相応しい豪雨だった。すぐに靴はビショ濡れになって、車が撥ねる水で服も汚れた。全ての音に雨が降り注ぎ、聴覚が麻痺しているような感覚になる。
暫く歩くと、今日もまた視線を感じた。それは随分と離れた場所からゆっくりと俺の後を追ってくる。一度立ち止まって振り返ってみたが、その視線の持ち主は特定できない。
角を曲がると視線が変わる。随分こういうことに慣れた人間のようで、随分と尾行が上手い。俺に意識を向けている者の気配を探っても分からない。俺が真剣になっても特定出来ないというのはなかなか凄いことなので、俺は今日の朝から付き纏うイラつきの中から少しだけ感動してやる。
一度気になると止まらない。こういう背中に感じる意図の分からない視線は激しく苛立ちを募らせるので、何度か振り返って牽制していたらまた途中で視線が別人になった。俺はまた少しだけ感動してやる。そして、もう放っておけなくなる。
駅付近まで行くと、そこは俺のテリトリーのひとつだ。何度かタイミングを見計らって路地裏に入り待ち伏せをしようとしたが、夕方のこの時間は辺鄙な場所でもチョクチョクと人通りがある。なので、少し考えてから少し寂れたゲーセンに行った。外から見やすい場所を店内でうろついた後にトイレに行き、その汚い窓から外に出た。ここにはビル裏の薄汚れた隙間があり、そこから裏の駐車場に抜けることができるのだ。
トイレの窓は開けっ放しにしておいたので、どこに行ったのかは一目瞭然だろう。俺は駐車場へ抜ける寸前の死角となる場所で暫く待ってみた。尾行されるようなことをいつどこでしたのだろうかと少し考えてみるが、やっぱり全く身に覚えがない。相手が何者か分からない上に複数である以上油断は出来ないので、傘はさせない。だから俺は激しい雨の中でびしょ濡れのまま突っ立っているはめになった。
にも関わらず、誰も追っては来なかった。深追いはしない連中なのだろうか、特別用心深い連中なのだろうか。尾行の仕方から察するに多分後者であろうと思う。
無駄な努力をした間抜けで可哀想な俺は、とぼとぼと歩いて駅に向かい、途中のコンビニでタオルを買って髪を拭き、電車に乗ってしんみりと帰宅をした。鼠に馬鹿にされた頭の悪い猫のような気分だった。
その日の夜、俺はサトルの母親と話をした。
帰宅後すぐに熱いシャワーを浴びて素っ裸のままベッドに寝転んだらそのまま眠ってしまった俺は、深夜の2時になる頃に目覚め、腹を満たすために傘を差して近所のコンビニに行った。彼女も同じコンビニで夜食を買っているところで、客は俺と彼女だけだった。彼女がまず会計を済ませ店を出た後に俺も会計を済ませ、店を出た。店内で擦れ違った時の印象として彼女は明らかにアルコールが入っていたが、足元はしっかりしていてちゃんと歩いていた。帰る方向が同じなだけなのだが変態ちゃんだと思われたのか、彼女は何度か俺を振り返り怪訝な顔をしていた。
彼女との距離がなくなり追い越した所でアパートに到着し、階段を上がって鍵を開けた所で階下から声をかけられた。「不審な若い男」と思って階下で様子を窺っていたが、自分の家の隣の住人だと気付いて慌てて声をかけてきたらしい。
こんな時しか挨拶できないからと言って、彼女は「いつもサトルがお世話になっております」と頭を下げた。俺も名を名乗って頭を下げた。それから少しサトルの話をしたのだが、どうやら彼女もまたサトルやサトルの姉同様「話相手」に飢えているらしく、話が長引く。だからいっそのこと近くのファミレスでも行って、腰を据えて話を聞こうと思ったのだ。
ファミレスでも行きませんかと誘うと彼女は随分喜んだが、すぐさま思いなおしたように「深夜に若者を連れまわすと悪い」というようなことを口にした。俺は俺で腹が減っている、どうせ家に帰ってカップラーメンを食べてテレビを見るだけだからと言ってコンビニの袋を指すと、彼女は笑い、そして俺の誘いを漸く承諾したのだ。
ファミレスに到着すると二人でメシを食った。俺は夏野菜とハンバーグのCセットで、彼女はボンゴレスパゲティだ。それから二人でドリンクバーへ行って、それぞれ飲み物を持ってきた。俺はトマトジュースで彼女はアイスウーロンだった。
彼女はなかなか品の良い黒いハイヒールを履いていて、赤と黒の配色が良いスーツを着ており、指には少しゴテついた指輪をしていた。ピアスも同様に少しゴテついていて、髪は纏めてあったが健康そうな髪質ではなかった。化粧が濃く一見若く見えるが、彼女は彼女の隣に置かれたありきたりなブランドバッグのように少しくたびれているように見えた。それでもサトルの姉の年を考えると、彼女はとても若いように思える。目元も明るいし、オバサン特有の「どこか図々しい」部分も見当たらない。ただ、ちょっとくたびれているのだ。
「サトルは難しい子でしょう?」
彼女はスパゲティを上手に食べながらそう訊いた。
「確かにそういう部分もありますけど、良い子です。面白いし」
「面白い? あの子って面白い?」
「面白いですよ」
答えてからハンバーグを食べる。彼女は、そう、と意外そうに言ってから手を伸ばし、アイスウーロンを飲んでから暫く黙って食べていた。
深夜にも関わらず客はそれなりにいた。俺は夏野菜とハンバーグのセットを食べながら、サトルのお風呂の話を思い出していた。
「サトルは何も話してくれない子だったのよ」
ハンバーグを切り分けていると、彼女が話し出した。俺はサトルの風呂のことを考えていたところに突然話しかけられたので、少々驚いた。
「前の家は大家さんと喧嘩して……大家さんと喧嘩した理由は本当に色々あるんだけど、例えば娘のこととか私のストーカーじみた客のこととか……とにかく引越ししなくちゃいけなくなって今のアパートに越して来たのよ。学校が変わったから私も少し気になってね、ちょくちょく訊いてみたんだけど、何も話してくれなかった」
「普段からそんなに喋らない子なんですか?」
俺が訊ねると彼女は少し俯いて、ボンゴレスパゲティに視線を移した。
「生活リズムが違うから、普段からあまり顔を合わせないのよ。朝あの子を起こして、その時にグズグズしてるあの子を無理矢理学校に行かせて、あの子が寝た頃に私は帰って来て。日曜日は休みなんだけど、私も私で忙しい時だってあるし、私が起きた時にはあの子はもうどこかに行っちゃってることがあるし」
態度は言い訳じみていたが、口調は普通の説明口調だった。
「それで?」
「それでとは?」
「貴方は俺のこと知ってた」
「そうなのよ。ここに引っ越してからだって何も変わらなかったのに、ここ最近、ちょっとだけ喋ってくれるようになったの。君の他に、友達の……なんだっけかな」
「イチ?」
「そうそう! その、イチって子のこともこの前少し喋ってくれたんだよ。私は何もしてないからね、あの子に良い影響を与えてくれたのは多分君だろうと思って、ずっと君とお話したいと思ってたのよ」
サトルのお母さんは、ここで漸く屈託のない笑みを浮かべた。笑うと更に若く見える。
「サトルは、元々無口な子だったんですか?」
「基本的には」
彼女はコクコクと何度も力強く頷く。同じ行為をサトルの姉がすればきっと言い訳じみた行為に見えただろうが、この母親はやっぱりそういう感じはしなかった。
「ちっちゃい頃から、あんまりお喋りって感じじゃなかったわね。でもね、別にどこも変わった感じじゃなかったわよ。ただ単に、幼稚園の先生なんかから、サトル君はシャイですぐ照れてしまう子ですねって言われるくらい。その程度。ところがあの子が大きくなるにつれて私は娘……サトルの姉と上手くいかなくなってさ。本当に殺してやろうかと思うくらい娘とは気が合わなくて、毎日毎日喚きあいながら暮らしてたらいつの間にかサトルは私に何も話してくれなくなっちゃったわけ。サトルは手がかからなくて良いわ〜なんて思ってたらこのザマよ」
彼女が大きく溜息を吐いてからスパゲティを食べることを再開させたので、俺も夏野菜の残りを食べはじめた。
サトルは話し相手に飢えていると思う。でも母親にも、間違いなく姉にも何も言わない。言えないのではなく、自分の意思で言わないのだと思う。
ふと永司のことが頭に浮かぶ。永司とサトルは馬が合うかもしれない。
「サトルのお姉さんとも喋ったことありますよ」
ハンバーグを食べ終えた時に何気なくそう言うと、露骨に嫌な顔をされた。サトルが拒否を示す表情にとても似ている。真っ向から嫌悪感を出す、強い表情だ。
「あの子、どうせロクなこと言わなかったでしょう」
俺は答えない。箸を置いて真っ直ぐに彼女の顔を見ると、彼女も真っ直ぐに俺を見て続けた。
「苦労はかけたよ、そりゃ。それは分かってる。私の仕事が仕事だし、嫌な思いや辛い思いもさせたと思う。あの子がちっちゃかった頃はちょっと借金も背負ってたしさ。でもね、あの子はなんでもかんでも私のせいにする。どんな些細なことでも全部私のせい。ありとあらゆる嫌なことや苦痛を感じることは全部私のせい。私のせいにできない時は、他の誰かのせい。あの子は自分が被害者になりたくてしょうがないのよ。被害者だったら誰にも責められないと思ってるからね。そんな風に育てたつもりはないんだけどさ、いつの間にかそういう子になってた」
彼女はそこまで言い終えると、残りのスパゲティを八つ当たりのように攻撃的に食べた。
俺は痩せこけた鳥のようなサトルの姉を思い出し、ノロノロと残りの夏野菜を食べた。
俺達は暫く黙々と食べ、食べ終えてから彼女は一息置いてバッグから煙草を取り出し、ライターで火を点けた。俺はトマトジュースをコクコクと飲む。
「生活費ってどのくらいかかるか知ってる?」
彼女が沈黙を破る。
俺はその問いに少し考えてから首をふる。家賃も光熱費も全部母ちゃんが払ってるんだ。分からない。大体は分かるけど、払ってもらっている以上実感がない。仕送りしてもらってるだけじゃ、多分本当のことは何にも分からない。
「生活するって凄くお金かかるのよ。家賃も食費も光熱費も、税金だって払わなくちゃいけない。子供はすぐ大きくなるから服も買わなくちゃいけない。学校で使うものもいるし、給食だってただじゃない。なんだって、どんなものだってお金を払わなくちゃいけない。自転車だってシャーペンだってお金で買うんだ。あの子たちに苦労はかけてるけど、私は私なりにあの子たちを育てたさ。長女が小さかった頃なんか本当に貧乏でみじめな思いさせたと思うけど、それは私だって一緒。それでも私は毎日働き、毎日食べさせた」
そこまで一気に捲くし立てると彼女は煙草を銜えて大きく吸い込み、顔を背けて煙を吐き出す。
彼女は感想を求めるように何度か視線を寄越したけれど、俺は何も言わなかった。サトルの姉ならばすぐにうろたえるだろうが、彼女は取り分けそういうことはない。
俺はトマトジュースを飲みながらサトルのことを考える。カレーパンを食べるサトル、宿題をするサトル、生き生きとイチの話をするサトル。それらは全て洗濯機の向こう側にいるサトルだ。でもこの母親は、サトルの最も触れて欲しくない場所、家の中に住んでいる。
「あの子…長女は典型的なオンナなんだよね。人目を気にしてばっかり。いつも被害者面。声高に誰かを非難するけど頭ん中は何も入ってないから、誰かに否定されるとすぐにうろたえる。そして今度は傷ついたフリ」
「フリ?」
「フリだよ。傷ついたフリをすればもう責められないって思ってるから、傷つくことに関しては何よりも得意なんだね。誰よりも早く他人を攻撃して、都合が悪くなると今度は誰よりも早く傷ついたフリをする。私はね、人のことボロクソに言っておいて自分だけ被害者モードに入るあの子が許せないんだ」
また八つ当たりをするように、彼女は灰皿を攻撃的に引き寄せ、攻撃的に灰を落とした。灰どころか火種まで落ちそうだった。それから3回くらい続けて前髪を掻き上げて、煙草を銜えなおし、溜息と一緒に煙を吐き出してからようやく煙草を揉み消した。今はアイスウーロンのコップを引き寄せて、ストローで中の氷をガリガリとかき回して考えている。
そして、彼女はぐっと目に力を込めて身を乗り出した。
「憎まれれば憎くなるよ。拒絶されれば嫌になるよ。なんでもかんでも私のせいにされちゃ堪らないさ。私は母親だけど、人間だよ。私には私の言い分があるわけ。私だって恋もすりゃ服だって欲しい。私だって子供みたいにグースカ寝たい。子供を育ててたら自分の全てを犠牲にしなくちゃならないなんておかしいじゃないか。だから、私には私の言い分があるのよ。なのにあの子はそれを理解してくれない」
彼女はキッパリとした口調でそう言うと、身を引いて身体の力を抜いた。
極寒の中で来ないバスを待ち続ける姉、テリトリーに侵入されることを極端に嫌う弟、私には私の言い分があると主張する母親。
俺は岸辺の言葉を思い出す。『そうだね。彼女には翻弄されっ放しだけど、僕は彼女の視線を感じ彼女は僕の視線を感じている』と、記憶の中の岸辺は言う。
視線を感じあうから、幸せ。
その後、色んなことに気が済んだらしいその人は俺を相手に30分程「各飲料水会社の出す烏龍茶の違い」と「テレビでよく見る芸能人の裏話」を語り、それが終わると伝票をひっ掴み良いですと言っているのにさっさと俺の分まで支払った。
帰り道で君はどんな子供だったのかと訊ねられたので、能天気な子供だったと答えたらやたらと笑われた。そして、きっととても愛くるしくて良い子だったんでしょうと言われた。愛くるしい子だった自信はあるけど、良い子だったかどうかは分からない。
雨は止んでいた。風は少し吹いていて、街灯が濡れた夜の街を照らしていた。深夜なので街はひっそりとしていた。
アパートの階段を上り、ではおやすみという所まで行ってから俺はその人に手を差し出してみた。その人は最初は意味が分からなかったようで首を傾げたが、すぐに手を差し出し握手をしてくれた。
「へぇ! こりゃいいね。若い子って良いねぇ」
その人は俺の手を見つめながら笑ってそう呟く。
そして続ける。
「さっきのコンビニで随分懐かしい曲がかかってたんだよ。君はきっと知らないだろうけど、友部って人の曲でさ。『どうして旅に出なかったんだい』って誰かを責める曲なのね。最初は、ああ懐かしい曲だなぁなんて思ってたんだけど、段々腹が立ってきてさ。だっていくら行きたくたって旅なんてできないよ。私だって旅はしたかった。学校を出たらすぐに娘を産んだからそんな暇なかったけど、ずっとずっと旅って夢だった。一人でふらっと気ままに旅をしたいって。でも生活に追われてるのに旅なんてできないじゃない。どうしようもないのになんで責められなきゃならないんだって、そう思ったよさっきは。なのにね、なんだか今、本当に『どうして旅に出なかったんだろう』って思ったよ。なんでだろうね」
それから俺達はおやすみなさいを言い合い、各自自分達の家に入った。
あの人は悪い人じゃない。でもあの子たちの母親には向いていないのかもしれない。俺はそう思う。
家に帰ると永司から何度も電話がかかってきていたことが分かった。どうやら素っ裸で熟睡していた時からチョクチョクとかかっていたらしい。コンビニには携帯を持っていかなかったので気付くのが余計に遅れてしまった。メールを見てみると1時間程前に「これに気付き次第必ず連絡を」とある。まずい。永司は確実に眠れていない。
すぐさま連絡をすると、永司はコール音がする前に出た。
「言い分を聞く」
開口一番でそう言われた。怒っていたし疲れている声だった。
「まず、2時くらいまで爆睡してた。腹が減って目が覚めて、コンビニに行ったら隣の家のオバサンとカチ会って、ファミレスで一緒にメシを喰った。すぐに戻るつもりだったから携帯を忘れて気付くの遅くなった。ごめりんこ」
「心配した。また誰かに攫われたかと思って」
「ごめりんこ」
「俺のことをすっかり忘れて喰うメシは美味かったですか」
「お前ね、女の腐ったみたいなこと言うなや」
「腐った女の気持ちがよく分かる気分でね。もっと言ってやろうか」
「ごめりんこって言ってるじゃん」
「分かった。お前が謝った時は、俺はすぐさま許さねばならんわけだ。即座に迅速に速やかに許さねばならんのだな。一刻も早く遅滞なく」
「お前本気でムカツクな。つかさ、お前そんなこと言って『ハルコに嫌われちゃったらどーしよぉ〜』とか思わないわけ?」
呆れた声を出しながら洗面台に向かい、携帯を肩と耳で挟んでハブラシを手にした。ハミガキ粉を上手くつけると携帯を持ち直してシャコシャコしだす。
「本気で謝罪し反省してる人間は喋ってる途中でハミガキをするとは思えない」
「ふぉんきでしゃあいしはんへいしてぅ。うぇも相手が嫌味っぽいと途中れハミガキふる習性があうんだ俺って」
「それは変わった習性だ。今度はハブラシがないところで出来るだけ嫌味を言ってみるよ。どうなるのか興味がある」
馬鹿なことを言い合いながら、俺は歯を磨いた。キッチリと歯を磨き終えると、今度はちょっと待ってろと言って携帯を一旦洗面台の上に置き、顔も洗った。外は湿度が高かったので気持ち悪かったのだ。
すっきりすると携帯を持ってベッドに戻り、永司が満足するまで付き合ってやった。最初こそ怒って嫌味を連発していた永司だがすぐに機嫌は直り、俺達は「讃岐うどん」と「R2-D2」と「季節の値段」について語り合った。
電話を切ったのは朝の6時近くになった頃だ。
今日はロクなことがなかった日のはずなのに、眠りにつく頃の俺はとても機嫌が良かった。
俺はつい先ほどまで耳にしていた永司の声やその会話などに包まれて、ゆったりと眠る。