第10章 それは海に生息する生き物

 苅田が俺を探し出してくれるまで、思ったより時間はかからなかった。苅田も急いでくれたし、俺も集中力を途切れさせることなく、的確に苅田を誘導できたからだ。
 本来の自分の能力を遥かに上回ることを強いられた俺の足はもう自由に動かすことが出来ず、苅田に手錠を切ってもらった後は足どころか身体全体が酷く痛んでいることに気付いた。しかし身体は思うように動かないものの、視界に映る全てがやけにはっきりと見え、例えば生垣の葉に作られた蜘蛛の巣の糸一本一本や苅田が着ているシャツの編み目、芝生の向こうにあるタイルが敷かれたテラスから白い家の壁の凹凸まで全てがくっきりと見える。色彩は妙に鮮やかすぎて現実感があるのかないのか分からないほどだ。同様に、様々な音もまた鮮明に聞こえる。苅田の呼吸音、衣擦れの音、蝉の鳴き声や近くの工場の機械音。まるで急激にそして極端に世界が俺に近づいたかのようだ。それから苅田がつけている香水とは別に女の甘い移り香がし、苅田は女といたことに気付く。
 足が動かないことを告げると苅田は俺を抱えて単車の後部シートに座らせた。帰りに追っ手がかかったが、何もする気配がなかったので追っ手というよりも尾行だったのかもしれない。
 無事に苅田邸に運ばれると、抱えられて階段をあがる。靴すら脱がされてなかった。
 ソファーに下ろされると、全身の筋肉と神経が異常な悲鳴を上げだす。
「相手は?」
 苅田はようやく靴を脱がせてくれる。
「予想はついてる」
「目的は?」
「試験……いや、実際はただ単に会って話したかっただけ、かな」
 凄まじい耳鳴りがした。自分の声すらも酷く聞き取り難いほどのものだった。
 ニヤニヤと笑みを浮かべた苅田だったが、別に何をするわけでもなさそうだった。
 安心すると、途端に俺の思考力が極端に落ちた。
 苅田が水を持って来てくれたが、俺は動けない。身体を起こしてもらって、ゆっくりと飲ませてもらう。水分は喉を潤し、ゆっくりと身体に吸収されていくのが手に取るように分かった。
 何か気の利いた言葉でも浮かべば良いものの俺の小さな脳はもう限界が来ているようで、真田がおサルさんのように暴れまわっていた時に持っていた傘の柄や、まるぱんの細くて愛らしいヒゲや、姉ちゃんが焼いてくれたココアのクッキーや、永司の瞳の色などが脳裏を掠めるだけだった。
 苅田がニヤつきながら俺の顔を覗き込み、その手を俺の頬に添える。
「俺がマジ蹴り喰らわせてもビクともしない男共に囲まれたんだ」
 俺は呟く。
「へぇ。よく無事に逃げ切れたな」
「これ以上なく本気で逃げた」
「深海ちゃん、目がイってるよ」
「命懸けってくらいの勢いで逃げ切った」
 口はよく動いたが、脳裏に浮かぶものはまだ脈絡のないものばかりだった。
 暗闇で光っているひんやりとした寡黙なナイフ、新生祭の時の石塚、靴の裏、氷に爪を立てている猫、誰かが何かを言っている時の口の動き、切り立った崖、死臭を放つ永司の冷たい手、俯く子供。
「深海ちゃん?」
 苅田の声が遠くから聞こえる。
「お前の単車の音も必死で探した」
「どうしてあの距離で気付けたんだ? 線路だってあそこから随分離れてたし」
「必死で音を探ったんだ。これ以上なく必死で」
 苅田が真顔になり僅かに眉を顰めるのが見えた。珍しい表情だな、と、頭の引き出しの奥底の方で俺の声が呟いた。
「ゆっくり休んだ方が良いな。お前、ちょっとマズイ域に入りかけてる」
 俺は頷き、目を閉じて身体の力を抜くことだけを考えた。苅田が立ち上がりカーテンを閉め、階下へ降りる音がする。ドアが開かれ、母屋に向かう足音が聞こえる。
 永司に会いたい。触れたい。甘えたい。
 激しい耳鳴りと異常な神経の昂ぶりと暗闇と共に襲い掛かる疲労感の中、強くそう感じた。

 苅田が階段を上がってくる音で目が覚める。
 まだキーンという高い耳鳴りが少ししていたが、随分と楽になったような気がした。
 ドアを開けた苅田がゆっくりと近付き、身体を屈めて俺の顔を覗き込む。
「起きてたのか?」
「いや、今目覚めたところ」
 苅田はまだ俺の目を覗き込んでいる。まるで何かを見極めるようにじっとそうしている。
「お前、女といたろう? 悪かったな」
「なんで分かった?」
「さっき移り香がした」
「女とは何もおっぱじめてなかったから気にしなくて良いさ」
 苅田がいつものようにニヤける。それから俺の頭をポンポンと軽く叩き、ようやく視線を外した。
 今、何時だろう。
 痛む腕を動かして携帯で時間を確かめると、10時半になっている。一度永司に連絡を入れてみたが留守電になったので、苅田の所にいると伝言を入れておいた。
 苅田はソファーの足元に座り込み、俺に背を向けて煙草を吸いだした。俺も吸いたいと思ったが身体を起こすどころか捻ることも億劫だったので諦めた。
 苅田は電気をつけなかったので、カーテンの隙間から街明かりが細く床に伸びていた。この部屋と苅田の背中と苅田が吐き出す煙草の煙と俺の耳鳴りはなんだかよく馴染んだ。こういう映画があっても良いと思う。主人公の耳鳴りがずっと聞こえる映画。
 ぽつりぽつりと二人で何でもないことを話した。プロ野球が衰退した原因からネットで読んだ都市伝説、ハキリアリについての薀蓄や砂上の乳のデカサのこと、あとは梶田って絶対澤井先生と付き合ってるよな?とか、そういうしょーもない話まで。
 途中で暁生の話になった。少し前に暁生が、苅田がボスキャラになれたのは秘密基地造りが上手かったからだと力説していたことを報告すると、苅田は額を押さえながら苦笑した。この場に暁生がいたらまたひと悶着ありそうな笑い方だった。
 暁生は苅田が物心ついた時から常に苅田の視界に入る場所にいたらしい。それほど仲が良かったわけではないようなので、苅田の行動範囲と暁生の行動範囲が似ていてその上共通の友達でもいて、結果的に苅田の周囲を暁生がウロチョロしているように見えたんだろう。
「アイツは変わらねぇなぁ」
 苅田がここにはいない暁生をからかうような口調でそう言う。
 人はいつも日々の生活の中で成長し、物事を処理していき、必要なものと不必要なものをたらふく蓄えながら変わっていく。それが良い方向であれ悪い方向であれ、変化しない人間はいない。
 しかし暁生は違うのだと言う。
「暁生にとって俺は、秘密基地作ってた頃の苅田龍司のまんまなんだ」
 苅田は両手を頭の後ろに組み、笑いながら身体を少し後ろに反らせる。
 俺を秘密基地を作っていた頃の俺と同じように見るのは、暁生くらいしかいないだろうと苅田は言う。それには俺も同意する。
 苅田はこういう人間だから、誰もがやはり距離を置くことが多い。勿論幼い頃だったら苅田と喧嘩をする子供も幾人かはいただろうが、年齢を重ねるにつれ経験からか情報からか、誰も苅田には手を出さなくなる。それはそれで当然のことだ。
 しかし暁生は違う。何せ周囲の人間が苅田に抱いている苅田像なんてものは暁生の中には存在せず、暁生にとっての苅田は、あくまでトンチンカンチンと秘密基地を作っていた苅田龍司なのだ。
 だから暁生は苅田を恐れない。幼稚園児が他の幼稚園児を恐れないように。
 まぁつまり、暁生自身もその頃から変わってないということなのだ。苅田はそういうことを言っているのだ。
 暫くは暁生の話が続いた。
 幼い頃の苅田は、暁生とチョクチョク喧嘩をしたそうだ。その頃から身体の大きかった苅田が負けることはなかったそうだが、とにかく暁生は負けを認めない。殴られたけど、俺も殴ったから同点だな、と、まるで勝ち誇ったか手柄でもたてたような顔でよく宣言されたそうだ。苅田が口にする逸話を聴きながら俺は、よく泣き、よく笑い、よく弾け飛び、よく行方不明になる当時の暁生を想像する。なるほど今と変わっていない。
 暁生がギラつくようになったのは、中等部に入ってからくらいだと苅田は言う。何が不満なのか何が物足りないのか、投げ遣りな喧嘩を仕掛けてくるようになった。しかしそれでも暁生の根本は変わらない。真田と出会って最近は落ち着いてきたようにも見えるが、やっぱり暁生は突っ走っている。まるで光の粒子が勝手に宇宙空間を駆け抜けて行き、宇宙に果てがないと言って文句を言うような感じで。
 苅田の携帯が鳴るので俺達の会話はそこで途切れる。
 苅田は苅田らしからぬ忍耐強さで要領を得ないらしい相手の相手をしていたので、多分相手は緋澄だろうと思った。あまりニヤニヤしていない点からしてもそれは確かだろう。
 高温の耳鳴りはまだ続いていたし、薄暗闇の中でもいやに鮮明に苅田の部屋の様子が目に映った。目を閉じると意識をそこに向けなくても携帯から漏れてくる相手…多分緋澄だが…の声まで聞こえそうで、会話を盗み聞きしてしまいそうになる。なので、小さな声でScarborough Fairを口ずさんだ。
 永司は今、何をしているんだろう。
 大体、あいつはどんな内容の仕事を手伝っているんだろう。永司の部屋の書斎に並んでいる書籍類はほとんどが日本のモノではないので、俺にはサッパリ分からない。かろうじて飛行機か戦闘機の専門書だということが分かるくらいで、その、飛行機か戦闘機のどの部分の仕事をしているのかすら分からなかった。訊いてみようかと思ったことはあるけれど、どうせ難しい話だろうと思っていつも訊ねる前に諦めていた。
 それよりも、永司については他にもっと知りたいことがある。知りたいけれど知ることができないこと。
 真実はいつも足が出てしまう毛布みたいなもの。去年、俺は川口さんとそんな話をした。だから万が一俺が真実を知ることができたとしても、きっと「足りない」んだ。身体を包み込んでくれる毛布を持っているのは、説明や物語を必要としない動物達だけだろうから。
 電話を終えたらしい苅田が随分と機嫌良さげにソファーの背に右手を突き覗き込んできたので、俺は思考を中断させる。
「身体の調子はどうだ? なんか飲むか?」
「身体中痛い。ジューチュほちぃ」
 未だに身体を捻ることも出来ず、というか、時間が経てば経つほど痛みが増している。しかしそれは、筋肉や神経が通常に戻りつつある証拠なのかもしれない。
 苅田が冷蔵庫からスポーツドリンクを持って来てくれた。身体を起こしてくれと言う意味で手を差し出そうと思ったら、苅田が身を屈めてそのまま覆いかぶさってきた。
 顎を掴まれ、視線が絡む。悪戯っぽく笑っている苅田の目の奥で随分と直線的な性欲が見てとれた。
「ヤメ――
 ヤメとけと口にする前に苅田の顔が近付いたのでそれに俺の腕が反応し、拳がモロに苅田の顔面にヒットした。苅田は顔を手で押さえて蹲り、俺は殴った手を額に当ててひーひー笑った。笑うと腹が痛いのだが、どうしても笑えてしょうがなかった。
「酷いよ深海ちゃん!」
「ゴメンゴメンッ…でもまだ手加減できる…くっく…状態じゃねぇから……くっくっく…」
「マジでいてぇー」
 苅田が情けない声を出すので更に笑える。笑う度に小刻みに身体に振動するので全身が痛い。
 それからまた馬鹿な話をして、ジュースを飲ませてもらって、少し休んだ。
 難しいことも複雑なことも何も考えず、池の底の鯰のように眠ることができた。

 二回目に起きた時も、まだ室内も外も暗かった。
 耳鳴りはもうほとんど気にならず、視界の方も普段通りバランス良く見えるようになっていた。だがまだ身体は痛い。これは筋肉痛なのですぐには治らない。
 僅かに音楽が聴こえる。どうやらこれで目が覚めたらしい。
「起こしたか?」
 苅田が俺の気配を察して小さく訊ねる。
「いや平気」
 苅田は電気をつけずにこちらに近付き、また俺の顔を覗き込みじっくりと凝視する。俺はなんだか偉いお医者さんに診てもらってる時みたいな気分だった。良い子で寝てなさいと言われたらきっと「ぁい」と大人しく返事をしたに違いない。
 しかし苅田はそんなことは言わず、何か納得をして俺に背を向けてソファーに凭れるようにして床の上に座った。
 音楽が聴こえる。クラシックだ。聞き覚えがあるのできっと有名な曲だ。
「地獄の黙示録」
 呟くと、苅田が少し笑った。
「ワーグナーのワルキューレの騎行だ」
「お前、クラシックなんか聴くんだ。ものすっごい意外」
「ワーグナーしか聴かねぇ」
 苅田が音を少し大きくした。
 俺はぼんやりとそれを聴きながら、自分の身体と頭が世界に馴染んでいこうとしている最中なのだということに今ようやく気付いた。いやこれは、馴染んでいく最中ではなく、馴染みのある一般男子高校生の自分に戻っていこうとしている最中だ。
 俺はふと永司のことを思い出し、携帯をチェックする。
 永司から伝言が一件入っていて、留守電の永司は、明日帰る予定だったがどうしても帰れなくなった。明後日は必ず帰りたい、苅田の馬鹿は何をするか分からないから春樹も早く自分のお家に帰るのですよ、と、まぁそんなことを珍しく少し早口で言っていた。俺は続けてその留守電を3回聴く。
「深海ちゃん」
 苅田の呼びかけに携帯を閉じ、それを返事とした。
「お前、岬杜好きだよなー」
「何を今更」
 俺は笑う。苅田は俺に背を向けたままだ。何も映っていないテレビを見ているのか、それとも何も見ていないのか分からない。
「俺はさ、正直に言うと深海ちゃんがここまで岬杜に嵌るとは思ってなかった」
「永司は手がかかるからな」
「確かに岬杜は手がかかりそうだ。でもそれだけじゃねぇ。岬杜にはそれだけの力がある」
 ワーグナーの曲がまだ流れている。
「どんな力?」
 苅田が身体の向きを変え、俺が寝ているソファーの上に肘を乗せた。
「お前には一切の小細工が利かない。金も権力も届かない。イカした会話も容姿も届かない。岬杜みてぇに、ひたすら自分の感情を押し付けるだけしか届かない。でもそれだったら誰にだって出来る。やろうと思えば大抵の人間は出来る。なのに岬杜だけはお前の意識を持っていった」
「俺の意識?」
「お前の意識だ。岬杜は強引にお前の意識をかっさらっていく。自分にむけさせる。俺はお前の感情を揺らすことができても、お前の意識をそこまでもっていくことはできんだろう」
「それはお前が俺に恋をしてないから」
「恋ね」
 苅田は目を細める。でも真顔だった。
「仮に俺がお前に恋をし、お前の意識を一時的にでも奪うことができても、お前は俺に嵌ることはねぇ」
 俺は答えない。
 苅田は続ける。
「岬杜はそれが出来る唯一の人間なんだ」
 
 三回目に目が覚めた時、外はようやく明るくなっていた。
 身体の力は自然と抜けていて、耳鳴りもせず気分も悪くなかった。身体は痛かったが俺は元気にソファーから降りて苅田家の母屋に行って朝食を頂き、朝っぱらから苅田の父ちゃんの苅田拳骨に可愛がられた。
 苅田と一緒に学校へ行ったんだが、その途中でなんだか苅田が感動的なほど良いヤツに思えたので感謝の意として100万回くらいキスしてやりたかったが、それは止めておいた。

 学校へ行っても永司はいないので、俺は大層真面目に授業を受けた。午前中は。しかしメシを食って昼休みに永司にメールしてから中庭で野球をして汗だくになるともう駄目で、午後はまったくもってやる気がでず、目の前の英検3級止まりのハーフ川本をからかって遊んだ。
 川本は誰に対してでも謝る時には必ずアイ・アム・失礼と言う。長島の影響ではないらしい。卵のことをジ・卵と言うし、婆さんのことをオールド婦人と呼ぶ。例えば川本がオールド婦人・総合と言えば総合英語の岸センセーのことだし、川本がオールド婦人・家庭と言うと家庭科の上野のババァのことだ。爺の場合は単なるオールドで、オールド歴史等と呼ばれる。フライドポテトをフレンチフライと言ったり消しゴムをeraserと言ったりする拘りを見せるには見せるが、所詮その程度。因みに緋澄に対しての人称代名詞はsheだ。
 俺の左隣は真面目な女の子ちゃんなので、永司がいない今日のような日の暇潰しの相手は前の席の川本だけになる。
 級友が前に出て黒板に何やら書いているうちに身体を少し前に倒し、川本にだけ聞こえるように、ちょっと勃起させてみて、と言うと、唐突に時と場所を選ばずにボディーの特定部を著しく誇張させることなんてアイ・キャン・否定、と返される。お前インポか、とからかってやると、ノー、毎週火曜日と金曜日には必ず射精します、と真面目か不真面目か分からん口調で返される。ゴミの日かよ、コソコソと喋っていると教師に睨まれる。俺達はゲフンゲフフンと咳払いをして教科書を立てて、それからまた隙をついて川本にアホな話題を振ってみる。
 学校が終わった時、昨日のことなんてまるで一週間前に見た特別ドラマスペシャルみたいになってて、俺は大層機嫌よくバスと電車と徒歩で下校をした。
 下校途中、シナチクと愉快な仲間達の視線は感じなかった。監視は終わったのかシナチクとその他は雇い主にド叱られたのかは知らないけれど、随分と自由になった気分だった。そして、誰かととてつもなく退屈でつまらないことについて語り合いたくなった。何でも良いんだ。例えば……例えば、虫の話とか。どんな虫が好きでどんな虫を飼っていて、どんな虫に挟まれたり刺されたりしたかとか。サムライアリって極悪非道だよね、とか、カミキリムシって怖いよね、とか、くまんばちの黄色いチョッキは可愛いよね、とか。別に昆虫に限らなくたって良いんだ。蜘蛛でもデンデンムシでも癇の虫でも泣き虫でもエヘン虫でも虫の知らせでも、何だって良いんだ。
 とにかく物凄くどうでも良い話を誰かとしたかった。その相手は誰でも良いんだけど、多分、本当は永司としたい。永司はただ聞いているだけで、たまに、そうだね、とかっていう変哲もない相槌を打つだけなんだろうけど、それで良い。そういう会話がしたい。そういう時間が欲しい。そういう退屈さを感じたい。

 おんぼろアパートに到着しとことこと階段を上っていると、踊り場から自転車置き場が見え、なんとそこに俺の自転車が置かれてあるのが見えた。シナチクは律儀な男だ。今度会ったら自転車の件に関しては礼を言って、俺を連行できなかった件については慰めてやろう。
「よぉ〜」
 階段を上りきるとすぐに声をかけてくる。声の主は冷蔵庫の向こうだから見えないけれど、俺は明るい声でよぉ〜と返事をする。
 サトルとは数日会っていなかったので、会話は随分と弾んだ。オヤツは買っていなかったので、俺は買い置きしてあるカールのチーズ味をサトルと半分こしながらサトルの話に耳を傾ける。
 元々イチの友人であったキハムダ…多分彼の名字は松田なんだろう…と、イチを通して友人関係を築きつつあることと、音楽の時間の笛のテスト中に女子が一致団結して先生と妙な対決を始めたことが、今日の彼の話題の中心だった。
 日はなかなか暮れず、近くの公園から蝉の鳴き声が聞こえる。カールを食べ終えると次に買い置きのアイスを二つ持って来て、それをサトルと食べる。蚊が一匹ふらふらと飛んできて、俺の腕を刺していった。
 その日の夜、俺からするとまだ早い時間、一般世間の常識からするとちょっと遅い時間に、サトルの母親が俺の家にやってきた。
 今日の朝も来たけどいなかったから、と、彼女は言った。そして、この前は付き合ってくれてありがとうとケーキをくれた。
 俺は少し迷ってから彼女を部屋にあげ、二人でまた少し話をした。
 彼女がくれたケーキは生クリームが随分と軽い甘さの美味しいケーキで、俺達はそれを食べながらサトルの話をする。今日、サトルから聞いた話。イチとの関係はとても良好らしいこと、キハムダという友達ができそうなこと、女子と担任がどうやら上手くいっていないらしいことなど。
 サトルの母親はそれらの話を、熱心に講義に耳を傾ける大学生のような目をして聞いた。俺はそれを見ながら、この人は本当はきっと賢い人なんじゃないかと思う。ただこの人は今まで何か他のこと、例えばあの長女だったり借金だったり金銭面だったり、自分の恋愛だったり、そういうことに気をとられすぎていたんだ。そして今になってサトルとの距離を縮める手がかりを欲している。
「あの子は友達に私のことなんて言ってるんだろうね。気まずい思いをさせてるかね」
 食べ終えたケーキの残骸をフォークでつつきながら、サトルの母親は硬く乾いた口調でそう口にした。
「気まずいって?」
 俺は温くなったホットミルクを飲み終えてそう訊ねる。
「だって商売が商売だからさ。周りの子に何か言われないかね」
「子供はそんなこと重要視しないよ。何か言う子供が現れるとしてもまだ先だし、そもそもサトルはその手の子供とは絶対に友達にならない。ていうか、今日お仕事は?」
「今日はあまりに暇だったから早くあがらせてもらったんだ。それより、絶対ってなんで言える?」
 彼女はそう言いながらようやくフォークを皿の上に置き、部屋の隅に隠しておいた灰皿とバージニアの吸殻を見つけ、俺を見てニタっと笑うと自分の煙草を鞄から取り出した。
「サトルは人を注意深く見るし、友人は必ず自分で選ぶだろうから」
「友達って自分で選ぶもんじゃないの?」
 銜え煙草のまま、まだごそごそと鞄の中を探っているので、百円ライターを貸す。彼女は片手を上げてからそれで火をつける。
 俺は言う。
「多分、普通は自然と友達になる」
「ああ、なるほどね。サトルは自然に友達ができないんだ」
「おそらく。サトルは結界みたいなものを作ってて、曖昧なものは中に入れないんだ」
「君はよくあの子を見てるな」
 彼女は煙草の煙を吐き出しながら笑ったがそれは自虐的な笑いではなく、全くもってカラっとしたものだった。
「君は幸福な子供だっただろう?」
「そうかもしんない」
「どんな子供だった?」
 物心ついた頃から皆の深海ちゃんでした。とか思ったり。
「亀を飼ってたことがある。近くの山に池があって」
 あれは何時頃だろう。多分サトルと同じくらいの年齢の頃だったと思う。近くの山を走っている道路を自転車で登っていくと途中で大きな池があって、そこに亀がいた。一杯。
「へぇ。意外と地味だね。亀は何匹飼ってたの?」
「50匹くらい」
「ん? どこで飼ってたのさ?」
「その池で」
「君の家の山なの? その山」
「違うよ」
 そう言うと彼女はケタケタと大声で笑った。

 彼女が帰ってから俺は風呂に入り、永司にメールを送り、それからいつものように左手で日記を書いた。
 緋澄と屋上で寝そべってた時に何か重要なことを思いだしたような気がするんだけど、どうしてもそれが分からない。緋澄はあの時も馬鹿みたいにクソ暑い中、馬鹿みたいにただ寝転んでいて、それはまぁなんとも暑そうで、俺はそれを見て勃起せざるをえなかったわけだが、それは緋澄の耳から唇まで汗で張り付いた一筋の髪や暑さに喘いでいる唇がそうさせて、唇の奥に見える柔らかく性的な舌が、なにを見ているのか分からない瞳が、シャツの袖から伸びる白い腕が、やけに鮮明に見える首から流れる汗が、胸に張り付いたシャツが、そこから透けて見える緋澄の肉体が、緋澄の性的な匂いが、
「いや、そうじゃなくて」
 どうやら最近の俺は妄想に走りやすいみたいだ。指でシャーペンを回しながらもう一度、緋澄のエロい部分は極力省いて回想する。
 しかし、蝉の鳴き声やフェンスの向こうに見える夏の空と空を飛んでいるカラス、そんなものしか思い出せなかった。それは海に生息する生き物のようだ。浮上する時は一気に浮かび上がり、俺は海面に出たそれの表面を目撃する。だがそれが沈下すると、まるで何もなかったかのようにそこにはただっぴろい海が広がっているだけなんだ。
 随分と時間をかけて日記を書き、最後に箇条書きにする。
■永司は俺の意識力ずくでかっさらえる唯一の人間
■退屈な時間を過ごしたい時に誰と一緒にいたいか
■曖昧なものは入れない結界みたいなもの





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