第7章 人跡未踏の密林で
比較的良い天気が数日続いた。
日曜日の朝からせっせせっせと洗濯をしていると、暁生が遊びに来た。暑い日だったので昼飯に冷やし中華を作ってやると、暁生は食べ終えた後に自分が残した僅かなレタスを気にしたようで、俺が見てない隙に皿ごと冷蔵庫にブチこんでいた。誰が食べるんだよそんな食べ残し、と言いたいが、暁生のこの「食べ残しを全て冷蔵庫にブチ込む」という変な癖がついたのは俺のせいなので、もう何も言わないことにする。
昼過ぎに真田が来るはずだったのだが、昨晩から始めたゲームが止められないとの理由で結局は来なかった。だから俺と暁生は近所の公園でサッカーをしていた少年たちに強引に混ぜてもらい、気が済むまで遊んだ。ここの公園は水はけが悪いので足元が酷く汚れ、天気も良かったので汗まみれになった。
夕方になると一旦自分の家に戻り、洗濯物を取り込み、簡単に畳んでからまた外に出た。そして俺のチャリに2ケツし、フラフラと苅田の家まで行った。苅田家の門扉は片側が開け放しになっていたので、そこから中を覗き込み、苅田がいる離れの方に向かって「金返せ!」とか「お腹の子の責任取って!」とか「勃起マン!」とか「でかちんこ!でかちんこ!」とか、叫び、喚き、囃し立て、暁生が調子に乗って石を投げたところで苅田家の大型犬が出てきたので全速力で逃げた。
また汗をかいたので、そのまま永司のマンションへ行った。あそこは俺の猫がいるし涼しいし風呂が広いから、という暁生の提案だった。
苅田の家から永司のマンションまではなかなかの距離があったが、暁生は交代してくれないのでずっと俺がチャリを漕ぎ、おかげで俺は更に汗臭い深海ちゃんになってしまった。暁生は俺の後ろで、ずっと「小学生の頃の楽しかったおもひで」を語りまくっていたが、俺が負けじと「小学生の頃の楽しかったおもひで」を語っても身を入れて聞くということはしてくれなかった。勝手な奴だが、俺はそういう暁生が大好きなのでしょうがない。
マンションに到着すると駐輪場にチャリを置き、突然の訪問に驚く永司にエントランスを開けてもらってエレベーターで上に行った。そして共同廊下を渡ってドアを開く。
「俺のねこ!」
暁生がはしゃぎながら部屋に上がっていく。俺もそれに続く。
続くはずだった。
でも今日もやはり右足を踏み入れた途端に体が止まった。
ズレがある。
それも、かなり大きなズレ。
それは犯罪を犯している最中に突然訪問者が来たので、慌てて証拠を隠滅しようとしている最中のような、そんな感じがした。
なかなか入ってこない俺を心配して、永司が玄関まで迎えに来る。俺は足を上げて玄関内に入る。
「おかえり」
と、永司は言う。
一見すると穏やかないつもの永司に見える。しかし注意深く見ると、調子の悪いテレビのように永司はブレているし、現実感を失ったようにどこか平坦だった。いつもの永司の後ろに隠れたもうひとりの永司は、血色が悪く、まるで徹夜で綱渡りをしたかのような疲労感が垣間見える。
穏やかに見えるその顔を見て、俺は永司を殺したくなる。永司は多分、俺という人間よりも数ミリほどズレた俺を見ているし、俺もまたこうして数ミリほどズレた永司を見ている。つい先程までここで起こっていたらしい何かによってそのズレは生じ、永司は極端に神経を削り減らした。にも関わらず永司は、穏やかな表情を作る。
「ただいま」
と、俺は言う。永司と同じように、穏やかな声と表情で。
暁生が猫たちと遊んでいる間、俺は永司とリビングで何気ない会話を幾つか交わして、シャワーを借りることにする。脱衣所に行く前に寝室を覗くと、そこには以前と変わらない不思議な暗闇と静寂がある。この部屋はただ静かに息を潜めている。何も語ってくれないし、何も見せてはくれない。
俺がシャワーを浴びて汗と泥を流すと、続いて暁生が母猫と一緒に浴室に入った。こんぺいとうは明らかに嫌がっていたのだが、暁生は強引に連れて行ってしまったのだ。
出てきた時、暁生はすっぱだかでこんぺいとうはビショ濡れだった。その状態でこんぺいとうは走り出し、その状態で暁生は猫を追い掛け回し、時々手にした猫用タオルでケツを隠し、「俺はホモじゃないからな!」と永司に向かって威嚇していた。部屋はいつの間にか何事もなかったかのように元に戻っていた。奥行きのある現実の世界に戻っている。
夜になると暁生はいつものようにリビングの絨毯の上で二匹の猫と一緒に眠った。俺と永司はソファーに座って眠らずテレビを見ていた。深夜番組が楽しいはずもなく、俺はここに来る途中で暁生に話していた「小学生の頃の楽しい思い出」を一方的に永司に語っていた。吉村君が牛乳を飲めなくて困っていたから代わりに飲んであげたら先生に怒られたこととか、ドッチボールをしていて澤田君を狙ったら澤田君が変な格好で避けたこととか、そういう話。永司は暁生と違い、俺の話をちゃんと聞いてくれた。
隣に座っている永司の髪に手をやり、できるだけ優しく撫でてみる。癖のない髪が俺の指に優しい感触を与える。何度か同じように撫でてみる。小さい子にするように。
ふと自分の心に翳りが生じ、永司の目を覗き込む。永司は視線を感じ、俺の目を覗き込む。
「疲れてるように見える」
と、俺は言う。
「そんなことない」
と、永司は言う。
杞憂なら良い。だが俺には永司がとてつもなく性質の悪い何かの病気に苛まれているような気がした。それは徐々に永司を蝕み、喰らっていくような妄想が膨らむ。黙っていればいるほど妄想は膨らみ、現実感を増し、猛毒の匂いまで伴うようになる。
「明日、病院に行け」
と、俺は命じる。
永司は怪訝そうな顔をし、その必要はないと目で訴えてくるが、俺はそこで折れない。膝を立てて体を動かし、永司の膝の上に跨って正面から見据える。
「自分がすることは確かに自分が決めた方が良いだろうと思う。だがお前は俺の言うことを聞け。お前は寝る前に歯を磨き、猫の水を変え、なんだったらコッソリ一発抜き、俺の側に寄り添うようにしてぐっすりと深く眠る。ここで。できれば暁生の近くで。朝になったらお前は清々しくパッチリと目を覚まし、眠り姫みたいに可愛くすやすや眠っている俺を起こして暁生と3人で朝飯を食う。それから身支度をして、俺と暁生は学校へ行く。お前は病院へ行く。できるだけ大きな病院で、できるだけしっかりと検査をしてもらう」
きっぱりとそう言うと、永司は溜息を吐いてから苦笑し、ようやく頷く。
「なんで南の近くで眠らなくてはいけないんだ?」
永司はそう訊ねる。
「弱ってる時に暁生は効くんだ。暁生には殺菌効果がある」
永司は緩やかに笑う。俺も笑う。暁生は猫と一緒に元気に鼾をかいている。
俺はその夜リビングのソファーを占領し、真田が「あの時」、能登の俺の実家に暁生を来させたことを思い出しながら眠る。
次の日は午後からどんよりとした雲が空を覆ったものの、雨は最後まで降らなかった。
永司は俺の言いつけ通り朝から病院へ行き、午後の授業が始まる前に登校してきた。いつものようにスマートに、いつものようにカッコ良く。
「病院は?」
「行った」
「どうだった?」
「異常はない」
簡潔に答え、永司は席に着く。俺はそんな永司を見てから机の上に古典の教科書を広げ頬杖をついて今年もまた古典の受け持ちとなった橘を待ちつつ、たまたま通りすがった本城の服をクイクイと引っ張って呼び止めレモン味の飴を貰った。袋を破いて飴を口の中に入れ、窓を開けて空気を入れてからまた頬杖をつく。
異常はないらしい。
俺は口の中の飴を転がしながら考える。世界の共有と、俺が実家まで逃げ込むはめになった「あのこと」について。
「あのこと」は俺達の中で自然と「無かったこと」になっている。「あのこと」については、俺の失った記憶同様永司は何も答えない。だから俺はそのことを考えるたびにぐっと我慢するはめになる。何も分からない自分を責める気持ちよりは、何も言わない永司を殴ってやりたい気持ちの方が大きいから、それを我慢する。
俺達の間で「無かったこと」になっているといえば、先月の屋上での出来事もそうだ。
愛しすぎて殺すという、その、平日の昼過ぎにやってるセンスの悪いドラマの中の登場人物みたいな、その思考が許せない。でも俺は何も言わない。言わないことを選ぶ。何故なら永司が俺を殺したかった「本当の理由」を、俺は知らないからだ。
俺は知らないんだ。
俺が訊ねても永司は沈黙を選ぶ。だから俺は知ることが出来ない。
「世界の共有ってなんだろう」
授業中に言葉にしてみる。
周りの奴らがチラリと俺を見るが、永司はまるで聞こえなかったかのように飛行機のエンジンに関する専門書を読んでいる。
学校が終わるとアパートへ戻り洗濯機の向こうに声をかけてみたのだが、返事はなかった。覗き込んでみても誰もいない。そこは欠席者の席のように、ぽつんとした空間があるだけだ。
俺は家に帰って鞄を置き、財布と携帯だけを持って近所のスーパーまで歩いて行って今日の夕飯の材料とオヤツのパンを買った。やきそばパンと、カレーパン。それから一度で飲み切ることが出来る大きさの牛乳をふたつ。
それからアパートまで戻って洗濯機の横でサトルを待った。俺は彼の姉と会話を交わしたあの日から、彼とは一度も顔を合わせていない。偶然なのか、避けられているのかはよく分からなかった。今日だってそうだ。彼はもう帰って来ているのかもしれない。そしてこの前のことにまだ腹を立てていて、俺と顔を合わせたくないのかもしれない。あるいは、ここのところずっと風邪をひいていて、家の中で一日中寝ているのかもしれない。どこかに出かけているだけなのかもしれない。家の中でただ単にテレビを見ているのかもしれない。
待っている間に色々な可能性を考える。
しかし6時を過ぎた頃に、カンカンと小気味の良い足音を鳴らしてサトルは階段をのぼってくる。どこかで開放的に遊んできたらしく、その目は今日の楽しかった思い出と、その楽しさが明日も続く予感に溢れていた。
サトルは俺の姿を確認するとすっと目を伏せ、僅かに緊張して無言で俺の前を通りすぎる。
俺も何も言わない。俺からは声をかけるべきではなかったし、このままサトルが自分の家に入ったとしても、今の様子を見る限りそれはそれで別に良かった。
しかし彼は自分家には入らずに、洗濯機の横で止まった。
「よいしょ」
彼はそう声を出してそこに座る。俺はそれがサトルの「会話をする準備が整った」合図だと受け取る。
「よぉ〜」
声をかける。
「よぉ〜」
サトルは俺の口調を真似る。その声はとても分かりやすいほど機嫌が良い。
「カレーパンとやきそばパン、どっちにするよ?」
「俺、やきそば!」
俺は膝立ちし腕を伸ばし、洗濯機の上からやきそばパンを出して手を離す。サトルはすかさずそれをキャッチし、袋を破いてガサゴソとやっている。同じように牛乳も渡す。それから俺もカレーパンを食べ始める。
サトルの様子からそれとなく答えは分かっていたが、あえて今日は誰と遊んでいたんだと訊ねてみると、サトルはまるでパコパコとお花が飛び出る特殊仕様の機関銃のような勢いで絶え間なく今日の話をしはじめた。
彼が以前に語っていた、よく鼻血を出すが級友から一目置かれている「イチ」とサトルは、少し前から随分仲良くなったそうだ。きっかけは体育の授業。二人はたまたまドッチボールのチームで一緒になって、その時に教師を含めた周囲が息を呑むような連携を行ったこと。ゲームを始める前にも後にも二人の間に特にこれといった会話はなかったのだが、イチは進んで外野に行き、サトルは内野に残り、後は自然とこの二人が主役となった。
クラスメートに無敵だと言われた、先生が驚いていた、相手チームを面白いように翻弄できた、イチはサイドスローで投げる、自分が強めのパスを出してもちゃんと受け取り素早く攻撃出来る、その日の給食の時間もドッチの話題で一杯だった。サトルは生き生きとその話を続けた。その次の日に、帰りにイチに声をかけられ、二人だけで下校したことも。
「ごちそうさまーっ」
サトルがパンと牛乳をたいらげると、元気に声を出す。彼がごちそうさまを言ったのは初めてだった。
それから続けて今日のサッカーの話に移る。自分とイチは会話を交わすことなく意思の疎通ができるのだということを中心として話を進めて行く。サトルは嬉しさを隠せない。
多分、サトルは俺が「今日は誰と遊んでいたか」と訊ねるまで警戒していた。俺が彼の姉のことやあの日のことを口にするかもしれないという警戒心が僅かにあった。静かに俺の様子を窺おうとしている気配があった。だがサトルはイチの話を始めた途端にそんなことはすっかりと忘れてしまい、自分とイチの交流の話に夢中になっている。
良い友達ができたばかりの子供というのは、なんでこんなにも生き生きとしているんだろう。陽を浴びる若葉のように初々しくて柔らかい心を持っている。サトルからは子供が持つ特有の生命力を感じた。
「今何時?」
イチがサッカーで遊んでいる時にトラップを教えてくれたという話が一段落着いたところでサトルはそう訊ねてくる。携帯で時間を確認して八時少し過ぎだよと答えると、風呂を掃除しなきゃならないからもう帰ると言う。
それじゃ帰ろうとゴミを片付けて準備をすると、サトルがまた声をかけてくる。
「ねぇ、一人暮らししてるの?」
「そうだよぉ」
「お風呂って怖くない?」
一瞬笑いそうになったが、笑わないことにする。俺だって子供の頃は怖かった。
「昔は怖かった。でもお風呂大好きだし、今はあんまり怖くない」
「僕は怖い」
「どこが?」
「後ろに幽霊がいるかもしれないじゃん?」
そうだ。小学生、しかも一人でいる時はそういう想像をしてしまうものだ。特にサトルは幽霊を怖がっているふしがある。
サトルは続ける。
「シャンプーしている時に目を閉じられないんだ」
サトルは自分の弱みを、意識的になるべくあっさりと心がけて口にする。
「シャンプーが目に入った時はどうするんだ?」
「そういう時は目を閉じるけど、後ろを振り返るのが怖くなってお風呂から出るまで絶対に振り返らない。鏡も見れないし」
「俺はよく、背後を突然攻撃するよ」
「どうやって?」
「シャワーで」
一瞬間を置いてから、サトルはケラケラと笑った。俺も笑い、そして続ける。
「ホントだって。シャワーで突然攻撃してやるんだ。追っ払うみたいにね。でも風呂場で怖い思いしたことないから、とりあえず毎回撃退できてるんだと思う。あと、たまに脅してやる」
「どうやって?」
「急に大声出す。勢い良くやるのがポイント。『ゴァッ!』とか、『ペロペロピーッ!』とかって奇声をあげるわけ」
「それって脅してるっていうか、ただ単にビックリさせてるみたいだ」
サトルはそう言って笑ってから別れを告げて帰って行った。
その夜、俺は永司に電話をする。今日はずっと「隣の子」と喋ってたっていう報告から入り、夕飯に何を食べたかとか、久しぶりにギターを10分くらい弾いてみたとか、そういう他愛もない話をして、風呂にはもう入ったかって話になる。永司はシャワーも浴びたし歯も磨いたと言うので、俺は満足する。
ふとサトルとの会話を思いだし、子供の頃は風呂が怖かったかと訊ねると、怖かった記憶はないと永司は言う。そうだろうとは思う。何故なら風呂を怖がるチビッコ永司というのは上手く想像できない。どんなものが怖かったかと訊ねると、何かを怖がった記憶は思い浮かばないと言う。それについては、俺はあまり上手く飲み込めない。幽霊も毛虫も歯医者も大人に叱られることも、大きな動物も水も暗闇も何も怖がらない子供というのは、さっきと同じくらい上手く想像できない。
それから永司は、楽しかった記憶も思い浮かばないと付け足す。俺は何となく黙ってしまう。
テレビをつけると、ガラガラの観客席と大きなテントが映っていた。「ウィンブルドンは雨のために〜」って字幕が出ている。この時期のこの時間帯にテレビをつけると、いつもこの画面にこの字幕が出ている気がする。一体どうなっているんだろう。小学生の時に一時期関西にいた記憶があるんだが、その時の級友……確か吉川君だった気がするけど、彼の家で遊んでいると彼のお母さんがテレビをつけて「私がじゃりン子チエを見ようとするといっつもヨシエさんが走ってる」と言っていた。俺は「ウィンブルドンは雨のため」の字幕を見ながら、そんな意味のないことを思い出している。
永司は何も言わない。
「つまんない子供だったんだ」
大分経ってから、永司はポツリと言う。それと同じことを前に言っていたような気がする。俺は、俺と出会う前に永司がどんな生活をしどんなことを考えていたのか、よく知らない。永司は「子供の頃の心に残るエピソード」どころか、簡単な思い出話なんかも俺には語らないから。
「お前って俺に出会う前は、どんな感じだったの?」
「つまらない人間だった」
「例えば?」
「あらゆることに興味が持てなかった。勉強はした。普通の子供が習うようなことも一通りはした。上手くこなしたけれど、興味を持てなかった。日の当らない建物の奥でじっとしている子供のように、何に対しても心が動かなかった」
ウィンブルドンはまだ雨が降り続いていた。
俺はテレビをつけたままベッドに座って、子供の頃の永司について考えてみる。
永司は続ける。
「ただ、探していたんだ。ずっと探していた。探し続けていた」
「俺を」
「そう、お前を」
また暫く沈黙があり、その後に永司はおやすみと言って電話を切った。
俺は立ち上がって洗面所で歯を磨き、それから日記を書いてベッドに戻った。ウィンブルドンはずっと雨で、コートに張られたテントの画面からさっき昨日のVTRに変わったところだ。
永司は今でもそれほど愉快な人間じゃないかもしれない。しかし俺を惹きつける力を持っている。恋をした人間ならば誰でもそうなるように、俺は永司のことがとても気になる。とても気になる。あらゆることがとても気になる。
離したくない。あの目を、あの身体を、あの声を、アイツのあの意識を離したくない。永司は俺のそういう感情を知らない。いや、多分誰も知らない。自分でも全てを把握できていない。
もしかしたら、俺も永司を探していたのかもしれない。そう思った時、俺の中のどこかにある人跡未踏の密林で、忘れられていた何かが芽生える。